こんにちは。バラ十字会の本庄です。
東京板橋でも、きびしい残暑が続いています。
いかがお過ごしでしょうか。
札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人が、堀辰雄の小説「風立ちぬ」についての文章を寄稿してくれました。同名の松田聖子さんの歌もこの小説からインスピレーションを得て作られています。
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文芸作品を神秘学的に読み解く(29)
『風立ちぬ』 堀辰雄
「それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がときおり熱を出すこと位だった。それは彼女の体をじりじり衰えさせて行くものにちがいなかった。(略)私達のいくぶん死の味のする生の幸福はその時は一そう完全に保たれた程だった。」 「私」と節子が出会った頃、二人はこうして日々を過ごしました。
秋近くになったそんなある日の午後、一陣の風が吹き節子の描きかけの絵がイーゼルごと倒れ落ちました。「すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。」 『風立ちぬ、いざ生きめやも。』(風が吹いた、さあ生きていこう。) 「私」はこのフランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節をリフレインしていました。
以上はこの物語の最初の章『序曲』の冒頭部分です。『序曲』では「私」と節子の婚約前の事柄が述べられています。そこでは節子の父の存在が精神的に大きく、「私」にも節子にものしかかっているのがわかります。節子と父の家族としての絆の強さが「私」と節子の危うい関係性を凌駕しているようです。これは最後まで続き、二人の関係は結婚まで至らず婚約状態のままです。
「私」は節子の従順さに愛おしさを感じ、経済的に自立し立ち行くようになり「どうしたってお前を貰いに行く」と、自分自身だけに言い聞かせます。
続く『春』の章では、すでに二人は婚約しており、節子の父の勧めもあり、二人はF(※1)のサナトリウムで、転地療養することになります。
節子は「私、なんだか急に生きたくなったのね…」「あなたのお陰で…」と小声で言います。しかし、これは本心ではありましょうが、体調の悪化ゆえの反動なのでしょう。サナトリウムへ行く事前検査では、節子の結核はかなり悪くなっていました。当時の結核はかなりの難病で、致死率も高く、結核菌により感染も多かったのです。日本で結核による年間死亡数が最も多かったのは1918年の人口10万対257.1人で,死亡順位も第1位でした。その後,第2次大戦の終りまで結核は30年近くも他の病気に比べて圧倒的に高い死亡率を示していました。(※2)
『風立ちぬ』の章。二人はそろってサナトリウムで闘病生活を始めます。初めての二人だけの食事はサナトリウムの病院食です。侘しさに耐えきれず「私」が節子に「ねぇお前、何だってこんな…」と言い出しかけると節子は「ベッドに寝たまま、私の顔を訴えるように見上げて、それを私に言わせまいとするように、口へ指をあてた。」のでした。
作中二人は幾度か言葉を飲み込んだり、押しとどめたりします。それはわかりきっているし、言葉にすることでもう取り返しがつかなくなると思ったのかもしれません。
節子が飲み込んだある言葉を後に聞かされたとき、「私」は「あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。それはおれ達だったのだ。まあ言って見れば、節子の魂がおれの眼を通して、そしてただおれの流儀で、夢みていただけなのだ。……それだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢みているとも知らないで、おれはおれで、勝手におれ達の長生きした時のことなんぞ考えていたなんて……」と思い当たります。
節子は医者にこのサナトリウムで2番目に重症と言われていました。9月のある日、一番の重症患者が病死しました。次はどうなるかと考えてしまいます。そして9月の末に別の精神を病んだ患者が林の栗の木で縊死しました。「私」は順番じゃないんだと自分に言い聞かせ安心しようとします。
それから何日かが過ぎて、節子の父がやって来て、節子は父の滞在中、楽しく過ごしましたが、はしゃぎすぎたのか、父が帰ると一気に病状は悪化します。
数日後、いくらか回復した節子に「私」は自分の心の迷いを伝えます。「私が此処でもって、こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と節子は答えます。その言葉を聞いた「私」は、「秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深味のある光を帯びた、あたり一帯の風景をしみじみと見入りだしていた。あのとき(二人が幸福を感じた初夏の夕方)の幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動で自分が一ぱいになっているのを感じながら……」
『冬』の章になると日記のような体裁になり、まず1935年10月20日の日付が書き込まれ、まるでカウントダウンのように読者には感じられます。
ある早朝、近くで起こったような異様な音に驚いて「私」は目を覚ましました。何か判らないでいると節子は、それは栗の実が落ちた音だと教えてくれました。それから節子は激しい咳をし続け、「私」は不安に陥ります。
12月に入って節子は窓から山襞を見て、父親の横顔が浮かび上がっていると言います。節子は心細くなり、父親の元へ帰りたくなったようです。「私」は節子を失う恐怖におびえます。
最終章『死のかげの谷』。この章も日記形式で書かれています。翌年の1936年12月1日、「私」は一人で節子と出会ったK村(※3)に来ました。今は亡き節子のことを回想します。そうすると「お前をこれまでになく生き生きと――まるでお前の手が私の肩にさわっていはしまいかと思われる位、生き生きと感じ」るのです。注文していたリルケの『レクイエム』が届き、「私」は日々読み続けます。
さて、この物語は〈愛〉(Love)と〈生命〉(Life)と、そして〈光〉(Light)がテーマの一つとなっています。バラ十字会でも重要な言葉として取り上げられています。
最終章の12月24日のシーンを見てみましょう。「私」は村のある家でさみしいクリスマスをすごし、自分の宿に向かって林の中を歩いていました。すると「何処からともなく小さな光が幽(ほの)かにぽつんと落ちているのに気がついた。」のです。こんな所にどうしてこんな光が差しているのだろうと、あたりを見回すと、谷の上の方に一つだけ明かりが見えます。それは「私」の小屋の明かりでした。このことをこのときまで気づくことはありませんでした。「殆どこの谷じゅうを掩(おお)うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……」と自分に言います。
やっと自分の小屋に帰り着き、この小屋の明かりがどれほどの広さで外界を照らしているのかを「私」は逆に見てみようとします。するとその明かりは、小屋の周りをほんの少し照らしているに過ぎませんでした。そして私は思います。「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」(略)「──だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許(ばか)りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」
12月30日(最後の日付)「私」は自分がこうして1人で生きていられるのは節子のおかげだと納得します。「それ程、お前はおれには何んにも求めずに、おれを愛していて呉れたのだろうか? ……」 遠くでは風がしきりにざわめいています。
この物語は堀辰雄の実体験を元にしています。節子のモデルとなったのは矢野綾子という20代前半の女性で、彼女との出会いについては、堀辰雄がこの作品の5年前に発表した『美しい村』の中で取り上げています。また、実際の矢野綾子については、『昭和史の秘話を追う』(秦郁彦 著、PHP研究所 刊)で割と詳しく紹介されています。
なお、松本隆の作詞、大瀧詠一の作曲で松田聖子が歌った同名曲や宮崎駿監督による同名アニメ映画も堀辰雄のこの作品をモチーフにし、インスパイアされたようですが、もちろん別ものです。
(※1:富士見高原、※2:『世界大百科事典』より、※3:軽井沢)
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ふたたび本庄です。
松田聖子さんの「風立ちぬ」は失恋についての歌だと思っていたのですが、そのもとになった小説が、人間の生と死を描いた物語だということに驚かされました。
しかも、その題名の由来であるポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』は、インターネットで少し調べてみたところ、哲学的な傾向がとても強い作品のようです。
森さんが話題にした〈愛〉(Love)、〈生命〉(Life)、〈光〉(Light)ですが、この3つは、バラ十字会の哲学の核心に深く関わっている3要素です。
人生と世界にはこの3つが、いたるところに溢れているということが、堀辰雄さんの「風立ちぬ」によって表されていることのひとつだと私には感じられます。
下記は森さんの前回の文章です。
記事:『ロミオとジュリエット』
では、今日はこのあたりで。
また、お付き合いください。
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