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笛の世界(番外編)

2017年7月14日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

東京板橋ではこの数日、夏らしい暑い日が続いています。

いかがお過ごしでしょうか。

 

少し前のことになりますが、私の親しい友人で山形県にお住まいの山下さんから寄稿いただいた、『笛の世界』についての文章を、2回にわたりご紹介しました。

 

三度の飯よりもお祭りが好きだという山下さんは、平成7年に、故郷の村山市に新しい祭りができたことをきっかけに祭り笛を吹くようになったのですが、その6年後に、『和太鼓教室開校-横笛・津軽三味線・日舞の教室も同時開校』というポスターをふと見かけます。そして、その教室でプロの指導を受けるようになります。

今回は番外編として、そのときの体験談を届けていただきました。

 

過去記事:

『笛の世界』(その1): http://www.amorc.jp/blog/?p=1430

『笛の世界』(その2): http://www.amorc.jp/blog/?p=1454

 

▽ ▽ ▽

『笛の世界』(番外編)

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

さて、時は平成十三年の秋、横笛教室の初日、緊張の面持ちで入り口のドアを開け建物の中に。すると和太鼓教室のオーナーがひょっこり現れ『山下さ~ん。先生、今ご飯食べてますから、食べ終わったら始めますからね、しばらく待ってて下さい』。

そこで私『おじゃましま~す』と入って行きました、すると和太鼓教室のロゴマークの入ったTシャツを着た若い方(二十代位に見えました)がご飯食べてます。私は単純に和太鼓教室のスタッフの方だろうな、と勝手に解釈。

そのすぐ隣で二人のオバチャンが荷物を送る段ボール箱がどうのこうのと、にぎやかにしゃべっています。先生はどこ? と思って周りを見れば隣にも部屋があります。私は、そうか先生は隣の部屋か……。

 

待つことしばし。スタッフとおぼしき方、ご飯食べ終ると私の顔を見て『ど~れ、それでは始めますか……』。『えっ~!?この方が……』。

後で知ったのですが、先生この時、四十一歳でした。ちなみに、にぎやかな二人のオバチャンは日舞の先生でした(この道ではかなりの著名人と後から聞きました)。

 

教室は隣の部屋でマンツーマンで始まりました。何しろ横笛教室の生徒は私一人だけでしたので(津軽三味線の生徒さんは複数人数おられましたが)。

初日は笛の説明から始まりました。篠笛(しのぶえ)の名前の由来(篠竹を材料としているからとか)、音の出る原理、笛の持ち方、構え方、笛特有の楽譜の読み方、効率良く音を出す方法。これらのことを論理的にきっちりと分かりやすい言葉で説明してくれました。

私はその時まで和楽器とは勘と経験だけの世界と思っていましたが、とんでもない認識不足でした。

 

さて翌日(教室は月に一回、二日間)。『昨日はお世話になりました、今日もよろしくお願いしま~す』と部屋に入って行きました。すると先生『ど~れ、んだば、はずめっか~!!』。

この瞬間から先生の喋りは全て津軽弁に……(笑)。ちなみに、こんな具合でした。『はい、そごだば、そげふいだら、あじっこ、でねはんげの、もすこす、やさすぐ、ふがねば』。お分かりでしょうか?

翻訳(?)します。『そこは、そう吹いたのでは、感情が入らない、一本調子になってしまう、もう少し、優しく吹くように』と。まあ、こんな意味合いになります。ならば、ということで私は山形弁で対応です(笑)。

秋田の昼竿灯祭りで篠笛を吹く女性

 

二日目から本格的に音を出しての稽古が始まりました。最初の練習曲は山形県を代表する民謡、花笠音頭でした。山形県人の私に気を使ってのことだったのでしょうか。

花笠音頭は私も子供の頃から聞き慣れた曲です。簡単だろうなと、その時は思いました。すると先生『先ずは一回吹いてみるから聞いてくれ』とのこと。ところが先生が吹き始めて直ぐに頭の中が真っ白になってしまいました。

確かに曲は聞き慣れた花笠音頭なのですが、テンポもノリもまったくの別物、呆気にとられて声が出ませんでした。すると『津軽三味線バージョンの花笠音頭だよ……』といった説明が。

 

何はともあれ練習開始です。笛は民謡の伴奏等で普通に使われているものよりちょっと長めの篠笛です。

六本調子と言って音程がちょっと低め、音は出しやすいよ…と聞いてはいました…が。やはり思ったように音が出ません。

祭りで使っている笛、明笛(みんてき)とは全く別物です。悪戦苦闘が始まりました(その年の夏祭りが終わっていたのは幸いでした)。

 

それからしばらくして何とか格好が付き始めた頃のことです。何時ものように『よろしくお願いしま~す』とドアを開けますと目の前に三味線を抱えた女性が立っています。

それからしばらく後、この方通称『よっちゃん』が先生の提案で三味線の稽古も兼ねて私の笛の稽古に付き合ってくれることに。

 

ところで、よっちゃんのオヤジさんは東京の浅草の生まれ。当然の事ながら、よっちゃんの喋りは『バリッバリの江戸弁』。

そんな訳で、三人が顔を揃えての会話は津軽弁・江戸弁・山形弁の三ヶ国語(?)の飛びかう摩訶不思議な空間に……。

とにかくにぎやかでした、楽しかったです(笑)。

 

ところが平成十五年の秋、先生の仕事の都合で教室は惜しくも終了。夢を見ていたような二年間でした。

それから二年後、よっちゃんは和楽器奏者としてプロデビュー。今も東京で頑張っています。

私はと言えば、相変わらず亀の歩み……いやいや、マイペースと読み替えましょうか(笑)。

祭りでの太鼓と笛の演奏

 

そんな私に忘れられない思い出があります。

いつでしたか、私がよっちゃんに『歳のせいかな、いくら頑張っても中々上達しないよ、曲、憶えられなくってね』と愚痴をこぼしたことがあったのです。

すると、返って来た言葉が。『山下さん…努力は人を裏切らないよ…』。(完)

△ △ △

 

津軽弁・江戸弁・山形弁が飛びかっている場面、想像しただけでクラクラしそうですね。方言には、その土地の温かさが感じられるように思います。私は東京の西部の武蔵野で生まれ育ったので、しゃべる言葉はほぼ標準語です。方言がある人たちをうらやましく感じることがあります。

 

今回は、この辺りで。

では、また。

 

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水槽の脳

2017年7月7日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日は七夕ですね。いかがお過ごしでしょうか。

福岡と大分は豪雨でたいへんな状況のようです。一刻も早く雨が上がることと、被害がこれ以上大きくならないことを祈っています。

 

さて、少し以前のことになりますが、「3D」(three-dimensional:立体映像)ではなく、「4D」という方式で上映される映画館で、『スターウォーズ/フォースの覚醒』を見たことがあります。

ご存じのことと思いますが、3Dの映画では、特殊なめがねをかけてスクリーンを見ると、映像が飛び出して立体的に見えます。

 

4Dの映画では、映像に次元がひとつ加わるわけではありませんが、シーンに合わせて座席の傾きが変わったり、背もたれからマッサージ器の揉み玉のようなものがせり出してきて背中を軽く殴られたり、座席の脇から水蒸気や香りが出てきたりします。

なかなかの現実感で、崖から落ちていくシーンなどでは、思わず体がこわばりました。

 

このようなヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)はどこまで進歩するのでしょうか。ゲーム機などでさまざまな技術が開発されているようですが、いずれは、SF映画に描かれているように、現実と区別がつかないほどにまで進歩するのでしょうか。

 

アメリカの哲学者ヒラリー・パトナム(1926-2016)は、このヴァーチャル・リアリティについて、次のような「水槽の脳」(brain in a vat)という名のドキッとするような思考実験を考え出しました。思考実験とは、頭の中で想像するだけの実験のことです。

 

「実はあなたには、手も足も体もありません。頭蓋骨すらありません。あなたは、培養液に満たされている水槽に浮かんでいる、むきだしの脳なのです。そしてこの脳には、脳波を正確に操作することのできる電極が精密に取り付けられていて、高性能のコンピュータから、ヴァーチャル・リアリティを構成するデータの電気信号が送られています。五感からの信号を受け取るはずのあなたの脳の部分は、その代わりにこの電気信号を受け取って、現実世界のように感じているだけなのです。あなたの恋人も子供も、きのう体験したことも、今朝食べたトーストも、今見ていることも、すべてヴァーチャル・リアリティです。」

 

Brain in a vat (ja)

水槽の脳(By me, user:was a bee [Public domain], via Wikimedia Commons)

 

いかがでしょうか。まずは、この状態にある自分をありありと想像してください。ぞっとしますね。そんな馬鹿なことはあり得ないと感じることでしょう。しかし、この思考実験が問いかけているのは、そんなことは決してあり得ないというちゃんとした証拠を、人は示すことができるかということです。

 

この「水槽の脳」をまさにテーマにした映画に『マトリックス』があります。もう20年近く前の映画なので、第一作の冒頭のネタバレは許されることでしょう。

 

キアヌ・リーブスの演じる主人公ネオは、大手ソフトウェア会社のプログラマーです。彼はふとしたきっかけから、自分の生きている世界が夢なのではないかと疑うようになります。

不可解で意味深な文面の電子メールを受け取ったり、理由なく警察に逮捕されるリアルな夢を見たりするというような奇妙なできごとが続いた後に、ネオは、トリニティーと名乗る謎の女性と、その仲間で、精悍な軍人風の男性モーフィアスに出会います。

 

ネオは2人から「この世界は、コンピュータの作った仮想現実だ」と告げられ、仮想現実の中でこのまま何ごともなかったかのように生きるか、現実の世界で目覚めるかを選ぶように迫られます。彼は目覚めることを選び、そのための薬を飲みます。

するとネオは、自分が繭(まゆ)のような容器の中に液体と一緒に閉じ込められていて、体中に管がつながれていることに気づきます。

見回すと周囲には、同じような容器が無数に多くあります。ロボットによってネオの体からは管が外され、ネオは容器の中の液体ごと下水へと落ちていきます。

 

モーフィアスは下水で溺れるネオを救い、世界の状況を説明します。機械と人工知能が人類に対して反乱を起こして勝利し、今では人間を“栽培”して、そこから特殊なエネルギーを得て“自分たち”のために使っています。

容器に入れられ培養液中で栽培されている人間は、つながれた配管を通して、ヴァーチャル・リアリティを構成する信号が人工知能から送り込まれているので、それが偽りの世界だということに気づきません。

ネオは栽培不良品として廃棄されたのです。

 

映画『マトリックス』のように、現実がヴァーチャル・リアリティではないかと疑ったり、まさにそうだと考えたりすることには長い歴史があります。たとえば古代ギリシャの哲学者プラトンは『国家』という本の第7章でそれを取り上げています。

この部分は「洞窟の比喩」と呼ばれています。

プラトンはこの場合、哲学の思考実験をしているのではありません。彼は、人間の誰もが、比喩的には次のような状態にあると本気で考えているのです。

 

「地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。……壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。」

 

Hoehlengleichnis

洞窟の比喩(By Liquidian (Own work) [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html), CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/) or CC BY-SA 2.0 de (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0/de/deed.en)], via Wikimedia Commons)

 

つまり人間は、比喩的にいえば、生まれたときから洞窟の中に縛り付けられている囚人のようなもので、見ているものは、まるで影絵のようなヴァーチャル・リアリティで、それは「イデア」と呼ばれる実在の影に過ぎないと言っているのです。

しかしこの状況には、映画『マトリックス』の状況より、かなりましな面があります。ヴァーチャル・リアリティを作り出しているのが人類を支配した機械ではなく、プラトンによれば、「イデア界」という真善美の源泉だからです。

参考記事:『真善美について

 

しかし、囚人状態から脱することが望ましいことには変わりなく、その方法こそが哲学、さらに具体的に言えば神秘学(mysticism:神秘哲学)だと、プラトンは主張しています。

参考記事:『神秘学とは何でしょうか

 

16世紀のフランスには、ヴァーチャル・リアリティという言葉はありませんでしたが、近代哲学の祖とされるルネ・デカルトが、やはり同じ疑問を発しています。彼はこう書いています。

「そこで私は真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形体、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何らの感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。」(『省察』-ルネ・デカルト著、三木清訳、青空文庫、2006年)

 

Frans Hals - Portret van René Descartes

ルネ・デカルト(1596-1650、After Frans Hals [Public domain], via Wikimedia Commons)

 

哲学の用語では、知覚されている世界を「現実」(reality)と呼び、知覚の原因となる、知覚と無関係に存在している世界を「実在」(actuality)と呼びます。

 

ちょっと難しいでしょうか。

たとえば、森に雷が落ちて木が倒れたとします。もし近くに人がいれば、「ゴロゴロ、ドン、バキッ、ドサッ」という音を聞くことでしょう。しかし、近くに意識を持つ生きものがまったくいなければ、そこには音はなく、ただ振動があるだけです。

この場合、「ゴロゴロ、ドン、バキッ、ドサッ」が現実にあたり、振動が実在にあたります。(そうではないという説もあります。)

 

別の例をあげましょう。いま私の目の前には、お茶の入ったペットボトルがあります。緑色のキャップやラベルや、透き通った部分が見えています。

このペットボトルが見えるのは、部屋の天井にある蛍光灯から発した光が、ペットボトル自体にあたり、そこから反射して目に届いているからです。(おそらくはです……)

届いた光によって、網膜につながっている神経細胞が興奮し、その電気信号が神経繊維を通って脳に伝えられます。

そしてこの信号が脳で解釈されて、やっとペットボトルがそこにあるのを知ることができます。

 

この場合、見ているペットボトルが現実にあたり、ペットボトル自体が実在にあたります。

ちょっと話が複雑になりますが、バラ十字会の哲学では、知覚の最後の段階にあたる解釈で、時間と空間という性質が付け加えられると考えています。ですから、実在には時間も空間もないはずなのです。

 

先ほどの話に戻るとすれば、森の木に雷が落ちたということを表す、時間も空間もない振動が実在ということになるのでしょう。そんなものなど想像できるでしょうか。難しいですね。

 

人間の五感はすべて、物自体ではなくて、そこから発した光や音だけを感じることができます。ですから、実在を直接知ることは、そもそも原理的にできません。

手でペットボトルに触ったとしても、手触りや冷たさとして感じるのは“ペットボトル自体”が発している反発力や温度なので、実在を直接知ることができないということに変わりはありません。

 

先ほどの「水槽の脳」という思考実験では、実際に体験している現実の元になっている実在が、培養されている脳とコンピュータから送られている信号だという、極端で驚くべき状況が想定されていて、それに反論できるかどうかが問われているわけです。

そして、自分が「水槽の脳」ではないという証拠を示すのが難しい理由は、実在を直接知ることができないということにあります。

 

付け加えておきますが、「実在」などというものはそもそもなく、それは人間の想像がひねくりだした幻想であり、現実だけが本当に存在するという説もあります。この説は現象主義と呼ばれています。

たとえば現象主義では、夜空の星は宇宙空間のある場所に存在するとは無条件には言えません。どんな生きものも見ていない星などというものはそもそも存在しない、もしくは、そのようなものを考えることには意味がないとされます。

これまた、なかなか過激な意見ですね。

 

さてあなたは、ご自身が「水槽の脳」ではないという証拠を見つけたでしょうか。

誰も見ていなくても、夜空の星が存在すると考えますか。それとも、そんなものはないと考えますか。

もしあると考えるならば、その星自体は、人間が見ている星と似ているのでしょうか。それとも全く異なるのでしょうか。時間と空間のない振動でしょうか?

 

今回は、思索のためのちょっとした材料を、提供させていただきました。時間のあるときに考えてみていただければと思います。

 

途中からやや複雑な話題になってしまったにもかかわらず、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

しかし、多くの哲学者が真剣に探究してきた、そして今でも探究しているこの話題は、おそらく世界の根本に関わることです。

 

では、また。

 


インターネットについて

2017年6月30日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

東京板橋ではこの数日、梅雨らしい日が続いています。

いかがお過ごしでしょうか。

 

先日ツイッターで見たのですが、インターネットについての面白い投稿がありました。

「『ママ、もしこの世の中にインターネットがなかったらどうなると思う?』と6歳児。
ママ、そういう世界生きたことあるよ」

 

6歳の子供でもこのように感じているのかと、ちょっと笑った後に、いろいろと考えさせられました。

 

当会のフランス本部代表のセルジュ・ツーサンが、自身の人気のブログに、インターネットについて考察した記事を書いていますので、今回はその翻訳をご紹介します。

 

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バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

記事「インターネットについて」

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

 

インターネットを用いることが広く普及して、私たちの生活の一部になりました。特に、若い人たちの一部は、スマートフォンなしに暮らすことなど到底考えられないほどのようです。

インターネットの普及によって、人間関係には革命のような変化が実際に生じたばかりか、地球がひとつの国のように狭く感じられるようになりました。

インターネットによって、世界中の人たちの間の交流が盛んになり、このことは、国際親善や世界平和を促す要因のひとつになっています。

インターネットを用いている両親と女の子

 

しかし、フェイスブックやツイッターなどのソーシャルネットワークによって、さまざまな問題が引き起こされているのも見ることができます。

 

インターネットがコミュニケーションのための並外れた手段であることは誰にも否定できませんが、ネット上で交流ができることとの引き換えのように、人と人とのリアルの交流が損なわれているのは残念なことです。

たとえば、地球の反対側にいる人とコンピュータや携帯電話の画面を介して交流する一方で、同じ建物の同じ階にいる人たちとの会話が少なくなっているのではないでしょうか。

このように、私たちは奇妙な逆説に直面しています。インターネットは、人と人の距離を近づけると同時に、社会を非人間的にしているようです。

ですから、インターネットという道具は、賢明なやり方で用いなければならないということを、私たちがはっきりと心得て置かなければならない時期が来ています。

また、人と人との交流をインターネット上に“乗せる”ことそれ自体は、目標でも理想でも何でもないということも理解しておかなければなりません。

 

ソーシャルネットワークの便利さを否定することはできませんが、そこで作られた関係はしばしば表面的であり、人工的であり、長続きしないことも多々あります。リアルの生活で数千人の友人がいると主張することができる人がいるでしょうか。

ソーシャルネットワークによって、自己中心性や自己顕示欲やのぞき趣味が助長されているという側面も見逃すことができません。

有名人やアイドルがもてはやされている影響で、有名であることが極めて重要であると考える人が増え、特に若い人たちの多くが、慎み深さや品位を投げ捨てて、インターネットで他の人の注目を集めようとしています。

しかし、そのようなパフォーマンスは、ほんの一部の人の興味の対象にしかならないことを心の中では理解している人も多くいます。

 

インターネットは交流のための道具であるだけでなく、広い範囲にわたる、さまざまなテーマについての“文化的な”情報を手に入れる手段を提供してくれます。

しかし、この面においても望ましくない点があります。情報があまりにも多いために、散漫になったり混乱が生じたりするからです。

さらに言えば、客観的に妥当でない情報もあれば、意図的に発信された真実でない情報も混在しています。そのため、真偽や価値を見極める能力と慎重さが、オンライン情報を扱う場合には必要になります。

頻繁にとまでは言えないでしょうが、時として客観性を欠いているインターネットのサイトのいくつかだけを根拠にしているオンライン情報が多数あります。

 

インターネットについて言える確かなことのひとつに、それが良くも悪くも、社会や世界の現状をおおむね映し出しているということがあります。

地球の絵を囲むさまざまな人たち

 

人間の良心が進歩すればするほど、インターネット上のコンテンツと、多くの人がインターネットを用いて行っている文化活動や社会活動、政治や経済の活動が、高貴さという人間の本来の性質に沿うようになります。

このような進歩こそがまさに、バラ十字会AMORCや他の類似の集団や個人が、さまざまなウェブサイトを通じてなし遂げようとしていることです。

そして、そのコンテンツをどのように役立てていただくかは、あなたに任されている事柄です・・・

 

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。本稿はそのブログからの一記事。

△ △ △

インターネットだけでなく、ロボット技術や人工知能の進歩があり、世界は、近い将来ですら見通すことが難しくなっているのではないでしょうか。

少し怖いようにも感じますが、とても興味深い時代を私たちは目の当たりにしているようにも思います。

参考記事1:『人工知能と人間

参考記事2:『人類とコンピュータの戦い-人工知能、自由意志と存在意義の関係

 

今日は、この辺りで。

また、お付き合いください。

 

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神秘学とは何でしょうか

2017年6月16日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日の東京は、朝から晴れていましたが、午後になってから、どうも雲行きが怪しくなってきました。ひと雨来るかもしれません。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

私たちの働いている事務所は、板橋区の仲宿というところにあります。江戸時代の人が日本橋を出て中山道で京都に向かったとすれば、最初に通る宿場町です。

板橋に事務所を構えたのは7年ほど前で、それまでは新宿でした。新宿区では、当時、区内で事業を行っている人たちをウェブサイトで紹介してくれるというサービスがありました。

 

このサービスに申し込んだところ、区の職員の方々が、ヒアリングに訪れてくれました。

そのときに聴かれたのは、あなたがたが通信講座で扱っている神秘学(神秘哲学:mysticism)とは一体何ですか、宗教とはどのように違うのですかということでした。

 

このブログをお読みくださっている方々の中にも、「神秘学」とは一体何なのだろう、宗教とはどのように違うのだろうという興味をお持ちの方も多いのではないかと思います。

そこで、今回はこのことを、2500年ほどさかのぼって、ご説明したいと思います。

 

今、私の左側にある棚には、『神秘哲学』という題の本があります。30ヵ国語がペラペラだったという、ギリシャ、イスラム、東洋哲学の大家の井筒俊彦さんの本です。

「神秘哲学」も「神秘学」も、英語で言えば「ミスティシズム」(mysticism)であり同じものだと考えていただきたいのですが、この本で説明されていることのひとつは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといったギリシャの哲学者たちが研究し、当時の人たちに教えていたのが、まさに神秘学だったということです。

この3人はといえば、ヨーロッパの哲学の源流を作ったとされる人たちですから、神秘学というのは、何も特別なことではなく、西洋ではもともと哲学といえば、神秘学だったということになります。

『アテナイの学堂』(ラファエロ作)

『アテナイの学堂』(ラファエロ作):古代ギリシャの哲学者たちが描かれているフレスコ画。中央左がプラトン、中央右がアリストテレス。左下の書物を見ている禿頭の人物がピュタゴラス。(クリックすると拡大されます)

 

では、神秘学とは何を指しているのでしょうか。このことを理解するためのキーワードは「宇宙」(コスモス:Cosmos)です。これは、先ほどの3人の哲学者の大先輩にあたるピュタゴラス(ピタゴラス)の作った言葉です。

参考記事:『コスモスとピュタゴラス-ささやかな実習

 

現代に生きる人たちが「宇宙」という言葉によって思い浮かべるのは、無数に多くの銀河や星雲や星々が浮かんでいる空間、人工衛星が回り、国際宇宙ステーションが飛行している空間のようなものではないでしょうか。

しかし、ピュタゴラスが「宇宙」という言葉で意味しているのは、このような無味乾燥な宇宙とはややニュアンスが異なります。ですから、現代人が思い浮かべる宇宙と区別するために、ここでは〈宇宙〉と表すことにしましょう。

 

〈宇宙〉は、ピュタゴラスにとって、秩序、健全性、美しさという性質を合わせ持っている規則正しい全体のことでした。

少しわかりにくいかもしれません。具体的に説明します。

 

夜空に見られる星は、天球上で場所を変えることなく、いつも同じように美しく輝いています。一方惑星はといえば、一見複雑な動きをしていますが、長いこと観測をしていると、そこには規則正しさがあることがわかってきます。

太陽と月の動きも同じです。たとえば、日食は特定の周期で起こることが古代から知られていました。

大地には規則正しく四季が訪れ、私たちに作物の恵みをもたらしてくれます。昼と夜の長さにも、植物の花の形、葉の付き方にも、動物や人間の身体にも、その営みにも、すべてに規則正しさ(秩序)が表れており、すべてが関係して一体になっています。

 

この全体をピュタゴラスは〈宇宙〉と呼びました。〈宇宙〉は、天上の星々を表すマクロコズム(大宇宙)、人間を表すミクロコズム(小宇宙)、自然界を表すメソコズム(中宇宙)の3つに分類されますが、いずれにも見事な規則正しさが表れています。

ピュタゴラスはまた、〈宇宙〉とは一弦琴(弦が一本の琴)のようなものだと考えていました。この琴が奏でる最も低い音が物質の世界であり、最も高い音が絶対精神(神)であると考えていました。つまり、物質の世界も、精神の世界も、絶対的なものも、〈宇宙〉というひとつの全体の別の表れだと考えていたのです。

 

数学、道徳、音楽はピュタゴラスが特に力を注いだ分野ですが、数学とは〈宇宙〉の規則正しさ(秩序)を研究する学問であり、道徳は〈宇宙〉の規則正しさを人の行いに反映させることにあたり、音楽は、〈宇宙〉の規則正しさを地上で表現するための方法でした。

 

哲学者(philosophia:フィロソフィア)という言葉を作ったのもピュタゴラスです。この言葉はギリシャ語の「フィロ」(愛する人)と「ソフィア」(知識)からなります。哲学者とはもともとは、〈宇宙〉の持つ規則正しい性質を研究して、そこから得られた知識を愛する人のことを指していました。

 

国はよく治められて、〈宇宙〉のように規則正しく、美しく、健全な状態にされなければならないとピュタゴラスは考えていました。ですから政治家は、必ず哲学者でなければならなかったのです。

 

話を戻します。先ほどの本のまえがきに井筒俊彦さんは、神秘学の根本にあるのは「形而上学的思惟の根源に伏在する一種の実在体験」だと書いています。

難しくて理解できないですよね。わかりやすく説明すると、次のようなことです。

 

古代からよく知られていたことなのですが、音楽に深く入り込んだり、特定の方法で集中や呼吸を行ったり、収穫祭などの儀式に参加し感謝の思いが特に高まったときに、人は日常とは異なる、忘我の意識状態を体験することがあります。

この体験は神秘体験と呼ばれています。

 

琴の弦が、特定の関係にある他の弦と同調するように、人も、ある条件のもとでは〈宇宙〉と同調することができ、そのときに神秘体験が起こるとピュタゴラスは考えていました。そして、バラ十字会で学んでいる人の多くも、私も、このピュタゴラスの意見に賛成しています。

 

神秘体験には、ちょっと気の利いた思いつきが“天から降ってきた”ように感じられるものから、体験した人の人生観を完全に変えてしまうものまで、さまざまな程度のものがあります。

しかし、どのような程度のものであっても、神秘体験を得た人には、何らかの効用や進歩がもたらされます。

たとえば、長いこと悩んでいた問題を解決する方法がわかったり、ある芸術作品のモチーフを思いついたり、人を思いやる気持ちが深まったり、エゴと恐れを手放して、人生に積極的に向き合う力が得られたりするなどです。

 

神秘学で行うことは、大まかにいえば、神秘体験を得るための条件や方法について学び、実際に神秘体験を得るための練習を重ねて、神秘体験から得た成果を、自分と周囲の人のために役立てることです。

 

では、神秘学と宗教はどのように違うのでしょうか。

実は、似ているところもあります。どちらも、人生の謎を解き明かすことや、よりよく生きることを目的としているからです。

そして神秘学は、バラ十字会がご紹介しているような、宗教でない神秘学と、宗教神秘学の2つに大きく分けることができます。

 

そしてこの2つの違いは、次のように説明することができます。

 

先ほどから話題になっている〈宇宙〉の規則正しさ(秩序)ですが、その原因だと考えられるものには、歴史上、さまざまな名前がつけられてきました。

絶対精神、普遍的精神、YHVH、創造主、アラー、梵天、神などです。

そして、宗教神秘学と、宗教でない神秘学の主な違いは、この絶対精神のことを、人格であると考えるか法則であると考えるかということです。

 

ちょっとわかりにくいと思いますので、ご説明させてください。

 

たとえば、ギリシャの宗教の最高神はゼウス(ギリシャ語の「神」)ですが、当時の人はゼウスのことを、右手には雷を起こす武器を持った、ひげをたくわえた、筋肉が隆々とした男性として思い浮かべたことでしょう。

Jupiter Smyrna Louvre Ma13

1680年にスミルナにて発見されたゼウス像 By UnknownMarie-Lan Nguyen (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons

 

現代では、このような素朴な神の姿を思い浮かべる人は少ないことと思いますが、それでも、一神教を信仰する方々の多くは、神のことを威厳と慈愛にあふれた人に似た存在だと思い浮かべるようです。

 

それに対して、宗教でない神秘学では、絶対精神(ここでは神と呼ぶことにしましょう。)のことを人格であるとは考えません。神とはそもそも知ることのできない性質のものであり、ただ、〈宇宙〉のさまざまな法則(Law)の原因であると考えています。

反対にいえば、〈宇宙〉のさまざまな法則こそが、神の表われであると考えています。法則といえば、物質の世界を支配している物理の法則のことをまず思い浮かべる方が多いことでしょうが、それ以外にも、カルマの法則、三角形の法則(弁証法の法則)など、いろいろな法則があります。

 

また、〈宇宙〉の法則と言うよりは、「〈宇宙〉のことわり」とか、「〈宇宙〉の摂理」とか、「〈宇宙〉の性質」と呼んだほうがふさわしいようなものもあります。

その代表的なものが「愛」です。

 

多くの宗教では、人格を持つ神が、人間や他の生きものを愛していると考えます。

一方で、宗教でない神秘学では、愛は〈宇宙〉の性質である、もしくは、〈宇宙〉は愛で満ちていると考えます。

 

このことは、ちょっとした差のように思えるかもしれませんが、なかなかどうして、そうでもない場合があります。

 

もし、神のことを、ある神話に登場する何か人の姿をしたような存在であると考えるならば、その神が、たとえばA教を信仰している人を愛し、B教を信仰している人は嫌うというようなことが、容易に想像されるのではないでしょうか。

一方で、絶対精神(神)が〈宇宙〉の法則として表れていると考えるならば、歴史的な経緯から人が作ったさまざまな宗教をもとにして、神が、ある人と別の人を差別するなどということは、考えにくいのではないでしょうか。

 

マハトマ・ガンジー(1869-1948)は、次の言葉を残しています。

「神は宗教を持たない。」

 

彼はヒンドゥー教徒ですが、その考えは、宗教でない神秘学に近いことがわかります。

 

誤解のないように付け加えておきますが、バラ十字会も私も、宗教を批判しているわけではありません。

宗教は人類の歴史の中で、無数に多くの人の道徳心を支える大切な役割を果たしてきました。

しかし、大部分の宗教が、それが発祥した時代の制約を受けています。

 

たとえば先ほどの例で言えば、ギリシャ・ローマ時代の多くの人は、現代人と異なり、〈宇宙〉のさまざまな法則の原因というような抽象的な概念について考えることができませんでした。

しかしそれ以降、人類の精神はずっと進歩を続けてきました。特に、20世紀には自然科学が大きな進歩を遂げました。

現代の宗教は、これらの進歩に沿うように、根本から変化することを迫られていますし、仏教やキリスト教では、そのような試みがすでに始まっているとのことです。

 

今回、お伝えしたかったことは以上です。

いかがでしたでしょうか。最後は、かなり立ち入った話になりました。

また、お付き合いください。

 

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『朝雲』-文芸作品を神秘学的に読み解く5

2017年6月9日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、梅雨前のはっきりしない天気が続いています。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

今回は、私の友人であり、当会の公認インストラクターをされている森和久さんのシリーズ記事『文芸作品を神秘学的に読み解く』のその5をお届けします。

 

参考記事(前回):『赤毛のアン

 

▽ ▽ ▽

 

文芸作品を神秘学的に読み解く(5)

『朝雲』 -川端康成 著

森和久のポートレート

森 和久

 

『朝雲』は川端康成が昭和16年に発表した短編小説です。田舎の女学校の学生、宮子が、都会から来た垢抜けた女の先生、菊井先生に、淡い恋心を抱くというストーリーです。思春期の少女の瑞々しい感性を川端文学が鮮やかに描き出しています。

 

女学生たちが卒業するときに、菊井先生は、「ご幸福を祈る」と色紙に書いてくれます。ある女学生が先生に訊ねます、先生、幸福って何ですの? 先生は答えます、「そんなこと、ご自分に聞いてごらんなさい。」

その部分を見てみましょう。宮子は文中、菊井先生のことを、あこがれを込めて「あの方」と呼んでいます。

 

Yasunari Kawabata 1938

川端康成 1938年(39歳頃) 鎌倉二階堂の自宅窓辺で See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons

 

* * *

あの方はやっと私のペンを受け取って、「御幸福を祈る。」と書いて下さった。なんて平凡な言葉、そしてほかの先生にくらべて最も短い言葉だった。小さい丁寧な字だった。

あの方はほかの卒業生たちのサイン・ブックにも、「御幸福を祈る。」とばかりお書きになった。

「先生。幸福ってどんなことですの?」と、あの方を少しからかうような調子で問いかける人があった。あの方は常になくきつい目色でその人を見ながら、「そんなこと、御自分に聞いて御覧なさい。」とおっしゃった。「でも、先生はどんな幸福を、私に祈って下さいますの?」とその人は押し返して言った。「幸福にいろんな種類があるなんて、私は考えたくないけれど。」と、あの方はおっしゃった。「私は先生とおんなじ幸福が欲しいわ。」とその人はささやいた。私ははっとした。しかし、あの方はなにげなく、「そう? そう思っていただいても、いいことよ。」と笑ってらした。(短編集『花のワルツ』より、新潮文庫、2012年、電子書籍版)

* * *

 

菊井先生がサイン・ブックに書いた言葉は、〔なんて平凡な言葉。他の先生に比べて、最も短い言葉。小さい丁寧な字。他の卒業生にも同じ言葉〕でした。ここから見てとれるのは、簡潔で、根本的で、重要な言葉と先生は捉えていたということです。

菊井先生が、常になくきつい眼をしていった言葉、「そんなこと、ご自分に聞いてごらんなさい。」

なぜ普段温和な先生が感情を乱してしまったのでしょう。それは、重要な言葉ととらえていた『幸福』について、からかうように聞かれたから。そしてこれは神秘学の格言『自分自身を知れ』に通じます。

主人公の宮子が「はっとした」のは、宮子も宮子と菊井先生だけの幸福を求めていて、それに気付かされ、そして他の女生徒もそうだったのだと知らされたから。のちに宮子は菊井先生が述べた事柄によって、幸福に満たされます。けれどそれは一時だけのことでした。

 

では幸福とは何でしょう。

多くの著名人がいろんなところで幸福について述べています。有名なところでは、アラン、ヒルティ、ラッセルの3大幸福論があります。

では、『朝雲』の菊井先生は女生徒にどのような幸福を祈ったのでしょう。

「幸福にいろんな種類があるなんて、私は考えたくないけれど。」「(生徒と同じ幸福と)思っていただいても、いいことよ。」と述べていることからうかがい知ることが出来ます。

河津七滝にある、川端康成の代表作『伊豆の踊子』のブロンズ像

河津七滝にある、川端康成の代表作『伊豆の踊子』のブロンズ像

 

ギリシアの哲学者、アリストテレスに『ニコマコス倫理学』という著作があります。彼の息子であるニコマコスが父アリストテレスの講義録を編集したので、このタイトルが付けられました。アリストテレスはこの中で「善の中の一番の善、つまり〔最高善(ト・アリストン)〕が、幸福であることに異を唱えるものはないだろう。だが、幸福というものは、人によって違うし、同じ人でも時と場合によって欲しいものは変わってくる。」しかし「善や幸福は究極の目的であり、それだけで満足できるものでなければならない。」と述べています。

つまり、女生徒たちは、それぞれの幸福を求めているのですが、菊井先生は、「究極の幸福」を女生徒たちそれぞれに祈っていたのです。

 

では、その幸福を達成するにはどうしたらいいのでしょうか。アリストテレスは述べています。「自分だけが幸福になることはできない。すべての人が幸福になること、それを目指して生きることが幸福である。なぜなら、人間の本性は共同の社会で生きるようになっているから。」

菊井先生はこう言いたかったのではないでしょうか。「皆さんそれぞれが幸福になってほしいの。誰かだけ特別ということではないのよ。」だからどの人のサイン・ブックにも同じように「ご幸福を祈る」と書き込んでいたのでしょう。

 

アリストテレスは次のようにも書いています。「「幸福な人にも、いろんな障害が生じる。それでも幸福な人は、その不運を受け止めて、それにふさわしい態度で接し、乗り越えていく。だから、幸福な人は、どんな状況に置かれても惨めな人間とはならない。」

神秘学(神秘哲学:mysticism)は論理と実践の学問といわれます。実践が伴わなければならないのです。

アリストテレスは述べています。「善い行いを積み重ねることが幸福につながる。他人に「それは偽善だ」と批判されても、善いと考える行動を続けることで、その人は『善』に近づく。幸福とは魂をすぐれた行動に導くことで、それが最も善きことである。」

 

『朝雲』の菊井先生はこう伝えたかったのではないでしょうか。

常に善い行いを心がけてください。

ひとが何と言おうと、信念をもってね。

それぞれの幸福が、全ての人の幸福になるように。

それが幸福になることですのよ。ご幸福を祈るわ。

 

ではここで、これを書いている私(森)はどうだろうと考えてみます。決して日々毎日、善行に励んでいるとは言えません。本当のところ、楽をしたり、サボったりの繰り返しです。私以外にもそういう人はいるでしょう。しかし、一気に聖人になれなくとも目指すことはできると思っています。

まず、アリストテレスの言う、批判ばかりする側になるのは止めたいと考えています。むしろ、批判されたり嘲笑されたりしながらも信念を貫いている人を応援したいと思っています。ですから、人それぞれのレベルで、少しずつ、しかし着実に進んでいければいいのではないでしょうか。

それがいつしか大きなうねりとなって、理想が樹立されるのを願って。それは恋い焦がれる主人公、宮子のようでもありますが… (空にたなびく白い雲を眺めて記す)

 

△ △ △

 

川端康成の短編小説といえば、『夜のさいころ』を思い出しました。何十年も前に読んだのですが、ある一場面をはっきりと覚えています。ネタバレになるので背景のご紹介だけですが、こちらは、母の形見の5つのサイコロを振る、浅草の踊り子の話です。

 

では、今日はこの辺で。

 

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