こんにちは。バラ十字会の本庄です。
私たちの事務所のすぐ近くにある板橋は、石神井川にかかる旧中山道の橋で桜の名所です。今まさにソメイヨシノとオオシマザクラが満開で、行き交う人たちが写真を撮ったりしています。
いかがお過ごしでしょうか。
今回は、作編曲家の渡辺さんからの寄稿「数とは何か」というシリーズの第6回です。「ゼロ」との関連で、「有」と「無」が話題として取り上げられています。
前回(その5)は、下記で読むことができます。
『数とは何か - 弦から生じる倍音と数』(その5)
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数とは何か?(その6)
~形而上学における数の概念~
数学的な大発明とも言える「ゼロ」という概念ですが、今回は、この「ゼロ」や「無」という概念について、形而上学的な観点からも考察してみたいと思います。
■ 「ゼロ」とは?
“「ゼロ」の起源はインドである”と聞いたことがあるかもしれませんが、“数学で使用する数字としての「0(ゼロ)」を発明したのはインドである”という言い方のほうが正しいかもしれません。
今日、私たちは、十進法などの位取り記数法で10や100を表す際に「0」を使用しますが、これは単にその位が「空位」であることを表すものであり、何もないことを表す「無」の概念とこの記号としての「0」は異なるものとなります。
桁の空位を表す数字の「0」としては、バビロニアやギリシャ、マヤ文明などでも記号を使って表されていたようですが、インドにおいて、この「ゼロ」という概念に実体として「0」が与えられ、数学としての実用性が飛躍的に向上しました。
■「無」とは?
形而上学的に「無」とは、何もないことであり、考えることも議論することさえもできないものとして考えられています。
似たようなものとして、仏教における「空(シューニャ)」という概念もありますが、これは「無」とはまったく異なる概念になります。
簡単に説明すると、「空」とは、「すべては因縁によって生じるので、実体と称すべきものがなく空(むな)しい」という仏教の教理ですが、「無」とは、その因縁さえも無い、まったく何も無いということを表しています。
そして、自然界には「0(ゼロ)」というものは存在しません。
木が0本、動物が0匹など、この場合の「ゼロ」は思考上の産物にすぎません。
しかし、何かが存在すると、「有る(1)」という状態が生じ、その対として「無い(0)」という概念が生じます。
例えば、「木が一本あったが、無くなったので0本になった」などのように考えることによって「0(ゼロ)」というものが思考上に現れます。
ですので、この場合の「無」とは、「有」との対であるとも言えます。
■「光」と「闇」
同じような対として、光と闇、善と悪などのようなものがありますが、上記のことを踏まえて考えるとどうなるのでしょうか?
神秘学においては、「闇」は「光の不在」として、「悪」は「善の不在」として考えられています。
「闇」というものは、それ自体で存在しているわけではなく、「光」という実在に対して、「光」の不存在を表すものであり、先ほどの「有」と「無」の概念と同様のものであると言えます。
言い換えれば、「有る」ことと「無い」ことは表裏一体であり、本質的にはどちらも同じことを表しているとも言えます。
もう少し詳しく説明をすると、
完全な「無」とは、存在さえ無いことであり考えることさえもできませんが、「有る」ということを前提とすると、それが「無い」ということを生じさせます。ですからこの場合の「無い」とは、「有る」ということを別の角度から見たものであると言うことができます。
■「0」を掛けるということ
数学的には、ある数字に0を足したり引いたりしても元の数と同じになりますが、ある数字に0を掛けると0になります。
たとえ、どんなに時間をかけて複雑な計算をしたとしても、最後に0を掛けてしまうとすべてが0になってしまうという、笑えないほど悲しい結末になってしまいます。(笑)
では、果たして、実在する物体に0を掛けることはできるのでしょうか?
残念ながら質量保存の法則などにより、実在する物の姿や形は変わったとしても、完全な「無」にすることはできません。
では、少し視点を変えて、人間に0を掛けることはできるのでしょうか?
■「ゼロ」=「無」=「死」?
個人的には、「0(ゼロ)」という概念を導入することによって現代人が得たものとしては、死に対する誤った概念ではないかと思うことがあります。
よく、「人が死んだら?」「死後の世界は?」「生まれ変わりは?」など、生きている人間が持つ疑問として「死」という問題が付きまといますが、この「ゼロ」=「無」=「死」という連想により、現代では、人は死ぬことによって何も残らない、という概念が多少なりとも形成されているような気がします。
古代文明をはじめ、古の時代には、死というものは新たな旅の始まりとしてとらえられていたのですが、科学が主導権を握るようになった現代では、「死」とは、まるで数学の「0」のように、すべてが無くなってしまうかのようなイメージを持ってしまいがちです。
しかし、実際には、我々は「有る者(1)」として、様々な数字を足したり掛けたりして、人生の起伏を体験することができます。
そして、神秘学的には、「有る者(1)」から「有るということ(1)」を引くと「無(0)」になり、これはある意味で死を表していますが、この場合の「無(0)」とは「有る」ことと表裏一体の「無い」であり、常に「有る」ことと対をなしています。
ですから、神秘学で語られる「輪廻転生」とは、「無」という「死」は、常に「有」という「生」と対をなし、二重螺旋のように交互に表れるものとして表すこともできます。
繰り返しになりますが、我々「有る者(1)」には様々な数字が加減乗除され、その結果、様々な喜怒哀楽や人生の起伏が生じますが、不意に「0」を掛けられることはあったとしても、自分から「0」を掛けない限り、この旅は終わることはありません。
この世界に「秘数術」というものがあるとすれば、案外、このようなことなのかもしれませんね。
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ふたたび本庄です。
私が「無」という言葉から思い起こすのは、「無門関」という禅の書物と次の老子の言葉です。
「万物と無は同じ顔をしている。」(老子道徳経)
さて、渡辺さんが文章中で紹介していた図案は、ケーリュケイオン、別名カドゥケウスと呼ばれます。ギリシャ神話で神々の伝令とされるヘルメス神の持っている杖です。伝令として神の言葉を素早く伝える必要からヘルメス神の背中には翼が生えていて、この図案の上部はその翼を表しています。
ヘルメス神は、ローマ神話では商人、羊飼いの神とされましたが、その素早さから、博打打ち、嘘つき、盗人の守護神ともされていました。
ギリシャがエジプトを征服した時代に、ヘルメス神はエジプトのトート神と同じ神だと考えられるようになり、ヘルメス・トリトメギストスという名前で錬金術の達人とされました。
ヘルメス・トリトメギストスが書いたとされるエメラルド・タブレットという有名な文書があります。以前にその解説を書いたことがありますので、ご興味のある方はこちらをご覧ください。
参考記事:『エメラルド・タブレットとは』
次回は打って変わって、和楽器とお祭りが三度の飯よりも好きだという、山形県村山市に住んでいる私の友人からの寄稿をご紹介する予定です。
またお付き合いください。
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