こんにちは。バラ十字会の本庄です。
今日はお盆の16日ですので、送り火や灯ろう流しが各地で行われることでしょう。寂しさとともに、心が凪いだように静まるひとときではないでしょうか。
いかがお過ごしでしょうか。
お盆というこの機会に、このブログでは、米国の思想家ケン・ウィルバーの書いた、初期の仏教の“進歩”についての文章をご紹介させていただいています。
前回の記事からの続きになっていますので、まだお読みでない方は、よろしければそちらを先にお読みください。
参考記事:『お盆と初期の仏教』
前回の話をまとめると、このようになります。
初期の仏教の目標は、迷いの状態を脱して、涅槃の状態に入ることでした。
しかし800年後の西暦2世紀に、南インドに龍樹という人が現れ、迷いと涅槃(悟り)という異なる2つの性質のものが共に存在しているということは、奇妙なことだと考えました。
(以下の文の、文頭のカッコ内は私の補足です。)
▽ ▽ ▽
龍樹は、迷いと涅槃という異なる2つの性質のものがあるのでは、実在(訳注)が真っ二つに引き裂かれてしまうので、人は解放されるのではなく微妙な幻想に囚われてしまうと考えたのでした。(中略)
訳注:実在(Reality):世界の真の姿。
(彼の考えでは、実在にそのような2つの性質があるのではなく、)実在を、概念とカテゴリー(訳注)を通して人間が見たときには、迷いの世界として現れるのであり、同じ実在を、概念化とカテゴリー化から解放されて人間が見たときには、涅槃の世界になります。
訳注:概念とカテゴリー:カテゴリーとは共通の特徴を持つ人や事物の集まりのこと。集合とほぼ同じ意味。カテゴリーを作る共通の特徴が抽象的なものである場合、そのカテゴリーは概念と呼ばれる。虹の光は内側から外側へと連続的に波長が変わっているが、それを7色であると見れば、色彩を表す言葉によって作られるカテゴリーを通して虹を見ていることになる。
ですから、迷いの状態と涅槃の状態は別の2つのものではなく、“ノンデュアル”(訳注)です。
この考え方が、仏教の思想と実践に一大改革を巻き起こします。(中略)
訳注:ノンデュアル(non-dual):非二元的。実際には別々の2つものではないということを表す形容詞。名詞はノンデュアリティ(non-duality)。
(迷いの世界に陥らないためには、実在をあるカテゴリーによって判定してはなりません。たとえば無であるかどうかを判定してはなりません。そこで、)龍樹はこう言っています。「実在は無ではないし、無でないのでもない、その両方でもないし、そのどちらかでもない。それは〈空〉と呼ばれる」。(中略)
(さてこれから、カテゴリーや概念を用いることができないので、原理的には)語ることも示すことも直接理解することもできない〈空〉の要点を、比喩を用いて説明していくことにします。(中略)
概念とカテゴリーを通して見るならば、世界は、完全に別々である個々の事物から構成されている迷いの世界として現れます。
そして、世界をそれらの個別の事物であると捉えて、それらに執着することで「苦」が生じます。
なぜなら、すべての事物は、最終的には別々になるからであり、どのようなものに執着したとしても、遅かれ早かれ、それと別れるときに「苦」が生じるからです。(中略)
(悟りとは、目覚めだということができます。)では、何に目覚めるのでしょう。これもまた、最善を尽くしたとしても比喩でしかありませんが、徹底的な自由、無限の解放、あるいは徹底した輝かしさ、〈空〉そのものの愛に目覚めるのだということができます。(中略)
形ある世界(Form)と〈空〉の関係を説明するために、よく用いられる比喩を使うならば、それは、波と海のようなものです。
たとえば、山を見ていたり、幸せを感じていたり、恐れを感じていたり、飛んでいる鳥を見ていたり、モーツァルトの音楽を聴いているような、限定された典型的な意識の状態は、すべて部分的な状態であり、それゆえに、他の状態とは別のものになっています。ですから、それらの状態すべてには始まり(誕生)があり、終わり(死)があります。
それらは、海にある個々の波のようなものです。個々の波は、ある時に生じ、特定の大きさ(小さい、中くらい、大きい)があり、最後には消えていき、そしてもちろん、それぞれが異なる個別の波です。
しかし、〈空〉すなわち個々の瞬間の実在は、まさにむきだしの存在であり、単に「それそのものであること」、「そのようであること」、「存在するという性質」であり、それは海の湿り具合のようなものです。
どのような波も、他の波よりも、より湿っているなどということはありません。ある波は、別の波よりも大きかったりしますが、より湿っているわけではありません。(中略)
そして、ある波が別の波よりも長く続いたりすることはありますが、より湿っていることはあり得ません。
ある波は、海の中で最も小さい波よりも、それそのものであるという性質や、そのようにあるという性質を、より多く持っているわけではありません。
そして、このことが意味するのは、私たちの精神の状態が、今まさにここで、どのようなものであったとしても、それは「悟った状態」と完全に同じなのであり、あなたが余分な足を手に入れることができないのと全く同じように、今以上に悟りを手に入れることもできないということです(このことは、ある波が、今以上に湿ることはできないのと同じです)。
悟りと、そして、悟りによって明らかになる「偉大な精神/偉大な心」は、常に存在する実在なのであり、私たちに必要とされることは、それを把握することだけなのです(このことについては、後に触れます)。(中略)
(以上のような)中論(訳注)に示された〈空〉についての考え方は(中略)、大乗仏教と密教のほとんどすべての宗派の基礎になりました。(中略)
訳注:中論(Madhyamaka):龍樹の主著。そこから生じた宗派は、中観派と呼ばれる。
西暦4世紀が近づくと、次の疑問が特に、しきりに取り上げられるようになります。絶対的実在というものが、二元的な用語や概念を用いたカテゴリー化をまったく許さないものだとすれば、それについて語れることは、そもそも全く一つもないのだろうか。
少なくとも、通常の真実(俗諦)という範囲内で、実在に関して、それを把握するためのシステム、地図、モデルのようなものを提供することはできないのだろうかという問題意識です。
(ケン・ウィルバー著『The Religion of Tomorrow』(Shambhala Publications, Inc.)、第1章 “A Fourth Turning of the Dharma”)
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バラ十字会は、いかなる宗教とも独立した立場を採っているのですが、会員の方々に提供している教材が「実在の探究」に深く関連していることもあり、お盆というこの機会に、2回にわたって、仏教についての文章を紹介させていただきました。
ここまでお読みくださった方は、仏教が始まってからの1000年ほどの歴史を旅したことになります。ほんとうにお疲れさまでした。
ちなみに、今回ご紹介した文章の最後に書かれていた、実在を理解するためのシステム、地図、モデルについて、ケン・ウィルバーはこの文章の続きで説明しています。そして彼はそれを、仏教の“進歩”の新しい段階だと考えています。
それを作ったのは、無着(むぢゃく、Asanga)と世親(せしん、Vasubandhu)という北西インド出身の天才兄弟であり、その説は、瑜伽行(ゆがぎょう)派(Yogacara)あるいは唯識(ゆいしき)派と呼ばれています。
『西遊記』は、マンガ化やドラマ化されて有名になりましたが、玄奘三蔵という中国の高僧が、孫悟空らに助けられて、この唯識を学ぶためにインドに渡ったときのことをテーマにした小説です。
唯識派は日本では法相宗と呼ばれており、薬師寺や興福寺など、奈良の多くのお寺で教えられています。
このブログは、来週はお休みしますが、再来週は、当会のフランス本部代表のブログから、まったく別のテーマの文章を選んでお届けする予定です。
また、お付き合いください。
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