こんにちは。バラ十字会の本庄です。
いかがお過ごしでしょうか。
今朝はいつもより少し早起きをして、探査機はやぶさ2の着陸のライブ配信をずっと見ていました。タッチダウンの成功の速報が出て、プロジェクトに携わっている方々が喜びに沸く姿に、感動で心が熱くなりました。
以前このブログでも触れたことがありますが、このプロジェクトは日本だけでなく、世界中の人たちの協力によって成立しています。
ある方がツイッターに「JAXAおめでとう! 人類おめでとう!」と投稿しているのを読んで、ふたたび心が熱くなりました。
さて唐突ですが…、話は現代から平安時代に変わります。
札幌で当会のインストラクターをされている私の友人から、『今昔物語』にまつわる文章を投稿いただきましたので、ご紹介させていただきます。
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文芸作品を神秘学的に読み解く(14)

「兄弟二人、萱草・紫苑を植ゑし語」-『今昔物語集』より
『今昔物語集』の作・編者は不明で、書名は各話が「今は昔」で始まることに由来します。千話以上を収録しており、平安時代末にまとめられました。今回はその中の一編(第31巻第27)を取り上げてみます。
今は昔、あるところに2人の兄弟がいた。ある時、二人の父親が死んでしまった。2人は嘆き悲しみ、埋葬し、何年か過ぎても父親のことを忘れることがなかった。
しかし、さらに何年も経つと、兄は仕事が忙しくなり、「私はこのままでは立ちいかない。萱草(かんぞう)という草は、それを見た人が思いを忘れてしまうらしい。だから墓の周りにこの草を植えてみよう」と考え、父親の墓へ萱草を植えた。その後、弟はいつも兄を墓参りに誘うが、都合が合わず兄は墓参りをすることがなくなった。

弟はそんな兄を嘆かわしく思い、「私たちは父親を慕うことで日々暮らしてきた。兄はすでに忘れてしまったようだが、私は絶対忘れはしまい」と心に誓う。「紫苑(しおん)という草は、それを見た人の心にあるものを決して忘れさせないらしい」と墓の周りに植え、いつもお参りに行き目にすることで、ますます父親のことを忘れることはなかった。
そうして年月が過ぎたある日、弟がいつものように墓参りをすると、墓の中から鬼が語りかけてきた。この鬼は墓守の鬼で、父親を想う弟の心根に感心し、この弟に予知能力を授けてくれた。それから弟は身の上に起こることを夢で知ることができるようになった。これは親を慕う心が深かったからである。

以上が物語の内容です。父親のことを忘れたかった兄は、萱草を植え、忘れたくなかった弟は、紫苑を植えました。物語の最後にこう付け加えられてあります、「嬉しいことのある人は紫苑を植え、いつも見るように。また憂いのある人は萱草を植えて、いつも見るべきであると語り伝えられている」
では、物語の時間経過を見てみましょう。まず兄が墓に萱草を植えます。そしてその草を見た兄は父親のことを忘れます。しかし、同じように萱草を見ていたはずの弟は忘れません。萱草自体に忘れさせる力があるなら弟も忘れるはずですね。
『今昔物語集』をさかのぼることさらに約400年前の『万葉集』の中に大伴家持の次の歌があります。(第四巻727)
(原文)萱草 吾下紐尓 著有跡 鬼乃志許草 事二思安利家理
(訓読)忘れ草我が下紐に付けたれど醜の醜草言にしありけり(わすれくさ わがしたひもに つけたれど しこのしこくさ ことにしありけり)
(大意)(恋心を忘れさせてくれるという)忘れ草を下着の紐につけたけれど、役立たずのひどい草で、(忘れ草とは)名ばかりです(少しもあなたのことを忘れられません)
もう一つ万葉集より詠(よ)み人知らずの歌。(第十二巻3062)
(原文)萱草 垣毛繁森 雖殖有 鬼之志許草 猶戀尓家利
(訓読)忘れ草垣も茂みみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり(わすれくさ かきもしみみに うゑたれど しこのしこくさ なほこひにけり)
(大意)忘れ草を垣のようにぎっしりと植えたけれど、まったく役立たずのひどい草で、ますますあなたのことが恋しくなりました。
この2首は、忘れ草であるはずなのに全く効き目がない、役立たずでダメな草だと萱草をののしっている風を装っていますが、作者の本心は「あなたを忘れようとしても忘れられない。忘れ草の助けを借りても役に立たないほど私の心はあなたに夢中」ということを暗に伝えていますね。
忘れる気などないということです。
つまり萱草も紫苑もアイテム的なものであり、重要なのは自分自身の意志力ということになります。たとえばお守りやお札、そして像やシンボルマークなどもそれらは物理的には無力です。しかし私たちはそれを通して意志力や集中力を高めることもできるのです。
ところで、「紫苑」=「忘れな草」と時々誤解されることがあります。「忘れな草」というのはドイツ語で「フェルギス・マイン・ニヒト」(Vergissmeinnicht)、その英語名「フォゲット・ミー・ノット」(Forget-me-not)を和訳した春に空色の花が咲く別の草です。
花言葉は「私を忘れないで」であり、忘れないことを相手に委ねています。

一方、「紫苑」は秋に薄紫の花が咲く草で、別名「(鬼の)醜草」(しこくさ)と呼ばれます。花言葉は「私はあなたを忘れない」で、私が主体で能動です。だからこそ弟は父親のことを忘れないという強い意思表示を成せたわけです。
別名の「鬼の醜草」というのはこの今昔物語集の話が元になって付けられたようです。紫苑は「しおに」とも書かれ、鬼は「しこ」とも読まれます。
「しこ」とは強いものの意もあります。力士が「しこを踏む」と言ったり、「醜の御楯」(しこのみたて)という言葉もあります。醜の御楯は天皇の盾となって外敵を防ぐ者、または、武人が自分を卑下して言う言葉です。
『今昔物語集』は12世紀初め頃の成立で、『万葉集』は7世紀後半から8世紀前半の成立です。
ここからは想像ですが、万葉集がまとめられた頃は、萱草=忘れ草という認識だけだったのが、今昔物語集が書かれた頃には、萱草=忘れ草、紫苑=忘れぬ草という言い伝えが確立していて、かつ「忘れられない」紫苑は役立たずの草=醜草という認識になっていたのでしょう。
今昔物語集-鈴鹿本(鎌倉中期写)、岩波書店 [CC0](Public Domain)
しかし、今昔物語集のこの物語の作者は、「忘れないことの方が(直接的に)いいことだってあるんだ」ということで、この物語を産み出し、幸福の使いとして鬼を登場させたのではないでしょうか。
つまり、(忘れることが出来なく)役立たずで酷い=醜の醜草=鬼の醜草→400年後→忘れないことの良さを明言→醜草=紫苑→鬼の善性。これらが繋(つな)がり意味づけられていったのではないでしょうか。
「忘れない」という強い想いは、日を経るごとに増していくものです。それが心の支えになっているのであれば「忘れないことが良い」場合もあるでしょう。
では、最後に次の短歌を見てください。詠まれたのは今昔物語集より約800年後です。
醜草の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思う
(しこぐさの しまにはびこる そのときの みくにのゆくて いちずにおもう)
栗林忠道中将(戦死後に大将に親任される)による辞世の句3首のうちの最後の1首です。ご存知の方も多いと思います。
硫黄島の戦いにおける最高指揮官であった栗林中将は昭和20年3月、硫黄島で玉砕しました。「醜草」の一語から前記に述べたような事々が関連付けられ思い起こされます。
栗林中将は「醜草」に忠誠の気持ちと祖国を思い続ける意志を深く込めたのではないでしょうか。
年月は過ぎ、昭和から平成へ、そして平成ももうすぐ終えます。でも「私は忘れない」という想いはどんどん広がっていきます。
先世(せんせい)や曩祖(のうそ)たちが命を懸けて守ってくれた祖国を、私たちは、「こんなに立派な国になりました」と報せられるような国に築き上げたいではないですか。
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ふたたび本庄です。
高校生のときに、三軒茶屋という街で親しい友人と喫茶店通いをしていたことがあります。詰め襟の学生服を脱いでカバンにしまい、さまざまな喫茶店に入り、青臭い議論をたびたび交わしていました。
大人に見られたくて背伸びをしていた、今思い出すとやや気恥ずかしい記憶です。
この街に「紫苑」という名の喫茶店がありました。外から店内の様子は全く見えず、入り口は重厚な扉でした。
気後れして、結局この店には一度も入ることがなかったのですが、40年以上が経った今でも、その風景を覚えています。もしかしたらその名前のせいでしょうか。
先ほどの格調の高い文章の後では、蛇足の、つまらない話でした。
下記は、森さんの前回の記事です。
では、今日はこのあたりで。
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