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空(くう)って何

2019年8月16日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日はお盆の16日ですので、送り火や灯ろう流しが各地で行われることでしょう。寂しさとともに、心が凪いだように静まるひとときではないでしょうか。

いかがお過ごしでしょうか。

お盆の飾りつけ(精霊馬)

 

お盆というこの機会に、このブログでは、米国の思想家ケン・ウィルバーの書いた、初期の仏教の“進歩”についての文章をご紹介させていただいています。

 

前回の記事からの続きになっていますので、まだお読みでない方は、よろしければそちらを先にお読みください。

参考記事:『お盆と初期の仏教

 

前回の話をまとめると、このようになります。

初期の仏教の目標は、迷いの状態を脱して、涅槃の状態に入ることでした。

しかし800年後の西暦2世紀に、南インドに龍樹という人が現れ、迷いと涅槃(悟り)という異なる2つの性質のものが共に存在しているということは、奇妙なことだと考えました。

(以下の文の、文頭のカッコ内は私の補足です。)

▽ ▽ ▽

龍樹は、迷いと涅槃という異なる2つの性質のものがあるのでは、実在(訳注)が真っ二つに引き裂かれてしまうので、人は解放されるのではなく微妙な幻想に囚われてしまうと考えたのでした。(中略)

訳注:実在(Reality):世界の真の姿。

(彼の考えでは、実在にそのような2つの性質があるのではなく、)実在を、概念とカテゴリー(訳注)を通して人間が見たときには、迷いの世界として現れるのであり、同じ実在を、概念化とカテゴリー化から解放されて人間が見たときには、涅槃の世界になります。

訳注:概念とカテゴリー:カテゴリーとは共通の特徴を持つ人や事物の集まりのこと。集合とほぼ同じ意味。カテゴリーを作る共通の特徴が抽象的なものである場合、そのカテゴリーは概念と呼ばれる。虹の光は内側から外側へと連続的に波長が変わっているが、それを7色であると見れば、色彩を表す言葉によって作られるカテゴリーを通して虹を見ていることになる。

 

ですから、迷いの状態と涅槃の状態は別の2つのものではなく、“ノンデュアル”(訳注)です。

この考え方が、仏教の思想と実践に一大改革を巻き起こします。(中略)

訳注:ノンデュアル(non-dual):非二元的。実際には別々の2つものではないということを表す形容詞。名詞はノンデュアリティ(non-duality)。

 

(迷いの世界に陥らないためには、実在をあるカテゴリーによって判定してはなりません。たとえば無であるかどうかを判定してはなりません。そこで、)龍樹はこう言っています。「実在は無ではないし、無でないのでもない、その両方でもないし、そのどちらかでもない。それは〈空〉と呼ばれる」。(中略)

 

(さてこれから、カテゴリーや概念を用いることができないので、原理的には)語ることも示すことも直接理解することもできない〈空〉の要点を、比喩を用いて説明していくことにします。(中略)

 

概念とカテゴリーを通して見るならば、世界は、完全に別々である個々の事物から構成されている迷いの世界として現れます。

そして、世界をそれらの個別の事物であると捉えて、それらに執着することで「苦」が生じます。

なぜなら、すべての事物は、最終的には別々になるからであり、どのようなものに執着したとしても、遅かれ早かれ、それと別れるときに「苦」が生じるからです。(中略)

 

(悟りとは、目覚めだということができます。)では、何に目覚めるのでしょう。これもまた、最善を尽くしたとしても比喩でしかありませんが、徹底的な自由、無限の解放、あるいは徹底した輝かしさ、〈空〉そのものの愛に目覚めるのだということができます。(中略)

 

形ある世界(Form)と〈空〉の関係を説明するために、よく用いられる比喩を使うならば、それは、波と海のようなものです。

たとえば、山を見ていたり、幸せを感じていたり、恐れを感じていたり、飛んでいる鳥を見ていたり、モーツァルトの音楽を聴いているような、限定された典型的な意識の状態は、すべて部分的な状態であり、それゆえに、他の状態とは別のものになっています。ですから、それらの状態すべてには始まり(誕生)があり、終わり(死)があります。

それらは、海にある個々の波のようなものです。個々の波は、ある時に生じ、特定の大きさ(小さい、中くらい、大きい)があり、最後には消えていき、そしてもちろん、それぞれが異なる個別の波です。

 

しかし、〈空〉すなわち個々の瞬間の実在は、まさにむきだしの存在であり、単に「それそのものであること」、「そのようであること」、「存在するという性質」であり、それは海の湿り具合のようなものです。

どのような波も、他の波よりも、より湿っているなどということはありません。ある波は、別の波よりも大きかったりしますが、より湿っているわけではありません。(中略)

そして、ある波が別の波よりも長く続いたりすることはありますが、より湿っていることはあり得ません。

ある波は、海の中で最も小さい波よりも、それそのものであるという性質や、そのようにあるという性質を、より多く持っているわけではありません。

そして、このことが意味するのは、私たちの精神の状態が、今まさにここで、どのようなものであったとしても、それは「悟った状態」と完全に同じなのであり、あなたが余分な足を手に入れることができないのと全く同じように、今以上に悟りを手に入れることもできないということです(このことは、ある波が、今以上に湿ることはできないのと同じです)。

 

悟りと、そして、悟りによって明らかになる「偉大な精神/偉大な心」は、常に存在する実在なのであり、私たちに必要とされることは、それを把握することだけなのです(このことについては、後に触れます)。(中略)

 

(以上のような)中論(訳注)に示された〈空〉についての考え方は(中略)、大乗仏教と密教のほとんどすべての宗派の基礎になりました。(中略)

訳注:中論(Madhyamaka):龍樹の主著。そこから生じた宗派は、中観派と呼ばれる。

 

西暦4世紀が近づくと、次の疑問が特に、しきりに取り上げられるようになります。絶対的実在というものが、二元的な用語や概念を用いたカテゴリー化をまったく許さないものだとすれば、それについて語れることは、そもそも全く一つもないのだろうか。

少なくとも、通常の真実(俗諦)という範囲内で、実在に関して、それを把握するためのシステム、地図、モデルのようなものを提供することはできないのだろうかという問題意識です。

(ケン・ウィルバー著『The Religion of Tomorrow』(Shambhala Publications, Inc.)、第1章 “A Fourth Turning of the Dharma”)

△ △ △

バラ十字会は、いかなる宗教とも独立した立場を採っているのですが、会員の方々に提供している教材が「実在の探究」に深く関連していることもあり、お盆というこの機会に、2回にわたって、仏教についての文章を紹介させていただきました。

ここまでお読みくださった方は、仏教が始まってからの1000年ほどの歴史を旅したことになります。ほんとうにお疲れさまでした。

灯ろう流し

 

ちなみに、今回ご紹介した文章の最後に書かれていた、実在を理解するためのシステム、地図、モデルについて、ケン・ウィルバーはこの文章の続きで説明しています。そして彼はそれを、仏教の“進歩”の新しい段階だと考えています。

それを作ったのは、無着(むぢゃく、Asanga)と世親(せしん、Vasubandhu)という北西インド出身の天才兄弟であり、その説は、瑜伽行(ゆがぎょう)派(Yogacara)あるいは唯識(ゆいしき)派と呼ばれています。

 

『西遊記』は、マンガ化やドラマ化されて有名になりましたが、玄奘三蔵という中国の高僧が、孫悟空らに助けられて、この唯識を学ぶためにインドに渡ったときのことをテーマにした小説です。

唯識派は日本では法相宗と呼ばれており、薬師寺や興福寺など、奈良の多くのお寺で教えられています。

 

このブログは、来週はお休みしますが、再来週は、当会のフランス本部代表のブログから、まったく別のテーマの文章を選んでお届けする予定です。

また、お付き合いください。

 

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お盆と初期の仏教

2019年8月9日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

他の多くの地域と同じように、東京板橋でも酷暑の日々が続いています。

 

もうすぐお盆ですが、いかがお過ごしでしょうか。

 

以前、ある老師の方に教えていただいたことがあるのですが、お盆の元になったのは、盂蘭盆会(うらぼんえ)という中国の行事だそうです。そしてさらに盂蘭盆会の始まりは、目連(もくれん)という名のお釈迦さまの直弟子が、母を供養した行ないだとのことです。

インターネットでお調べになると、この興味深い逸話を知ることができます。

盆踊りの風景(夜)

 

さて、ご存知の通り仏教は、日本の芸術、文化など、あらゆる面に大きな影響を及ぼしています。特に、茶道、華道、弓道など、「道」という名のついているものの多くは、仏教と深く関連しています。

 

しかし、仏教の専門家でなければ、日本に仏教が伝来する前の歴史や、その考え方がどのように変化していったのかということを、あまり知らないのではないでしょうか。

かなり以前のことですが、ドイツの仏教学者ヘルマン・ベックの書いた『仏教』(岩波文庫)を読んだことがあります。それまでに読んだ仏教についてのどの本よりも明快な解説に、驚いた覚えがあります。

外国で仏教を研究されている方々には、客観的に本を書くことができるという有利な点があるのかもしれません。

 

最近、米国の思想家で発達心理学の権威であるケン・ウィルバーの著作を読み始めました。すると、その冒頭に初期の仏教の歴史と考え方が概説されていました。

扱われている内容が本格的であるにもかかわらず、説明が分かりやすいことに驚きました。

実は自分のための覚え書きでもあるのですが、その部分の翻訳をご紹介させていただきます。この文章が日本語に翻訳されるのは、おそらく初めてのことです。

▽ ▽ ▽

仏教の歴史をざっと振り返って、そこにはどのようなことが含まれているかを見ていきましょう。

初期の仏教は、列挙するならば、次のような観念を基礎にしていました。迷い(苦しみの源)と涅槃(啓示すなわち悟りの源)という異なる2つの状態。迷いの状態に見られる、苦、無常、無我という3つの特徴。次の4つの真実(四諦):(1)迷いの状態で生きることは苦である。(2)この苦の原因は執着である。(3)執着をなくせば、苦は終わる。(4)正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定という執着をなくす方法(八正道)がある。

以上から理解されるように、初期の仏教が究極の目標としていたのは、「誕生、死、生まれ変わり、老いること、苦、病気」などが現れる「迷い」(samsara:サムサーラ)という状態から脱出することでした。

 

迷いの反対であると考えられる「涅槃」(Nirvana:ニルバーナ)は、そもそもは、形を失い消えることを意味していました。

接頭語の「ニル」(nir-)は、「何かがないこと」を意味し、「バーナ」(vana)は、願望、執着、欲望、渇望などの、燃えさかるような感情を意味します。ですから「涅槃」(Nirvana)という語の全体的な意味は、「吹き消すこと」、「(灯火などを)消すこと」となります。

それはまるで、火のついたロウソクを手渡されたときに、そこに身をかがめて炎を吹き消すようなことを意味しています。

 

では、消滅させられるもの、「吹き消される」ものとは何なのでしょうか。それは、迷いの状態で生きることに含まれるあらゆる特徴です。

たとえば、苦しみ、永遠に生きることを切望することから生じる不安、他の存在とは独立した自己という観念(通常、エゴと呼ばれます)、そして、内面的な恐れ、心配、憂鬱などです。

涅槃の状態とは、夢を見ない深い眠りのようなものであると言われることがあります。そのような眠りにおいては、もちろん、エゴも苦しみも、永遠に生きることへの切望も、空間も時間も、他の人や周囲の物体と自分は別のものであるという観念もないからです。

そしてもしそこに何かがあるとすれば、それは限りない平安と心の究極の静けさだけです。この平安と静けさは、迷いという責め苦と、迷いから生じる苦しみから解放されることから生じるとされます。(中略)

 

(以上のように)初期の仏教の目標は明確であり、迷いの状態を脱して、涅槃の状態に入ることでした。

 

仏教の説話によれば、ゴータマ・シッダルタは、宮殿で王子として育てられ、王子にふさわしいあらゆる贅沢に囲まれて暮らしていました。

彼の父は、当時のインドの日常の暮らしに存在する典型的な恐怖を、彼が知ることのないように注意深く保護していました。

しかしある日、城壁に囲まれた宮殿をゴータマは抜け出し、周囲の町を巡り歩きます。そして、心をひどくかき乱す3つのことを目撃したのでした。

 

それは、重病の人、年老いて歩くのがままならない人、そして死体でした。「病、年老いること、死は、宮殿で暮らしていたとしても免れることはできない」と彼は考え、宮殿を離れ、さまざまな聖者のもとで、町を歩いていたときに知った人生の疑問への答えを探し求めます。

しかし6年が経っても、彼を満足させるものは何ひとつ得られませんでした。疲れきって挫折を感じ、彼は一本の菩提樹の木陰に座り、答えが見つかるまでは決して立ち上がらないと誓います。

 

ある日の早朝、星々が輝いている空を一目見たとき、ゴータマに深遠な体験が訪れます。「ああ! 見つけた! もう二度と私は惑わされない!」と、事情を完全に究明したという心の底からの喜びとともに彼は叫んだのでした。(中略)

 

彼が何を見て何を理解したのかということに関しては、さまざまな宗派が以下のようなさまざまな見解を唱えており、そのいずれもが信頼に足る意見です。

「十二縁起」(訳注)と呼ばれる徹底した理解だと唱える宗派があります。それは、実在世界の極めて交錯した性質と、そこにあるすべてのものを結びつけている因果の法則の、不変の作用についての理解です。

訳注:十二縁起:十二因縁とも呼ばれる。迷いの世界の因果関係を説明した12項目からなる系列。無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死。

 

仏陀の悟りの内容は、この世界の3つの特徴(諸行無常、諸法無我、一切皆苦)と、執着から離れる8つの方法(八正道)であると別の宗派は唱えています。

禅宗によれば、仏陀が得たのは深遠な悟り、徹底した気づき(目覚め)の体験です。それは、自分に真の仏性(訳注)があるという気づきと、存在する全てのものの基礎(Dharmakaya)と自分が根本的に一つであるという気づきであり、この気づきによって、他と分離した自己という観念が終わり、それとともに苦しみも終わります。

仏陀の悟りの内容が正確にはどのようなものであったとしても、すぐにそれは定式化され、三法印(訳注)、十二因縁、八正道という教理が成立しました。(中略)

訳注:仏性(Buddha-nature):すべての人に内在している仏(完全な人格者)であるという性質。より広く言えば、生きとし生けるもの(有情)に内在している、完全であるという性質。

訳注:三法印:仏教の教理の3つの根本的特徴。初期には諸行無常、諸法無我、一切皆苦であるとされた。その後、涅槃寂静を加えて四法印とされ、さらにここから一切皆苦が取り除かれ、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静が三法印とされた。

 

「あなたは神なのですか、神通力者なのですか」と聞かれると、仏陀は、「いいえ」と答えました。「それではあなたは何ものなのですか」と聞かれると、「気づいたのです」と単に答えました。

 

以上が仏教の初期の形態の概略であり、それは、800年後に龍樹(訳注)が出現するまで、実践され続けました。龍樹は、迷いと悟りという異なる2つの性質のものが共に存在しているという事態の奇妙さに着目したのです。(次回に続く)

訳注:龍樹(Nagarjuna):2世紀に生まれた南インド出身の仏教の僧。大乗仏教を確立した人物だとされる。

(ケン・ウィルバー著『The Religion of Tomorrow』(Shambhala Publications, Inc.)、第1章“A Fourth Turning of the Dharma”)

△ △ △

バラ十字会は、あらゆる宗教に対して中立の立場を採っていますが、その一方で、宗教が人類の歴史に果たしてきた役割、特に、道徳意識の向上に寄与してきたことに深い敬意を払っています。

また、伝統的宗教の教えや実践には、極めて重要な真実が含まれていると考え、バラ十字国際大学でも、さまざまな研究が進められています。

 

当会の通信講座で学ばれている皆さんは、用いられている言葉は異なっていますが、バラ十字哲学の根本的な考え方との共通点が多いことに、驚かれたのではないでしょうか。

 

後半の部分に、龍樹が登場してきました。日本に現在存在する仏教の宗派のほとんど全てで、龍樹は、最大級の尊敬を受けています。

彼が主張した「空」という事柄が、この文章の続きで説明されますので、次週はそれをご紹介させていただきます。

「ノンデュアリティ」(非二元)にご興味をお持ちの方には、特に興味深いことと思います。

 

今回は、初期の仏教を話題にしました。お盆が近いこの機会に、この行事の背後にある壮大な歴史に思いを馳せるきっかけにしていただければ幸いです。

迎え火・送り火

 

下記は前回の私の記事です。

参考記事:『スポーツと心の錬金術

 

また、お付き合いください。

 

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ブックトーク「時間ってなに」

2019年8月2日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では梅雨が明けたとたんに、猛暑の日が続いています。皆さんがお住まいの地域も、きっと同じではないかと思います。

どうか熱中症に気をつけてお過ごしください。

 

さて、今回のタイトルの「時間ってなに」ですが、まさにビッグ・クエスチョンです。私もこの問いに、すらすらと答える自信などありません。

 

このビッグ・クエスチョンについての文章が、私の親しい友人である可児さんから届きましたので、ご紹介させていただきます。

彼女は、岐阜で小中学生に読書の楽しさを紹介するブックトークというお仕事をなさっていて、この文章もそのお仕事のために作成された原稿です。

▽ ▽ ▽

ブックトーク「時間ってなに」

可児明美

可児 明美

 

皆さん、今朝は何時に起きたかな?… 「いつも早起きだよ!」という人や、「ついつい寝過ごしてしまって、遅刻しそうになった!」なんて人も、いるかもしれませんね。

「もう時間だから、はやくしないと」とか、「ああ、時間がない!」とか…、時間というと、なんだかあわただしい印象がある一方で、「今日は時間があるから、ゆっくりできるよ」とか、「予定の時間まですることがないので、暇つぶしをしよう」なんてこともあるかもしれません。

では、みなさん、この「時間」って、いったい何なのでしょうか?

懐中時計

 

さあたいへん! このお話の中では、時間が盗まれてしまいます(『モモ』ミヒャエル・エンデ作岩波書店)。時間どろぼうが、人々の時間を次々と盗んでいきます。それに気付いた小さな女の子、モモは、時間どろぼうからみんなの時間を取り返そうとします。

モモは、どのようにして時間どろぼうから時間を取り返すのでしょうか?

 

さて、これは時間を盗んだり取り返したりするお話でしたが、そもそもほんとうのところ、時間って盗んだり取り返したりできるものでしょうか?

『時間の大研究』(池内了・監修、PHP研究所)をみてみると……。

今から2300年くらい前に、古代ギリシアのアリストテレスは、「時間は、運動や変化をとおして知ることができる」と考えました。

17世紀のアイザック・ニュートンは、絶対時間(宇宙にある常に一定の速度で流れる時間)と絶対空間(絶対時間と同じようにある、絶対的な空間)というものを考えました。

そして、時間は伸び縮みすると考えたアインシュタインは、特殊相対性理論と一般相対性理論の中で、運動している状態によって時間の進み具合は違ってくることを示しました。

時計と女性

 

では、時間は巻き戻せるのでしょうか? 自然界は不可逆運動により、時間の進む方向が決まっているので、時間を戻すことはできないと考えられています。

では、タイムマシンで時間旅行はできるのでしょうか? 運動の仕方を工夫して、光よりも速く動くことができれば、過去にもどることができると理論上は考えることもできるのですが、アインシュタインの相対性理論によると、光よりも速く動くことは不可能なため、タイムトラベルは不可能だと考えられています。

 

けれども人間には想像力がありますね。頭の中で、過去にも未来にでも行くことができます。ではここで、タイムマシンに乗って、時間旅行をしたお話をご紹介しましょう(『タイムマシン』H.G.ウェルズ作、偕成社文庫)。

時間を旅することのできる機械を発明したタイムトラベラーは、自分を実験台にして、人類の未来へと旅をします。そこでタイムトラベラーが目にした光景とは?…

 

さきほど、時間は伸び縮みするというお話がありましたが、『絵とき ゾウの時間とネズミの時間』(本川達雄/文、福音館書店)には、生き物と時間のことが書いてあります。

人間の心臓は1分間に60~70回打ちます。ハツカネズミは1分間に600回近く打ちます。ゾウは1分間に30回。体重が増えると、心臓の動きも肺の動きもゆっくりになっていきます。生き物の寿命を心臓の打つ時間で割ってみると、答えはどの動物でも同じだそうです。一生の間に、ゾウもネズミも心臓は15億回打つのだそうです。

ネズミの一生は数年、ゾウはその何十倍。でも、それぞれの動物の心臓が1回打つ時間を基準にすれば、ゾウもネズミもまったくおなじだけ生きて死ぬことになります。それぞれの動物はそれぞれの時間の中で生きているのですね。

 

もうひとつ、生き物の一生と数に関する本をご紹介しましょう。『ライフタイムいきものたちの一生と数字』(ローラ・M・シェーファー/文、ポプラ社)

一生の間にクモは、卵をつつむうすいふくろを1つだけつくります。一生の間にキツツキがあける穴は、30個。一生の間に、アゲハチョウは何本の花から蜜を吸うでしょうか? 一生の間に、キリンの網目は何個できるのでしょう?

…では、みなさんは、一生の間に何回笑顔になるでしょうか? 何回、泣いたりするでしょうか。何回、大喜びするのかな?…

 

こうしてみてきましたが、時間って、生きることとつながっているんですね……。時間について、じっくり考えてみるのも、面白いかもしれませんね。

おわり

 

紹介した本

『モモ』ミヒャエル・エンデ/作 岩波書店

『時間の大研究』池内了/監修 PHP研究所

『タイムマシン』H.G.ウェルズ/作 偕成社文庫

『絵とき ゾウの時間とネズミの時間』本川達雄/文 福音館書店

『ライフタイムいきものたちの一生と数字』ローラ・M・シェーファー/文 ポプラ社

△ △ △

ふたたび本庄です。

当会は神秘学の教育組織ですが、神秘学(mysticism:神秘思想)とは短く言えば、神秘体験に関わる「知」です。そして神秘体験には、時間がないという特徴があります。

しかも興味深いことに、言葉にするのが難しいのですが、有ったものが無くなったという感じの「無い」ではなく、本来無いことが正体だという感じの「無い」なのです。

 

当会が提供している通信講座では、時間とは何かと言うことが入会して2ヵ月目の教本で取り上げられます。

そしてそれは、その後も折々に取り組むことになる、重要なテーマになります。

 

下記は可児さんの、前回のブックトークの記事です。

参考記事:『

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

また、お付き合いください。

 

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スポーツと心の錬金術

2019年7月26日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日の東京は、真夏のような空模様と暑さになっています。台風が近づいているようですが、それが過ぎれば、とうとう梅雨が空けて本格的な夏になるようです。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

今週の火曜日から、バドミントンの世界大会である「ジャパン・オープン」が、東京都調布市で開かれています。

武蔵野の森-総合スポーツプラザという施設が開催場所で、2020年の東京オリンピックでも使われる会場です。

オリンピック開催まで一年を切り、他の競技の多くもそうでしょうが、バドミントンの世界大会は各国の出場選手の選考試合も兼ねており、白熱した試合が繰り広げられています。

シャトルを打つバドミントン選手

 

今、日本のバドミントン選手には、シングルスでもダブルスでも、世界ランキングでトップクラスの人たちが多数いるので、この競技の長年のアマチュア・プレイヤーかつ大ファンとして、観戦していて、いつも以上にワクワクします。

東京オリンピックでも、多くの日本選手が活躍してくれることを心から願っています。

 

バドミントンの国際試合を見ていると、特にタイの選手が、とても礼儀正しいのに感動します。試合中にシャトルコック(羽球)が壊れると、代わりの新しいシャトルを副審からもらって使うのですが、そのときに合掌をして、感謝を示してから受け取っています。

タイの仏教徒の多くにとって、おそらくこのことは特別なことではなく、自然な振る舞いなのだと思います。

 

ご存知の方も多いと思いますが、数ヵ月前から、日本人とオリンピックの関わりをテーマにしたテレビドラマが放映されています。

すでに放映された番組に、印象に残ったシーンがありました。

日本人が初めて出場したオリンピックは、1912年に開かれたストックホルム大会でした。そのとき短距離走者の三島弥彦選手は、国中の期待を背負い、海外の選手との自分の実力の大きな違いを感じ、本番が近いある日の練習でプレッシャーに押しつぶされて、もう走れない、棄権したいと感じます。

そのとき、同行していた唯一のコーチ大森兵蔵(彼は重い肺結核に冒されていました)が、「陸上選手が挑むのはタイムという記録なのだから、一緒に走っている選手はみんな同志なのだよ」とアドバイスをします。

三島選手は、「なんでもっと早く言ってくれないかなぁ」とつぶやき、笑顔を取り戻します。

1912 poster

ストックホルムオリンピック(1912年)のポスター(via Wikimedia Commons [Public domain])

 

バドミントンに話を戻しますが、世界のさまざまな場所で開かれている国際大会を見ていて、特にほほえましく感じられるのは、多くの選手同士が、とても仲が良いことです。

ラグビーの試合終了を意味する「ノーサイド」という言葉は、試合終了の笛が鳴ったら、敵も味方もなく、全ての選手が仲間だという精神を表しているそうです。

バドミントンの国際大会で感じられる雰囲気は、まさにそのような感じで、たとえば、韓国、中国、台湾、香港、日本の選手が、互いに顔を近づけて、スマートフォンで一緒に写真を撮ってSNSに投稿したりしています。

経済や政治のニュース報道や、ツイッターなどでの非友好的な投稿に日常的に触れている方の中には、このような様子を見て驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。

 

陸上選手が、記録と戦っている同志だと自分たちのことを考えることができるように、バドミントンのような対戦形式のスポーツの選手も、ライバルと自分たちのことを、体と心を鍛えるための機会を一緒に作り上げている同志だと考えることができるように思います。

 

バラ十字会の哲学では、人生を錬金術にたとえ、そこで起こる経験のことを、るつぼを熱する炎にたとえることがあります。

錬金術では、卑金属が貴金属に変容されます。人生経験という熱は人の内面に変化をもたらし、傲慢さや利己心のような心の欠点が、少しずつ謙虚さや忍耐力のような貴い性質に変えられていきます。

 

スポーツをすることによって得られる体験も、心を磨き、このような変容をもたらす人生経験のひとつと考えることができるのではないでしょうか。

もしすべてのスポーツ選手が、このような思いで練習と試合に取り組めば、ドーピングのような、残念で悲しい行為は、ひとつもなくなるのではないかと思います。

 

インドネシアにもデンマークにもマレーシアにも、世界の他の多くの国にも、私たちアマチュア選手があこがれる素晴らしい選手がたくさんいます。

土曜日が準決勝、日曜日が決勝です。素晴らしい試合の数々が行われることでしょう。テレビを見るのが楽しみで仕方ありません。

 

今日は私の感想ばかりを書いてしまった気がしますが、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

また、お付き合いください。

 

以下は、前回の私の文章です。

参考記事:『地道なAIと革新的なAI

 

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世界の終わりについて

2019年7月19日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

あと数日で梅雨明けでしょうか。待ち遠しいですね。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

もう20年ほど前のことなので、若い方はご存じないかもしれませんが、1999年7月に人類が滅亡するという話題を扱った『ノストラダムスの大予言』という本が流行したことがあります。

この類いの本を信じる人は今では少なくなったように思いますが、最近は自称“歴史家”ではなく、一流の科学者が人類の滅亡について語っているとのことです。

このことについて、当会のフランス代表が2週間ほど前に自身のブログに記事を書いていますので、その日本語訳をご紹介します。

▽ ▽ ▽

『世界の終わりについて』

“A propos de la fin du monde”

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

あらゆる時代に、予言者、宗教を伝道する人、占星術師など、世界の終わりを予告する人がいました。これらの人の一部は誠実であり、世界の終末の到来を心から確信し他の人に警告していたのですが、人をだますことを目的として、虚偽であることを知りつつ、そう告げていた人も一部にはいました。

『ヨハネによる黙示録』に始まり、かつての『ノストラダムスの予言』や、最近ではパコ・ラバンヌの『天の火』など、数多くの本や、今では数多くのインターネット・サイトが終末論を扱っています。これらで共通して描かれているのは、部分的もしくは全体的な人類の滅亡であり、それは、次のようなさまざまな種類の災害によって起こるとされています。大洪水、大地震、火山の噴火、津波、彗星と地球の衝突、原子爆弾、地球規模の伝染病の流行などです。

ほとんどの場合、この滅亡は、人類を罰するために神が計画し与えた罰であるとされ、その理由は、神を敬わないことや、宗教の戒律に従わないことだとされます。

占星術(イメージ図)

 

過去の歴史において、世界の終わりについてのこのような予告が生じた背景は、迷信、誤った信仰、宗教文書の解釈の誤り、空想的な推測、偏執性の恐れの影響など、まとめて言えば、不合理な根拠でした。

そのため、特に最近の数十年は、このような予告を、ほとんどの人は真剣にとらえなくなりました。最も関心が寄せられた場合でも、せいぜい、滅亡の日だとされる期日が近づいてくるのを、好奇心とともに注視しつつも、ほとんどの人がいつもの通り生活を続けます。

そして、世界規模の惨事が起きることなく、告げられた日が過ぎると、これら大部分の人たちの対応が正しかったことが証明され、“不幸な予言者”たちが、ひとりまたひとりと消えていきました。

確かにいくつかの国では、多くの人が亡くなる自然災害や人災が起き、人々の生活や環境の一部に破壊的な影響が残っています。しかし、これらのできごとを、世界の終わりの初期のしるしだと見なしているのは、ほんの一部のご都合主義者と、ごく少数の終末論の支持者だけです。

 

終末論の流行が復活した、1999年から2000年への移行が過ぎた後、私の知る限り、世界の終末についてあえて語る著作家はいなくなりました。しかし、最近、科学界を代表する数人の人たちが終末論を唱え、多くの人に衝撃を与えています。

なぜなら、科学界がこのような声明をあえて行うことは、今まで一度もなかったからです。この声明は、明らかに信頼に足る人たちから発せられたため、それはもはや予言ではなく、極めて重大な情報としてメディアによって伝えられました。

具体的な日付は述べられていませんが、期限が人類に突きつけられています。正しい選択をするために人類に残されているのはこれから10年だけであり、その間に個人と集団の行動に何の変化も起きないならば、特に地球温暖化に対策が打たれなければ、人類は中期的に滅亡するとされています。

進化のはてに絶滅する人類(イメージ)

 

“人類の全面的もしくは部分的な滅亡”という意味での世界の終末には、疑いを差しはさむ余地があるかもしれませんが、今まで地球に起こった5回の大量絶滅に匹敵する「第6の大量絶滅」と呼ばれるできごとが生じているということを、ほとんどすべての科学者が確信しています。

彼らによれば、この大量絶滅はすでに始まっており、最終的には現在の動植物の種の75%が絶滅するとのことです。現時点までに、すでに25%の種が絶滅しており、大部分の科学者はこの責任が人類にあるという意見に同意しています。

さまざまな環境汚染、過剰な森林伐採、除草剤や他の農薬の使い過ぎ、自然のままに残された土地が極端に減少したことなどが原因です。人類は、地球の歴史から言うと、極めて最近出現した生きものですが、他の多くの生物種を絶滅させてしまうほどまでに地球を支配するようになりました。

一方で、人類の生存は、他の多くの生物種によって直接、間接に支えられています。人類はまるで、第6の大量絶滅に自身が含まれる可能性があるということを、故意に無視しているかのようです。

 

バラ十字会AMORCが2014年に発行した宣言書『バラ十字友愛組織からあなたへの訴え』には、こう書かれています。

「地球温暖化について言えば、このことが始まったきっかけは人間ではないとしても、少なくともそれが加速している原因は人間の活動に責任があると、大部分の科学者が指摘しています。(中略)いずれにせよ、私たち人類が地球に及ぼしている害を終わらせる対策が、短期的に世界規模で行われないならば、数百万人の人にとって、いえ、おそらくはすべての人にとって、地球は耐え難い場所になってしまうことでしょう。」

 

このことについては2001年に世界中で公表された『バラ十字友愛組織の姿勢』ですでに述べられていました。しかしこの宣言書は当時、広い範囲の人たちに届くことがなかったので、この警告に気づいた人は比較的少数でした。

しかし、科学界からの最近警告が出された今、特に、あらゆるメディアがそれを繰り返し取り上げている状況において、どのようにしたら世界の終末という警告を無視できるというのでしょうか。

明らかなことですが、何が起こるのかを知らなかったと私たち人類が弁解することは、もうできなくなっています。

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

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再び本庄です。

上の文章で取り上げられていたバラ十字会AMORCの宣言書のことですが、全部で3つあります。下記のリンクでお読みください。

https://www.amorc.jp/about_us/manifesto.html

 

今朝、NHKの番組で久米宏さんが「老人が先のことを気にしなくなるのは仕方がない。しかし若い人たちが、何も変えられないと諦めて20年後、30年後のことを気にしなくなるのは大問題だと思う」と語っていました。

 

気候変動や環境破壊の問題は、明るい話題ではないので、直視するのに勇気がいりますし、自分たちには何もできないと諦めてしまいがちです。

しかし、身近なところにもできることがあると思いますし、たとえば選挙で、投票によって自分の意志を示すこともできるのではないでしょうか。

 

では、今日はこの辺で。

また、お付き合いください。

 

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