公式ブログ

元型と日本絵画

2020年9月25日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

東京板橋では、昨日から雨が降り続けています。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がぴったりで、残暑も終わり、朝晩は肌寒いほどになりました。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、とても不思議なことだと私には思えるのですが、世界中のさまざまな時代の神話や説話には、同じモチーフが繰り返し現れます。たとえば、年老いた賢者、龍、太母(グレートマザー、地母神)、いたずらな子供、永遠の若さを保つ青年、乙女などです。

スイスの心理学者ユングによれば、このことは、現代人の夢にもあてはまるそうです。皆さんは、龍の夢を見たことがありませんでしょうか。

 

ユングは、人間の心はその奥底ではひとつになっていて、そこに先ほどのようなモチーフを生み出す働きがあると考えました。

集団に共通するこの心は集合的無意識と呼ばれ、繰り返し同じモチーフを生み出す集合的無意識の働きは元型(archetype)と呼ばれています。

 

集合的無意識という考え方は、バラ十字会に伝えられている人間の意識の構造と、とても良く一致しています。

当会の通信講座の初期に学習する内容ですが、通常の意識の奥には下意識(subconscious:潜在意識)があり、ここまでは個々の人に属している心なのですが、さらにその奥には宇宙意識(Cosmic Consciousness)があり、宇宙意識はすべての人(おそらく宇宙のすべての生きもの)に共通しています。

人の心が、下意識を経由して宇宙意識に接続しているということは、実は、瞑想が有益であることの根本の理由です。

 

参考記事:『瞑想のやり方』(人気記事です)

 

元型は私たちの行動に大きな影響を与えます。たとえばアニマという元型は、物語では船乗りの命を奪う魔女セイレーンや美しい人魚として登場します。アニマは男性の心の中にある女性的な側面だと考えることができます。

ある男性が自分の女性的な側面を認めることを拒むと、自己のその部分は無意識の中に隠れて「シャドウ」と呼ばれる要素になります。そしてアニマは、シャドウにエネルギーを与えます。

 

人間は、自分の否定した部分が、他人にあると考えがちです。このことを「投影」と呼びます。

もし抑圧(否定)されたシャドウをある女性に投影してしまうと、突然にその男性はその女性に強い恋愛感情をいだくようになり、時としてその感情が激しすぎるために、破滅的な行動につながったりします。

 

女性の心の中にある男性的な側面は、アニムスと呼ばれます。女性が自身の男性的な側面を抑圧した場合、アニムスもアニマと同じようにシャドウにエネルギーを与え、恋愛に影響を与えたりします。

 

このように元型は、このブログで以前に話題にしたシャドウと深い関係があります。

参考記事:「シャドウとひとつになる

 

先日、板橋区立美術館で開かれていた、『狩野派学習帳』という展覧会を見てきました。狩野派とは室町時代から江戸時代末期まで、400年にわたって続いてきた絵師の集団です。

この展覧会の展示品の多くは学習帳、つまり古画を模写して絵師たちが練習を行った記録でした。

 

興味深かったのは、絵画に取り上げられているモチーフの多くに、元型との深い関連が見られたことです。

館内は撮影が許されていたので、いくつかをご紹介させていただきたいと思います。

室内が暗くガラスケース越しでしたので、写りが多少悪いことにはご容赦ください。

 

★ 狩野常信筆『西王母図』(一部)

西王母は、中国の古代の神話に登場する桃の木の女神です。これは太母の元型の表れのひとつです。この絵では右手に花の咲いた桃の枝を手にしています。

西王母の持つ蟠桃園(ばんとうえん)には九千年に一度実るという桃の木が生えていて、この実を食べると不老不死になります。

『西遊記』には、孫悟空が蟠桃園の管理人を命じられ、桃の実を盗み食いするという逸話が書かれています。

狩野常信筆『西王母図』(一部)

 

★ 逸見一信筆『龍虎図屏風』(一部)

中国の龍は、雷雲、嵐、竜巻を呼ぶ伝説上の生きもので、中国の皇帝の象徴にもされています。

水源・水脈を司る神ともされ、皆さんもよく見かけることと思いますが、神社やお寺の手水を使う場所では、龍をかたどった蛇口がよく使われています。

この屏風には、左右に龍と虎が描かれていて、源平の戦いを暗示しているとも言われています。ユーモラスで、爽快な勢いを感じる龍ではないでしょうか。

逸見一信筆『龍虎図屏風』(一部)

 

★ 狩野周信筆『蛤(はまぐり)観音図』(一部)

中国の唐の皇帝であった文宗(文草)が蛤(はまぐり)を食べようとしたところ、蛤の中から小さな観音様が表れ、たちどころに悟りを得たという言い伝えがあります。

観音様もおそらく元型の現れなのではないかと私は思いますが、最初に挙げたどの元型に分類されるのかはよく分かりません。性別を超越したさらに普遍的な理想像なのかもしれません。

ちなみに、大きな蛤は蜃(しん)と呼ばれ、怪しい気を吐いて楼閣などの幻を見せるとされています。「蜃気楼」という言葉の語源になっています。

この絵では、大小2つの蛤が描かれ、大きい方の蛤が気を吐いてその気の中に観音像が描かれています。

狩野周信筆『蛤観音図』(一部)

 

★ 狩野惟信筆『菊慈童図』(きくじどうず)(一部)

菊慈童は、永遠の若さを保つ青年というモチーフの一例です。

菊慈童の逸話は、能の演目のひとつになっています。菊慈童は、中国の周の穆(ぼく)王に愛された美少年ですが、王の枕をまたいだという罪で流刑になります。

彼は流刑地で、渓流のそばに生えていた野菊の葉に経文を書き、その葉で草露を飲んだところ不老不死になったとされます。

何とも怪しさのただよう絵ではないでしょうか。

狩野惟信筆『菊慈童図』(一部)

 

さて、元型と深い関連のある日本絵画を見てきました。

ユングは、個人が心の中の意識と無意識という2つの領域を統合することを「個性化」と呼びました。人間は個性化を経て自身の無意識を浄化し、全体を備えた本来の自己になるとされています。

 

この視点から考えると、元型をモチーフに扱った絵画を鑑賞したり、神話や伝奇物語を読んだりすることは、単に楽しいだけでなく、心理学的に重要な意義があるように思われます。

今回は狩野派の絵画を取り上げましたが、多くの芸術が元型に関わるモチーフを扱っているのは、この意義を、芸術家が直観的に察知しているからかもしれません。

 

板橋区立美術館は、狩野派の絵画を特に重点的に収集している素晴らしい美術館です。『狩野派学習帳』の展示は終わってしまいましたが、今後も類似の館蔵品展が行われることと思います。

皆さんも訪れてみてはいかがでしょうか。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今日はこの辺りで。

またお付き合いください。

 

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数とは何か?【その3】

2020年9月11日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、何となく空に秋の気配が感じられます。

野原にはトンボがたくさん見られるようになりました。夜はスズムシの音が聞こえます。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

大阪で当会の役員をされている作編曲家の渡辺さんから『数とは何か?』というテーマの第3回の寄稿をいただきましたので、ご紹介します。

 

以前の記事はこちらです。

『数とは何か?』(その1):https://www.amorc.jp/blog/?p=2676

『数とは何か?』(その2):https://www.amorc.jp/blog/?p=2698

▽ ▽ ▽

数とは何か?(Vol.3)

~形而上学における数の概念~

渡辺篤紀

渡辺篤紀

 

前回は、「全体(1)」を「分割」するという考え方について、様々な例をあげて考察してみました。

今回は、この「全体(1)」を構成する「閉じた世界(有限)」と、それとは別の「開いた世界(無限)」について考察してみたいと思います。

らせん状に変形したアンティークの懐中時計

 

■ 閉じた世界(有限)とは?

身の回りにある「閉じたもの」とはどんなものでしょうか?

簡単に言うと、周りと隔てる壁があったり、たとえば時計などのように、ある一定の周期を持つものであると言うことができます。

 

人間も物質的には外界と隔てられた閉じた存在であり、さらに細分化すると、細胞なども細胞壁で隔てられた閉じたものとして考えることができます。

さらに、1個のリンゴなども閉じた存在として考えることができます。

他には、原子、分子なども固有の振動数を持ち、一つ一つが閉じた世界であると言うことができます。

 

■ 開いた世界(無限)とは?

では、「開いたもの」とはどんなものでしょうか?

閉じた世界の反対のものを考えると、それは、隔てるものがなく、一定の周期を持たず、どこまでも果てのないものと考えられます。

 

しかし、無限に広がる「開いた世界(無限)」は、実際に存在するのでしょうか?

 

■ ウロボロス(Ouroboros) ~「有限」と「無限」~

では、「閉じた世界(有限)」と「開いた世界(無限)」を考察するために、それぞれ、「有限」と「無限」に置き換えて、神秘学的な観点から考察してみましょう。

 

下図は「ウロボロス」と呼ばれる、「尾を飲み込む蛇(竜)」の絵です。

 

ウロボロス-自分の尾を噛む蛇

From Wikimedia Commons / Ouroboros / public domain

 

古代文明や錬金術、神秘学においても様々な象徴として用いられていますが、その多くは、「死と再生」や「完全性」をあらわす象徴として、そして「永続性」や「無限性」をあらわすものとして用いられています。

 

下図は、さらに「Α」と「Ω」、「Licht Leben Liebe(光、命、愛)」と書きこまれた興味深い象徴ですが、これは、「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー」というドイツの哲学者の墓石に刻まれているものです。

 

哲学者ゴットフリート・ヘルダーの墓石に描かれたウロボロス

From Wikimedia Commons / Ouroboros_Herder / Kharmacher / public domain

 

さて、ここで勘の鋭い方はお気づきかもしれませんが、このウロボロスの図は、実は、頭と尾がつながった「閉じた世界(有限)」を象徴するものでもあります。

 

ではなぜ、「閉じた世界(有限)」を象徴するウロボロスが、「永続性」や「無限性」をあらわす象徴となるのでしょうか?

この謎を解き明かす前に、上の図について少しご説明したいと思います。

 

■ 「Α」と「Ω」が意味するもの

「私はアルファ(Α)であり、オメガ(Ω)である」

これは、新約聖書の「ヨハネの黙示録」の中の有名な一節ですが、一般的には、「私(神)は始まりであり、終わりである」と解釈され、神が「始まり」と「終わり」であることが明確に語られています。

そして、この墓碑には、「始まり」と「終わり」をあらわす「Α」と「Ω」の象徴として「ウロボロス」が描かれていますが、その「ウロボロス」の意味するところは、前述の通り「永続性」や「無限性」ですので、一見矛盾しているようにも思えます。

 

そして、これに関連しては、もう一つ面白い例があります。

それは皆さんがよく知っている、神社などにある狛犬です。

狛犬をよく見ると、一体は口を開け、もう一体は口を閉じているのがわかります。

これは「阿・吽(あ・うん)」と呼ばれ、サンスクリット語の真言「aum(a(阿)+hum(吽))」を音写したもので、宇宙の「始まり」と「終わり」をあらわしていると言われています。

まさしく、「Α」と「Ω」と同じ意味を持っていますが、実は、これらは同じ源泉を持っているとも言われています。

 

さて、少し寄り道をしましたが、「有限」であり「無限」をあらわす神秘学的な象徴である「ウロボロス」を、今度は数学的な観点から考えてみましょう。

 

■ 無限とは、どこにあるのか?

数学的には、無限とは、どこに存在するのでしょうか?

 

砂浜の砂の数は無限でしょうか?

夜空の星の数は無限でしょうか?

 

結論から申し上げると、無限ではありません。

これらは、途方もない時間が掛かったとしても数え上げることができ、たとえ膨大な数であっても無限ではありません。

これは、数えられるものに関して言えば、本当の意味での無限というものは存在しないとも言えます。

 

では、無限とは、どこに存在するのでしょうか?

実は、数直線上の「0」から「1」の間に無限は存在しています。

少し数学的な表現になりますが、この「0」から「1」間には、1/2、1/3、1/4などの整数比で表せる「有理数」が無限に存在し、さらに整数比であらわすことができない√2や√3などの「無理数」が無限に存在しています。

 

もう少しわかりやすく言うと、「0」から「1」の間は、「無限に分割」することができる、と言うことができます。

たとえば、「0」から「1」の距離が1cmであるとすると、物理的に無限個に分割することは難しいように思いますが、この「0」から「1」を、第一回目でご説明した「全体(1)」として、あるいは、この宇宙全体とすると、これを無限個に分割することは、どこまでもミクロあるいはマクロな世界を考えれば、可能なように思えます。

 

これを少しまとめると、

● この世界にある数え上げることのできるものは、無限ではない。

● しかし、ある有限な塊は、無限に分割することができる。

となり、さらに簡潔に言うと、「有限」の中に「無限」が存在する、と言い換えることができます。

 

では、最初の「ウロボロス」の絵を再び見てみましょう。

 

ウロボロス-自分の尾を噛む蛇

 

「0(頭)」から「1(尾)」までの「有限」をあらわすシンボルでありながら、その「連続性」によって「永続性」をあらわし、さらに「有限」に対して「無限」がどこにあるのかを、とてもシンボリックにあらわしています。

 

では、他の例を用いながら、「有限」の中に存在する「無限」について考察してみましょう。

 

■ 「キャンバス(有限)」の中の「無限」

たとえば、1m×1mのキャンバスの中に絵を描くことを想像してみてください。

 

Q:このキャンバスのサイズは、言うまでもなく「有限」ですが、このキャンバスに描かれる絵は「有限」でしょうか? 「無限」でしょうか?

A:キャンバスのサイズは「有限」ですが、そこに描かれるはずの絵は「無限」の広がりを持っていると言えます。

 

Q:1台のピアノから生み出される音楽は「有限」でしょうか? 「無限」でしょうか?

A:ピアノという存在自体は、一つの閉じた「有限」のものですが、そこから生み出される音や音楽は「無限」の広がりを持っていると言えます。

 

さて、「有限」と「無限」の関係性が、おぼろげながらにも見えてきたでしょうか?

 

では、これを人間に置き換えるとどうなるでしょうか?

 

Q:人間は「有限」でしょうか? 「無限」でしょうか?

A:人間は、物質的には一つの閉じた「有限」なものですが、そこから生み出されるもの、その精神が生み出す思考や創造性は「無限」の広がりを持っていると言えます。

 

いかがでしょうか?

私たちは、「無限」の中に「有限」が含まれているかのように思いがちですが、実はその逆で、どうやら「有限」の中に「無限」が存在し、これは、以下のように「肉体」と「精神」に置き換えることもできそうです。

 

人間は、物質的な「体」という限界を持ってはいるが、非物質的な「精神」が生み出す創造性には限界はない。

 

では、次回は、数とその象徴性に迫るために、エジプト学の異端児でもあり、「シンボル主義者」である「シュヴァレ・ド・ルービッチ」の思想などをご紹介したいと思います。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

実は、本年中に当会から、図形と数についてのある翻訳書を出版しようとしているのですが、その本の著者によれば、図形や数が持つ象徴的な意味は、時代や文化が異なっても、かなり共通性があります。

たとえば、文化が異なっても、正方形は大地や生活、有限、迷いを象徴し、円は、天空や神、無限、悟りを表わします。西洋でも東洋でも、7はおおむねラッキーな数とされます。

 

さて、近い将来か、はるかに遠い未来のことかは私には分かりませんが、人類が、文明を持つ他の星の生きものに遭遇したとします。

 

使っている言葉や文法はおそらく大きく異なるでしょうが、通訳によって意思疎通ができたとすると、人類の数学者も、異星人の数学者も、きっと1+1が2であることや、平面に描かれた三角形の内角の和が180度であることには同意することでしょう。

 

では、数の象徴的意味についてはどうでしょうか。

異星人は、7をラッキーな数と考えるのでしょうか。

 

無益な想像かもしれませんが、このような疑問は、「普遍」とは何かということに関連しているようにも思えます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

またお付き合いください。

 

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現実について

2020年9月4日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

まだまだ暑い日が続いていますね。

 

一方で、沖縄、奄美、九州に危険な台風が近づいています。

どうか、くれぐれもお気を付けください。

 

さて、もしかしたら皆さんにも、次のような経験があるのではないでしょうか。

 

ずいぶん昔のことになりますが、友人が運転している車の中でトランプをして遊んでいたのです。

車が高速道路のトンネルに入ると、トンネル内の黄色の照明にトランプが照らされました。

すると、ハートとダイヤの赤色の札が、スペードとクラブと同じ黒色になりギョッとしました。

 

最近はLED照明などの普及で減っているとのことですが、一部のトンネルでは低圧ナトリウムランプという照明が使われています。この照明の光には赤色の波長がほとんど含まれていません。

高速道路のトンネル

 

通常私たちは、目の前に見えているものが、見ている通りのものなのかなどということはあまり疑いません。

ところが、照明が変っただけで物の見え方が大きく変化するというこのような体験をすると、ほんとうの世界はどのようなものなのだろうかという疑問がわいてきます。

超音波を感じることができるコウモリや、嗅覚が人間の何万倍も鋭い犬は、きっと私たち人間とは、まるで異なる世界を体験していることでしょう。

 

哲学では、私たちが知覚している世界のことを「現実」(reality)と呼び、知覚とは無関係に存在している世界のことを「実在」(actuality)と呼びます(別の用語が使われる場合もあります)。

 

現実と実在の問題は、何千年もの間哲学で追究されてきました。おそらくいまだに解決していない問題です。

当会のフランス代表が自身のブログに、現実とは何かを話題にした文章を投稿していますので、ご紹介します。

▽ ▽ ▽

記事:「現実について」

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

現実とは、この言葉のそもそもの意味から言えば「本当であるもの」、「本当に存在するもの」です。しかし、より具体的に言えば、私たち人間の五感、つまり視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚によって捉(とら)えられるものが、通常「現実」と呼ばれています。

この立場から言えば、私たち人間にとって最も現実的なものは物質からなる世界です。私たちは毎日、物質の世界で生活し、他の人たちと交流しています。

私たち自身の身体は、物質の世界という現実の一部であり物質の世界と不可分のものです。目覚めているとき、私たちは自分の身体を自分自身だと見なしていて、自分にとって極めて現実的なもの、つまり真に存在するものだと考えています。

VRゴーグルで仮想現実を体験する若い女性

 

現実

五感によって捉(とら)えられるということを、現実であることの判定基準だと考えるということが、もし確実に正しいのであれば、「物質の世界だけが現実だと言い切れるのだろうか」とか、「心の働きによって私たちが持っている観念は、現実として存在すると言えるのだろうか」というような疑問を、私たちが持つことは決してないでしょう。

このような疑問が生じる最大の理由は、おそらく、実際には存在しない事物を、私たち人間は思考したり想像したりすることができ、それを自分の意識というスクリーン上で見ているときには、それが自身にとって現実に感じられるからです。

現実だと感じられるものに、このように異なる2つの種類があることから、心理学者は、「客観的現実」(objective reality)と「主観的現実」(subjective reality)という語を用いています。

私たち人間は、一日中、客観的現実の世界と主観的現実の世界との間を絶え間なく行き来しています。

空想にふけっている小学生の男の子

 

バラ十字哲学の立場から言えば、現実とは意識の状態です。そのため、意識を外に向けるのか内に向けるのかによって、結果的に現実は客観的になったり主観的になったりします。

しかし、どちらの場合にも誤りが生じる可能性があります。客観的現実の場合には感覚上の錯覚が生じますし、主観的な現実の場合には思い違いが生じます。

ですから私たちは「現実」と「真実」を混同するべきではありません。たとえば、死後の行き先として天国というものが存在するとある人が考えているとしましょう。その人にとって天国は十分に現実的な場所かもしれませんが、それは真実でしょうか?

 

あの世

物質的な世界というものが私たちにとって最も現実的であるということは、決して否定できないことでしょうが、バラ十字会員の多くは、死後の魂が2つの人生の間に滞在する、「あの世」というものが存在すると考えています。

確かに、五感によってあの世を知覚することはできず、そのため物質主義者や無神論者の多くはあの世が現実に存在すると考えません。

しかし、人間の意識には、あの世と同調してそこから印象を受け取ることが可能であり、特にこのために瞑想という手段を用いることができます。さらに、あの世にいる存在と接触することができる能力を持つ人がいることが知られています。

 

フランス人の大部分が知っている、「見たものだけを信じなさい(Ne croire que ce que l’on voit.)」という格言があります。この格言の通りに、見ることができないということを理由にして、極端に合理主義的な人たちはあの世が存在することを否定します。

しかし、空気を例に取りましょう。空気は見ることはできませんが、それが存在することは誰もが認めます。その理由は、さまざまな方法で科学がその存在を立証したからであり、どのような種類の気体で空気が構成されているのかが今では知られているからです。

同じように、多くの科学者が真に望むならば、いつの日か科学は次のことを立証すると私は確信しています。ひとつは、人間が魂を持ち、魂は脳の機能を超越した直観的認識の手段かつ知性であるということです。もうひとつは、万物にはある普遍的意識が備わっていて、この普遍的意識こそが宇宙の本質であるということです。

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

以前もご紹介したことがありますが、薬師寺、興福寺など、奈良にあるお寺の多くは法相宗という宗派に属します。

この宗派に伝えられているのは唯識という仏教の伝統的な考え方であり、この考え方では現実とは(本当に存在するものは)八識だけだとされています。八識とは五感による認識と意識と2種の潜在意識です。

上の文章で説明されていた「現実とは意識の状態である」というバラ十字哲学の立場と良く似た考え方です。

 

哲学者の大森荘蔵(1921-1997)さんも唯識と似た説を唱えています。大まかに言えばこの説では、世界そのもの(物)と世界を知覚する自己(心)は、認識というひとつのものから、私たち人間が勝手に分離、想像したものだとされています。

 

下記は前回のセルジュ・ツーサンの記事です。

記事:『SFについて

 

では、今日はこのあたりで。

また、よろしくお付き合いください。

 

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銀河鉄道の夜

2020年8月28日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

残暑のお見舞いを申し上げます。しかし残暑とは名ばかりで、まだ猛烈に暑いですね。

いかがお過ごしでしょうか。

 

この数日、東京板橋は空が晴れている夜が多いのですが、札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人が、この時期にふさわしい文章を寄稿してくださいました。

▽ ▽ ▽

文芸作品を神秘学的に読み解く(23)

『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治

森和久のポートレート

森 和久

 

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生が質問します。

 

物語は小学校の午後の教室、理科の時間の場面で始まります。話題は「天の川」についてです。カンパネルラを初め数人の生徒が勢いよく手を上げます。

ジョバンニは判っているような気がしますが、よく思い出せません。先生はそんなジョバンニに答えさせようとします。あてられたジョバンニは答えられず、立ち尽くし、級友たちが冷やかします。そこで先生は代わりにカンパネルラを指名します。しかし、判っているはずのカンパネルラも無言です。

そこで先生は自分で天の川銀河の物理的説明をし、「今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。」と授業を終えます。

以前ジョバンニはカンパネルラの家で一緒にこのことを雑誌や本で見ていたのです。ジョバンニは仕事の辛さで頭が回らなくなっていたのです。「カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。」

夜の湖と天の川

 

主人公のジョバンニは貧しい家の少年で、放課後は活版所で活字拾いのアルバイトをしており、この日は仕事の後、病気の母のために、配達されなかった牛乳を受け取りに牧場へ向かいます。

彼の父親は北の海へ漁に出かけており、長い間帰って来ていません。

ジョバンニはカンパネルラだけを親友と思っています。普段から級友たちやアルバイト先の大人たちからもいじめられ、疎外感を抱いています。孤独な少年にありがちの空想にふけることもたびたびです。

 

この日は星祭りの日なので、カンパネルラと級友たちはカラスウリを流しに川へ向かいます。牧場で牛乳を受け取れなかったジョバンニはその集団に出会いますが、ザネリに馬鹿にされたため、逃げるように街から離れ、『天気輪の柱』のある丘に来ます。

そこに寝転がり、街の灯りや楽しげな乗客の乗った汽車を眺めます。乗客たちはリンゴをむいたり笑ったりしています。いたたまれなくなったジョバンニは夜空を見上げます。するとそこは暗い夜空ではなく林や牧場のある野原のように思われるのです。

 

そのうち『銀河ステーション』という声がして、気がつくとジョバンニは軽便鉄道の車室の座席に座っていたのです。すぐ前の席には水に濡れたような服を着たカンパネルラも座っています。この銀河鉄道は天の川の岸を北から南へ向かって走っているのです。

車窓の外にはリンドウの花が咲き誇り、もう秋の訪れを知らせてくれます。銀河ステーションの近くには琴座のベガがあり、対岸には鷲座のアルタイルがあります。そして白鳥座のデネブとで、夏の大三角を形作ります。白鳥座には北十字があります。南へ進んでいくとひときわ明るい天の川の部分になります。作者はここを『コロラドの高原』と呼んでいます。ここでは、射手座が輝いています。

次には、蠍座のアンタレスが赤く光っています。さらに進むと南半球のケンタウルス座があります。もっと南へ向かうと南十字が現れます。その脇には石炭袋(暗黒星雲)が真っ暗な口を開けています。これらの星々を眺めながらジョバンニとカンパネルラは銀河鉄道の旅をするのです。

星の夜空と機関車

 

ジョバンニはいつも孤独感を味わってきましたが、銀河鉄道に乗っているときも、カンパネルラと女の子が楽しそうに話しているのを見て、疎外感にさいなまれてしまいます。自分でもどうしようもなく、女の子もカンパネルラも遠い存在のように思えて仕方ありません。

実は女の子たちが乗ってくるその前に乗っていた鳥捕りの男に対してジョバンニは、冷めた感情で接していた自分に気付きます。

そして後悔の念で、「もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸(さいわい)になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がし」ます。

「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」と自分の心情を吐露します。

 

カンパネルラは川で溺れた級友のザネリを助けるために自分が溺れ死んでしまいます。究極の滅私奉公かもしれません。しかし、カンパネルラ本人には割り切れていません。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」というせりふが何度も出てきます。でもそれは彼が心からそう行動せずにいられなかった行いだったのでしょう。

作者がこれを英雄譚として書いていないことからも判ります。人間の生き方のありようなのかもしれません。

 

ですからこの物語は、本当の幸福とは何か、他人のために尽くし、尽くしきれるかという問題を突き詰めると同時に、ジョバンニのさらなる学び、さらなる発展の物語です。

読者である私たちは主人公のジョバンニに感情移入し、カンパネルラのような人間になれるだろうかと考え、カンパネルラという友がいなくなっても一人で生きて行かなければならないんだと、そう心に決めるのです。

 

女の子とその幼い弟と家庭教師の青年は、乗っていた船が氷山にぶつかり沈没したのです。

そのとき青年は他の子どもや親たちを押しのけて、女の子と弟を救命ボートに乗せようと一旦は思ったのですが、

「けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。」

と思い直し、三人で板きれにしがみ付き浮いていられるだけ浮いていようと試みます。その時、賛美歌『主よ御許に近づかん』が聞こえてきて、大勢の人たちがいろんな言語でこの賛美歌を歌い出したのです。

 

このシーンは1912年に、実際に起こったタイタニック号の沈没をモチーフにしていると思われます。この時、船上楽団が最期に演奏した曲は何かということについて諸説あります。当初はこの物語でも取り上げられているように讃美歌第320番『主よ、御許に近づかん』とされていました。

「わが神よ、御許に近づかん、御許に近づかん。たとえ私を高く持ち上げるものが十字架であったとしても、なおも、わが歌の全ては、わが神よ、御許に近づかん、わが神よ、御許に近づかん。」と歌われます。

 

この物語を元にしたますむらひろしの漫画をアニメ化した映画もジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック』など多くのタイタニック号の沈没を描いた映画でもこの曲が使われています。

そのアニメ映画の音楽を担当した細野晴臣の祖父はタイタニック号に乗船した唯一の日本人で、無事生還することが出来ました。助かったおかげで晴臣の父が生まれ、晴臣も生を受けました。ところが彼の祖父は他の乗客を押しのけて、救助ボートに乗った卑怯者という汚名を着せられました。

しかし、1997年から行われた調査の結果、たまたま一人分の席が空いていたところに乗ることができたという事実がわかり、汚名をすすぐことができました。

 

その後、最後に演奏された曲は、『オータム Autumn』が有力とされてきています。

この曲は讃美歌第351番『友という友はなきにあらねど』のことで、「私たちを救うすべての友人のうち、誰が血を流すことができるでしょう? しかし、私たちのイエスは私たちを神と調和させるために死を選びました。これは確かに無限の愛でした。イエスは大切な友です。」ということを歌われます。

この賛美歌の照合する聖句は、『新約聖書 ヨハネによる福音書 第15章 第13節』です。そこには十字架にかかる前夜、弟子たちに語ったイエスの言葉としてこうあります、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」

 

イギリスの音楽家ギャヴィン・ブライアーズ(Gavin Bryars)はこの曲をアレンジして、“The Sinking Of The Titanic”のタイトルで3度音楽アルバムをリリースしています。

最初は1975年にブライアン・イーノの環境音楽レーベル、オブスキュア・レコードから出しました。彼は、奏でられた音楽が波の下に消えたとしても音は反響し続けると想像しました。音の響きは海底まで届き、その振動は永遠に鳴り続けるのです。

2作目は1995年にリリースされました。録音はナポレオン時代の給水塔で行われ、ミュージシャンたちは塔の地下で演奏し、給水塔は巨大な残響室として機能しました。

3作目は2007年にリリースされました。これには楽器としてターンテーブルが導入され、そのパチパチ音が巨大なうねりとなり新たな境地を表現しています。いずれのアルバムもタイタニック号が沈没する様を具現化した音響となっています。

 

『カンパネルラ(Campanella)』とはイタリア語で『(小振りの)鐘』を意味します。鐘とは『時』を知らせるものです。またルネサンス期のイタリアの司祭で哲学者のトマソ・カンパネッラ(Tommaso Campanella)も有名で、この物語のカンパネルラも彼からとられたという説があります。

彼は平等・共産を理想とする神政によるユートピアの実現を目指しました。『ジョバンニ(Giovanni)』はイタリア語で『ヨハネ』のことで、上記のこととの繋がりを感じさせます。ガリラヤ湖で漁師をしていたヨハネはイエスの弟子となり、磔刑の場でも最後までイエスのそばにいたとされます。

 

汽車は『コロラド高原』の駅に止まりました。するとドヴォルザークの『新世界交響楽』が流れてきます。この曲はドヴォルザークが新天地であるアメリカへ渡って、つづった交響曲です。

汽車は峠を越え斜面を大きく下り始めます。「ええ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向うからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう。」と老人らしい声が言います。

そうです、この銀河鉄道は北から南へしか走らないのです。冥界へ向かうのですから。

 

ジョバンニはだんだん心持ちが明るくなってきます。蠍座の近くに来た時、女の子は父に聞いたというサソリの話を始めます。サソリはその毒針で小さな虫を殺して食べているけど、ある時、イタチに追いかけられ、逃げ回っているうちに井戸に落ちてしまい出られなくなってしまいます。

「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。」

こう言って、今では天で自分の体を燃やして暗闇を照らしているということです。

 

南十字に近づいて来て、女の子たちはそこで降りなければなりません。ジョバンニは別れが惜しくなり、本当の神について女の子と言い争います。そして誰の神が本当なのかではなく、神は一人であると諭されます。

「ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。」

みんなは祈りはじめ、ハレルヤが高らかに響き渡ります。

 

女の子たちも他の人たちも降りてしまい、ジョバンニはまたカンパネルラと二人っきりになります。ジョバンニは言います、「どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」

ジョバンニが続けます、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云います。

 

汽車は『石炭袋』に近づきます。天の川の中に真っ暗な穴が開いているようです。「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」ジョバンニは言います。

そうして振り返ってみると、いままでカンパネルラがいた席にカンパネルラの姿はなく、ただ黒いビロードだけが光っていました。

みなみじゅうじ座の石炭袋

みなみじゅうじ座の石炭袋 Wikimedia Commons / Public domain

 

ジョバンニが目を開くと、そこは元の丘の上です。疲れて草の上で眠っていたのです。そして再びお母さんの牛乳を受け取りに牧場へ向かうのでした。

 

この物語でジョバンニはカンパネルラと銀河鉄道で天の川を旅するのですが、冒頭にあったように、天の川は英語では“Milky Way”と呼ばれミルクが流れているように思われたりします。

この日、地上においては、ジョバンニは母のために牛乳を求める道を歩みます。天上と地上がシンメトリーになっています。

 

付記:この物語は未完の作品です。結果的に第4稿が最終稿となりました。第3稿までは、車室でカンパネルラがいなくなった後、「ブルカニロ博士」の登場する一節が入れられていました。この謎の博士がジョバンニにいろいろと説き、銀河鉄道に乗る夢自体が博士の実験だったと種明かしのようなことをします。作者の推敲によりこの部分は削除されたわけですが、各出版社で判断が違っています。私見では不要な部分です。また、岩波版などは最後の「~もう一目散に河原を街の方へ走りました。」の後に、数行ノスタルジックな一節を(削らずに)入れ込んであります。

△ △ △

ふたたび本庄です。

森さんの文章にも書かれていたように、『銀河鉄道の夜』にはキリスト教の影響が見られます。しかし、ご存知の方も多いと思いますが、宮沢賢治は熱心な仏教徒だったことが知られています。

宮沢賢治(1924年、27歳当時)

宮沢賢治(1924年、27歳当時) Wikimedia Commons / Unknown author / Public domain

 

優れた童話や伝記の多くに共通する特徴だと私は思っているのですが、『銀河鉄道の夜』も一例ですが、読後にいたたまれないほど、この世の無常を感じます。

打ってかわって、宮沢賢治といえば私が最初に思い出すのは『注文の多い料理店』です。まさに夏向きの怪談話ですが、いったい彼はこの童話で子供に何を訴えたかったのでしょうか。不思議です。

 

『銀河鉄道の夜』も『注文の多い料理店』も、青空文庫で読むことができます。

 

下記は、森さんの前回の文章です。こちらは、文字にまつわる奇怪な古代アッシリアの物語です。

記事:『文字禍

 

では、今日はこのあたりで。

また、お付き合いください。

 

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名言?それとも迷言?

2020年8月21日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

ほんとうに暑いですね。ベランダで花の手入れをしていて、非常口の鉄板をはだしで踏むと、やけどしそうになって飛び上がります。

いかがお過ごしでしょうか。

 

今回は、山形県にお住まいの私の友人から届けていただいた、迷言についてのお話しです。

▽ ▽ ▽

記事:「名言?それとも迷言?」

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

還暦を迎えた時には別に考えませんでしたが、古希を迎える歳になりましたら真剣になって考える様になりました。

「残りの人生をどう生きる・・・」と。

色々と考えて、ふと思い付きました。「一から考えるよりも巷に溢れる名言を参考にすれば良いのでは」と。ちょっと能天気な思いつきとも言えなくもないのですが、これもありかと・・・(笑)。

田舎道を歩く2人の男性

 

そこで早速に新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、さらに友人、知人らとの何気ない会話などから「これは!!」と思える言葉を手当たり次第に集めまくりました。

その中で私の気に入った言葉の一つが「選ぶ言葉一つで世界は変わる」です。一見すると使い古された言葉のように思えますが、いつの時代にも(特に今の時代)第一番に必要とされている言葉なのではないでしょうか。

 

実はこれ、コミック本でタイトルが「カラーレスガール」の中で目に留まった言葉なのです。数ヶ月前の事です。新聞の新刊本紹介の記事の欄でそのタイトルを目にしたのです。目にした瞬間、直感的に「買う、買うのだ!!」と。単純な頭脳構造の私は迷うことなく即購入。結果は大正解でした。これは!! と思える名言が盛りだくさんでした。他にも気に入った言葉がたくさんあるのですが、次に行きましょう。

 

私の高校時代からの友人の言葉です。彼は、何か新しいことに挑戦しようとする時、あるいは難題に直面した時、ニッコリ笑って「ねじり鉢巻に腕まくりで行くか!!」が決まり文句でした。彼は何をやる時にも真剣勝負で挑んでいました。ちなみに冗談をかます時にも(笑)。

高校卒業後は私と一緒に自動車ディーラーに勤務。将来は自動車関連の会社を立ち上げるのを計画していたのですが、縁あって25歳の時に美容室を開業しオーナーに。その後は文字通り「ねじり鉢巻に腕まくり」で快進撃を開始。次々と支店を増やし、多くの従業員から本当の父親の様に慕われ、事業を全国規模にまで拡大したところで長年の不摂生がたたり(超の付くヘビースモーカー&大の酒好き・・・酒は私もだいぶん付き合いましたが)令和元年の十一月に「極上の人生だったよ」の言葉を残し旅立ってしまいました。

ウイスキーと葉巻

 

彼の人生は最後まで波乱万丈でしたが、文字通り「ねじり鉢巻に腕まくり」で駆け抜けた「極上の人生」でした。

私も残りの人生を彼の残してくれたこの言葉を背負って生きて行こうと思っています。

「お~い聞こえるか~俺がそっちの世界に行く時にはお前さんの大好きだった『旨い安い』の『名言』で一世を風靡したトリスウィスキーをお土産に持って行くからな~。それまでに禁酒・禁煙で体調整えて閻魔様と待ってろよ~(涙)。」

 

最後にもう一つ。

私には、その昔、プロのロックギタリストだったという経歴を持った友人がいます。

その友人が酒の席で語った名言(迷言?)です。

ビールを飲むロックバンドの仲間たち

 

当時は演奏が乗って来ると客席から「そら、飲め~!!」とばかりにビールジョッキに入ったウィスキーがステージ上に並んだのだそうです。

それをメンバー全員が一気飲み。これでは手元が狂って変な音が出てしまいます・・・。

そういった時は軽く目を閉じ、ちょっと上を向いて首を左右に振るのだそうです。すると観客は、「お~っ。今のはアドリブか? 味な事やるね~っ」。

これには私、笑ってよいものやら、どうしたものやら。

 

すると続けて、「それでもごまかし切れない時はな、ニッコリ笑って隣にいるメンバーを指差すんだよ」。さすがにこれには笑わせてもらいました。

この話を、今年の正月に私の所属するバンドの新年会の席でご披露したところ、全員大爆笑。

その後に全員が。

「今度、使わせて頂きます!!」

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

調べてみたところ、「カラーレスガール」は、白野ほなみさんという方が書いた美大生が主人公のコミックでした。タイトルを目にした瞬間に直感的に購入した山下さんの気の若さにびっくりしました。

というか、ここの裏事情を今度機会があったときに問い詰めてみます。

 

下記は前回の山下さんの記事です。

記事:『おやじバンド奮戦記

 

では、今日はこのあたりで。

 

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