こんにちは。バラ十字会の本庄です。
いかがお過ごしでしょうか。新型コロナウイルスのニュースが続き、気が滅入りがちではないでしょうか。
今は感染防止への協力と忍耐の時ですが、気分転換のために、しばらく空想の世界で遊ぶというのはいかがでしょうか。
札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人から、そのためにうってつけの本を教えていただきました。
(平行植物の写真は残念ながら手に入らなかったので、以下には、以前に撮影した、やや珍しい植物の写真を載せています。)
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文芸作品を神秘学的に読み解く(21)
『平行植物』 レオ・レオーニ
北アメリカのインディアンの伝説、アフリカ諸部族の神話、さらにはシベリアの古い物語にも取り上げられていたという平行植物「ツキノヒカリバナ」をご存じでしょうか?
名前を知っているとしても実際に見たことがある人はいないでしょう。本文にはこうあります、「自然環境において、暗闇で交差する明滅する光と空っぽな空間の不明確な相互作用としか認めることができず、漠然として概略がどこにあるかも判らない」というのです。さらに月光の中にO(オー)因子というものが存在し、これによってのみツキノヒカリバナの存在は明らかにされるというのです。
本文ではこう続きます、「日の光は物体を照らしだし、世界中でがらくたに至るすべてのものにくだらない意味を与える。しかし、夜は黒い光、透明な暗闇のような我々が知覚できない秘密の魂(soul)そのもの以外は、すべてを取り去ってしまう」。
本書でも言及されているように、太陽が世界の万物を支配する絶対的力を持つことは、古代エジプト時代において、太陽をラー神として崇めていたことからも知られています。また古代エジプト第18王朝のファラオ・アクナトン(アクエンアテン)は『アトン(太陽)賛歌』を著しました。
これは旧約聖書詩編104章にも取り込まれています。アトン賛歌は万物の神である太陽神への揺るぎない崇拝を高らかに歌い上げています。
それに対して、「夜は、すぐさま1日を翌日に繋いでいる暗い通路でしかなく、幻想(visions)と記憶の場所、言葉とイメージの倉庫になってしまった」と著者のレオ・レオーニは述べています。
しかし同時に、消滅した植物がもう一度その花冠を月に向かって捧げる秘密の隠れ家にもなったというのです。その後数千年を経て過去の夜に咲き誇った黒き花々が、再び地上に生まれ出ました。それがこのツキノヒカリバナということです。
同書に収められた著者自身によるツキノヒカリバナの明瞭なスケッチを見ていると、その幻想的な美しさに見とれてしまいます。図に添えられたキャプションによると「銀色に輝く金属状の種子をのせた花冠を月に向かって捧げる、通称『夢の女王』。月の隕石とともに地球へやってきた植物」とのことです。
さらに日本製のカメラで撮影された高さ3メートルにも及ぶ大型の種(シュ)である「オオツキヒカリ」の写真は、畏敬の念を感じさせるものです。
この写真のキャプションにはこうあります、「アンドラパティ谷の闇の中に忽然と現れた幻のような姿は、詳細に記録されたのちかき消え、二度と再び戻っては来なかった。」
また古代シュメール人がツキノヒカリバナを求めて、満月の砂漠を歩き回る様子を描いた浮き彫りも本書には収録されています。そのキャプションによりますと、「当時の人々が巨大な月の破片と考えていた隕石の陰に、ツキノヒカリバナが大量に自生していた」ということです。
本書によれば、かつてのツキノヒカリバナは地面からは完全に離れて存在していたのではないかということです。それはつまり、「生存という問題は平行植物には当てはまらず、したがってこれらの植物は地面との接触を維持する必要はまったくない」ということです。
この本には平行植物の仲間として、とても魅力的な数々が取り上げられています。遠くから見ても近くに寄っても同じ大きさに見えるという「フシギネ」。対称性の美しい姿に魅せられる「森の角砂糖バサミ」。その迷路状の葉脈でアリアリマキ(antaphid ants)を絶滅させたという「アリジゴク」。
自然が芸術を感化するのか、芸術が自然を感化するのかどうか考えさせられる「マネモネ」。アンダルシア地方のジプシーが踊るフラメンコのリズムを表す螺旋状のこぶを持つ「夢見の杖」。他にも様々な平行植物が掲載されています。
では平行植物とは一体何なのでしょうか? 本書によると、「遠くから見るとそれらの印象的な「植物性」は、ありふれた植物群に見かける奇形の1つであるように我々を欺くかもしれない。しかし、目の前の植物は実際には完全に別の領域に属しているに違いないことにすぐに気付く。
架空の空間に隔離された動きのない、不滅の植物たちは、それらを取り巻く生態学的な渦に挑戦を投げかけているようだ。それらについて主に我々を襲うのは、具体的で見慣れた物質がないことである。
この平行植物の「無意味さ」は、それら特有の現象であり、主に周囲の通常の植物と区別されているものであろう。」と説明されます。
平行植物は、「2つのグループに分類されるが、高次と低次に分けられる通常の植物の場合のような区別は、異なる進化レベルを意味しないのだ。それどころか、平行植物に割り当てられた2つのカテゴリーは、植物が我々に知覚される2つの方法から派生している。
最初のグループのものは感覚によって直接認識でき、科学的手段によって間接的に認識できる。しかし、2番目のグループのものははるかに神秘的でとらえどころのないもので、イメージ、言葉、またはその他の象徴的な記号を通じて間接的にのみ我々の知覚に行き着く。」ということです。
また、平行植物の研究に伝統的な研究方法を適用することの困難さは、主に平行植物の無実体性に起因します。実際の器官または組織を持たないため、平行植物が植物であるという幾つかの事実がなかったらば、その特性はまったく定義できないでしょう。
さらに、当然のことながら、平行植物には成長による変動はありません。成長は平行植物では発生せず、その平行植物は時間の永久停止の結果なのです。
さらなる詳細は本書をお読みいただきたいと思いますが、著者によれば「植物である前に言葉であった植物群のフィクション」であり、この本の主題は幻想の植物ではなく、幻想そのものということです。
私たちは時として目で見えるもの、さらに目に見える形状に真実を見いだそうとしてしまいます。しかし、神秘学では、不可視の存在や錯覚による誤謬の有無の認識を重要と捉えています。
全てのものは震動しており、それぞれの違いはその振動数の違いでしかないということを理解しなくてはならないということです。
また振動数は違ってもオクターブ毎に同調し、例えば不可視のものも、ある可視光の振動数と同調していれば、色彩を持つものとして認識できることも解き明かされています。
この『平行植物』は知的好奇心を湧き起こしてくれる上に、現実と幻想の境界の不透明性、さらには、それらの併存可能性を示唆してくれます。
元々この作品は、学術研究書の体裁を借りた(幻想)文学です。その本格的装丁も作品の一部なのです。日本語版で名付けられた平行植物のそれぞれの和名は的を射たセンスの良さを感じます。
なお、日本語版では原書にある幾つかの図版が省略されています。加えて図版の配置がまとめられてしまっています。そうではあってもきっと探究心を満たしてくれるはずです。幻想の庭への冒険をあなたもいかがでしょうか。
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ふたたび本庄です。
レオ・レオーニさんは、オランダ生まれのイラストレータで、多くの絵本も書いているとのことです。
『平行植物』という本のことを私は初めて知りましたが、同じジャンルの『鼻行類』という本を読んだことがあります。
南洋ハイアイアイ群島で発見された鼻で歩く動物たちについて知りたい人は、こちらもいかがでしょうか。
では、今日はこのあたりで。
下記は、森さんの前回の記事です。
『桜の園』
また、お付き合いください。
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