投稿日: 2016/06/17
最終更新日: 2023/09/20

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

東京板橋は今日、ひさしぶりに晴れています。蒸し暑くても、やはり日射しがあると、気持ちが晴れ晴れとしていいですね。

いかがお過ごしでしょうか。

さて、万有引力を発見した、有名なイギリスの科学者アイザック・ニュートンにまつわる話題が、最近2つありました。

ひとつは、ニュートンが残していたノートの中に、ジョージ・スターキーという錬金術師の文章の書き写しと、自分の行なった錬金術の実験のメモが発見されたというニュースでした。その書き写しは、「賢者の石」の原料となる「哲学者の水銀」の作り方を暗号で示したものだったということです。

もうひとつの話題はツイッター上でのできごとでした。「#ブロック覚悟でいう」というハッシュタグをきっかけに、科学雑誌『ニュートン』の公式アカウントが、ともすれば怪しい話題が多い学研の雑誌『ムー』に対して、「ムーの中の人は、どこまで信じて原稿を書いているんですか(・・?」という、なかなか挑戦的なツイートをしたのです。

これに対する、月刊ムーの切り返しは素晴しいものでした。「はい、ニュートンは錬金術師で、オカルティストだと信じております」。

座布団一枚という感じで、思わず爆笑してしまいました。

錬金術の実験室
バラ十字古代エジプト博物館に展示された錬金術の実験室

アイザック・ニュートンは、ケンブリッジの数十キロ北にあるウルスソープという町で、1642年のクリスマスに生まれました。もっとも、それは当時イギリスで使われていた旧い暦(ユリウス暦)での話で、すでにヨーロッパ大陸で採用されていた現代の暦(グレゴリオ暦)では、1643年の1月4日になります。

彼の幼年期は、あまり恵まれたものではなかったようです。農園を経営していた父は彼が産まれる3ヵ月前に亡くなっています。そして、実母はアイザックが3歳のときに再婚して彼から離れ、彼は祖母の手で育てられるようになります。

アイザックは体が小さく内向的な子供でした。農園を継がせようとしていた実母の反対があったにもかかわらず、親類が学問の才能に気づき、中等学校に入れます。いじめにも遭っていたようで、その一人に喧嘩で勝ったことがきっかけで自分に自信を持ち、首席でこの学校を卒業したと言われています。そして、18歳のときには名門のケンブリッジ大学に入学しました。

家はそれほど貧しくはなかったのですが、実母の反対のため仕送りは少なく、大学では半免費生という立場で、給仕や雑用をしながら勉強をします。彼は、幼少期には召使いに世話をされる生活を経験しており、大学生活の初めの頃のこの立場はニュートンにとって、かなり自尊心を傷つけられる状況だったようです。

そのため、自費で学費を払う学生たちとはあまり親しく付き合うことはなく、孤独な学生生活を送っていました。

この当時、主に大学で教えられていたのは、スコラ哲学という、キリスト教の教義を支えていたアリストテレスの哲学でした。ニュートンは、それよりも、新しい天文学や数学や、フランスの哲学者デカルトの著作に興味を持ち、熱心に学んでいたそうです。また、先ほど話題になった錬金術や、旧約聖書、黙示録、神秘学の研究もしていました。

ニュートンが大学に入学して5年後のことですが、イギリスでペストがはやります。大学は1665年の夏から2年間閉鎖され、ニュートンは生家のあるウルスソープに戻ります。そして、この休暇の間に、万有引力と二項定理を発見し、微分積分学の基礎を作りました。人類の物理学と数学に信じられないほどの発展をもたらしたこの期間は「ニュートンの驚異の二年」と呼ばれています。

ちなみにウルスソープのニュートンの生家には、今でもリンゴの木があるそうですが、リンゴの実が落ちるのを見て彼が万有引力を発見したというのは、本当かどうか分からないということです。しかし、生家の庭のリンゴの木を見ながら、彼が思索にふけったのは確かだそうです。

ニュートンは、26歳のときに指導教官のアイザック・バロ博士から、数学分野のルーカス教授職という地位を譲り受けます。この地位には、その後も世界最高レベルの科学者が就任しています。筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患いながらも研究を続けている、車椅子の理論物理学者スティーブン・ホーキングが、1980年から2009年までこの職を務めています。

ニュートンの肖像画(1702年)
ニュートンの肖像画(1702年)

ニュートンの業績の中で、最も有名なのは万有引力の発見です。地上の物体に重力が働くことは古くから知られていましたが、アリストテレスの哲学では、地上の運動と天空の運動は異なる法則に支配されていると考えられていました。

一方、ニュートンが熱心に研究していた哲学者デカルトは、同じ運動の法則が全宇宙のすべてを支配していると考えていました。

そして、地上に働いている重力と同じ力が、太陽系の惑星にも働いていて、その力が距離の二乗に反比例すると仮定すると、ケプラーが自身の観測の結果から得た、惑星の運動に見られる法則が、正確に説明できるということを発見します。

リンゴの実も、月も惑星も、デカルトの言ったように同じ運動の法則に支配されていたわけです。いつかご紹介する機会があるかも知れませんが、デカルトの哲学には、バラ十字会が大きな影響を与えていますので、近代物理学の進歩にも、バラ十字会が一役を果たしていると考えることができます。

ニュートンは、これらのことを『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)という本にまとめ、43歳のときに出版します。この本の題名は、デカルトの『哲学原理』を強く意識して付けられています。そして、「私が研究するのは、哲学の中でも自然についての哲学であり、それは数学という言葉を使って表わされる」という彼の考え方を表わしています。

ニュートンは、日常でも研究活動でも、細かい文章やメモを残す習慣があったそうです。84歳のときに亡くなりますが、自然科学についての文書よりも、錬金術、旧約聖書、黙示録、神秘学に関する文書の方が、はるかに多く残されていました。

ニュートンには子供がいなかったので、彼の文書を相続したのは甥や姪の方々ですが、彼らはニュートンの名声が汚されることを恐れ、自然科学以外の文書を公表することを控えます。しかし、それらの文書が、最近、さまざまな人の手によって明らかにされ、ニュートンの実像が明らかになってきています。

ニュートンほど聡明な人が、なぜ、錬金術のような疑似科学に夢中になっていたのだろうかという疑問が出されることがあります。

しかし、錬金術とは何かを正しくとらえるならば、ニュートンの行なっていたことの一貫性が見えてきます。

一般に錬金術とは、鉛や錫や銅のような卑金属から、純金を作り出そうとして失敗した、初期の化学だと考えられています。錬金術の研究が、化学の基礎になったという点には間違いはないのですが、錬金術師たちが目的としていたことが、大金持ちになろうとか、純金を作ることだけと考えるならば、それは事実からかなり離れています。

中世では科学が、分野ごとに別々になってはいなかったということを考慮する必要があります。物理学のような、自然科学も、文学などの人文科学、より良く生きる方法を見つけようとする哲学も同じ人が同時に研究しており、物質を研究することも、人の体を治療することも、自身の内面を進歩させることも、異なる別々のことだとはあまり意識されていなかったのです。

そのため、錬金術師たちが作ろうとしていた「賢者の石」は卑金属を純金に変えるばかりでなく、不老不死の作用を持つとされ、またその研究を進めることにより、人は賢者(哲学者)になれるとされていたのです。

別の言い方をすれば、錬金術とは変化の背後にある原理、つまり、この世の根本にある原理を知ろうとする努力でした。

私たちは誰もが、生きていて、幸せに感じられることや、そうでないこと、満たされた思いや、満たされない思いを経験します。そして、限りある時間を意識したとき、自分の魂に導かれるように、いつか、いわゆる「存在の神秘」という問題に突きあたるのではないでしょうか。

それは、この世界には、何か隠されたところがある。この世界についての常識的な見方には、どこか分からないけれど、何か根本的に間違っている部分がある。そして、この秘密を、ほんの少しでも解き明かしたい。そうしなければ、生きていても仕方がないのではないかという思いです。

父を見たことがなく、実母の愛を十分に感じる機会も得られなかったニュートンは、大学に入学した当時、孤独な学生時代を送ります。さらに、ペストの流行を身近に体験して、人の限りある運命を実感します。

そして、このような状況にある鋭い感受性を持つ若者には当然のことに思えますが、若いニュートンもまた、「存在の神秘」という問題に突きあたったのではないでしょうか。

そして、この神秘を解き明かす鍵だとニュートンが考えたのは、当時の宗教や文化のことを考えれば、当然「神」と、「神の性質」のことだったと思われます。

その証拠に、ニュートンは太古の神殿について深く研究しています。神それ自体は研究することができないけれども、太古の神殿には、古代人の英知によって神の性質が現れていると考えたのです。

参考記事:『アイザック・ニュートンと太古の神殿

さらに、ニュートンにとって、自然界は、神が作りだした最も素晴しい作品であり、神の性質が反映されているものでした。

ニュートンが自然科学を研究した動機は、ここにあると思われます。ですから、彼がそれと同時に、錬金術や聖書や古代哲学を研究したのは、ごく自然なことです。物理学者としてのニュートンと、錬金術師としてのニュートンは表裏一体です。

ニュートンは晩年に、次の言葉を残しています。

「私は、浜辺で遊んでいる少年のようなものだ。普段あまり見たことがないほど、すべすべとした小石や、きれいな貝殻を、折々に見つけて心を楽しませているが、その一方で目の前には、真理の大海が発見されることなく広がっている。」

いかがでしたでしょうか。少しでもあなたの興味を引くところがあったとしたら、とても嬉しく思います。

それではまた、次回もお付き合いください。

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