こんにちは。バラ十字会の本庄です。ずいぶんと寒くなってきました。
お変わりはありませんでしょうか。
さて、今日の話題は俳句です。俳句といえば、最も多くの人に知られているのは、きっと次の2つの作品ではないでしょうか。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(松尾芭蕉、1644-1694)
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規、1867-1902)
この正岡子規の句について、札幌で当会のインストラクターを行なっている森和久さんから、興味深い文章をお寄せいただいたので、今日はそれをご紹介させていただきたく思います。
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文芸作品を神秘学的に読み解く① 正岡子規
10月26日は『柿の日』ということで、その元となった正岡子規の
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
について考えてみた。
情景は「法隆寺の茶店に憩いて」という前書きが付いているとおり、「法隆寺に立ち寄り、茶店で柿を食べていると鐘が鳴り、秋を感じた」というものである。
中学校の教科書にも必ず取り上げられるほど、なぜこの句が、いまも広く知られ愛されているのだろうか。
ひとつは、法隆寺という1300年以上の歴史を持つ建物を組み込むことで、悠久の時の流れを背景に描いている。そして毎年つまり1年ごとに実を付ける柿、さらに一時(いっとき)ごとに時を刻む鐘の音。これらは、それぞれが独自の周期(サイクル)で繰り返されている。
しかし、あるときそれらが、奈良の斑鳩(いかるが)の里という空間と今年の秋の深まりという時間を含めて共鳴し、一体化している。ましてや自分もまさにそれらと一体化している。その素晴らしさよ、ということであろう。
鐘の音はそれを象徴するように響き渡っている、作者の心にも。そのため、この句を味わう私たちにも澄み渡った秋空と静かな夕刻が心の中に広がり、周期と「今ここ」の共鳴、意識と対象の一体化が伝わり響いてくるのではないだろうか。
子規はまず、
「晩鐘や寺の熟柿の落つる音」
という句を詠んでいる。鐘と寺と柿が、「今ここ」にあることの奥深さを感じたのだろう。その後にこの句を改作して、「柿くへば」の句を詠んだ。
なお蛇足ながら書き加えると「柿くへば」の「ば」は、仮定ではなく已然形の「ば」である。意味としては、「柿を食ったなら」ではなく、「柿を食ったところ」ということである。たとえば「住めば都」や「仰げば尊し」と同じ用法である。
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ある言葉が、どうも気にかかって心から離れないことが、誰にもあることと思います。
私ごとですが、この数ヵ月、次の俳句が気になってしかたがないのです。
「うらを見せ、おもてを見せて、ちるもみじ」
これは、良寛禅師(1758-1831)の辞世の句とされています。厳しい修行の果てに、計り知れぬほど高い境涯に達したとされる禅師は、この言葉で何を伝えたかったのでしょうか。
上の正岡子規の句とともに、思いを馳せるテーマにしていただければ幸いです。
いかがでしょうか。お楽しみいただけたなら、心から嬉しく思います。
それでは、また。
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