こんにちは。バラ十字会の本庄です。
東京板橋では今日は暑さが戻っていますが、この数日、涼しい日が続きました。外では虫の音が聞こえています。本格的な秋ももうすぐですね。
いかがお過ごしでしょうか。
私の友人で作編曲家をしている渡辺さんから、人間の意識と魂(soul)についての文章が届きましたのでご紹介します。
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魂の宿る場所
皆さんも「意識」や「魂」について、特に、その実体は何であるかということについて、少なからず、あるいは、一度は考えたことがあると思います。
意識や魂というテーマは、生物学、科学、哲学、宗教などの様々な面から考察することができるため、中々その実態に迫ることは難しいと思いますし、実際に私もそうです。
しかし、人間の本質に関わる興味深い話題ですので、この機会に、少し角度を変えて、「意識」や「魂」について皆さんと考えてみたいと思います。
人間の「意識」とは何なのでしょうか?
そして、人間の「意識」を含め、「魂」というものは存在するのでしょうか?
それらは、人間の脳が作り出した「幻想」なのでしょうか?
■ 人間の意識
人間の意識は、脳内の「物理的・化学的・電気的な反応」によって作り出される一種の「錯覚」のようなものであるという考え方がありますが、もしそのように仮定した場合、私たちが感じている「意識」というものは、一体何なのでしょうか?
たとえば、人間の体の動きなどは、脳からの電気的な信号の伝達によって説明することができます。
そして、人間の外部から感覚器官に入ってきた刺激も電気的な信号にして脳に送ることができます。
しかし、このような電気的な信号の伝達だけで人間の「意識」を説明することは、とても困難です。
たとえば、2つコップが並んでいるとして、そのどちらかを手に取る場合、脳からの電気的な信号によって腕を動かし、どちらかを手に取ります。
しかし、この場合、脳からの命令によってどちらかのコップを手に取ることは説明できますが、その脳からの「コップを手に取る」という命令以前の、「どちらを選ぶか」というプロセスについては、この場合、説明することが難しくなります。
そして、なぜそのコップを選んだのかと尋ねた場合、大抵、「何となく」や「デザインが美しいと思ったから」などという返答が返ってきますが、この「何となく」や「美しいと思った」という、人間の「意識」の一部であると思われるこの感覚は、一体どこから生じるのでしょうか?
たとえば、この「美しい」などと感じる感覚を哲学的には「クオリア」と呼んだりしますが、この「美しい」と感じる感覚などは、全人類で統一される必要もなく、個人の意識の中だけで感じられるものです。
たとえば、私の見ている「赤色」と、あなたの見ている「赤色」は、必ずしも同じものではないかもしれません。
■ 脳の分割
人間の「意識」を脳内の活動によって生じる「錯覚」のようなものであると考えた場合、脳を分割、分離すると、人間の「意識」はどうなるのでしょうか?
人間には、右脳と左脳、そしてその二つをつなぐ脳梁という部分がありますが、これを一つの脳として考えた場合、右目で見たものと左目で見たものが脳内で一つになり、それを両方の脳が連繋して認識し、その結果、「一つ」の意識のようなものが形成されることは、何となく理解できると思います。
では、この右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断した場合、人間の「意識」はどうなるのでしょうか?
簡単に言うと、右脳と左脳をつなぐ部分がなくなることにより、2つの脳を連携させることができなくなります。
では、その場合、人間の「意識」はどちらの脳に存在することになるのでしょうか?
■ 実際の脳の分離
実は、脳のある種の機能障害によって発生する発作を抑えるために、「脳梁離断術」という「右脳と左脳を分離」する手術が実際に行われています。
これらの発作は、右脳と左脳の情報が入り混じることによって引き起こされるため、左右の脳をつなぐ脳梁を部分的に遮断したり、完全に遮断するというものです。
では、この場合、人間の「意識」は二つに分かれるのでしょうか?
しかし、実際には「一つ」の意識だけが存在し、意識が「二つ」に分割されたり、「半分」になったように感じたりすることもないようです。
しかし、そうすると、「意識」はどちらか一方の脳に存在することになるのでしょうか?
そして、もう片方の脳は、「意識」のない状態になるのでしょうか?
たとえば、人間は片方の脳しか機能していなくても生きることができますが、この場合も脳によって「意識」が作られるのであるとすると、もしかすると、「意識」のない方の脳で生きていると考えることもできます。
そして、もしも、人間の「意識」が脳内の活動によってのみ生じるものであれば、極端に言えば、人間は、「物理的・化学的・電気的な反応」によって活動するオートマチックな存在であるとも言え、前で説明した「クオリア」という、個人の持つ「質感」を感じる意識は、「物理的・化学的・電気的な反応」によって生命を維持することができているのであれば、その生命において、「意識」とは、ある種の余計なものであると言えるかもしれません。
そして、もしも「意識」がどちらか一方の脳に存在しているとして、「意識」の存在する方の脳を摘出した場合、人間は「物理的・化学的・電気的な反応」によって生命を維持するだけのオートマチックな存在となり、それは「哲学的ゾンビ※」と言われるようなものかもしれません。
※ 哲学的ゾンビ(Philosophical zombie):心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。(「哲学的ゾンビ」(2021年9月10日10時(日本時間)の版)『ウィキペディア日本語版』より。)
しかし、そもそも、人間が「物理的・化学的・電気的な反応」によって生命を維持し、それを達成できているのであれば、進化の過程において、人間をはじめとする高等生物が「意識」を獲得する必要はまったくなく、人間が「意識」を持っているということは、また別の意味があるようにも思われます。
さて、堂々巡りのようになってきましたが、人間の「意識」が脳内で生み出される「錯覚」のようなものであり、「魂」なども存在しないものであるとすると、左右の脳の情報の遮断などによって生じる結果と整合性をつけることが難しくなるような気がします。
では、他に、「意識」や「魂」をどのように考えることができるのか?
今後も引き続き考察してみたいと思います。
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ふたたび本庄です。
この文章に登場した哲学的ゾンビについて補足しておきます。これは、オーストラリアの哲学者デイビッド・チャーマーズが、唯物論は間違いであるということを論証するために考え出した概念です。
唯物論(materialism)とは、世界の根本は物質や物理的なエネルギーであり、生命や意識や心はこれらから生じている現象だという考え方です。
つまり、原子が組み合わされて分子ができ、分子が複雑に組み合わされて細胞ができ、細胞が集まったのが生命であり、神経の細胞が集まったのが脳であり、脳の中で移動する電気や化学物質こそが心の正体なのだという考え方です。物理主義(physicalism)とも言います。
ちょうど2年前に、小職は『あなたは物ですか心ですか』という記事で、物理主義と哲学的ゾンビについて紹介しました。
興味をお持ちの方は、こちらをお読みください。
参考記事:『あなたは物ですか心ですか』
下記は前回の渡辺さんの文章です。
それでは、今日はこの辺りで。
またお付き合いください。
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