こんにちは。バラ十字会の本庄です。
今日の東京は、朝から晴れていましたが、午後になってから、どうも雲行きが怪しくなってきました。ひと雨来るかもしれません。
いかがお過ごしでしょうか。
私たちの働いている事務所は、板橋区の仲宿というところにあります。江戸時代の人が日本橋を出て中山道で京都に向かったとすれば、最初に通る宿場町です。
板橋に事務所を構えたのは7年ほど前で、それまでは新宿でした。新宿区では、当時、区内で事業を行っている人たちをウェブサイトで紹介してくれるというサービスがありました。
このサービスに申し込んだところ、区の職員の方々が、ヒアリングに訪れてくれました。
そのときに聴かれたのは、あなたがたが通信講座で扱っている神秘学(神秘哲学:mysticism)とは一体何ですか、宗教とはどのように違うのですかということでした。
このブログをお読みくださっている方々の中にも、「神秘学」とは一体何なのだろう、宗教とはどのように違うのだろうという興味をお持ちの方も多いのではないかと思います。
そこで、今回はこのことを、2500年ほどさかのぼって、ご説明したいと思います。
今、私の左側にある棚には、『神秘哲学』という題の本があります。30ヵ国語がペラペラだったという、ギリシャ、イスラム、東洋哲学の大家の井筒俊彦さんの本です。
「神秘哲学」も「神秘学」も、英語で言えば「ミスティシズム」(mysticism)であり同じものだと考えていただきたいのですが、この本で説明されていることのひとつは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといったギリシャの哲学者たちが研究し、当時の人たちに教えていたのが、まさに神秘学だったということです。
この3人はといえば、ヨーロッパの哲学の源流を作ったとされる人たちですから、神秘学というのは、何も特別なことではなく、西洋ではもともと哲学といえば、神秘学だったということになります。

では、神秘学とは何を指しているのでしょうか。このことを理解するためのキーワードは「宇宙」(コスモス:Cosmos)です。これは、先ほどの3人の哲学者の大先輩にあたるピュタゴラス(ピタゴラス)の作った言葉です。
参考記事:『コスモスとピュタゴラス-ささやかな実習』
現代に生きる人たちが「宇宙」という言葉によって思い浮かべるのは、無数に多くの銀河や星雲や星々が浮かんでいる空間、人工衛星が回り、国際宇宙ステーションが飛行している空間のようなものではないでしょうか。
しかし、ピュタゴラスが「宇宙」という言葉で意味しているのは、このような無味乾燥な宇宙とはややニュアンスが異なります。ですから、現代人が思い浮かべる宇宙と区別するために、ここでは〈宇宙〉と表すことにしましょう。
〈宇宙〉は、ピュタゴラスにとって、秩序、健全性、美しさという性質を合わせ持っている規則正しい全体のことでした。
少しわかりにくいかもしれません。具体的に説明します。
夜空に見られる星は、天球上で場所を変えることなく、いつも同じように美しく輝いています。一方惑星はといえば、一見複雑な動きをしていますが、長いこと観測をしていると、そこには規則正しさがあることがわかってきます。
太陽と月の動きも同じです。たとえば、日食は特定の周期で起こることが古代から知られていました。
大地には規則正しく四季が訪れ、私たちに作物の恵みをもたらしてくれます。昼と夜の長さにも、植物の花の形、葉の付き方にも、動物や人間の身体にも、その営みにも、すべてに規則正しさ(秩序)が表れており、すべてが関係して一体になっています。
この全体をピュタゴラスは〈宇宙〉と呼びました。〈宇宙〉は、天上の星々を表すマクロコズム(大宇宙)、人間を表すミクロコズム(小宇宙)、自然界を表すメソコズム(中宇宙)の3つに分類されますが、いずれにも見事な規則正しさが表れています。
ピュタゴラスはまた、〈宇宙〉とは一弦琴(弦が一本の琴)のようなものだと考えていました。この琴が奏でる最も低い音が物質の世界であり、最も高い音が絶対精神(神)であると考えていました。つまり、物質の世界も、精神の世界も、絶対的なものも、〈宇宙〉というひとつの全体の別の表れだと考えていたのです。
数学、道徳、音楽はピュタゴラスが特に力を注いだ分野ですが、数学とは〈宇宙〉の規則正しさ(秩序)を研究する学問であり、道徳は〈宇宙〉の規則正しさを人の行いに反映させることにあたり、音楽は、〈宇宙〉の規則正しさを地上で表現するための方法でした。
哲学者(philosophia:フィロソフィア)という言葉を作ったのもピュタゴラスです。この言葉はギリシャ語の「フィロ」(愛する人)と「ソフィア」(知識)からなります。哲学者とはもともとは、〈宇宙〉の持つ規則正しい性質を研究して、そこから得られた知識を愛する人のことを指していました。
国はよく治められて、〈宇宙〉のように規則正しく、美しく、健全な状態にされなければならないとピュタゴラスは考えていました。ですから政治家は、必ず哲学者でなければならなかったのです。
話を戻します。先ほどの本のまえがきに井筒俊彦さんは、神秘学の根本にあるのは「形而上学的思惟の根源に伏在する一種の実在体験」だと書いています。
難しくて理解できないですよね。わかりやすく説明すると、次のようなことです。
古代からよく知られていたことなのですが、音楽に深く入り込んだり、特定の方法で集中や呼吸を行ったり、収穫祭などの儀式に参加し感謝の思いが特に高まったときに、人は日常とは異なる、忘我の意識状態を体験することがあります。
この体験は神秘体験と呼ばれています。
琴の弦が、特定の関係にある他の弦と同調するように、人も、ある条件のもとでは〈宇宙〉と同調することができ、そのときに神秘体験が起こるとピュタゴラスは考えていました。そして、バラ十字会で学んでいる人の多くも、私も、このピュタゴラスの意見に賛成しています。
神秘体験には、ちょっと気の利いた思いつきが“天から降ってきた”ように感じられるものから、体験した人の人生観を完全に変えてしまうものまで、さまざまな程度のものがあります。
しかし、どのような程度のものであっても、神秘体験を得た人には、何らかの効用や進歩がもたらされます。
たとえば、長いこと悩んでいた問題を解決する方法がわかったり、ある芸術作品のモチーフを思いついたり、人を思いやる気持ちが深まったり、エゴと恐れを手放して、人生に積極的に向き合う力が得られたりするなどです。
神秘学で行うことは、大まかにいえば、神秘体験を得るための条件や方法について学び、実際に神秘体験を得るための練習を重ねて、神秘体験から得た成果を、自分と周囲の人のために役立てることです。
では、神秘学と宗教はどのように違うのでしょうか。
実は、似ているところもあります。どちらも、人生の謎を解き明かすことや、よりよく生きることを目的としているからです。
そして神秘学は、バラ十字会がご紹介しているような、宗教でない神秘学と、宗教神秘学の2つに大きく分けることができます。
そしてこの2つの違いは、次のように説明することができます。
先ほどから話題になっている〈宇宙〉の規則正しさ(秩序)ですが、その原因だと考えられるものには、歴史上、さまざまな名前がつけられてきました。
絶対精神、普遍的精神、YHVH、創造主、アラー、梵天、神などです。
そして、宗教神秘学と、宗教でない神秘学の主な違いは、この絶対精神のことを、人格であると考えるか法則であると考えるかということです。
ちょっとわかりにくいと思いますので、ご説明させてください。
たとえば、ギリシャの宗教の最高神はゼウス(ギリシャ語の「神」)ですが、当時の人はゼウスのことを、右手には雷を起こす武器を持った、ひげをたくわえた、筋肉が隆々とした男性として思い浮かべたことでしょう。
1680年にスミルナにて発見されたゼウス像 By UnknownMarie-Lan Nguyen (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons
現代では、このような素朴な神の姿を思い浮かべる人は少ないことと思いますが、それでも、一神教を信仰する方々の多くは、神のことを威厳と慈愛にあふれた人に似た存在だと思い浮かべるようです。
それに対して、宗教でない神秘学では、絶対精神(ここでは神と呼ぶことにしましょう。)のことを人格であるとは考えません。神とはそもそも知ることのできない性質のものであり、ただ、〈宇宙〉のさまざまな法則(Law)の原因であると考えています。
反対にいえば、〈宇宙〉のさまざまな法則こそが、神の表われであると考えています。法則といえば、物質の世界を支配している物理の法則のことをまず思い浮かべる方が多いことでしょうが、それ以外にも、カルマの法則、三角形の法則(弁証法の法則)など、いろいろな法則があります。
また、〈宇宙〉の法則と言うよりは、「〈宇宙〉のことわり」とか、「〈宇宙〉の摂理」とか、「〈宇宙〉の性質」と呼んだほうがふさわしいようなものもあります。
その代表的なものが「愛」です。
多くの宗教では、人格を持つ神が、人間や他の生きものを愛していると考えます。
一方で、宗教でない神秘学では、愛は〈宇宙〉の性質である、もしくは、〈宇宙〉は愛で満ちていると考えます。
このことは、ちょっとした差のように思えるかもしれませんが、なかなかどうして、そうでもない場合があります。
もし、神のことを、ある神話に登場する何か人の姿をしたような存在であると考えるならば、その神が、たとえばA教を信仰している人を愛し、B教を信仰している人は嫌うというようなことが、容易に想像されるのではないでしょうか。
一方で、絶対精神(神)が〈宇宙〉の法則として表れていると考えるならば、歴史的な経緯から人が作ったさまざまな宗教をもとにして、神が、ある人と別の人を差別するなどということは、考えにくいのではないでしょうか。
マハトマ・ガンジー(1869-1948)は、次の言葉を残しています。
「神は宗教を持たない。」
彼はヒンドゥー教徒ですが、その考えは、宗教でない神秘学に近いことがわかります。
誤解のないように付け加えておきますが、バラ十字会も私も、宗教を批判しているわけではありません。
宗教は人類の歴史の中で、無数に多くの人の道徳心を支える大切な役割を果たしてきました。
しかし、大部分の宗教が、それが発祥した時代の制約を受けています。
たとえば先ほどの例で言えば、ギリシャ・ローマ時代の多くの人は、現代人と異なり、〈宇宙〉のさまざまな法則の原因というような抽象的な概念について考えることができませんでした。
しかしそれ以降、人類の精神はずっと進歩を続けてきました。特に、20世紀には自然科学が大きな進歩を遂げました。
現代の宗教は、これらの進歩に沿うように、根本から変化することを迫られていますし、仏教やキリスト教では、そのような試みがすでに始まっているとのことです。
今回、お伝えしたかったことは以上です。
いかがでしたでしょうか。最後は、かなり立ち入った話になりました。
また、お付き合いください。
追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。
コメントは受け付けていません。