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本当の自分とは

2015年2月13日


 

こんにちは。バラ十字会日本本部の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

事務所のある東京板橋では、八重咲きの梅が満開になりました。まだまだ寒いですが、そこここに春が近づいている気配がします。

そちらはいかがでしょうか。

 

今回は、雑宝蔵経という本から、恐ろしい、中国のある説話のご紹介をさせていただきたいと思います。

 

ある男が旅の途中で、人里離れた、荒れた空き家で夜を過ごしていました。

一匹の鬼が人の死体をかついで入ってきます。そしてその後に、もう一匹の鬼が入ってきます。

そして、二匹の鬼は、死体がどちらのものかをめぐって、争い始めます。

 

後に入ってきた鬼は、証人の言葉によって争いを収めようと提案し、最初の鬼もそれに同意します。そして、部屋の隅に隠れて小さくなっていた男が引きずり出されます。

男は、どちらの鬼を怒らせても命がないと考えて、しばらくは答えられずにいたのですが、らちが明かないので意を決して、一番目の鬼がその死体をかかえてきたのだと、見た通りに言いました。

 

すると思った通り、二番目の鬼は激怒して、その男の両腕をもぎとってしまいます。

一番目の鬼は気の毒に思い、死体の両腕を引き抜いて男につなぎ合わせます。

二番目の鬼はますます怒り、その男の両脚をもぎとってしまいます。

一番目の鬼は気の毒に思い、死体の両脚を引き抜いて男につなぎ合わせます。

 

二番目の鬼は、その男の胴体をもぎとってしまいます。

一番目の鬼は、死体の胴体を男につなぎ合わせます。

二番目の鬼は、その男の頭をもぎとってしまいます。

一番目の鬼は、死体の頭を男につなぎ合わせます。

 

その後二匹の鬼は、争いを止めて、ばらばらになった男の体を食べて立ち去りました。

残された男は、自分が、すべて死体に置き換えられてしまったので、自分が自分なのか自分でなくなったのかも分からず、夜が明けてから近くの寺にかけこみます。

そして、その寺の僧たちにこの話をしたところ、「無我の理」を表わす話として、大いに尊ばれたというのです。

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無我の理とは、自分(我)というものが仮に表れている現象であり、実体としては存在しないということです。

この場合、旅の男の体験として、自分とは結局、自分の体のどこでもなかったということに、無我の理が表わされています。

 

この話を私が初めて聞いたのは小学生の頃だったと思います。とても印象の強い話で、ずっと記憶に残っています。

実に荒唐無稽な話のように思われますが、移植医療や人工臓器が発達してきた現代では、これにやや似たできごとが、完全にあり得ないとも言い切れないような気がしています。

 

この話で、この男が自分でなくなるのは、いったいどの時点だと、あなたはお考えになるでしょうか。

頭がすげ替えられた時点だと感じる方が多いことでしょう。

 

それは、体よりも心の方が本当の自分だと感じられ、心は頭で生じていると考えられるからではないでしょうか。

 

体をミクロな視点から見ると、体を作っている物質の分子は、およそ数年で、そのほとんどすべてが入れ替わると言われています。

ですから、体そのものよりも、心を本当の自分だと考えることは、自然な考えのように思われます。

 

さらに突き詰めてみると、どうなるでしょうか。

心には、さまざまな働きがありますが、そのどれが本当の自分、つまり自分の本質にあたるのでしょうか。

外面的な自分に比べて、自分の本質にあたる部分は、ほとんど変わらないか、変わるとしても変化はゆっくりなのではと考えることができます。

 

まず心には、外界を見たり聞いたりする働きがあります。しかし、この働きから得られる感覚は、時々刻々と変化しています。ですから、感覚のことを本当の自分だと考えることには無理があるように思われます。

同じように、想像したことや考えたことも、常に変化していますので、本当の自分だとは、あまり考えることができません。

 

しかし私たちは、自分の意見と自分自身を同一視してしまうことがあります。

そして、意見を否定されただけで、自分自身が否定されたように怒ってしまうことも多いようです。

本当の自分でないものを自分と見誤ると、エゴの不適切な性質が働いてしまうことが多いようです。

 

さて、記憶はどうでしょうか。日々付け加えられていくということはありますが、一度蓄えられた記憶は、感覚や思考や想像に比べると、変化がゆっくりであるように思われます。

しかし、心の奥を探ると、歳月がたっても、さらに変化しない部分に思いあたります。

 

そのひとつは、気質です。

気質は人によって様々です。明るい人もいれば、落ち着いた人もいます。エネルギッシュな人もいれば穏やかな人もいます。慎重な人もいれば、すぐに行動を起こす人もいます。几帳面な人も大ざっぱな人もいます。

「三つ子の魂百まで」ということわざがありますが、小中学校の同窓会に出て、お友達と話したときには、何十年経っても、このような気質がそれほど変化していないとお感じになるのではないでしょうか。

 

そして、この気質と似ていますが、さらに変化しない要素として、謙虚さ、寛大さ、親切さ、忍耐強さといった、いわゆる「徳」と呼ばれる心の性質があります。

 

人格は、この気質と徳によって作られていると言って、おおむね間違いはないのではないでしょうか。

 

多くの思想家と同じように、バラ十字会の神秘学では、人格こそが、人生を豊かで幸せなものにする決定的な要素だと考えています。

そして、人格は、日々の生活の中でさまざまな体験をすることで、特に苦い経験から学ぶことで、ゆっくりと、少しずつ向上していくと考えています。

 

このことを端的に表わしているのは、バラ十字会のシンボルです。このシンボルでは、金色の十字の中央に、赤い開きかけのバラの花が配置されています。

この十字は人の体を表しています(キリスト教とは関係がありません)。一方でバラは、人の魂(soul)を表わしていて、人格(soul personality)は、このバラの香りであるとされます。

人間の徳(香り)は、そもそも魂(バラ)に内在しているのであり、花が開くように内面が進歩すると、それとともに、少しずつ外に表されていくと考えられています。

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別のたとえを使うとすれば、人の心は、十二単(ひとえ)を着ている女性か、あるいはたまねぎのような階層構造をしています。この構造を外側から順に見ていくと、おおむね次のようになります。

  1. 見たり聞いたりして得た感覚
  2. 思考や想像や記憶
  3. 気質・感情
  4. 人格

 

しかし、このような心の階層構造は見かけ上のものであり、実際には、普遍的な心(宇宙の心)が表れ方を変えて、人の心の様々な働きとして、仮に表れているだけだとも言われます。

それは、白い光がプリズムを通ると7色の虹に分かれるようなものです。

 

最初にご紹介した説話には、「無我の理」という言葉がでてきましたが、この白い光とプリズムと虹のたとえは、人の心を仮に表れている現象だとする点で、この「無我の理」によく似ています。

それは、知性では把握できない宇宙のあり方を表わしています。人生やこの世界の真の姿を見破ろうと努力してきた西洋や東洋の探究者たちが、直接体験として得て、伝えてくれている事柄です。

そして、このような探究を続けている人たちの誰もが、いつかは体験する事柄のようです。

 

いかがでしたでしょうか。最後はやや立ち入った、難しい話になりましたが、あなたのご参考になる点が少しでもあれば、心から嬉しく思います。

それでは、また。

 

追伸:もしあなたが、人生やこの世界の真の姿を見破るための探究にご興味をお持ちでしたら、神秘学通信講座「人生を支配する」の資料を、次のページで請求することができます。

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