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『ローズ』という歌

2018年1月12日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

朝のニュースで見ましたが、日本海側で、大雪のためにさまざまな事故が起こっているようです。

 

そちらは、お変わりはありませんでしょうか。

 

 

さて、世界中で、ほぼ共通して、ハートのマークが愛を表していることを、あなたは不思議に思ったことがありませんでしょうか。

 

両手の指でハートの形を作った写真をSNSに投稿している方をときおり見かけますが、誰もがすぐに愛を意味していることがわかります。

 

なぜ、ほとんど例外なく、心臓の記号が愛を象徴しているのでしょうか。

 

バラ十字会のある学習課程で取り上げられていることなのですが、心臓は、実際に愛を受け取ったり放出したりする役割を果たしているという説があります。

 

もうひとつ、世界中で共通して愛の象徴として使われているものにバラがあります。

たとえばギリシャ神話では、バラは愛の女神アフロディーテ(ビーナス)の花だとされていました。

 

参考記事:『花という象徴

 

当会を表している「バラ十字」という象徴では、金色の十字の中央に、赤い開きかけのバラが配置されています。

この場合、バラが開いていくことは、人生経験を積むことで人が内面的に成長していくことを表しています。

 

もう、2週間近く前のことになりましたが、大みそかの紅白歌合戦で、島津亜矢さんが『ローズ』を歌っていました。

全曲ではなく抜粋だったことは残念でしたが、圧倒的な歌声と美しい歌詞に聴き惚れました。

この曲は、1979年にアメリカで公開された映画『ローズ』の主題歌で、多くの人がカバーするスタンダードになっています。

 

このブログで、新年に愛を話題として取り上げたこともありますので、今回は、この歌と映画を話題にさせていただきたいと思います。

参考記事:『愛について

 

監督のマーク・ライデル自身が語っているのですが、この映画は最初の企画段階では、ロック歌手のジャニス・ジョプリンの伝記として製作される予定だったそうです。

映画会社から話がもちかけられたとき、彼は、ホノルル出身の売り出し中の歌手で女優のベット・ミドラーが、ジャニス・ジョプリンと同じ雰囲気を持っているので、主役にうってつけだと考えます。

しかし映画会社は、当時まだそれほど人気がなかった彼女を使うことに難色を示し、この企画はそれから10年以上宙に浮いたままになります。

一方で、ベット・ミドラーはニューヨークで活躍して徐々に人気を高め、ブロードウェイの舞台にも立つようになります。

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ベット・ミドラー photo by Alan Light [CC BY 2.0 (http://creativecommons.org/licenses/by/2.0)], via Wikimedia Commons

 

このような事情で、先ほどの企画が復活することになります。ライデル監督は伝記映画という制約を嫌い、ジャニス・ジョプリンの逸話を部分的には取り入れるけれども、架空のロック歌手ローズの物語として製作することで話がまとまります。

 

まだ、見たことのない方もいらっしゃると思いますので、あらすじを詳しくお話しすることはしませんが、ベトナム反戦とヒッピー文化、ドラッグに社会が揺れていた1960年代のアメリカを舞台に、ロック歌手のローズの人生が描かれます。

ローズは、旅回りの生活とステージに立つプレッシャーに疲れ、アルコール中毒に苦しみ、恋に傷つき、徐々に追い詰められていきます。

 

このように書くと、ロック歌手によくある逸話のようで、何となくステレオタイプに感じられてしまうかもしれません。

しかし、この映画の主人公と他の登場人物たちは、優れた脚本によって過去の背景と性格の細部が、余すところなく巧みに設定されていて、それが、一流の俳優陣の演技によって的確に表現されています。

 

主役を演じているベット・ミドラーの、映画の中のコンサート・シーンは、力に満ちあふれていて圧巻です。

そして、ストーリー自体は人間の愚かさ、悲しさ、愛おしさに彩られていて、特に映画のクライマックス・シーンでは、人を許すことの難しさ、崇高さが輝きを放ちます。

 

ベット・ミドラーは、映画への出演は初めてだったのですが、この映画がきっかけとなり、その後は歌手としても女優としても、長年大活躍を続けることになります。

 

主題歌のローズに話を戻します。応募作品がテープでライデル監督に100曲以上届けられていたのだそうですが、カリフォルニア出身の作詞・作曲家のアマンダ・マクブルームのこの作品を聴いたときに、彼はこの映画の本質が浮き彫りにされていることに衝撃を受けたそうです。

ハードロックを扱う映画の主題歌としてはおとなしすぎるという一部スタッフの反対があったものの、曲を気に入ったベット・ミドラーと監督が押し切って、この曲が主題歌に採用されることになります。

 

詩のように韻を踏んだ、この美しい英語の歌詞は、さまざまな人によって日本語訳されています。

しかし、映画やテレビや、歌うことを前提とした翻訳とは異なり、ブログでは、文字数に制約されることなく訳を作ることができます。

拙訳ですが以下にご紹介させていただきます。

 

▽ ▽ ▽

バラの花

 

The Rose

バラの花

 

Some say love it is a river

愛は川だと言う人がいる

That drowns the tender reed

優しい心をした葦(アシ)を溺れさせる川だと

Some say love it is a razor

愛はナイフだと言う人がいる

That leaves your soul to bleed

魂を傷つけ血を流すナイフだと

Some say love it is a hunger

愛は飢えだと、そして

And endless aching need

満たされることのない渇きだと言う人もいる

 

I say love it is a flower

私は言う、愛は花だと

And you its only seed

そしてあなたは、その種にしか過ぎない

 

It’s the heart, afraid of breaking

心が傷つくことを恐れていては

That never learns to dance

踊れるようにはなれない

It’s the dream, afraid of waking

夢から覚めることを恐れていては

That never takes the chance

チャンスをつかめない

It’s the one who won’t be taken

奪われたくないと思う人は

Who cannot seem to give

与えることができそうにない

And the soul, afraid of dying

そして、魂が死ぬことを恐れていては

That never learns to live

生きることを学べない

 

When the night has been too lonely

夜が孤独すぎると感じ

And the road has been too long

道があまりにも長すぎると感じ

And you think that love is only

そして、愛は、幸運で強い人にしか

For the lucky and the strong

訪れないと思ったときには

 

Just remember in the winter

ひとつだけ、思い出してほしい

Far beneath the bitter snows

凍えるような冬の、深い雪の下には

Lies the seed that with the sun’s love

太陽の愛とともに、種が埋もれていて

In the spring becomes the rose

春になれば、バラの花を咲かせるということを

△ △ △

 

では、今日はこのあたりで。

また、おつきあいください。

 

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愛について

2018年1月5日

 

あけましておめでとうございます。バラ十字会の本庄です。今年もよろしくお付き合いください。

東京板橋は、寒空の晴天が続いています。道端に見事なロウバイが咲いていました。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、壮大な話題ですので、理解するのがやや難しい事柄なのですが、バラ十字会では、「愛」のことを“宇宙”(Cosmos)の法則のひとつだと考えています。

そして「愛とは何か」ということは、バラ十字会の哲学を理解する上で鍵になる事柄です。

ですから、このブログで、いつか愛について書こうと思っていたのです。しかし、あまりにも大きなテーマですので、ずっと躊躇していたのです。

 

すると年末に、当会のフランス代表が、ブログにこのことを書いているのを知りました。今回は、その記事をご紹介させていただきたいと思います。

▽ ▽ ▽

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

記事「愛について」

 

世界中の多くの言語で、「愛」は口にされることや書かれることが最も多い言葉のひとつです。

この語にはさまざまな意味が含まれていて、さまざまな感情を表すのに用いられています。

私たちは、配偶者、子供、他の近しい人への愛について語るだけでなく、動物や自然、国家、音楽、文学、スポーツに対する愛を語ります。

 

「愛する」という動詞は意味的に広い範囲をカバーしており、文脈によって、人間や他の生きもの、物体、他の興味の対象についての、さまざまな程度のさまざまな感情を表しています。

 

多くの人が、周囲に暮らしている他の人たちを愛していますし、また、自然保護運動に直接関わっていないとしても、大部分の人が自然を愛しています。

ある芸術家や俳優、政治家、スポーツ選手を愛している多くの人がいる一方、それに比べればそれほど多くはありませんが、文学や芸術や神秘哲学を愛している人もいます。

 

このように愛には、「一般的な愛」と「特別な愛」があるように思われます。

一般的な愛が特別な愛の妨げになることはありませんし、特別な愛が一般的な愛の妨げになることもありません。

たとえば、自然を愛することは文学を愛することの妨げにはなりません。

どのような場合でも、ある愛が別の愛の妨げになることはないように私には思われます。

 

人が何かを愛する場合に、その対象によって、序列のようなものがあるでしょうか。

おそらくあるのではと私は思います。

 

たとえば、隣人を愛することとスポーツを愛することには違いがあるのではないでしょうか。

隣人を愛することには、生きる喜びを分かち合いたいという心の奥底にある理想が関係しています。

一方でスポーツを愛することは、何らかの満足を得たいという、個人としての情熱のようなものあたります。

 

こう考えると、対象が限定されず時を超える性質が愛にあれば、それだけその愛は尊く高尚で建設的なものだと私には感じられます。

人類への愛、自然界への愛、〈絶対なるもの〉への愛には、このような性質があります。(ちなみにこの場合、〈絶対なるもの〉とは、あらゆるものが存在するために必要とされる〈意識を持つエネルギー〉のことを指しています)。

ちなみにこの3つの愛は、バラ十字会で〈普遍的な愛〉(Universal Love:宇宙の愛)と呼ばれているものの、3つの異なるレベルの表れにあたります。

 

ご存知の通り、キリスト教の創始者イエスだけでなく、過去のあらゆる賢者たちが、互いに他の人を愛しなさいと教えてきました。

なぜなのでしょうか。このような教えは、何らかの思想を主張したものではなく、感情から発せられた主張にもあたりません。

 

これらの賢者たちは、愛することが人間の存在理由であり、さらに、幸せを実現し実感することを望むならば、誰もが必ず従わなければならない手段であるということを承知していました。

 

誰もが、愛し愛されることを必要としています。

愛し愛されることが望ましいどころか必要だということは、人間の魂の根本的な性質です。

 

そうは言っても、私たち個人は不完全な人間であり他の人もまたそうなので、通常の人にとって、すべての人を愛することは、ほぼ不可能です。

ですから、この理想に近づこうと努力する一方で、私たちがなすべきことは、少なくとも誰も憎まず誰も傷つけないということではないでしょうか。

想像してみていただきたいのです。誰もが互いに愛し合っているのではないとしても、憎しみや恨みに身を任せる人が一人もいなければ、世界はどれほど素晴らしい場所であることでしょう。

 

愛についてのこのささやかな考察の締めくくりに指摘しておきたい、私が悲しく思っている事柄があります。

それは、現代社会ではあらゆる場所に性的なことがらがはびこっている一方で、愛が肩身の狭い思いをしているということです。

お堅いうえに上品ぶっていると思われてしまうかもしれませんが、テレビ番組や雑誌やインターネットで性的なことがらが節度なく取り上げられていることによって、愛が極めて低次元のレベルにおとしめられて、見世物になったり、欲望や動物的本能をあおるだけの道具になったりしてしまっていると私は思います。

 

究極の意味でいえば、イスラムの神秘家イブン・アラビーが述べているように、「2人の人間の結びつきによって、2つの魂の間に絆を築く。それが愛ということ」だと考えるべきではないでしょうか。

 

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

本稿はそのブログからの一記事。

 

△ △ △

 

ふたたび、本庄です。この記事にはイスラムの神秘家イブン・アラビーの言葉が出てきましたが、レバノンの詩人カリール・ジブランの書いた本『預言者』にも、愛についての素晴らしい言葉がたくさん出てきます。

ほんの一部ですが、ご紹介します。

「愛は愛自体のほかは何も与えることなく、愛自体しか受けることがない。愛は所有せず、また所有させない。愛は愛だけで満ち足りているのだから」。

 

まだお読みになっていなければ、素晴らしい本ですのでお勧めします。

今日はこの辺で。

また、お付き合いください。

 

参考記事(前回のセルジュ・ツーサンの文章):『親切について

 

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冬至と古代文化

2017年12月15日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

寒いですね。とうとう今日から、首にマフラーを巻き始めました。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、ちょうど一週間後、来週の金曜日は冬至の日にあたります。

ご存じのことと思いますが、冬至とは、一年のうちで昼の長さが一番短い日です。古代から、太陽の力(陽気、陽のエネルギー)が最も弱くなる日だと考えられてきました。

日本では、ゆず湯に入ったり、カボチャや、小豆の入った冬至粥(とうじがゆ)を食べる風習があります。

ゆず湯

 

一方、先日ニュースで報じられていたのですが、今年の世相を表す漢字として「北」が選ばれたそうです。

その理由は、九州北部豪雨や、北朝鮮問題という暗いできごとだけでなく、競走馬キタサンブラックの活躍や、北海道日本ハムファイターズがたびたび話題になったことや、葛飾北斎展覧会の盛況だそうです。

 

この2つ、「冬至」と「北」には、古代中国で深い関連があると考えられていました。冬至の日には太陽が、空で最も北寄りのコースをたどるのですが、それだけではありません。

 

古代中国には陰陽思想という考え方がありました。

この思想では、宇宙の根源のことを、混沌もしくは太極と呼びます。太極からは、まず陰と陽という2つのエネルギー(二元)が生じます。そして、陰と陽から四象(太陽、小陰、小陽、太陰)が生じ、八卦が生じます。これは、自然現象を説明する古代哲学の理論ですが、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉があるように、占いにも用いられます。

陰陽思想では、陰と陽という2つのエネルギーがさまざまに組み合わされることによって、この世にあるすべてのものが存在しているとされます。

 

一方で古代中国では当時から、暦に十二支が用いられていました。年賀状の準備のために最近チェックされた方も多いと思いますが、今年は酉(とり)年で、来年は戌(いぬ)年というように、十二支は12年のサイクルを表すのに用いられています。

また十二支は、一日の時刻を表すためにも、方角を表すためにも用いられていました。

日本でもごく最近まで使われていたので、怪談の冒頭のお決まりの文句、「草木も眠る丑三つ時」とか、風水で鬼門とされる丑寅(北東)の方角のことをご存じの方も多いと思います。

 

中国の当時の天文学者は、宇宙の根源である太極を象徴する星が北極星だと考えていました。そう考えられていたのは、中国だけでありません。他の多くの古代文化で、北極星が宇宙の中心だとされ崇拝されています。

天空の他のすべての星がその周りを回るのですから、当然のことでしょうか。

 

皆さんもご存じの通り、十二支は子(ねずみ)から始まります。そして、十二支が陰陽思想と結びつくと、「子」は始まりにあたることから、陰と陽の始まり、つまり太極を象徴するようになります。

そして、「太極」と「北の方角」と「子」が同一視され、北は神聖な方角とみなされるようになります。中国の皇帝や古代日本の天皇が天子と呼ばれ、都の北にある建物に住んでいたのはそのためです。

 

古代中国では、月の満ち欠けを元にした暦が使われていました。新月から次の新月までの29日または30日が一ヵ月になります。しかし、一年の基準となる最初の月がいつかを定めなければなりません。冬至は、太陽が力を取り戻し始める日だと考えられたため、一年のスタートの基準にされました。

そして、冬至の日が存在する月が子(ね)月と呼ばれました。その次の月が丑(うし)月、そのまた次が寅(とら)月となります。

 

「一陽来復」という言葉は、悪いことばかりだった状況がようやく変化して、良いことが起こり始めたときという意味で使われますが、元々は冬至を意味していました。

しかし、一年のこの時点では陽のエネルギーはまだまだ弱く、陰のエネルギーに打ち勝つことができません。陽が陰に打ち勝って春をもたらすことができるのは、3ヵ月目の寅月からだと、古代中国の人は考えました。そこで後の時代に、寅月が新春の始まり、つまり旧暦の一月(正月)とされるようになります。

ちなみに、それから6ヵ月が経つと、陰が陽に打ち勝って秋がもたらされるとされます。エネルギーのこの入れ替わりの際には、この世とあの世が最も近くなるとされています。旧暦の7月にあたり、お盆の起源になっています。

 

ここで、古代の人たちの生活を想像して、その悩みは何であったかを思い浮かべてみていただきたいのです。

農業がまだ盛んでなかった時代、人々は、狩猟や採集や漁労によって食物を得ていました。

きっとこの時代の人にとって最も恐怖だったのは、獲物がいなかったり、きのこや木の実が採れなかったりして、飢えることだったのではないでしょうか。

 

農業が行われるようになった後も、一般の人たちの暮らしは、それほど余裕のあるものにはならなかったと言われています。

ですから、冷害などの天候不順によって収穫が減り、食料が不足することが、何よりも避けたい事柄だったことでしょう。また、多くの人々が集まって暮らしていたので、伝染病も極めて恐ろしい出来事だったに違いありません。

 

古代中国の人々は、季節が滞りなく循環し、次の年が豊作であるように、また自分たちが健康でいられるように、太陽の再生(生まれ変わり)がスタートする冬至の月(子月)、後の時代の旧暦11月に祭りを行うことが必要だと考えました。

そして、神々に獲物や収穫への感謝をささげ、陽のエネルギーが再生し、病気の原因とされた邪気を追い払ってくれるように祈願しました。

 

民俗学者の吉野裕子さんによれば、この風習が日本に伝わり、新嘗(にいなめ)祭になります。新嘗祭では、天皇が新米を神にささげ、翌年の豊作を祈願します。国民の祝日の勤労感謝の日の起源はこの新嘗祭です。

ですから、勤労感謝の日は現在は11月23日ですが、その起源は古代中国で冬至に行われていた祭りだったことになります。

 

調べていて、びっくりしたのですが、世界中の古代文化で、冬至は、同じような意味に捉えられています。

言い伝えによれば、古代エジプトの天空と太陽の神ホルス、ペルシャの神ミトラ、フェニキアの神アドニス、ギリシャの神ディオニュソスはいずれも、冬至の日の前後に生まれたとされています。

つまり、冬至という時期は、太陽と同等の存在とされた神が生まれ変わり、ふたたび力を得る時期だとされたわけです。

そして、これらの神々のための祝祭が、現在の暦の12月21日~28日にあたる日に行われていました。

 

以前にもご紹介させていただいたことがありますが、ブルガリアでは今でも冬に、クケリという奇祭が行われています。

この祭りでは男性が、顔に仮面をつけたり墨を塗ったりして、体には羊・ヤギ・シカの皮から作った毛が垂れ下がった衣装を着け、腰にぶら下げたベルを鳴らしたり、奇声を発しながら、村を練り歩きます。

この祭りは、ぶどう酒の神ディオニソスに収穫を感謝し、家と村から邪気を追い払う祭りです。

参考記事:『なまはげとクケリについて

 

クリスマスは一般には、イエス・キリストの誕生日を祝うお祭りだと思われていますが、この日がキリストの誕生日だとされたのは、専門家の研究によれば西暦4世紀のことだそうです。古代ローマやケルトの冬至の祭りをローマ教会が取り入れ、クリスマス祭が成立したということが、多くの人類学者に知られています。

 

アメリカのアリゾナ州北部に住む先住民のホピ族は、ソーヤルと呼ばれる冬至の祭りを昔から行っています。カチーナと呼ばれる鬼のようなものに、ホピ族の人たちは仮装します。村を浄化し、自然界に命が戻ってくることを祝う再生の式典です。

カチーナ人形

カチーナ人形

参考記事:『ソーヤル』(バラ十字会日本本部AMORC資料室)

 

以上のように、世界中で冬至は同じような意味にとらえられて、同じような意図の祭りが行われています。

ほんとうに不思議なことです。

ちなみにバラ十字会では、古代ヨーロッパの神秘学派の伝統にならって、冬至の日に世界中で「光の祭典」(Festival of Light)を行っています。この「光」とは、人間の心の深奥に存在する、インスピレーションと良心と啓示の源を意味します。

 

古代の人々は誰もが、私たち現代人には理解できなくなってしまった何か重要な事実を、肌で感じるように把握していたのではないかと私は想像しています。

それが何なのかは、まだ良く分かりません。新たなことが分かったら、またご紹介させていただこうと思います。

何か情報をお持ちでしたら、ぜひ教えてください。

 

では、今日はこのあたりで。

 

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青い鳥-文芸作品を神秘学的に読み解く8

2017年12月8日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

寒くなりましたね。朝、自転車のハンドルを握る手が、かじかみます。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

早いもので、クリスマスまであと2週間ほどです。

 

札幌で当会の公認インストラクターをされている、私の友人から、この時期にふさわしい文章をお寄せいただいたので、ご紹介させていただきます。

 

▽ ▽ ▽

 

文芸作品を神秘学的に読み解く(8)

『青い鳥』(L’Oiseau bleu)

モーリス・メーテルリンク

 

森和久のポートレート

森 和久

 

「幸せ」と言えば「青い鳥」が引き合いに出されるように世界的に有名な戯曲作品です。「幸せの象徴である青い鳥を探しに行きますが、実は自分の部屋に元々あったんだ」というたとえとして語られたりします。

 

では、物語の内容を見てみましょう。主人公は貧しいきこりを父に持つ子どもたちで、兄のチルチル(Tyltyl)と妹のミチル(Mytyl)です。

クリスマスの夜(※1)に突然部屋にやってきた仙女(魔法使い)ベリリュネに「青い鳥を探している」と言われます。娘のために必要だと言うのです。チルチルの飼っている鳥を見て「全然青くないからこの鳥ではだめ」と仙女に言われ、彼女の頼みで二人は、幸せを求める娘のために青い鳥を探しに行くことになります。

 

その時にダイヤモンドの付いた緑の帽子をもらいます。これを使うと普段は見えなかったものが見えるようになるというものです。たとえばパンの魂、ワインの魂、砂糖の魂…すべての魂が見えるようになります。さらにダイヤモンドを回すと過去にも未来にも行けます。

こうしてチルチルとミチルは、光、犬、猫、火、水、パン、ミルク、砂糖を連れて旅に出ます。ただし、お供をするものは皆、旅が終わったら死んでしまいます。

 

Maurice Maeterlinck 2

モーリス・メーテルリンク (See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons)

 

一行が訪れるのは、次の7つの世界です。『思い出の国』、『夜の宮殿』と『森』、『幸せの宮殿』、『墓地』と『未来の王国』、そして7番目に『チルチルとミチルの元の部屋』。出かけてから戻ってくるまで丸1年かかりました。

でも、元の部屋は出かけた時よりもずっと新鮮で幸せそうに見えるのでした。いくつかの世界では青い鳥を見つけられたのですが、色が変わったり、死んでしまったり、逃げられたりしてしまいます。しかし、チルチルとミチルはしっかりと知恵と知識を身につけていました。そして、すべてものが大切で愛おしいものに感じられるようになりました。

 

翌朝(現実世界では一夜の出来事なのです)、仙女ベリリュネに似た隣のベルランゴおばさんがやってきます。そして「病気の娘がチルチルの飼っている鳥をどうしても欲しがっているの」と語ります。

チルチルは自分の鳥が以前に比べて、ちょっと青く変わっているのに気づきます。旅の途中で見た真っ青な鳥ほどではないのですが、確かに青い鳥になっています。チルチルは躊躇なく、その鳥を隣のおばさんに渡します。

その日しばらくして、隣のベルランゴおばさんと、その娘である可愛い女の子が、青い鳥を抱いてやってきます。娘はすっかり元気になっていました。この娘は、チルチルが一緒に旅をした「光」にそっくりです。

 

鳥の頭をなでながらチルチルは言います「このくらい青ければ良いかな?」

娘は答えます「十分よ。嬉しいわ」

チルチル「僕はもっと青いのを見たんだ、でも真っ青なのは掴まえられなかったんだ」

娘「大丈夫よ。この鳥はとても綺麗だわ」

 

そして、チルチルが餌の与え方を教えてあげようとした時、娘は本能的に渡すまいとしてしまい、二人がためらっている隙に青い鳥は飛び去ってしまいます。

娘が悲嘆に泣き崩れると、チルチルは言葉をかけます、「大丈夫だよ、泣かないで。僕がまた掴まえてあげるよ」と。

そして観客に向かって語りかけます、「どなたかあの鳥を見つけたら僕たちに返してください。今後僕らが幸せになるためには、あの鳥が必要なんです…」。そして幕が下ります。

木の枝に止まっている青い鳥のイラスト

 

そうです、何もしなくても自分の元に幸せがあったわけではありません。6つの世界を巡り、多くの出会いや別れを経験し、7つめに元の部屋に戻ってきたことでこの兄妹は内面的に成長し、鳥を少しだけ青くすることができたのです。その鳥を隣の娘にあげることで、娘は健康を取り戻し幸せになりました。

飛び去った青い鳥があなたの元へ舞い降りるかもしれません。そうしてあなたが幸せになったら、このチルチルと隣の娘のようにさらなる幸せを求める誰かに渡してあげてください。

 

『幸福論』で有名なアランは述べています、「『幸せ』というものはあるものではない。あるのは『幸せ』であろうとする意志である」。つまり、『幸せ』とは帰着するゴール(目標)ではなく、それを求める行為、求め続ける行動です。

『幸せ』の基準というものが存在しているわけではなく、大切なのは、そうあろうとする自分自身です。

 

さて、この作品を象徴劇として見たとき、一種の入門儀式と読み取ることができます。何らかの入門儀式を経験なさったことのある方は、以前読んだにしても、この作品をもう一度手に取ってみてください。より深い感銘を呼び起こすことでしょう。

 

この作品は、日本ではもっぱら子供向けとされており、多くの翻訳が抄訳であったり意訳だったりしています。今回、何種類か確認してみましたが、「これだ」というものには出会えませんでした。そこで、フランス語原文と英語訳のサイトをお知らせしておきます。

 

フランス語版 http://www.gutenberg.org/files/38849/38849-h/38849-h.htm

英語版 http://www.gutenberg.org/ebooks/8606

 

※1 本来、クリスマスは12月24日の夕方(日没)に始まり、25日の夕方(日没)に終わります。ですからこの物語はクリスマスの一日の間に起こった出来事です。

 

△ △ △

 

ふたたび本庄です。「入門儀式」という言葉が出てきました。ちょっと耳慣れない言葉かもしれませんので補足します。

 

入門儀式は人類学の用語で、ある段階から次の段階へと進むということを象徴する式典です。通過儀礼と呼ばれることもあり、古代文化では特に、世界中で盛んに行われていました。日本でも、七五三、入学式、成人式、還暦祝いなどに、その名残がみられます。

 

西洋の古代の神秘学派は、この慣習に新たな内容を付け加えました。集団に加わって学ぶことを望んでいる人がいると、儀式に参加させて、誠実さや動機の純粋さを確かめる試験を行ない、それに合格した人だけを受け入れました。

加わったメンバーは、この式典によって学ぶことへの決意を新たにすることができました。

 

では、今日はこのあたりで。

 

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参考記事(前回の寄稿):

怒りの葡萄 -文芸作品を神秘学的に読み解く7

 


常識が崩れた瞬間

2017年12月1日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、冷たい小雨の降る日が続いています。

そちらはいかがでしょうか。

 

つい先日、ウィキペディアのパロディー版のアンサイクロペディアの「1=2」という記事を見ていたのです。

この記事には、1=2であることが、100通り以上の方法で証明されています。

 

書かれている証明の多くは単なるパロディーです。そしてそれ以外は、もちろんすべてが誤りです(だと、私は思います)。

どこが間違っているかを見つけるのが、よい頭の体操になるようなものもありますし、私には理解できない高等な数学を使っている証明もあります。

ご興味があれば、検索してみてください。

 

ともあれ、夢中になってこの記事を読んでいた翌日に、山形県に住む私の友人の山下さんから、このブログのために、以下の寄稿記事をいただきました。

冒頭を読んで、びっくりしました。1=2と1+1=2の違いはありますが、偶然というのはあるものですね。

 

▽ ▽ ▽

記事:『常識が崩れた瞬間』

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

私が誰かに「1+1はどうして2になるのでしょうか?」と質問したとします。

すると、返って来る答えは「1+1が2は常識でしょう。当たり前のことでしょう。決まったことでしょう。学校で教わったでしょう(笑)」等々……となるのではないでしょうか。

では常識とは一体、何なのでしょうか? 手持ちの辞典で調べて見ました。すると「一般に知られている当たり前の知識、見識」と記されています。つまり、常識とは万人が認めている真実、ということでしょうね。

黒板に書かれた1+1=2の文字

 

ところが、私はこの常識が完全にひっくり返った場面に居合わせたことがあります。もう、ン十年も前のことです。

その当時、私が所属していた地元消防団の仲間と日本海沿岸に一泊二日の旅行に行った時のことです。海沿いのホテルに一泊した翌日の朝、皆で海を見に行こうと近くの海岸に。そこで私は岩場に登り水平線を眺めていました。

何気なく下に目をやると岩の間に蟹がいます。「おっ!!蟹がいる」と思った次の瞬間。この蟹が歩き始めたのです。しかも横方向にではなく前方に向かって…(つまり縦方向に)!!

 

蟹は横方向にしか歩けない生き物、これが一般の常識です。驚いた私は思わず「蟹が縦に歩いている!!」と叫んでいました。すると近くに居た仲間達が「おいおい、何を寝呆けたことを言ってるんだい、夕べの酒がまだ残ってるのか(笑)」。

しかし私の指差す方向を見ると全員が「え~!? 何だあれは……!? 本当に縦に歩いてる!?」。大騒ぎとなりました。ところが、当の蟹はそんな私たちの騒ぎなど、どこ吹く風と云った顔(?)で悠然と前進を続けそのまま海中に…。

カニ

 

その後、どうにも納得できないままに数ヶ月が過ぎたある日のことです。新聞で面白い記事を見つけました。

タイトルは忘れましたが「常識に囚われてはならない」と言った内容でした。その記事の中で一例として書かれていたことが…「蟹は横方向にしか歩くことが出来ない生きものと思われています。しかしそんなことはありません。縦方向、即ち前方に向かって歩くことのできる種類の蟹も存在します。常識と言われていることが全て事実とは限りません」と。驚きました。でも、疑問の解決に加え素晴らしい教訓もいただきました。

 

余談になりますが、ある数学者の言葉です。「数学理論を究極まで突き詰めて行くと1+1=2と云う概念を棄てなければならなくなる時がある……」とか。もちろんこれは抽象的な表現と思われますが。凡人の私には「う~ん!?」と唸るのが精一杯です(笑)。

△ △ △

 

蛇足ですがひとこと。

 

『至福の超現実数―純粋数学に魅せられた男と女の物語』(旧題『超現実数』)という本があります。この本には、1+1=2が証明されています。

あたりまえのことですが、1+1=2を証明するためには、1とは何かを決め(定義し)、2とは何かを決め、「足す」とは何かを決め、「同じ」とは何かを決め、その上で取りかからなければなりません。

 

読むのに予備知識はほとんど必要ないのですが、数学を“無”から作るので、取り組むにはかなりの覚悟が必要です。

神秘学では “無”からは何も作られないと語られることがありますが、この理論では、ゼロが“無”(空集合)から作られます。

大学生のときに、読み終えるのに、まるまる2ヵ月ほどかかった覚えがあります。

 

最後は、寄稿いただいた山下さんとは打って変わって、無粋な話になってしまいました。

 

下記は、科学の歴史の中で打ち破られてきた常識についての記事です。

参考記事:『常識を乗り越えること

 

今日はこの辺りで。

また、お付き合いください。

 

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