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オオカミは悪者?

2017年11月3日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、今週の木枯らしで桜などの葉がずいぶんと散り、秋の風景が冬へと変わりつつあります。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

皆さんは、ブックトーカー(Book talker)というお仕事をご存じでしょうか。図書館員や図書ボランティアの方が主にされているのですが、何冊かの本を選んでストーリーを作り、子供たちの前でお話(ブックトーク)をすることによって、本の面白さを伝える仕事です。

 

今回は、私の友人でブックトーカーをされている可児明美さんから、このブログに寄稿をいただきました。文化の日の今日は、この文章をご紹介させていただきます。

彼女が小学生にブックトークを行った内容を、書き下ろしていただいたものです。

▽ ▽ ▽

 

記事「オオカミは悪者?」

可児明美

可児 明美

みなさんは、おおかみと七匹のこやぎのお話を知っていますか?

では、赤ずきんちゃんは?

 

ふたつとも、おおかみがでてきますね。おおかみと七匹のこやぎでは、あの手この手を使って、子ヤギたちに家の扉を開けさせて、ついには家の中に押し入って、子ヤギたちを食べてしまいます。赤ずきんちゃんのおはなしでは、赤ずきんちゃんにうまいことを言って道草をさせて、先回りをして、おばあさんと赤ずきんちゃんを食べてしまいます。こういったお話の中で、オオカミは悪者になっています。乱暴で、ずるがしこくて、欲張りで、油断するとこちらが食べられてしまいます。

 

……でも、ほんとうにオオカミは、そんな悪者なのでしょうか? 今日は、「オオカミは悪者?」というテーマで本を紹介します。

森の中の白オオカミ

 

これまでの人間の歴史の中で、世界のいろいろなところで、人間とオオカミとの戦いがありました。人間が原野を切り開いて農場をつくると、そこで飼っている牛や馬がオオカミに襲われました。家畜が襲われると、人間は困りますよね。そこでオオカミ狩りというのも行われました。

 

この絵本、『エゾオオカミ物語』(あべ弘士著、講談社)に出てくるお話しは、日本で起きたことです。昔、北海道の原野にも、オオカミが住んでいました。エゾオオカミとエゾシカは、バランスを保って共存していました。この土地に古くから住んでいたアイヌの人々も、平和に共存していました。ところが・・・、あるときエゾシカの数が激減しました。その時、ちょうど内地からたくさんの人間がやってきて、開拓がはじまりました。餌がなくなったオオカミは、家畜を襲い、家畜を襲われた人間はオオカミを狩りました。そしてとうとう、北海道の地にオオカミは一頭もみられなくなりました。今から100年ほど前のことでした……。

 

さあ、北海道にいたオオカミは、もういなくなってしまいました。では、アメリカではどうでしょうか? アメリカの開拓時代にも、人間とオオカミの戦いの歴史がありました。アーネスト・トンプソン・シートンという人がいます。『シートン動物記』を書いた人です。シートンも実際にオオカミを狩る仕事をしていたことがあります。シートンは、オオカミ退治の依頼を受けて、カランポーという場所にやってきます。そこには、ロボという名前で呼ばれていたオオカミがいました。

Ernest Thompson Seton

アーネスト・T・シートン by Bain News Service; cropped and uploaded by JGHowes [Public domain], via Wikimedia Commons

 

地元の人からオオカミ王と呼ばれるほどのロボは、とても大きかったんですね。大きいオオカミの足跡の大きさは、13センチほどもあります。ですが、ロボの足はさらに大きく14センチくらいあったのです。普通のオオカミとロボの大きさを比べると、ロボは1.5倍くらいあります。

 

ロボはとても賢くて、毒エサや罠にはかかりません。賞金稼ぎのハンターたちが何人挑戦しても、ロボは捕まりません。ロボの群れの大好物は、選りすぐった一歳の雌牛を殺して、柔らかい部分だけを食べることでした。牧場で牛を育てている人たちは、そんなことをされたら困ってしまいますね。……そんなところにやってきたシートンですが、ちいさいころから、動物や昆虫や小鳥などの生き物に強く心惹かれる子どもだったそうです。また、絵も上手で、シートンのお父さんは、シートンが立派な画家になると思っていたほどでした。つまり、シートンは動物が大好きで、物事をよく観察する人だったんですね。

 

シートンはまず、馬に乗ってカウボーイに案内してもらって、その土地をくわしく見て回りました。クルンパ川を中心とした四つの州にまたがる広い一帯がロボの縄張りでした。シートンは、ロボがどのように暮らしているかなど、いろいろ観察して、なんとかとらえようとしますが、なかなかうまくいきません。あるとき、カウボーイのひとりが言った一言で、シートンはある作戦を思いつき、実行に移します。作戦は成功しました。その作戦に利用したのは、オオカミの持つ、あるすばらしい性質でした。シートンの作戦とは、どんな作戦だったのでしょうか、そして、捕まってしまったロボには、どんな運命が待っていたのでしょうか……。

 

シートンは、ロボを捕まえる仕事を引き受けたとき、大喜びで受けたのではありませんでした。「私はロボをとらえることに疑問と矛盾を感じながらも、ロボをもっと知りたいと思いました。」と本『シートン動物記 オオカミ王ロボ』(アーネスト・T・シートン著、今泉吉晴訳、童心社)にも書いてあります。

 

また、シートンは他にもいろいろな動物のお話を書いています。

 

下町で生まれたノラネコのお話では『シートン動物記 下町のネコ キティ』(アーネスト・T・シートン著、今泉吉晴訳、童心社)、お腹を空かせてさまよっていた生活から、ひょんなことから、猫の品評会に出されてお金持ちの家の猫になります。でも、自由を求めたキティは、そこから逃げ出してしまいます。いろいろな目にあったキティですが、最後には申し分のない安定した暮らしを手に入れます。この本の最後のほうには、キティがついに手にした幸せな状態のことが書かれています。自分が何を求めているのかがはっきりわかるようになってから、求めているものが手に入るようになったのだと。これはもしかしたらシートンが、自身の人生で実感していたことかもしれません……。

 

どのお話も、シートンが動物や自然をよく観察して、深く理解して書かれています。シートンは動物の足跡の観察だけでも、こうして一冊の本『シートンの自然観察』(E.T.シートン著、どうぶつ社)ができるほど、自然を愛し、よくみて、それを多くの人にうまく伝えることができた人でした。

 

そんなシートンの子ども時代はどんなものだったのでしょうか、そしてどのような人生を送ったのでしょうか? どうしてこれほど動物のことをたくさん、詳しく、的確に、わかりやすく描くことができたのでしょうか? そのひみつはこうしたシートンの伝記『子どもに愛されたナチュラリスト シートン』(今泉吉晴著、福音館書店)、『シートン自叙伝』(シートン動物記別巻、アーネスト・T・シートン著、集英社)からわかるかもしれません……。

おわり

紹介した本

  • 『エゾオオカミ物語』(あべ弘士著、講談社)
  • 『シートン動物記 オオカミ王ロボ』(アーネスト・T・シートン著、今泉吉晴訳、童心社)
  • 『シートン動物記 下町のネコ キティ』(アーネスト・T・シートン著、今泉吉晴訳、童心社)
  • 『シートンの自然観察』(E.T.シートン著、どうぶつ社)
  • 『子どもに愛されたナチュラリスト シートン』(今泉吉晴著、福音館書店)
  • 『シートン自叙伝』(シートン動物記別巻、アーネスト・T・シートン著、集英社)

 

△ △ △

 

ふたたび、本庄です。今週は、国内にも国外にも暗いニュースが多かったですが、この文章を読んで、心がほのぼのと温かくなりました。こんなお話が聞ける子供たちは幸せですね。

 

今日はこの辺で、

ではまた。

 

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謎の遺物

2017年10月27日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

東京板橋では、昨日から秋の気持ちの良い晴れ間が広がっていますが、それも今日までのようです。寒くなってきましたね。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

先日、北海道の支笏湖で仕事があり、その帰途に、千歳市埋蔵文化財センターという施設を見学することができました。

最近、縄文時代に興味を持ち、この展示館に目を付けていたのです。

千歳市では、新空港の建設にともなって大規模な発掘調査が行われたことで、市内だけでおよそ300カ所もの遺跡が見つかっており、その多くが縄文時代の遺跡です。

 

皆さんは、縄文時代というと何を思い浮かべるでしょうか。

土器でしょうか土偶でしょうか。竪穴住居でしょうか。

 

縄文土器の代表例に、まるで炎が広がるような装飾が上部に施された火焔型と呼ばれる土器があります。新潟県長岡市で発見されたものが特に有名です。

 

Jomon Vessel with Flame-like Ornamentation, attributed provenance Umataka, Nagaoka-shi, Niigata, Jomon period, 3000-2000 BC - Tokyo National Museum - DSC05620

火焔型土器

 

芸術家の岡本太郎さんは、上野の国立博物館でこの土器に出会って、縄文文化の魅力に取り付かれ、生涯研究を続けていたそうです。

 

北海道の南茅部町(現在の函館市)からは中が空洞になった土偶が見つかり、茅空(カックウ)という愛称で呼ばれ、愛らしいとも怪しいとも感じられるその奇妙な形から、縄文文化のシンボル的存在になっています。

Hollow Dogu Kakku

カックウという愛称で呼ばれている土偶

 

縄文時代は謎だらけです。火焔型土器も土偶も、いったい何に使われたのかが分かっていません。

しかも、他にはまったく見られない独特のデザインをしていて、岡本太郎さんのような芸術家ではなくても、いつまで見ていても見飽きないと語る人たちが多数いますし、私もそう感じます。

 

話を千歳市の埋蔵文化財センターに戻します。

千歳線のサッポロビール庭園駅から、携帯電話でタクシーを呼んで15分ほど走ったところに、建物がありました。

元は小中学校の校舎だったところを改装して作られた展示館なのですが、とても落ち着いた雰囲気の展示室でした。他にはほとんど参観者がいなかったので、じっくりと見て回ることができました。

 

この展示館には、旧石器時代の文化や、地元地域の変遷の説明もあったのですが、何といっても目を引いたのは、千歳市美々4遺跡というところから出土した「動物型土製品」と呼ばれる遺物と、千歳市ママチ遺跡から出土した「土面」でした。

 

次の写真をご覧ください。

「ビビちゃん」という愛称の動物型土製品(写真はクリックすると拡大できます)

 

この動物型土製品は、出土した遺跡の名前と愛らしさから「ビビちゃん」と呼ばれています。

まさに、謎だらけ、謎そのもののような遺物ではないでしょうか。写真を見れば、これが大げさな言い方でないことがお分かりいただけることと思います。

 

ふっくらと膨らんだ中空の胴体には、三角形の股のような部分を介して、3本指(?)の両足のような部分があり、5本の指のようなものがついた2つのヒレ(耳?)と、前後にならぶ角と鼻先が突き出た小さな頭のようなものがついています。

 

しかし、胴体の部分には口のように見える大きな穴が空いていて、くっきりと描かれた文様と合わせて考えると、ここが顔のようにも見えます。

すると、先ほどの頭のような部分は、一風変わった、ちょんまげのようにも思えてきます。

 

いったい、これは何なのでしょうか。

 

専門家の間でも、意見がまったく定まっていないようで、「動物型土製品」という命名にも、そのことが表れています。

水鳥、ムササビ、亀だという人も、トド、オットセイ、アザラシのような海獣だという人も、立ち上がったクマだという人も、人間だという人も、空想上の動物だという人もいます。

 

用途についてもさっぱり分かっておらず、香炉、笛、狩猟の成功を祈るための儀式用具などの説があります。

この遺物を発掘した考古学者の大島直行さんは、「月の水」を溜める容器だとしています(『月と蛇と縄文人』、寿郎社、2014年)。

 

土面の方も、見れば見るほど実に怪しい遺物です。先ほどの動物型土製品もそうですが、夢に、しかも悪夢に出てきそうです。

(写真はクリックすると拡大できます)

 

展示室の解説には、縄文晩期のお墓のそばで見つかった出土品で、墓に立てられた柱に付けられていたと想像されると書かれていました。

 

いったいどのような思いで何のために、ビビちゃんやこのお面を、縄文人は作り、用いたのでしょうか。

 

このような遺物を見ていると、古代人は、現代人の私たちとは、まったく異なる物の見方、考え方をしていたのではないかと感じます。

私にはまだ十分に理解できていないのですが、幾人かの民俗学者は、その際のキーワードは、「シンボリズム」と「レトリック」だとしています。

 

参考記事:『花という象徴

 

この視点から、たとえばネリー・ナウマンというドイツの民俗学者は、縄文時代の精神文化と、環太平洋の他の文化との関連を探究しています。

 

千歳市の埋蔵文化財センターで、展示品に感じた縄文文化への驚きをお伝えしたく思い、今日は、ややまとまりのない話をさせていただきました。

古代人の文化、特に縄文文化については、これからも調べて、もし面白いことが分かったら、またお伝えさせていただきたく思います。

 

では、今日はこの辺で。

 

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怒りの葡萄 -文芸作品を神秘学的に読み解く7

2017年10月20日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

この数日、東京板橋では雨が降り続いています。

 

いかがお過ごしでしょうか。台風21号が心配ですね。

 

さて、聖徳太子の十七条憲法は「和を以て貴しと為す」で始まるそうですが、それ以降の多くの時代に日本では、人と人の「和」ということが、社会で特に大切にされてきたのではないかと思います。

しかし、このことには、ネガティブな側面とポジティブな側面の両方があるのではと、最近、考えていたのです。

 

ネガティブな側面としては、創造性や起業家精神を押しとどめてしまったり、自由な議論を妨げてしまったりする場合があるということが考えられます。

「出る杭は打たれる」とか、「物言えば唇寒し秋の風」ですね。

 

一方でポジティブな側面としては、これはまだ考えている最中なので、あまり論理的に説明できないのですが、「和」が社会的な絆、言葉を超えた次元の理解の基礎として働き、それが元になって、繊細な文化が育まれてきたのではないだろうかということです。

 

このようなことが、最近つらつらと、とりとめもなく頭の中に巡っていたのです。

 

すると友人から、このブログへの寄稿記事が届いたのです。読んでびっくり! アメリカの作家スタインベックの小説を題材にして、「一つ」、「皆が一緒」という言葉で、この話題がしっかりと取り上げられていました。

メールでこのことを彼に話すと、「シンクロニシティ」ですねと言われました。

 

今回は、その記事をご紹介させていただきます。

 

参考記事(前回の寄稿):文芸作品を神秘学的に読み解く(6)『星の王子さま』

 

▽ ▽ ▽

文芸作品を神秘学的に読み解く(7)

『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)

ジョン・スタインベック著(John Ernst Steinbeck)

森和久のポートレート

森 和久

 

アメリカ人作家ジョン・スタインベックの1939年の作品です。舞台は1930年代のオクラホマ州。ここに住む貧しい農家ジョード家を中心とした物語です。

John Steinbeck 1962
ジョン・スタインベック ノーベル賞受賞(1962年)当時
By Nobel Foundation [Public domain], via Wikimedia Commons

 

大砂嵐が起こり大凶作になり、そして地主に地代を払えなくなり、一家は否応なく、果実がたわわに実るとされる「夢のカリフォルニア」へと旅立ちます。そしてやっとの思いでカリフォルニアに着くのですが…

 

殺人を犯して刑務所に入っていた長男のトム・ジョードが仮出所して実家に向かって旅しているところからこの物語は始まります。

このことからもわかるように主人公一家を始めそれを取り巻く人々も決して清廉な人たちばかりではなく、ときには粗雑さもさらけ出します。作者はそんな一家の生業(なりわい)をしっかりと描写していきます。

 

さて、神秘学的なポイントを3つ取り上げてみましょう。一つ目は『人に与える』ということについてです。特徴的な2つの場面を見てみましょう。

トムが刑務所から仮出所して帰ってみたら、我が家はなくなっており、食べるものもありません。途中で出会って道連れになった元説教師と二人で途方に暮れてしまいます。

そこへもう一人、男がやってきます。その男は家族がカリフォルニアへ向かった後も、一人残って蛙やネズミを喰って生き延びています。

彼はこの日たまたまウサギを罠で仕留めました。しかし彼は、やっと手にしたこの獲物を二人に分けてやります。

 

 

また、家を追い出され一時的に伯父の家に寄宿し、食べ物がなくなってきたジョード一家ですが、ある時、父親が母親に「見知らぬ二人連れが一口何か食べさせてほしいと言っている。どうしようか?」と訊くと、

母親は、気持ちのよい静かで落ち着いた声、親しげに高ぶることのない声で答えます、「入れてやんなさいよ。食べ物はたくさん作ったから」と。

自分も貧しいが、他の人が困っていたら助け合うのは当たり前のこと。この思想は全編を通して貫かれています。

 

二つ目は『正義』について。次の場面を見てみましょう。

見知らぬトラクターがやってきて、畑を耕し始めます。まだ立ち退かない農家がいれば早く立ち去れと冷たく言い放ちます。大規模農場を作るために地主が送り込んだのです。

トラクターを運転していたのは、やはり小作農だった近所の若者でした。その時のシーンを一部見てみましょう。

 

農民がトラクターの運転手に言います、「おい、おまえはデービスの息子じゃないか」

運転手は答えます、「そうだよ」

「それなのに何でこんな仕事をやっているんだ? この土地のものに対して」

「一日3ドルになるからさ。俺は妻も子どもも養わなくちゃならない」

「しかし、おまえが一日3ドル稼ぐために、15も20もの家族が路頭に迷うことになるんだ。それは良いことじゃないだろう」

 

「そんなことは考えてられないね。子どもを養わなくちゃならないからさ」

「そうしたら俺はライフルでもっておまえを追い払ってやるぜ」

「俺にはどうしようもないんだよ。俺を殺しても別の男がトラクターでやってきて、あんたの家をぶっ潰してしまうだろうよ」

 

「だったら俺は誰を相手にしたら良いんだ?」

「知らないね。相手なんていないんじゃないか。とにかく俺が受けた命令を教えただけだよ」

 

このトラクターの男の主張や行動は理にかなっているのでしょうか。彼の言っていることに正義はあるのでしょうか。

オクラホマ州の牧場(現在)

オクラホマ州の牧場(現在)

 

この2つのポイントが通奏低音のように流れながら物語は進んでいきます。

しかしジョード家の父親は、「このオクラホマの土地は、祖父がインディアンを追い出して自分のものにした。そして父親の俺が開墾したんだ。だからジョード家のものだ」と主張しています。

またカリフォルニアについては別の人がこう述べています。

「カリフォルニアは、元々はスペイン人が住んでいたんだ。後から来たアメリカ人がスペイン人を追い出して奪った土地なんだ。だから今の地主たちは、後からやってくるオクラホマ人たちに盗まれ乗っ取られると思っているんだよ。」

 

著者はアメリカ社会そして人類全体の潮流をも投影していると言えるでしょう。人間が陥ってしまう、もしくは元々内部に秘めているエゴをもさらけ出します。

そんな中、巨大な歴史のうねりの中でも決して揺るがない「人間性」への信頼が読み取れます。それすらなくなったら私たち人類は崩壊してしまうでしょう。

 

3つ目は『合一』ということについて。次の場面を見てみましょう。

 

皆に請われて、元説教師は、「説教師ではなくなったから説教はできない」と言いながら、オクラホマでの最後の食事の祈りを始めます。

いわば最後の晩餐です。実際彼はイエス・キリストを引き合いに出しています。その中で彼はこう言っています。

 

「~ある時私は疲れ果ててさまよい歩いていた。魂までがすっかり疲れ切っていた。そして、どうにもならないという気持ちで荒野へ出て行った。太陽が昇るのを見て、そして沈むのを見た。」

「時折お祈りもした。そこに丘があり、そこに私がいた。私と丘はもはや別々のものではなかった。一つになっていた。そしてその一つであることが神聖(holy)だった。」

 

「そして知った。私たちは一つになっている時、神聖なんだ。人類は一つのものになった時、神聖なんだということを。」

「自分勝手なことをやり出したら、それは神聖ではなくなる。でも皆が一緒というのではなく、いうなれば一人が大きな全体(何もかもthe whole shebang)に結びつくということ。これが正しいことで、神聖なんだ。」

 

重要な点は「皆が一緒になることではない」ということです。「大きな全体につながっていること」こそが神聖であると述べています。この部分は一種の悟りにも近い状態だったのではないでしょうか。

 

カリフォルニアには着いたけれども赤貧と失意のどん底に落ち込み、櫛の歯が欠けるように家族も減っていくジョード一家。

ついには住んでいた家も洪水に襲われ、娘の「シャロンのバラ」(Rose of Sharon)は子どもを死産してしまいます。

 

一家は洪水から命からがら逃げ出し、近くにあったみすぼらしい納屋にたどり着きます。そこには見知らぬ瀕死の男とその子どもがいました。

その男は何も口にすることができず、死の影が忍び寄っていました。そしてシャロンのバラはその男を抱き寄せ自分の乳房(ちぶさ)を含ませてあげます。

彼女の指が優しく彼の頭を撫でます。彼女は頭を上げ納屋を見回し、唇を閉じ神秘的な(mysteriously)笑みを浮かべます。

 

シャロンのバラのこの微笑みは、「生」への揺るぎない希望なのでしょう。

 

「シャロンのバラ」とはとても象徴的な名前です。キリスト教の聖書の中に出てくる言葉から名付けられたのでしょう。和名はムクゲです。

春一番に咲く花で、「神(創造主)と結ばれ死から命へと甦らしめたもの」を表します。つまり輪廻転生につながります。

また「シャロン」は元来、ヘブライ語で「森」を意味する言葉ということで、キリスト教世界では肥沃な桃源郷を表すようです。まさにこの物語の象徴なのです。

ムクゲの花

ムクゲの花

 

△ △ △

 

ふたたび本庄です。お楽しみいただけたでしょうか。

 

上の文章の最後がキリスト教の話題で終わっていましたので、念のため付け加えておきますが、バラ十字会は神秘学(神秘哲学:mysticism)の教育団体であり、あらゆる宗教から独立した立場を保っています。

 

私は『怒りの葡萄』をまだ読んだことがありません。とても興味を引かれました。あなたはいかがでしたでしょうか。

では、今日はこの辺で。

 

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体のどこに心があるのか

2017年10月12日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

先週はカナダのモントリオールに出張していました。会議の合間に散歩することができたサトウカエデの森は、少し焦げたような、独特の良い香りがしました。

日に日に寒さが増し、紅葉が進んでいる真っ最中でした。

森がすっかり色づきました。

あなたの人生を変える方法 – 人生の意味を見出す5つの鍵 –さんの投稿 2017年10月6日(金)

 

そちらはいかがでしょうか。お変わりはありませんでしょうか

 

先日、NHKのテレビ番組「人体」を見ました。

私はNHKの関係者ではありませんが、このシリーズを30年ほど前に最初に見たときも、そして今回も、釘付けになるほど面白い番組でした。

初回は「神秘の巨大ネットワーク」という題でした。

 

ノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥さんがこう話していました。

彼が学校で医学を学んだ頃は、人の体の生理的な働きは、全体としては脳が中心になってコントロールされていて、他の臓器は脳の命令に従っているという考えが主流だったのだそうです。

 

ところが、最新の研究によれば、脳、心臓、腎臓、肝臓、血管などは、すべてが、まるで感情と意志を持っているかのようにメッセージを発信しています。

そして、全体として情報のネットワークが作り上げられていて、臓器間の相互作用によって、その働きが保たれているということでした。

 

番組の最後のほうで、石原さとみさんが話していたのですが、最近、友人と話をしていて、体のどこに心があるのだろうかということが話題になったのだそうです。

彼女の友達が心臓とか脳とかいったのに対して、彼女は漠然と細胞ではと思い、そう言ったのだそうです。

そして、この番組から、私の考えは間違っていなかったかもと感じたと言っていました。

 

皆さんは、魂というものが存在すると考えるでしょうか。存在しないと考えるでしょうか。

「人の心はどこにあるか」という問いは、「人に魂は存在するか」、「人の魂はどこにあるか」という問いに関わっていて、神秘学でも重要な話題のひとつです。

当会のフランス本部代表のセルジュ・ツーサンが、自身のブログに、このことについての記事を書いていますので、今回はその翻訳をご紹介させていただきます。

 

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バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

記事「魂(ソウル)について」

 

魂(soul)と呼ばれるものが存在すると考える人と、そうでない人がいます。

何らかの宗教を信奉している人や、神秘学の探究を行っている人の大部分は、魂が存在すると考えていることでしょう。

 

人は物質の体だけから構成されているのではなく、魂を所有し、そのおかげで心という働きが生じているとバラ十字会員の多くが考えています。

バラ十字という古くからある象徴は、キリスト教の十字とは異なり宗教的な意味合いを含んでいないのですが、まさにこの哲学的な立場を表わしています。

つまり、すべての人は肉体(十字)と魂(バラ)であるということ、別の言い方をすれば、人間は、性質の異なる2つの要素からなるということを象徴しています。

人体

 

魂が存在すると考えることと、それがどのようなものであるかを知るのは別のことです。

バラ十字会の存在論(ontology)によれば、それは非物質的なエネルギーのようなものであり、体のすべての細胞を満たしています。

それはちょうど、家の部屋のあらゆる場所を空気が満たしているのと同じことです。

 

ちなみにバラ十字会の哲学では、魂こそが生気の源である、つまり、私たち生物に命を与えているのは魂であると考えています。

もちろん、人体が生理的な活動によって保たれていること、つまり、呼吸する空気と、取り入れる飲食物などによって保たれているということは確かです。

しかし、魂そのものから生じる非物質的なエネルギーが、生理活動のもっとも根本的な部分を支えていると考えています。

 

魂は、私たちの体に命を与えるだけでなく、私たちに意識も与えてくれています。

意識は魂が持つ性質であり、脳だけによって作り出されているのではありません。

 

脳は、外界の知覚、随意活動のコントロール、精神作用全般に基本的な役割を果たしていますので、その重要性を過小評価することはできません。

しかし、私たちの心の奥には深層(潜在)意識があり、この意識は単なる脳の活動を超越しています。

このことから、昏睡状態もしくは植物状態にあった人が、何かを聞いていたり、時には見たり考えたりしていたということが説明されます。

 

魂の源は、いったい何なのだろうかという疑問が生じるかもしれません。

バラ十字会の哲学では、個々の魂が〈宇宙の魂〉(Universal Soul)から発していると考えています。

宇宙の魂は性質として完全であり、その名が示している通り、宇宙のすべての場所に行き渡っていて、宇宙に住むあらゆる存在に生気を与えています。

宇宙意識(イメージ)

 

地球上では、宇宙の魂が自然界のすべての種類の生物に命を与えています。

生物が進化すればするほど、宇宙の魂はその生物を通して、それ自体の機能、能力、性質をより良く表わすことができるようになります。

 

ですから、たとえばミミズよりもチンパンジーの方が、はるかに鋭い知性や繊細な感覚を持っています。

地球上の進化という一連の過程において、チンパンジーの方がミミズより進んでいるからです。

 

宇宙の魂は性質として完全なので、そこから発している全ての人の魂も完全です。

では、なぜ人間の行ないは、時としてあまりにも愚かなのかと、いぶかしく思われる方がいらっしゃるかもしれません。

このことには、2つの理由があります。

第1の理由は、人間が自身に秘められている完全さに気づいていないからです。

第2の理由は、人間には自由意志があるので、自身の完璧な性質に背いて有害な行ないや悪事をなすことができるからです。

 

ではなぜ、人間には自由意志があるのでしょう。

それは、私たちが自身の内部にある完全さに、よりはっきりと気づき、それを、自分の思考、発言、行動を通して表わすことができるように練習をすることが、私たちが地上に生きている目的であるからだと考えることができます。

別の言い方をすれば、人生の目的は、宇宙の魂から受け取る促しのもとに、内面を進歩させることだと考えることができます。

 

そして、私たち一人一人の魂は、この内面の進歩の結果として、いわゆる「英知」(Wisdom)の状態に達します。

人はこの状態に達すると、もはやそれ以上は生まれ変わりを繰り返すことが必要ではなくなるとされています。

 

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

本稿はそのブログからの一記事。

 

△ △ △

 

次の記事では、「宇宙の魂」という考え方を、クリスマス・ツリーを飾る電球にたとえて説明しています。

ご興味があれば、こちらもどうぞ。

 

参考記事:『宇宙の魂について』(その1)

 

では、今日はこの辺で。

また、お付き合いください。

 

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なまはげとクケリについて

2017年9月29日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

東京板橋では、昨日まで秋雨が続いていました。今日は久々の晴れ間です。

いかがお過ごしでしょうか。

 

先日、事務所のすぐそばの、旧中山道にある仲宿の商店街で、手ごろな値段のワインはないかと探していました。すると、楽しげな鬼の絵が描かれたラベルの付いた、クケリという名のワインを見つけました。

クケリというワインのラベル

 

説明書きを読むと、このワインの産地のブルガリアでは、冬に村の男性たちがクケリと呼ばれる鬼の姿をして、村を練り歩くのだそうです。

その鬼の姿は、東北の「なまはげ」の姿にそっくりで、びっくりしました。

 

クケリは、顔に仮面をつけたり墨を塗ったりします。体には、羊・ヤギ・シカの皮から作った、もこもこと毛が垂れ下がった衣装を着けます。

そして、腰のベルトには大きな音が出るベルを取り付けます。クケリは、このベルの音や大声によって、家と村から邪気や病気を追い払います。

ブルガリアの奇祭クケリ

ブルガリアの奇祭クケリ

 

昔はブルガリア全土で見られた風習だそうです。ブルガリアには、古代にはトラキアという国がありましたが、この祭りは、古代トラキアから伝えられた由緒ある行事で、ディオニュソス神を祭っているのだそうです。

そして、ディオニュソス神のお祭りは、ブルガリアだけでなく、ルーマニアやセルビア、マケドニア、ギリシャ、イタリア、ポーランドでも行われています。

 

一方で、なまはげは、秋田県男鹿市に伝わる伝統行事です。今では大晦日に行われていますが、江戸時代には1月14日か15日に行われていたそうです。

なまはげに似た行事が日本中にあることが民俗学者の調査で知られていて、「小正月(こしょうがつ)の訪問者」と呼ばれています。小正月とは1月15日のことで、旧暦では満月にあたります。

こうした行事では、蓑笠(みのがさ)を着て鬼の面をつけたり、女装をした若者が、夜に村の家々を回って、大声を出し、酒と食べ物をごちそうになったり、餅や菓子をもらったりします。

これらの行事はすべて、無病息災を願い、邪気を追い払おうとする行事です。広い意味では、節分という行事にも同じ性質があります。

男鹿のなまはげ

男鹿のなまはげ

 

ブルガリアのクケリと日本のなまはげには、このようにさまざまな共通点が見られますが、その背後には、古代人のどのような思いがあったのでしょうか。

レヴィ・ストロースというフランスの人類学者が書いた文章が、このことを考える上で良いヒントになります。それは、クリスマスの起源についての考察です。

 

一般にクリスマスといえば、イエス・キリストの誕生日を祝うお祭りだと思われていますが、専門家の研究によれば、12月24日の深夜から25日の早朝がイエス・キリストの誕生日だと“定められた”のは西暦4世紀のことです。

キリストは4月19日の夕方に生まれたと書かれている聖書外典があります。

実は、クリスマス祭の元になったのは、古代ローマやケルトの異教の祭りだということが、多くの人類学者に知られています。

 

自然界が、陰と陽という2つのエネルギーのバランスによって成り立っているという考え方は、古代中国だけではなく古代ヨーロッパにもありました。

そして、陽のエネルギーの源は太陽であり、陰のエネルギーの源は、月(太陰)と大地であると考えられていました。

古代人の考えでは、冬という季節、特に冬至には、太陽の力が一年のうちで最も弱くなります。そのため「この世」と「あの世」の力関係のバランスが崩れて、死者の霊がこの世に侵入してくるのだとされていました。

 

そこで、仮面をつけて死者の霊を装った異様な姿をした人たちに、贈り物を与えてご機嫌をとり、あの世に戻ってもらうことによって、世界のバランスを取り戻し、村の人を病気から守り、四季の循環を確実にしようとしたのです。

古代のこの習慣を、後にキリスト教は巧妙に取り込み、イエスが誕生して光がこの世にもたらされるということと、太陽のエネルギーが回復して春がもたらさせることを意味的に重ね合わせ、クリスマスという行事ができあがりました。

 

クリスマスの起源となった古代ローマやケルトの冬至の祭りについてのこの説明が、冬のブルガリアのディオニュソスの祭りにも、そっくりそのまま当てはまります。

 

ディオニュソスとは、神話によれば、都市国家テーバイの王女セメレとゼウスの間に生まれた神(半神半人)で、ワインの製法と祭りを発明した神だとされています。

 

ギリシャでは、紀元前8世紀頃までに、ゼウスを中心とする、世界の秩序正しさを説明する、いわばエリート向けの神々が勢揃いし、国家宗教が完成していました。

しかし、あまりにも整い過ぎたものは、どこかよそよそしく信じる気になれず、パワーももの足りないと、多くの人たちが感じていたようなのです。

 

そして、紀元前7世紀から6世紀頃に、ディオニュソス神への信仰が流行します。この信仰のベースにあったのは、古代の狂乱のエネルギーだったようです。

女性の信者は狂気に陥り、山野で乱舞し法悦を体験したと、古代ギリシャの詩人エウリピデスは書いています。

 

どうやら、かなりお行儀の悪い宗教だったようですが、この宗教は後の時代に大きな影響を及ぼします。この宗教から、ギリシャ悲劇とオルフェウス神秘学派が誕生したのです。

参考記事:『オルフェウスについて

 

アメリカのアリゾナ州北部に住む先住民のホピ族も、伝統に従って、ソーヤルと呼ばれる冬至の祭りを行います。

冬から春という季節の変わり目に、村を浄化し、自然界に命が戻ってくることを祝う再生の式典です。この祭りにも、全身黒づくめで黒い兜をかぶった、「マストップ・カチーナ」と呼ばれる異形の存在が登場します。

参考記事:『ソーヤル -ホピ族の冬至祭

 

さて、先ほどの日本のなまはげも、冬の満月の夜という陰のエネルギーがもっとも強くなる時期に、もともとは行われていました。ヨーロッパ古代の冬のお祭りと、異形の存在、仮面、贈り物、大声、無病息災の祈りという多くの要素が共通しています。

木の包丁を振りかざすなまはげは、子供たちが引きつけを起こすのではないかと心配になるほど恐ろしく感じますが、この恐ろしさは、私たちがなまはげに、古代のエネルギーをそこはかとなく感じるからなのかもしれません。

 

以上のように、世界中に存在する冬のお祭りには、これでもかというほどの共通点がみられます。

古代人は、陰と陽というエネルギーを、あたりまえのように肌で感じ取っていたのでしょうか。どの祭りでも、毒を毒で制するかのごとく、異形の存在によって邪気を払おうとし、自然の再生と循環を促そうとしています。

不思議なことですね。

 

まだまだ、このあたりには興味深い話が山ほどあるのですが、長くなりましたので、今日は、この辺りにしておきます。

 

来週は、このブログはお休みします。

また再来週、お付き合いください。

 

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