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科学的なことと非科学的なこと -アインシュタインと神秘学

2015年4月3日


 

こんにちは。バラ十字会日本本部の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今朝こちらは、春の嵐という言葉がぴったりで、桜の花びらが、空高くまで舞い上がっていました。

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、20世紀を代表する科学者のひとりにアルバート・アインシュタインがいますが、次のような言葉を彼は残しています。

「私たちが経験できる、最も美しく、最も深遠な感情は、“神秘”を知ることです。それは、真の科学のゆりかごとなる基本的な感情です。この感情を知らない人や、もはや驚きもせず、畏敬の念に心を奪われることもなくなった人は、死んでいるも同然です。」

 

この言葉を聞くと、超一流の科学者が、「神秘」という多少非科学的な匂いのする言葉を使っていることに、やや違和感を覚えられる方も少なくないのではないかと思います。

しかし、彼の他にもニールス・ボーアやハイゼンベルグなど、一流の物理学者の多くが神秘学(mysticism)に興味を示したり研究したりしていたことが知られています。そしてこの傾向は現在も、あまり変わらないようです。

 

では、物理学者にとって、科学的とは、あるいは非科学的とは、一体どのようなことなのでしょうか。

 

そのための手がかりのひとつとして、今日は物理学の歴史から、天動説に替わって地動説が唱えられたという16世紀のできごとをご紹介させていただきたいと思います。この事件をドイツの哲学者カントは「コペルニクス的転換」と呼んでいます。当時の人にとって、あらゆる常識がひっくりかえされるような驚天動地のできごとだったのです。

 

ご存じのことだと思いますが、天動説とは、動かない宇宙の中心が地球であり、その周りを太陽や、他の惑星や星々が回っているという考え方です。古代ギリシャの哲学者アリストテレスが唱えました。地球に住んでいる私たちは、自分の乗っている大地が動いているとは感じていないので、天動説は、素朴で受け入れやすい説です。

西暦2世紀ごろのエジプトのアレクサンドリアは、国際的な大都市であり、古代の学問の中心地でした。この地で研究を続けていた天文学者プトレマイオスは、火星や木星などの惑星の複雑な動きが説明できるように、この説を洗練したものに改良しました。

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現在のアレクサンドリア

 

この天動説がキリスト教に受け入れられた理由は、主に2つが考えられています。ひとつは、そのおおもとになったアリストテレスの哲学がキリスト教の教理に組み入れられたこと、そしてもうひとつは、太陽の運行が昼と夜をもたらしているという、聖書に表わされている考え方と天動説がよくマッチしたことです。

 

このような事情で、天動説はその後1000年以上にわたってキリスト教の公式見解となっていました。

これに対して、16世紀に、ポーランドの天文学者コペルニクスは、太陽が宇宙の中心であり、地球が太陽の回りを動いていると考えるようになります。彼がこの結論にたどり着いた経緯は、はっきりとは分かっていないようですが、地道な観測の結果だとも、大学の師の影響だったとも、アラビアの科学の影響だったとも言われています。

コペルニクスは、キリスト教会からの迫害を恐れ、この考えを表わした著書「天球の回転」を晩年まで公表しませんでした。そして、当然のことながらこの本は、発行後に教会から禁書とされます。

 

一方、イタリア人のガリレオ・ガリレイは、力学の研究に天才的な才能を表わし、絶対的権威とされていたアリストテレスの学問に、数々の致命的な間違いがあることを発見していました。

たとえば、そのひとつは、重いものは軽いものよりも速く落下するという説です。有名なピサの斜塔から大小2つの金属球を落とす実験をして、同時に地面に着くということを示したと言われています。しかし実際には、この実験を行ったのは他の人で、ガリレオは、斜めに置いたレールの上で、重さの異なる金属球を転がす実験を行ったのだそうです。

当時オランダではすでに天体望遠鏡が発明されていました。彼は自力でこのタイプの望遠鏡を作り、さまざまな観測を行います。そしてその結果、「天球の回転」に書かれているコペルニクスの地動説が正しいと確信するようになります。

Galileo telescope replica

ガリレオのものとされる望遠鏡(レプリカ、グリフィス天文台) By Michael Dunn (Own work) [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html), CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/) or CC BY 2.5 (http://creativecommons.org/licenses/by/2.5)], via Wikimedia Commons

 

地動説への支持を公表したガリレオもまた、宗教裁判におびやかされ、晩年には自説を取り下げています。

 

ガリレオは、実験や観測を重視しました。つまり、常識や過去の権威ではなく、起こっている事実を調べることが大切だと考えました。このことは近代科学の発達に大きな役割を果たすことになります。

ご存じの通り、現在の物理学や化学などでは実験が重視されています。つまり、誰もが同じように行えるように整えた方法で現実をとらえて、結果が他の人にも再現できるかどうかを確認し、確かな事実だけを積み重ね、数学を使ってその事実を説明します。このような科学のスタイルのさきがけとなったのがガリレオでした。

このため彼は、「近代科学の父」と呼ばれることがあります。

 

実験を重視し、数学を使うというこの方法は、その後大成功を収め、自然科学が大きく進歩していきます。

そしてその応用として産業革命がもたらされ、さまざまな工業技術が発達し、私たちの生活が便利で豊かなものになっていきます。

社会へのこの大きな影響によって、現在では、科学と言えば何となく、物理学や化学や数学のことを思い浮かべるという傾向が強くなりました。

しかしご存じの通り、科学は、それよりはるかに範囲の広いものです。自然科学にも他の分野がありますし、人文科学という分野もあります。

 

そして、「結果が他の人にも再現できるかどうかを確認」というこの方法は、どんな分野にも適用できるわけではありません。

たとえば、歴史学のことを考えてみてください。歴史では実験をすることができませんから、この方法をあてはめることができないのは明らかです。

心理学はどうでしょうか。ある人と別の人の心を厳密に同じ状態にすることはできませんし、ひとりの人の心を過去のある時点と現在で同じにすることもできません。

それでも、かつて心理学者の一部は、物理学を完全に手本にすることを試みました。再現できる実験の結果だけを使って、それ以外の事実は用いないことによって、心理学を厳密な学問に変えようとしたのです。

残念なことに、あまり良い成果を上げることはできなかったようです。あたり前のことに思われますが、やはり、どんな対象を研究するかで、それに適した方法は変わってきます。

 

大ざっぱにいえば、再現できる実験という方法は、物質に関わる現象をとらえるためには、とても有力であるけれども、人の心や感情が深く関係している場合には、必ずしもそうとは言えません。

 

さて、ドイツの劇作家ブレヒトは戯曲「ガリレオ・ガリレイの生涯」で、キリスト教の学者たちが、ガリレオに望遠鏡をのぞくように求められたときのことを描いています。

まわりくどい神学の論争をしているよりも、望遠鏡で観察すれば、誰の言っていることが正しいかは明らかではないかとガリレオは言っているわけです。

ところが驚いたことに、自説に凝り固まっている学者たちは、望遠鏡のことを悪魔の道具だと呼び、のぞくことすらしません。

 

しかし、当時の状況をいろいろと調べてみると、このような態度も、歴史の必然というか、無理のないことだったと言えないこともないのです。私たち人間は常にとても聡明だというわけではありません。周囲の権威や、自分の先入観に影響されずに、ものごとに向き合うのは時として難しいことです。

キリスト教の名誉のために付け加えておきますと、1992年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオに対して行った裁判が誤りであったことを認めました。ガリレオの死後350年後のことでしたが、それでも、過去の過ちを率直に認めるのは、実にすがすがしい崇高な態度に感じます。

GWB LB DIGITAL 12:35 Statements with Pope John Paul II.

ローマ法王 -ヨハネ・パウロ2世

 

最初の疑問に話を戻しますが、科学的だということ、あるいは非科学的だということは、一体何を意味するのでしょうか。

ここまでの話を元に考えると、科学的であるということは、世の中の風潮や権威や自身の先入観に目を曇らされることなく、現実に起こっていることを直視することだとは言えないでしょうか。

 

現代物理学は、その後、めざましいほどの発展を遂げました。その結果、日常生活で通用する常識は、高速で運動している場合や、原子などの微少な世界では通用しないということが分かっています。

2つだけ、例をご紹介させてください。

東京と、東京からちょうど100キロ離れている宇都宮市内で、まったく同時に花火が上がったとします。そして、東京の上空から宇都宮の上空へと、光の速さに近い高速で移動している宇宙船があったとします。この2つのできごとをこの宇宙船の飛行士が観察すると、花火が上がったのは同時ではなくなります。打ち上げ場所の間の距離は100キロより短くなりますし、地上の時間の経過は遅くなります。

ある会社の事務所の片隅に会議室が設けられています。この会議室には2つの扉AとBがあり、入るために他の方法はありません。

ある人が事務所から会議室に入った場合、この人は、扉Aか扉Bのどちらかを通ったのであり、両方を通ったのではないということが論理的に言えます。ところが、ある電子が事務所から会議室に入った場合には、そのような論理は通用せず、扉Aか扉Bのどちらかを通ったとは必ずしも言えない場合が生じます。

 

このような、信じられないようなことが多々あるので、物理学の歴史やその成果について良く知っている人は、世の中で現在知られている常識に反するというだけでは、ものごとを“非科学的”と決めるつけることが少ないようです。

つまり、世の常識に反する事柄の中には、現在のところ、まだ実験で立証されていないことや、再現実験という物理や化学の方法が、そもそもなじまない事柄が含まれています。

これらは、現在のところ“非科学的”とされている場合もありますが、物理学的な意味では、決して非科学的なことにはあたりません。

 

物理学者の中には、神秘学に興味を示したり深く研究していたりする人が多いということを最初にご紹介しました。このことは、物理学のこのような限界に、物理学者自身がはっきりと気づいているという謙虚さの表れのように思われます。

 

かつて、あるテレビ番組で、ノーベル賞を受賞した素粒子物理学の権威である南部陽一郎さんに、西田敏行さんが尋ねたことがあります。

「それでは、命も素粒子からできているのですね?」

南部博士は、とても印象的に、間髪を入れずに、次のように答えられておられました。

「あっ、それは私には分かりません。」

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南部陽一郎 By Betsy Devine (Own work) [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons

 

アインシュタインは、このような言葉も残しています。

「私たちは、好奇心に満ちた子供のようになってしまいます。この偉大なる神秘、私たちが生まれてきたこの世界の前では。」

 

長くなるので、ここで詳細にはご紹介できないのですが、人生と人の心の“神秘”を探究する神秘学には、その対象にふさわしい、長い歳月にわたって育まれてきた科学的な方法があります。

 

今回の話は以上です。いかがでしたでしょうか。あなたにご興味をお持ちいただけた点が少しでもあれば、心から嬉しく思います。

ではまた。

 

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