こんにちは。バラ十字会の本庄です。
秋もすっかり深まり、東京板橋でもジャケットが必要な季節になりました。朝の空気がすがすがしく感じられます。
いかがお過ごしでしょうか。
この数日、ベランダで育てているクチナシに青虫が何匹も付いているのを見つけて、駆除に追われました。秋は蝶や蛾の羽化の季節なのでしょうね。また10月の初めには、毎年ノーベル賞が発表されます。
何でこんな話をしているかというと、札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人が、奇(く)しくも、蝶と蛾にまつわる、ノーベル賞作家の小説についての文章を寄稿してくれたからです。
お楽しみください。
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文芸作品を神秘学的に読み解く(30)
『少年の日の思い出』 ヘルマン・ヘッセ
「ちぇっ。『そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。』」このフレーズを憶えている人も多いのではないでしょうか。1947年頃から中学校の国語の多くの教科書に取り上げられていますから。級友に言い放ったこともあるかも知れません。それだけインパクトの強い作品とも言えます。
蝶の標本コレクションを見たことで、「私」の「客」が、自分の少年時代の思い出を話し始めます。少年時代に彼も蝶のコレクションをやっており、隣家の少年の珍しい蝶のコレクションを見たい気持ちを抑えきれず、少年の部屋に侵入し、あまつさえそれを盗んでしまいました。しかし、思い直し少年の部屋に戻り元に返そうとするのですが、その蝶は彼のポケットの中で潰れてしまっていました。その夜、母に促された彼は、少年の家へ行き、謝罪しようとしますが、冷たくあしらわれ相手にして貰えません。その夜遅く、彼は自分の全コレクションを指で粉々に押し潰すのでした。
物語は「私」が「客人」の語った少年時代の思い出を述べるという二重構造になっています。いわゆる『額縁構造』です。そのため話の信憑性は薄れますが、物語性は高まっています。「客」の心の奥底に今なお封印され澱んでいた挫折感を「私」を通して読者は目にすることになります。
「客」の思い出語りに主に登場するのは、本人と彼の母親、そして隣家のエーミール(Emil)少年です。作者のヘルマン・ヘッセは、2人をはっきりと対比して書いています。主人公であるこの「客」は「彼」、「友人」そして後半では、「僕」という一人称で登場します。拙文では、これからは「僕」として表記します。
10歳の「僕」は蝶を採集しコレクションするという情熱に日々のすべてを費やしています。高橋健二訳では『遊戯』としている部分も原文では、”da nahm dieser Sport mich ganz gefangen und wurde zu einer solchen Leidenschaft,”(直訳:その時、このスポーツ・競技は私を完全に魅了し、熱中するようになりました。)となっていますので、活動的で運動的要素が大きかったのでしょう。「僕」は野山を駆け巡り、蝶を捕獲することが主眼で、獲物を美しく標本にすることは最重要ではなかったのです。
それに対しエーミールは、「傷んだり壊れたりしたチョウの羽を、にかわで継ぎ合わすという、非常に難しい珍しい技術を心得ていた。」ということで、真のコレクターでありマニアです。採集自体は得意ではないようで、「彼の収集は小さく貧弱だったが、こぎれいなのと、手入れの正確な点で一つの宝石のようなものになっていた」のです。「僕」のエーミールに対する評価は、「非のうちどころがないという悪徳をもっていた。それは子供としては二倍も気味悪い性質だった。」、「僕はねたみ、嘆賞しながら彼を憎んでいた。」というものです。
ある時、近辺では珍しい青いコムラサキを捕らえた「僕」は、思い立ってエーミールにそれを得意げに見せます。エーミールは、珍しいことは認め20ペニヒ(1ペニヒは百分の1マルク)ぐらいの現金の値打ちはあると値踏みし、さらに標本の仕方の杜撰さに難癖を付けます。「僕」の心はかなり傷つきます。読者には「僕」の少年らしさに対し、エーミールの陰湿さが強調されています。エーミールは物事の価値をお金で換算するという悪癖をすでに身に付けていました。
2年後、エーミールがヤママユガという貴重な蝶を蛹から孵しました。捕獲したのではなく、孵したというのがエーミールらしさを表しています。「僕」はそれを見たくてしょうがなくなり、エーミールの家に行き結果的に盗んでしまいます。しかし良心の目覚めによって、引き返し元に返しました。ところがそれはポケットに入れたせいで、粉々になっていたのです。人は誰でも隠されたもの(見られないもの)を見たい、ないものを手に入れたいと思うものです。誰でも持つせつない情念です。特に少年期には理性の未熟さも相まって、衝動的に行動してしまうものです。読者は「僕」にシンパシーを感じ、感情移入することになります。盗んだことに同情し、人間の持つ弱さに共感するのです。そしてエーミールの人間性に対しては、反感を覚えます。
「僕」は盗んだ上に、美しく珍しい蝶を粉々に潰してしまったのです。「僕」は自責の念で苦しみます。「僕」が母に告白すると、母はすぐにエーミールに謝罪しに行くよう言います。このような背中を押してくれる人はとても重要です。
「僕」がエーミールの所へ行くと、「だれかがヤママユガをだいなしにしてしまった。悪いやつがやったのか、あるいはネコがやったのかわからない」と言われます。エーミールは「僕」が犯人だとは疑ってもいないようです。見せてもらうと、エーミールは粉々になった蝶を修復しようとしていたところだったようです。「僕」の心はもう嘘をつくことなど微塵も考えません。自分がやったと伝え、説明しようとします。しかし、エーミールは「冷淡にかまえ」、「僕」の収集を全部やると言っても拒絶し、「僕は悪漢だということに決まってしまい」、「罵りさえしなかった。ただ僕を眺めて、軽蔑していた」。「その時初めて僕は、一度起きたことは、もう償いのできないものだということを悟った」のです。
この物語は、光と闇の対比も明確に織り込まれています。事件を起こすまでの「僕」は活発な少年として、光り輝く人生を送っていました。最初の現在の場面で、「僕」である「客」は散歩という活動=光の世界から帰り、世界は夜のとばりが落ちようとしています。「私」の収集コレクションを見る頃には、「たちまち外の景色は闇に沈んでしまい」ます。さらに「客」が思い出を語り始める頃には、「わたしたちの顔は、快い薄暗がりの中に沈んだ。彼が開いた窓の縁に腰かけると、彼の姿は、外の闇からほとんど見分けがつかなかった」というほどになります。「僕」である「客」は、闇の奥へ奥へと入り込んでいくのでした。彼にとっての少年の日の思い出は、深奥の闇なのです。
エーミールの所から失意のまま帰った「僕」は、自分のコレクションを「寝台の上に載せ、闇の中で開いた。そしてチョウチョを一つ一つ取り出し、指でこなごなに押し潰してしまった。」との一文で物語は終わります。底なしの闇の中で物語は終わってしまいました。もうその深い闇から彼は戻って来られないのかも知れません。本来の『額縁構造』なら当然あるべき「私」と「客」とのエピローグは割愛されています。より一層読者には鬱々たる気持ちを抱かせることになりました。
「僕」はどんな気持ちで自分の蝶を押し潰し続けたのでしょう。悪者となった自分、そんな自分にしたエーミールの言動への言い知れない怒りとやるせなさ。そして、エーミールとの関係を想起させる蝶のコレクションとの決別の表れです。12歳の頃から20年以上は経っていると思われるこの時でさえ、「僕」である「客」は、エーミールのことを前記のように蛇蝎のごとく唾棄するような表現で描写していることからも解ります。「僕」は少年時代の挫折と幻滅に依然として拘泥し、捕らわれた自分の心を解放することが出来ないでいるのです。まるで自分がピンで刺された蝶の標本のようです。神秘家ならきっちりと向き合うことを理解していたことでしょう。
ところで、「指でこなごなに押し潰してしまった。」ということは、理性を感情の高ぶりが打ち負かしてしまったということになります。原文を見てみましょう。”Und dann nahm ich die Schmetterlinge heraus, einen nach dem andern, und drückte sie mit den Fingern zu Staub und Fet-zen.”(直訳:そして、私は蝶を一匹ずつ取り出して、指で押して埃や断片にした。)とあります。「~してしまった」という「意にそぐわない」ような意味は見いだせません。文脈からそうなのか、翻訳者である高橋健二氏の意訳なのか? 時間がなくて調べられませんでしたが、状況的には「僕」の揺るぎない意志で押し潰したと小弟は考えます。
この作品『少年の日の思い出』(Jugendgedenken)は改稿作で、初稿作品の発表から20年後の1931年に発表されました。初稿は『クジャクヤママユ』(Das Nachtpfauenauge)で、内容的にはほぼ同じです。大きな違いは、初稿では「僕」の名がハインリヒ・モーア(Heinrich Mohr)と呼ばれています。初稿にあった名が消されたことにより匿名性が増し、読者により共感を促すような効果になっています。また、エーミールは蝶の標本作り以外にも切手の収集もやっており、「退屈なずんぐり(gerade dieser Langweiler und Mops)」と描写され、言わば『オタク』っぽいイメージを読者に与えていました。
なお蝶と蛾には生物学的な意味での区別はなく、ドイツ語では蝶と蛾を明確には区別しないので、拙文でも「蝶」に統一しました。ドイツ語で蝶と蛾を区別する場合、蝶は「昼」を意味する”Tag-“を付け、蛾は「夜」を意味する”Nacht-“を付けます。ヤママユガ(作中の具体的種はクジャクヤママユ)は”Nachtpfauenauge”なので蛾であり、夜=闇の象徴として主体的に登場します。
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ふたたび本庄です。
私はまだこの本を読んだことがなく、この紹介でとても読んでみたくなりました。
ヘッセの小説の中で、私がもっとも良く覚えているのは『ガラス玉演戯』です。高校生の時に読んで、とても強い衝撃を受けました。彼がノーベル文学賞を受賞するきっかけになった作品だとされています。
ネタバレにならないように少しだけ紹介すると、舞台は西暦2400年ごろのカスターリエンという理想郷で、そこでは、あらゆる文化の成果が総合された「ガラス玉演戯」(もしくはガラス玉遊戯)と呼ばれる不思議な芸術が成立しています。
この芸術の達人ヨーゼフ・クネヒトは、ガラス玉演戯の発展のために、才能が見込まれる旧い友人の息子の教育を買って出たのですが……
下記は森さんの前回の文章です。
記事:『風立ちぬ』
では、今日はこのあたりで。
また、お付き合いください。
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