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プライドについて

2015年11月27日


 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日の東京板橋は、何日かぶりの陽射しに恵まれていますが、寒さは相変わらずで、いよいよ冬の到来を思わせます。

そちらはいかがでしょうか。

 

私事になりますが、趣味のバドミントンが強くなりたいと、ユーチューブで役立ちそうな動画を見ることがよくあります。先日は、カナダに住んでいるある世界的に有名なコーチの動画を見ていたのですが、話題は技術についてではなくて、上達するために必要な態度のことでした。

「私の前に2人の選手がいるとします。ひとりは才能に恵まれているけれども、小さなプライドしか持ち合わせていない選手です。もうひとりは、才能は目立たないけれども、山のように大きなプライドを持っている選手です。私がこのうちの一人しかコーチできないとしたら、迷わず2人目を選びます。彼こそが、将来チャンピオンになるかもしれない選手です。そして、大きなプライドを持つ選手をコーチしているときは、ほんとうに毎日が、楽しくてしかたないのです。」

 

「プライドが高い」などと言うように、英語でも「プライド」(pride)という語は、どちらかというとネガティブな意味だと思っていたので、この言葉を聞いたときは、かなり不思議に思ったのです。

辞書を引いてみると、「1.他人よりも自分が優れていると感じること。2.自分に何か優れた点があることを嬉しく思う気持ち。」と、プライドには主に2つの意味があるようです。

 

最初の意味には、「自惚れ」とか「思い上がり」というような言い換えが当てはまるように思います。そして第2の意味には、「自負心」、「自尊心」とか、ちょっと古くさい言葉かもしれませんが「矜持」(きょうじ)というような言葉があたるように思います。

「横綱としての矜持」、「人間としての矜持」というような使われ方をする矜持です。

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先ほどのバドミントンコーチの言っていた小さなプライドは「自惚れ」や「思い上がり」にあたり、大きなプライドが「自負心」や「自尊心」に相当するのではないかと思ったのです。

しかし、この2つが実際にどのように違うかは、それほど明らかなことではないようにも感じたので、このことを神秘学の立場から考えてみようと思ったのです。

 

バラ十字会の神秘学では、すべての人には表面的な自己と、心の奥底にある真の自己の2つの自己があると考えています。

表面的な自己のことを、通常私たちは、自分自身だと考えています。この自己は、論理的に物事をとらえ、自己と周囲の対象をまったく別のものだと感じ、部分的な細部にとらわれがちで、多くの場合に自己中心的になりがちな傾向を持ちます。一方、真の自己は、「内なる師」とも呼ばれ、完璧な道徳心、洗練された美意識を兼ね備え、総合的な判断に優れ、直観的な真実を私たちに小さな声で伝えてくれる役割を果たしています。しかし残念ながら、私たちは真の自己の小さな声を無視して、表面的な自己に従ってしまうことが多いのです。

 

イスラム教の神秘家ハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)は、次の言葉を残しています。

「とうとう、あなたを見つけた。私の心の殻の中に、ひとつぶの真珠のように隠れているあなたを。」

 

今までにも何回かご紹介させていただいていますが、神秘学では、すべての人の魂は、宇宙の魂の一部分であると考えています。ですから、人はひとりとして宇宙から欠くことができないのであり、誰もが本質的に同じ価値を持っています。

真の自己は、常にこのことを直観しています。そのため、他人と自分に同等の価値があると見なすので、他人よりも自分が優れていると感じることはあり得ません。他人よりも自分が優れていると感じるのは、表面的な自己だということになります。

 

別の方向から考えることもできます。

ある人は知性面で優れ、別の人は社交面で優れ、また別の人は苦難に耐える力に優れ、体力に優れた人、人を許すことに長けた人、歌や絵が得意な人、正義感の強い人、思いやりが深い人、場を和ませる人、イマジネーションに富んだ人、誠実な人など、無数に多くの種類の長所を持つ人がいます。

それにもかかわらず、他人よりも自分のことを優れていると思うのは、全体的な事実のある一部分を自分の都合でとらえているからではないでしょうか。そしてこのような判断は、部分にこだわる性質のある、私たちの表面的な自己が犯しがちな過ちです。

 

さて、もしかしたら似ているように思われるかも知れませんが、自分に何か優れた点があることを嬉しく思う気持ちは、自惚れや思い上がりとは違いがあります。

たとえば、ある人が論理的にものごとを考える能力に優れているとします。その人が自惚れや思い上がりを感じている場合は、この能力のことを、何か自分で手に入れた持ち物のように感じている傾向があります。

しかし、このような能力は、遺伝と教育のおかげで得られています。そのどちらも、その人の手柄ではありません。いや、まじめに自分で訓練を積み重ねたのだから、人によっては、自分の力で手に入れたのだと思う場合もあることでしょう。もちろん、その人が努力を重ねたことは事実でしょうし、そのことを否定するわけではありません。

 

一方で、そのような努力を支えた、個人だけではどうすることもできない無数の要素があります。具体的に言えば、そのような訓練ができる環境は、ご両親などによって与えられたり、社会によって整えられたりしたのではないでしょうか。

また、そのような努力を決意する力、それに耐えるための忍耐力はどこから生じたのでしょうか。人の決断力、忍耐力、正義感、思いやりなどの性質は、宇宙の魂から個人の魂へと伝えられていると神秘学では考えています。知性や、芸術や社交の能力についても同じことが言えます。何らかの使命を果たすために宇宙から私たちに分け与えられているのです。

 

私たちが自負心・自尊心を抱いているときには、明確に意識していなくても、直観的には、その優れた資質が自分に与えられているものだということを感じていて、そのことに感謝の念を抱いている場合が多いようです。

そしてこのことが、自惚れや思い上がりを私たちが卑しいと感じ、反対に、自負心や自尊心を望ましいと感じる理由に思われます。

 

先ほどのコーチは、次のようにも言っていました。

「小さなプライドは、にわか雨でできた水たまりのようなものです。一方、大きなプライドは、澄んだ深い湖のようなものです。」

自惚れや思い上がりには、ほんとうには根拠がないので、状況が少し変われば持ち続けることができなくなる一時的な感情だということができます。一方、真の自負心や自尊心のおおもとにあるのは、自分を含めた、すべての人が持つ普遍的な素晴らしさへの信頼なので、状況によって揺らぐことがありません。

 

先ほどのコーチはこうも言っていました。

「大きなプライドを持つ選手は、大差で試合に負けていても、途中で首をうなだれることなく最後まで最善を尽くします。そして、負けても言い訳をしません。自分の欠点や過ちを見過ごすことを自分に決して許さないからです。そして、自分よりも実力が下の選手を決して見下すことがありません。彼らと一緒にいるのは、ほんとうに楽しいことです。」

この言葉を聞いて、私自身が、このような人に近い生き方ができているかどうかを考えさせられました。このことは、とても素晴らしい経験でした。そこで、文章にして、皆さんにもお伝えしたいと思ったのです。

 

この2週間ほど、テロリズムによる事件が何回も国際ニュースで採り上げられています。このような事件をたびたび耳にすると、どうしても、人間に対する信頼が失われがちです。しかし、あたりまえのことですが、テロリストは悪人として生まれてきたわけではなく、恵まれない環境、間違った情報と教育とともに育っただけだということを忘れてはならないと思います。

そして、この考えをさらに一歩進めると、思うことがあります。私たち自身は、理想的で偏っていない教育を受けて育ってきたのでしょうか。それともそれは、国や時代や地域に由来する、ある特徴を持った教育だったのでしょうか。また、周囲の人やテレビ、新聞、インターネットから私たちが得ているのは、偏りのない情報なのでしょうか。

私たちの抱いている常識は、どれが正しく、どれが正しくないものなのでしょうか。このことは、よくよく考えてみる必要があることのように思われます。

 

いかがでしたでしょうか。少しでもご参考になる点があったとお感じいただけたなら、心から嬉しく思います。

それでは、また。

 

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