投稿日: 2019/01/18
最終更新日: 2022/12/09

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

東京板橋では、まだほんのわずかですが梅も咲き始めました。春が待ち遠しいですね。

いかがお過ごしでしょうか。

昨年、今まで行ったことがない場所に旅をしてみたいと思い、年末に出雲大社とその周辺を訪れてきました。

出雲には数多くの神話が残されています。「古事記」、「日本書紀」、「出雲国風土記」には、スサノオノミコト(素戔嗚尊)と、その子孫であるオオクニヌシノミコト(大国主命)という二柱の神にまつわる逸話が数多く登場します。

神話によれば、神々の国であるタカマガハラ(高天原)で乱暴なふるまいを繰り返したスサノオノミコトは、地上に追放され出雲に降り立ちます。

スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した話、因幡(いなば)の白ウサギをオオクニヌシノミコトが助けた話など、皆さんもご存知のことと思います。

かつて出雲の近辺には、古代遺跡があまり発見されていなかったことから、昭和初期には、これらの神話には何の歴史的な背景もなく、完全な作り話であり、出雲には古代史における重要性はあまりないと考えていた学者が多かったとのことです。

ところが昭和40年代に、四隅突出型墳丘墓という、特殊なピラミッド型の古墳が山陰でいくつも見つかり、昭和末期から平成にかけては、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)が島根県で大量に発見されました。

たとえば、出雲市の荒神谷遺跡で銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個、雲南市の加茂岩倉遺跡では銅鐸39個が発見されています。これらの遺物は現在、出雲大社の隣にある古代出雲歴史博物館に保管、展示されています。

加茂岩倉遺跡出土銅鐸
加茂岩倉遺跡出土銅鐸(クリックすると拡大されます)
銅鐸
(クリックすると拡大されます)

この写真のように大量の銅剣が並んでいる様子があまりにも壮観だったので、展示室の学芸員の方に、「いったい、何のためにこれほどの数の剣が埋められていたのですか」と尋ねてみました。

「ほぼ確実に分かっていることは、これらが個人の所有物ではなく集団の持ち物だったということです…。分からないこと、研究しなければならないことがたくさんあります…。正直に申し上げれば、埋められた理由ははっきりとは分かっていないと言って良いと思います」と、ていねいに答えてくださいました。

出雲市荒神谷遺跡で発見された銅剣
出雲市荒神谷遺跡で発見された銅剣(クリックすると拡大されます)

弥生時代の中期に、大和朝廷に先立って出雲王朝という一大勢力が存在していたと考える学者が、今では多くなっているとのことです。出雲王朝は、西日本の日本海沿岸だけでなく、近畿、四国、山陽という広い地域を支配していたようです。

今月の12日に惜しくも亡くなられた哲学者の梅原猛さんは、スサノオノミコトとは韓国から渡来した一族の首領であり、現地の人々を苦しめていた豪族ヤマタノオロチを退治して、出雲平野を中心に王国を築いたのだと考えていました。そしてその後に、南九州から勢力を広げてきた天孫(てんそん)族との戦いに敗れて、神話で語られているような国譲りを迫られたのだとしています。(梅原猛著、『葬られた王朝-古代出雲の謎を解く』、新潮文庫)

今回初めて知って驚いたことがあります。日本の神社には、出雲神話と深いつながりがある神社が数多くあります。

全国に25,000社ある諏訪神社は、長野県の諏訪湖にある諏訪大社が総本社であり、タケミナカタ神(建御名方神)を祭っています。この神はオオクニヌシノミコトの子供にあたります。古事記によれば、オオクニヌシノミコトが天孫族に国譲りを迫られたとき、その返答を任されたタケミナカタ神は、諏訪湖まで逃げ延びたものの、この地に追い詰められて国譲りを承諾しました。

東京の府中市には大國魂神社があります。名前の通りオオクニヌシノミコトを祭っている神社です。武蔵国に降り立ったオオクニヌシノミコトは、この地の野口家で一夜を過ごしたとされています。

野口家の主人の妻はそのとき妊娠していたのですが、安産だったので、オオクニヌシノミコトは安産の神でもあるとされています。

もう40年以上前の中学生時代のことですが、私は府中に住んでいました。大國魂神社で祭事が行われているときには、境内には、マムシの粉や爆弾あられを売る香具師(やし)や、大道詰め将棋が出現します。

懐かしく思い出します。マムシの粉売りは、マムシが入っているらしいカゴのふたを少しだけずらして、「危険があぶない!」と大声を張り上げて見物人を驚かせます。

大道詰め将棋を披露している人は、おそらくプロ級の腕前で、縁台将棋の腕自慢が、次々とお金を巻き上げられていきます。

爆弾あられとは、専用の圧力釜でお米を爆発させて作るお菓子で、景気の良い爆発音をたてて、子供を喜ばせます。

熊野神社も出雲神話にゆかりがあります。ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトが熊野山で臼と杵(きね)を用いて火を起こしたのが、日本で最初の火の使用であると言い伝えられています。出雲神社を古くから司る出雲国造(くにみやっこ)は、もともとは熊野神社の宮司であり、この二社のつながりを示す「火継神事」という行事が、毎年10月15日に出雲大社で今も行われています。

「備後国風土記」に書かれている伝説ですが、ある旅人が一夜の宿を求めたとき、裕福な巨丹将来(こたんしょうらい)という者がそれを断り、巨丹の貧しい兄であった蘇民将来(そみんしょうらい)が、この旅人をもてなしました。すると、巨丹の一家だけが疫病で滅びてしまいます。後に旅人は自分の正体がスサノオノミコトであることを明かし、今後、茅(チガヤ)の茎で作った輪を首にかけて蘇民将来の子孫であると唱えれば、無病息災が保証されると語ります。

関東、とくに荒川の流域には氷川神社という神社が多くありますが、この神社はスサノオノミコトを祭っています。この写真は、私たちの事務所のすぐそばにある氷川神社の石垣の北東の隅です。「蘇民将来子孫」と文字が彫られています。

東京都板橋区氷川神社の石垣(蘇民将来子孫)
東京都板橋区氷川神社の石垣

茅(チガヤ)は、ススキに似たイネ科の植物ですが、湿地帯に育つこの種の植物と古代出雲の人々には深いつながりがあったようです。

オオクニヌシノミコトが因幡(いなば)の白ウサギを助けたときに用いたのは、イネ科の植物のガマの穂の花粉でした。

出雲大社の神楽殿のしめ縄
出雲大社の神楽殿のしめ縄(クリックすると拡大されます)

出雲大社の神楽殿のしめ縄(写真)は、重さが1,100キロもある巨大さで有名です。宮司さんに教えていただいたのですが、この神社のもっとも中心に位置する特別に神聖な場所(八足門の内側)では、しめ縄は稲わらや麻わらではなく、マコモの茎で作られるとのことです。マコモには神の威力が宿るとされ、出雲大社にはマコモを用いる神事がいくつかあります。

これも宮司さんにうかがった話ですが、「オオクニヌシ」という名前は、もともとは固有名詞ではなく、おそらく「国を治める人」という地位を意味していました。そして、インドのシバ神の化身である大黒天と同一視されたり縁結びの神とされたりしたのは比較的後年のことであり、本来は明らかに農業神であるとのことでした。

ちょうど年末の寒波が襲来しているときに、私は車で出雲に向かっていました。厚い雲を通して日の光が地平線に少しだけ射していました。ああ、あそこが雲出ずる国なのだと思いました。到着したときには固い雪が降り始め、顔にあたると痛いほどでした。山陰の冬の厳しさの一端を味わうことができ、古代の人々に思いを馳せることのできた不思議な日々でした。

ここまで読んでくださった皆さんにも、少しでも雰囲気を味わっていただくことができたなら嬉しく思います。

では、今日はこの辺りで

また、お付き合いください。

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