こんにちは。バラ十字会の本庄です。
もう師走も間近になり、暖かい地方からも紅葉の便りが届くようになりました。
いかがお過ごしでしょうか。
先日道を歩いていると、近所の家の庭に菊の鉢植えがいくつか置かれていて、今にも開きそうなつぼみを付けていました。開いたときには25センチほどになろうかという大きなつぼみでした。数日後に見るのが楽しみです。
札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人が、菊にまつわる小説についての文章を寄稿してくれましたので、ご紹介します。
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文芸作品を神秘学的に読み解く(31)
『野菊の墓』 伊藤左千夫 著
これは無垢で可憐な少女の純愛と報いてあげられなかった少年の物語です。
幼少の頃から姉弟同然に育てられた従姉の民子と政夫がある日突然、恋心に目覚めます。最初は小さな「卵のような恋」が膨らみ始め、それ故、2人の仲は引き裂かれてしまう悲恋となります。
旧制小学校を卒業したばかりの政夫が数え15歳(満で13歳と数ヶ月)、民子が数え17歳(満で15歳と少し)になった年の10月中旬のこと。政夫の母は、そろそろ年頃になった二人が仲良くしすぎるのは世間体も悪いので、自重するようにと注意します。この話が終わって、母は政夫に仏壇へ供えるよう、「菊はまだ咲かないか、そんなら紫苑(付記)でも切ってくれよ」と言いつけます。
(付記:紫苑(しおん)は薄紫色の小さな花を付けるキク科の草です。菊の花言葉は「高貴」「高潔」「高尚」。紫苑の花言葉は、「君を忘れない」、「追憶」、「遠方にある人を思う」です。)
それから二人はよそよそしい振る舞いをするようになります。10日ほど経って、政夫が背戸の畑でナスをもいでいると、そこへ民子もナスもぎを言いつけられてやって来ます。ナス畑で二人きりになり、以前のように笑い合いおしゃべりします。しかし政夫は、「この日初めて民子を女として思った」のです。そして「今さらのように民子の美しく可愛らしさに気がついた」のです。「しなやかに光沢のある鬢(びん)の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎のくくしめの愛らしさ、頸のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷(たすき)や、それらが悉(ことごと)く優美に眼にとまった」と政夫は民子の美しさに戸惑い、気軽に話せなくなってしまいます。ぎこちない口調になり思わず言い合いになってしまいます。だけれども、心は通じている二人なのですぐに愉快に溢(あふ)れ、「宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になった」わけで、「恋の卵」はますます成長するのでした。
それに相まって兄や嫂(あによめ)や使用人のお増たちは、陰口を言い、嘲笑するのでした。さらに村中の評判になり、2つも年上を嫁にするつもりなのかなどと言われるようになります。そうするとまだ年端もいかない二人は、あまり逢わないようにしようということになり、気まずい間柄になってしまいました。
陰暦の9月13日、別名(後(のち)の月)、明日は政夫たちの住む矢切村の宵祭りです。家中手分けして畑仕事のけりを付ける必要となり、政夫と民子は二人で遠い山畑の綿摘みの役目を言いつかります。嬉しさこの上ない二人ですが、口さがない人たちに本心を知られまいと、表面上は何食わぬ態度を貫きます。誰かに見られると噂になると思い、別々に家を出て綿畑へ向かいます。村はずれで二人は落ち合い、和気あいあいと連れ立ちます。
道すがら、路傍に咲く野菊を摘み、政夫は民子に渡します。『私ほんとうに野菊が好き』『僕はもとから野菊がだい好き』『私なんでも野菊の生れ返りよ』『道理でどうやら民さんは野菊のような人だ』『それで政夫さんは野菊が好きだって……』『僕大好きさ』。美しい三段論法の使い方ですね。
政夫は述べます。「真に民子は野菊の様な児であった。民子は全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐で優しくてそうして品格もあった。厭味とか憎気とかいう所は爪の垢ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった」。しかし、恋にのめり込む二人には「女の方が2歳上」という壁が、どんどん高く感じられるのでした。
二人で綿を摘み、二人で弁当を食べ、二人で野葡萄を頬張り、二人の時間は過ぎていきます。民子は政夫の手折ってきた竜胆を手に取り言います、『りんどうはほんとによい花ですね。わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花……』『民さん、なんです、そんなにひとりで笑って』『政夫さんはりんどうの様な人だ』
(野菊の花言葉は「清爽」。竜胆の花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」です。)
二人だけの楽しい綿摘みデートもいつか終わりが来てしまいます。晩秋の日暮れは早く、二人が家に帰り着く頃には、すっかり暗くなっていました。母親にこっぴどく叱られ、それでもう二人の運命は決まってしまったのです。
政夫は11月になったら中学校へ行く予定だったのが、繰り上げて10月17日に行かせられることになりました。14、15、16日と政夫は民子とろくに話しもせず、無為に過ごし、17日を迎えます。17日の朝、矢切の渡しから船に乗り、政夫は旅立って行きました。その時民子は見送りに来たのですが、二人は一言も交わさず、これが永久(とわ)の別れとなったのです。「物も言い得ないで、しょんぼりと悄(しお)れていた不憫な民さんの俤(おもかげ)」を政夫は生涯忘れ得ないでしょう。
ここからは時系列で見ていきましょう。
同年11月初め:民子は筵(むしろ)を仕舞い忘れ雨に濡らしてしまいます。政夫のことなど考え事をしているからだと政夫の母に大きく叱られます。
同年12月23日:民子は市川にある実家に帰されます。
同年12月25日:政夫が学校から戻ってきます。民子には会えませんでした。
翌年1月2日:政夫は学校へ戻ります。気兼ねして民子の所へは行きませんでした。
翌年:政夫の母は、度々民子に言います、「政夫と夫婦にすることはこの母が不承知だからおまえは外へ嫁に往け」。
翌年11月:民子が市川の某氏へ嫁ぎます。その後妊娠し、6ヵ月後流産します。
翌年12月31日:政夫が学校から帰省します。民子のことは誰も口にしません。
翌々年1月2日:政夫が学校へ戻る間際、民子が既に嫁に行ったと知らされます。政夫は学校へ戻ります。
翌々年6月19日:流産後の肥立ちが悪く、民子は息を引き取ります。
翌々年6月22日:政夫の所へ「スグカエレ」の電報が届き、政夫は家に帰り、民子が死んだことを告げられます。
政夫が家を出てから民子は日に日に元気がなくなり、目に見えて憔悴していきました。そんな民子は人前で政夫のことを一言も口に出しませんでした。でも死の床にあった民子は、政夫の写真と手紙を握りしめ胸の上へのせていたのです。
政夫は民子の元へ7日間墓参りし、墓の周りに野菊を植えました。そして次の日、学校へ戻っていきました。物語の最後は10数年経った政夫の言葉で、こう締めくくられます、「幽明(付記)遙(はる)けく隔(へだ)つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。」
(付記:幽明とは、ここでは死後の世界と現在の世界を意味します。)
この作品は1906年(明治39年)に発表された、伊藤左千夫の処女作です。民子と政夫の二人が結ばれなかったのは、昔の因習のせいだという向きもありますが、今でもそれは形や程度を変えて存在します。人は防衛本能のなせる技なのか、誰か自分より立場の弱い人に攻撃を加えてしまいがちです。または、自分に優位な関係性を作り上げるため、誰かを貶(おとし)めようとしたりします。自分が努力して高みを目指すより、他の人を蹴落とす方が一見楽ではありますから。この物語では「2歳年上」が問題視されているように思われますが、実際は民子を攻撃するための口実です。言葉の暴力は、実際の物理的暴力と同じダメージを脳に与えることが解っています。そしてそれは自分にも返ってくるのです。さらには言葉による暴力を見ただけで、脳は確実に良くない影響を受けてしまいます。
政夫の母は、自分が消えることのない罪をいつまでも持ち続けることになると、慚愧(ざんき)の涙を流し続けます。しかし、政夫は、「お母さんとて精神(こころ)はただ民子のため政夫のためと一筋に思ってくれた事ですから、よしそれが思う様にならなかったとて、民子や私等が何とてお母さんを恨みましょう。お母さんの精神はどこまでも情心(なさけごころ)でしたものを、民子も決して恨んではいやしまい。何もかもこうなる運命であったのでしょう。」と母を慰め、母の苦しみを解きほぐすことに身を尽くすのでした。
野菊は庭を彩る最後の花と言われます。界隈で目にしたら民子の心に思いを馳せてみてください。
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ふたたび本庄です。
調べてみたところ、著者の出身地は千葉県の松戸市で、そこには、伊藤左千夫記念公園があり、政夫と民子の銅像が置かれているとのことです。
写真(下)を見ると二人ともかごを持っています。綿摘みの場面でしょうか。
下記は森さんの前回の文章です。
記事:『少年の日の思い出』
では、今日はこのあたりで。
また、お付き合いください。
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