こんにちは。バラ十字会日本本部の本庄です。板橋ではこの数日、快晴が続いていたのですが、今日は雲が多くなりました。週末は天気が崩れそうですね。
いかがお過ごしでしょうか。
先日、会員向けのワークショップで面白い話題が出て、そのことについて懇親会で議論が白熱しました。
それは、「時間とはいったい何なのか」という話題です。
この問題には、昔から多くの人が取り組んできたことが知られています。
そして、哲学者や生物学者や、物理学などのさまざまな分野の研究者が、それぞれに異なる、時間についての考え方を持っています。
これらのすべては、人類のなし遂げた貴重な知的成果であり、時間についての精密な考え方です。しかしその多くは、その分野で使われている専門の用語について良く知っていなければ理解することが難しいのです。
難しい専門語を使わずに、時間の正体について考えるということに実際にチャレンジしてみると、個々の人が自分の経験から直接導き出した時間についての考え方のほうが、専門的な定義よりも、実用的な意味では、つまり、よりよく生きるための指針を導き出すという目的のためには、有益なのではないかとも思われるのです。
今日は、このような試みのひとつをご紹介したいと思います。
まず、自分が感じている時間は、秋の空のように気まぐれだと、あなたはお感じになることがないでしょうか。
気が進まない作業を何か行なっているときには、時間はダラダラとゆっくり過ぎていきます。そして、何となく、過ぎていく時間の奴隷になっているような気がします。
逆に、何かに夢中になっているときには、同じ長さの時間が、ほとんど気がつかないうちに飛ぶように過ぎていき、時間から解き放たれたような感覚がすることがあります。
ぐっすり眠ったときには、目をつぶってからほんのちょっと経ったと思ったら、翌日の朝が訪れます。何日もかかる世界旅行をしていた夢を見て、目が覚めると、ほんの十数分しかたっていなかったという経験をすることもあります。
いったいなぜでしょうか。
通常は時間といえば、何か均一な線のようなものを思い浮かべるのではないでしょうか。線の中央には現在という点があります。たとえば左が過去で右が未来を表し、左から右へと、川の流れのようにずっと流れ続けている何かを思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし、ちょっと立ち止まって、心を落ち着かせて考えてみると、このようなとらえ方には、どことなく違和感がないでしょうか。
私たちは、たった一秒前であっても、過去の世界を見たり聴いたりすることはできません。
たった一秒後であっても、未来の世界を知覚することもできません。
五感を使って直接体験することができるのは、現在のこの一瞬だけです。
そして、この体験は、間髪を入れずに、心に蓄えられて記憶になります。
ですから、自分が過去だと感じていることがらは、実は、自分の記憶の中身だとは言えないでしょうか。
未来についても考えてみましょう。
たとえば道を歩いていて、前方に電信柱が見えるとします。
現在見えている電信柱は、少し歩くと、今よりも近づいて大きく見えることになるでしょう。
自分が未来だと感じていることがらは、自分の心が想像したこの予想のことなのではないでしょうか。
では、記憶の内容である過去とは、いつの記憶なのでしょうか。
それは、現在保持している記憶です。
想像の内容である未来とは、いつの想像でしょうか。
それは、現在行なっている想像です。
ですから極論すると、存在しているのは現在だけだとは言えないでしょうか。
先ほど、時間を川の流れにたとえました。しかし、過去や未来だと思っていることも、実は、自分の現在の記憶や想像であると考えると、流れていく何かもなく、何かが流れていくことのできる場所も、どこにもないのではないでしょうか。
こう考えると、時間のことを、一様な線のようであり川のように流れているものだと考えることは、あまり適切ではないように思えてきます。
西洋の多くの哲学者も注目する道元禅師は、次の言葉を残しています。この言葉は、今まで述べてきたことに深く関わっているように思えるのです。
「たき木、はいとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。」
バラ十字会の神秘学(mysticism)では、時間のことを「意識の状態の一種」(a state of consciousness)だと考えています。
つまり、時間を作り出しているのは、人間のような生き物の意識であるとしています。記憶という意識の働きがなければ過去はありませんし、想像という意識の働きがなければ未来はありません。そのため、時間が意識とは無関係に存在する実在ではないと考えます。
いかがでしょうか。時間とは川の流れのようなものではなく、未来や過去は、人間の体験としては実際には存在しないという考え方をご紹介しました。
どうもピンとこないとお感じかもしれません。私たちが行なったワークショップや討論でもそうでした。課題を持ち帰って、静かな場所でじっくりと瞑想を行なうことが必要だと感じられる方が多いのです。
そして、実際にそのようにされて、時間とは乗り越えなければならない物質的な障害ではないことを実感できたと報告してくださる方もいらっしゃいました。
時間とは何かというようなことを突き止めていく作業では、頭脳を知的に働かせるような取り組みだけでは、どうやら不十分なようなのです。いろいろな言い方ができますが、常識的な考え方を打ち破るだけのパワーは、心のもっと奥深くに潜んでいると考えられるのです。
世界のほんとうの姿を知るためのアプローチとして、物理学や心理学や社会学や、その他の多くの学問が知られています。しかし、知的な作業では心の働きのほんの一部だけしか使われないと考え、考えることに加えて、観想や瞑想、イメージングなどを用いる探究の有益さを指摘される方々が、バラ十字会に限らず多数います。
いかがでしたでしょうか。今回ご紹介したのは、かなり哲学的な話題でしたが、多少なりともご参考になる点があったと感じていただければ、心から嬉しく思います。
それでは、また。
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