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形而上学とは何か

2015年4月10日


 

こんにちは。バラ十字会日本本部の本庄です。東京板橋の今週は、寒い日もありましたが、八重桜やヤマブキが花開き、いよいよ春もたけなわです。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

そちらはいかがでしょうか。

 

さて、毎回ご愛読くださっているある方から、「形而上学」(けいじじょうがく)とは何かについて書いてくださいとリクエストがあったのです。

実は、少々ひるみました。簡単なご説明が難しいテーマだと思ったからです。

しかし、バラ十字会からご提供させていただいている通信制の学習コースの3本柱は、神秘学、形而上学、人生哲学ですので、せっかくのこのご質問を、避けて通るわけにはいきません。

一所懸命、分かりやすくご説明したいと思います。うまく行けば良いのですが…

 

「形而上」という日本語、ほんとうに分かりにくいですね。

たとえば、水面という言葉があって、水面上と水面下というように使われています。

まず、不思議に思われるかも知れませんが、これとは異なり、「形而」という言葉があって、その上とか下とか言っているのではありません。形而上と形而下(けいじか)という言葉があります。

 

形而上という言葉は、古代中国の哲学書「易経」の一節に由来しています。その文を現代語に直すとこうなります。「形而上(形を超えたもの)は、これを道(タオ)といい、形而下(形に支配されるもの)は、これを器という。」

ちなみに、この「器」とは自然界のことです。一方「道」(タオ)とぴったり意味が一致する現代語は、どうも見つかりません。真実、本質、理性、道徳意識、生命、神などの意味をすべて含んでいる不思議な用語です。

いずれにせよ、世界は2つに分けて考えることができ、そのうち、形を超えたものが「形而上」にあたります。たとえば心、観念、感情などは「形而上」に属します。そして、形を持つもの、つまり物質が「形而下」にあたります。

無形文化財とか無形固定資産という言葉がありますが、この「無形」は「形而上」とよく似た意味です。

 

そして、井上哲次郎という明治時代の哲学者が、「メタフィジクス」(metaphysics)という英語の訳語を「形而上学」とすることにしたのだそうです。

井上哲次郎

井上哲次郎

 

では、「メタフィジクス」は何を意味するのでしょう。この語は、前回も話題にした、古代ギリシャの哲学者アリストテレスに関係します。彼の死後、西暦70年ごろに、ローマの都市ロードスでアンドロニコスという人が、それまではばらばらだったアリストテレスの論文や手書きの原稿を集めて、全集を作りました。

そのとき、自然学(物理学や博物学)について書かれた巻の後に、アンドロニコスは全部で14の巻を配置しました。この14巻で扱われている内容がギリシャ語で「自然学(physika)の後(meta)に置かれた巻」と呼ばれるようになり、このことが元になって「メタフィジカ」(metaphysika)というラテン語、「メタフィジクス」という英語ができたのだそうです。

これらの巻に書かれている内容は、伝統的に3つに分類することができるとされています。存在そのものについての哲学、世界の創造についての哲学、心の哲学です。

そして、この3つの中でも、現在、純粋形而上学と呼ばれる狭い意味の形而上学では、存在の根本原理が扱われます。

以上、長くなりましたが、ここまでの結論を申し上げると、純粋な意味での形而上学とは、「存在の根本原理」を追究する哲学だということになります。

 

何だか分かりにくいですね。一体、存在とは何でしょうか。根本原理とは何でしょうか。

タマネギの皮をむいているようで、どこまで行っても疑問が出てくるのでまどろっこしいのですが、もう少しおつきあいください。

 

まず、存在とは「存在するすべてのもの」のことだとされています。物だけでなく生物も、もちろん人も、その心も、人が作り出した観念も、もし存在するとすれば神も、すべてが含まれた全体です。

バラ十字会には次のような言葉が伝えられています。

「あらゆるものからなる〈一なるもの〉には、いかなる部分も存在しない。言いかえれば、〈一なるもの〉がひとつと数えられることはない。」

 

現代風に考えると、全宇宙のようなものに思えますが、さらに「形而上」、つまり形のない心や観念の世界が含まれます。

仏教では「諸法」という言葉がこれにあたるようです。

そして、純粋形而上学では、「存在するすべてのもの」の根本原理が扱われるのですが、これは、何というか、思索だけによって作り出された理論というよりは、体験に密接に結びついている営みだと考えていただいた方が良いように思います。

形而上学の祖であるアリストテレスは、ソクラテスの孫弟子でした。ソクラテスは「人はどのように生きるのが正しいのか」を追究するのが、他の何よりも大切だと考えた哲学者であり、この考えが形而上学にも受け継がれているように思われます。

アリストテレス

アリストテレス

 

 

話を戻しますが、形而上学が追究する「存在の根本原理」とは何でしょうか。たとえば、太陽という星がどのようにできたかを例にご説明します。

物理学者は、宇宙にただよっていたガスが重力によって集まって温度と圧力が上がり、太陽が生じたと説明します。そしてその詳細を、数式を使って表わします。

これに対して、形而上学でいう根本原理とは、太陽が存在して、周囲との関係で現在の働きをしている目的、もしくは理由のことです。

つまり、科学は「どのようにして」(how)を追究するのに対して、形而上学は「なぜ」(why)を追究すると言い換えることができます。

ですからたとえば、もし人生の意味を知りたいと考えた場合、科学ではなくて形而上学の中に答えを探した方が、見つかる可能性が高いのです。

 

科学も形而上学も真実を追い求めていますが、真実の追究方法、判定基準は、この2つでは異なっています。

前回のメルマガで詳しくご説明しましたが、だからといって、形而上学が非科学的だというわけではなく、追究する相手が異なれば、方法も異なってくるということです。

形而上学を進めて行くうえでもっとも重要な追究方法を、アリストテレスは「観照」だと考えました。そして、形而上学の真実の判定基準となるのは、人が正しく生きるために役に立つかどうかです。

観照は、おそらくなじみのない言葉なのではないでしょうか。瞑想とほぼ同じ意味です。リラックスして、あるものごとに集中して、直観的にその真実を見抜くことです。

 

面白いことに、アリストテレスが「存在の根本原理」について語っていることと、最初にご紹介した「道」(タオ)について老子などの古代中国の哲学者が書いていることには、そっくりの部分があります。

おそらく交流がなかった異なる古代文化で、ものごとの本質について同じことが語られているという例は、これ以外にも、数え切れないほどたくさんあります。

このことを、人間の直観には、このような真実を捉える重要な能力がある証拠だと私は考えています。そして、この能力があらゆる人に共通だとすれば、同じ体験を誰もがすることができます。

 

暖かい季節になってきましたので、機会があるときに、次のことを試しに行ってみていただきたいのです。

晴れた夜に野外に出てください。妨げになる明るい光から離れるようにしてください。都市に住んでいらっしゃる方は、公園に行くか、静かで通行が少ない道路脇に止めた車の中から行うこともできます。もちろん防犯には十分に気をつけてくださいね。安全上適した場所が近所になければ、ご自宅の庭やベランダでも結構です。リラックスして、何回か深呼吸をします。そして空を見上げます。星々と月をじっと見つめてください。これらに集中して、しかもリラックスしたままでいてください。

星空

 

「存在するすべてのもの」が、直観によって感じられるかを試してみてください。それは、どのような性質のものになるでしょうか。そこには、何か意外な“神秘”が秘められているでしょうか。

古代人、特に砂漠の荒れ地の遊牧民は、山羊の皮のテントのかたわらで、このように天空を見つめていました。そして、人類のこの体験は、天文学だけでなく、形而上学のような哲学も育んできました。

あなたも、興味深い、ちょっと奇妙な何かを受け取られることでしょう。もし、そうでなかったとしても、間違いなく心地よい体験になります。

 

いかがでしたでしょうか。今回は、形而上学についてのつたないご説明でした。次回もおつきあいくだされば、心から嬉しく思います。

ではまた。

 

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