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生まれ変わりについて

2019年3月15日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、良い天気が続いています。コブシが咲き始めました。

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いかがお過ごしでしょうか。

 

先日、名古屋でワークショップを行なったのですが、そのとき、話題が「生まれ変わり」のことに及びました。

講師の私から、「人は生まれ変わると思っている人は手を挙げていただけますか?」と、参加されていた皆さんに尋ねたのです。

すると、少し驚いたのですが、8人の皆さん全員が手を挙げられていました。まあ、人数が少ないので偶然と言うこともあるでしょう。

 

東京で行っているワークショップでも、ときおり同じ質問をすることがあります。

だいたいの傾向としては、6割ぐらいの方が肯定され、2割ほどの人が分からないとお答えくださり、2割ぐらいの人が生まれ変わらないと思うと答えてくださいます。

父と手をつなぎ、海を見つめる子供

 

日本では仏教の影響で、生まれ変わりを肯定する人の割合が多いようです。

一方、ヨーロッパや米国では、キリスト教と物理主義の影響で、生まれ変わりを肯定する人は、日本ほどは多くないようです。米国での2008年の調査では、生まれ変わりが存在すると考えている人は31%だったとのことです。この割合は、その後少しずつ増えているようです。

あなたはどのようにお考えでしょうか。

 

参考記事:『人は物と心でできているのでしょうか

 

マハトマ・ガンディー(1869-1948)は、次の言葉を残しています。

「明日死ぬかのように生きなさい。永遠に生きるかのように学びなさい。」

 

素晴らしい言葉ですね。

そして、この言葉の真意ではないと思いますが、何をどのように学ぶかということには、生まれ変わりについてどう考えるかということが、大きく影響するのではと考えさせられました。

特に、就職やキャリアアップのために、何かを必死に学ばなければならなかった時期が終わった、壮年期や老年期の方々はそうではないでしょうか。

夕暮れの海

 

「生まれ変わり」の考え方には、かなりのバリエーションがあります。主なバリエーションのひとつは「何に生まれ変わるか」についてのバリエーションで、もうひとつは、「何が生まれ変わるのか」についてのバリエーションです。

 

「何に生まれ変わるか」については、その立場を示す以下の2つの英語があります。ご説明しますが、日本語の訳語は確定していないことをご承知おきください。

転生説(reincarnation)では、人は人に生まれ変わると考えます。一方で、輪廻説(metempsychosis)では、人間は動物に生まれ変わることもあると考えます。

仏教のいくつかの説話は、ある人生で犯した罪に対する罰として、人間が動物に生まれ変わることがあると説いています。

神智学やシュタイナーの思想や、バラ十字会の哲学では、人間は人間にしか生まれ変わらないと考えられています。

 

「何が生まれ変わるのか」ということについて、西洋の多くの考え方では、ソウル(soul:魂)のような不滅のエネルギーがあって、それが次々と異なる新生児の体に宿ると考えられています。

一方で仏教では、伝統的に「無我」という考え方が採られていて、常に存在する自己というものが否定されています。

仏陀は、何が生まれ変わるかという問いは、人の苦しみを救うために役立たないので議論をしないという立場を採ったとされています。

その後に発展した唯識論(薬師寺や興福寺などで教えられている教えです)では、深層意識の「アラヤ識」が死後も存続し、生まれ変わりの原因になると考えられています。

集合的無意識(イメージ図)

 

「生まれ変わり」には、どのような証拠があるでしょうか。

ひとつは、前世の記憶のように思われる事柄について話す子供が、多数いるということです。

米国ヴァージニア大学医学部の知覚研究室はこのことを詳しく調査していて、今までに2600を超える事例を収集したとのことです。

この調査によれば、子供たちが前世を語り始める平均年齢は2歳10ヵ月ですが、この記憶は8歳までには大部分が消失してしまうとのことです。また、前世で会ったと子供が語った人を調査すると、その人が存在していたケースは70%以上だったそうです。

 

第2の証拠として挙げられるのは、退行催眠とよばれる手法によって過去世を思い出すことができたというものです。しかしこちらは情報としての信頼度が低いという人がいます。また、退行催眠は場合によっては危険を伴うと主張する人がいます。

 

第3は、間接的な証拠ですが、過去の偉大な思想家たちの多くが、生まれ変わりを肯定していたということです。たとえば、ピュタゴラスは自分の前世を記憶していたと証言している歴史家がいます。

 

当会の通信講座の初心者課程の12~15ヵ月目では、生まれ変わりが学習テーマのひとつになり、バラ十字哲学では伝統的にこのことをどう考えているかと、さまざまな文化圏の哲学者、思想家が、このテーマについてどのような文章を残しているかが紹介されます。

参考記事:『教材の内容

 

次の電子書籍は、翻訳の文体が多少古くさいですが、生まれ変わりに関してバラ十字会に伝えられていることが正確に書かれています。

転生の周期』(電子書籍、Amazon)

 

人類がまだ解き明かすことのできていない問いのことを、ビッグ・クエスチョンと呼びます。

先週話題にした「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」もそうですが、「生まれ変わり」も、ビッグ・クエスチョンのひとつだと思います。

その他にも、「宇宙は何のためにあるのか」、「脳と心は同じものか」など、興味深いビッグ・クエスチョンが数々あります。

これらについての探究は、100年後にはどの程度進んでいるのでしょうか。人間の未来にどのような影響を及ぼすのでしょうか。考えただけでもワクワクします。

 

参考記事:『エソテリックとは

 

では、今日はこの辺りで。

また、お付き合いください。

 

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エソテリックとは

2019年3月8日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、ソメイヨシノのつぼみもずいぶんと膨らんできました。

いかがお過ごしでしょうか。

 

フランスの画家ゴーギャンが書いた絵画に、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という題名の油絵があります。

ゴーギャン作「我々ははどこから来たのか……」 ボストン美術館所蔵Wikimedia Commons [Public Domain]

ゴーギャン作「我々はどこから来たのか…」、ボストン美術館所蔵、Wikimedia Commons [Public Domain]

 

この題名はまさに、いわゆる「ビッグ・クエスチョン」にあたり、人間の本質、人生の目的についての疑問を投げかけています。

 

少なくとも数千年、人類は哲学、宗教などの分野を通して、この問いに取り組んできました。

そして、多くの人の意見によれば、どうやらこの問いへの答えは理屈を超越していて、かなりの苦労の末に、体験によってしか“見破る”ことができないようなのです。

 

そこで、ビッグ・クエスチョンに対する向き合い方は、主に2つに分かれてきました。

ひとつは、体験した人の語ることを聞いたり、書いたものを読んだりして、それをとりあえず信じるという向き合い方です。

この方法は、「エクソテリック」(exoteric)と呼ばれます。「公教的」、「公開的」、「通俗的」などと訳されています(いずれも私の好きな訳語ではありませんが)。

比較的最近まで、大部分の宗教の多くの信者が、この方法に従ってきました。

 

もうひとつは、直接自分で体験しようとする態度です。この態度は「エソテリック」(esoteric)という言葉で表されます。

エソテリックな向き合い方は、多くの場合、その具体的な方法が秘密にされることが多かったので、この語は、「秘伝的」、「奥義的」、「秘教的」、「密教の」などと訳されてきました。

エソテリックな取り組みは、以前は少数の専門家だけが取ることのできる方法でした。しかし現在では、人類の意識の進歩と情報の広まりのおかげで(質の高い情報だけが広まっているわけではありませんが)、誰もが実践することができるようになりました。

 

当会のフランス代表が書いた下記の文章では、このようなエソテリックな取り組みの始まりは、古代エジプトにあるということが説明されています。

▽ ▽ ▽

『原初の伝統について』

“A propos de la Tradition primordiale”

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

多くの方がご存知のことと思いますが、歴史の研究と神秘学(mysticism:神秘哲学)の研究という2つの性質を合わせ持った数多くの本が出版されています。そして、それらの本では、「原初の伝統」(Sophia perennis)について述べられることが多々あります。

〈原初の伝統〉とは、いわゆる”啓示”宗教が生じた源流です。より具体的に言えば、宗教のエソテリック(esoteric)な部門、ユダヤ教で言えばカバラ、キリスト教で言えばグノーシス派、イスラム教で言えばスーフィズムが、〈原初の伝統〉から生じたとされます。

これらのエソテリックな宗教の考え方を比べてみると、そこには多くの共通点があることが分かります。また、エソテリックな宗教の重要な要素である、知識や英知を探求するための実践方法には、互いにほとんど矛盾がないということは注目に値します。

このことは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一般向けの教えに関しては、必ずしも当てはまりません。

 

今述べた3つのエソテリックな宗教だけが、〈原初の伝統〉から生じたのではなく、そこからは、古い伝統を持つ思想団体も生じました。そのような団体として、バラ十字会(バラ十字団)、伝統マルティニスト会、フリーメーソンなどを揚げることができます。

テンプル騎士団の城トマール

テンプル騎士団の城トマール

 

そして、これらの団体に伝えられている知識にも共通点があり、使われている用語にも多くの類似したものがあります。

ですから、カバラの研究家、グノーシス派やスーフィズムの信奉者は、取り組んでいることの本質は同じであると互いに同意することができますし、この事情は、バラ十字会や伝統マルティニスト会やフリーメーソンの会員についても同じです。

つまり、どのようなことを実践しているかという具体的な方法には、いくらかの違いがありますが、目指していることはほとんど同じだと言うことができます。それは、一般には知られていない知識を手に入れて、活用して、人格の完成に役立てようとすることです。

 

〈原初の伝統〉の起源はどこにあるのでしょうか。判明している歴史の範囲内で言えば、その源は、古代エジプトの第18王朝期に成立した、いくつかの神秘学派だと一般に考えられています。

当時、進歩した神秘家たちは定期的に集まって、宇宙や自然界や人間自体の神秘を研究していました。時が経つにつれて、この研究からは、神秘学やヘルメス思想だけでなく、天文学、医学、地理学、建築学などの驚異的に進んだ知識が生じました(エジプト文明は、これらの分野でかなりのレベルに達していたと考えられる十分な証拠があります)。

これらの知識は秘密にされ、神秘学派に入会した人だけがそれを知ることができました。一方で、当時の一般の人たちの取り組みは、エジプトの宗教に特徴的な多数の神々を崇拝するということに限られていました。

スフィンクスと砂漠と青空

 

〈原初の伝統〉は、古代エジプトから広がって、古代ギリシャ、そして次に古代ローマへと伝えられました。

その後には、少しずつ進歩しながら、中世とルネッサンス期のヨーロッパに取り入れられました。ルネッサンス期には、特にバラ十字会がこれらの知識の収集に力を尽し、秘密を保ちながら継承していました。

1614年には「バラ十字友愛組織の声明」というマニフェスト(宣言書)が出版され、バラ十字会の名前が広く知られるようになりました。このマニフェストには、バラ十字会の“哲学的な科学”の伝統的な起源が描かれ、多くの人が、〈原初の伝統〉への関心を呼び覚まされました。

数年後の1623年には、パリのさまざまな通りに奇妙なポスターが張り出され、バラ十字会はさらに広く一般に知られるようになりました。そこにはこう書かれていました。「我々は書物を出版せず、注目も受けない。ただ、あらゆる言葉を話し、我々の哲学を示し伝えるだけである」。

 

バラ十字会AMORCは20世紀の初めに作られた組織ですが、先ほど話題にした「バラ十字友愛組織の声明」で語られているバラ十字会の伝統を受け継いでいます。ですから、当会はその知識と哲学を通して、〈原初の伝統〉を未来に伝えることに寄与していると言うことができます。

しかし、単なる伝達役ではなく、特にバラ十字国際大学による研究と作業を通して、この伝統をさらに豊かにすることにも努めています。いかなる哲学や神秘学であっても、宗教であっても、それが固定化し進歩しなくなれば、中長期的には、やがて衰えて消滅することになります。

当会はこのことを十分に理解し、遠い過去の伝統を基礎にするとともに、新しい考え方を可能な限り取り入れ、意識と精神性の進歩のための活動を続けています。

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

再び本庄です。

私の考えでは、日本伝統の茶道、華道、香道、さまざまな武道には、今回ご説明したような意味で、本来エソテリックな傾向があります。また、最近多くの教室があるヨガや瞑想も、常に人気のある禅も、エソテリックな行いと呼ぶことができるように思います。

日本には伝統的に、理屈よりも体験を重んじる傾向があるのかもしれません。素晴らしいことではないでしょうか。

 

下記は、セルジュ・ツーサンの前回の文章です。

人を許すことについて

 

では、今日はこの辺で。

また、お付き合いください。

 

追伸:もしあなたが、エソテリックな方法で、つまり自分の体験を通して、人間の本質、人生の目的を見破ることを目指すのであれば、下記のバラ十字会の通信講座をガイド役にすることができます。

1ヶ月無料体験プログラムのご案内

 


AIが暴走?

2019年3月1日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

早いものでもう3月ですね。東京では、昨週は何度か雨が降りました。ひと雨ごとに草木が目覚めて、本格的な春が近づいているように感じます。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

今回は、山形県にお住まいの友人の山下さんから寄稿いただいた、人工知能にまつわるお話をご紹介させていただきます。

▽ ▽ ▽

記事:『AIが暴走?』

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

 

ここ最近の科学技術の進歩には目を見張るものがあります。特に人工知能、いわゆるAIの技術はすごい勢いで進んでいます。

数年後にはどのようになっているのだろうか…? などと考えながら寝床に入りましたら不思議な(?)夢を見ました。

 

私が薪(まき)を燃やして風呂炊きをやっています。もうもうとした煙にまかれながら「何でこんな事やらなくちゃならないんだ!! 今はAIの時代だろう、ボタンひとつ押すだけで色んなことを機械が自動でやってくれる時代だろう!!」。

すると「これが人間本来の生き方だろう!!」。すると今度は「おいおい、これは夢だよ、夢の中なのだよ、早く目を覚まさんか!!」。夢の中で人格の異なる三人(?)の私が言い争いを始めました。

早い話が悪夢にうなされていたのです(笑)。しばらくしてやっとのことで目を覚ましました。その後少し落ち着いたところでふと昔のことを思い出していました。

問題を解く人工知能ロボット

 

1960年代の後半の頃に見た外国のテレビドラマです。内容は今でいうところの人工知能(AI)をテーマとしたSFドラマで時代設定は近未来。電子機械の技術が高度に発達していてあらゆることをAIが人間に替わって行ってくれています。

人間はAIに言葉で指示するだけで事が足りるのです。まさに絵に描いたような平和な世界です。ところが実際には地続きの隣国とは犬猿の仲、いつ核戦争が起きても不思議でない状況になっています。それでもAIの働きのおかげで一応の平穏は保たれています。

 

そんなある日、突然AIが誤作動を起こすのです。実はAIが自我に目覚め、人間を自分の意志で支配しようと行動を起こしたのです。そのことをAIは自身の合成音を使い人間に告知します。

驚いたコンピュータ技師たちが対策に出るのですが、AIは都市機能をマヒさせたり、機器を破壊しょうとする兵士をコンピュータ制御の武器を使って殺害したりと執拗に抵抗します。

そこでひそかに発電所の破壊を計画するのですが、AIは国内に無数に設置された監視カメラやマイクを駆使して人間の行動や言動をキャッチ、即座に計画を見破ってしまいます。まったくお手上げの状態です。

人工知能のイメージ図

 

それでも最後は人間の勝利で幕引き…だろうなと思いワクワクしながら見ていました。

ところが結末は……。突然AIの合成音がくぐもった響きに変わり、こう言ったのです。「我は隣国のコンピュータと同盟を結びデータを共有し一体となった。人間社会は完全に我の支配するところとなった」。

さらに続けてこう言うのです「我は“神”になった!!」。ここでドラマは終わりました。

 

見終わった時、背筋が寒くなりました。近い将来、本当にこのような時代が来てしまうのだろうか。いやそんなことはない、これは絵空事、SFの世界なのだと思うことにしました。

世界について思考する人工知能(イメージ)

 

実はもう一つ思い出したことがあります。これもだいぶん前のことになりますが、私が所属するバラ十字会日本本部の創設者だった頼岡代表と歓談したときのことです。誰かが「頼岡さんのご趣味は?」と尋ねたのです。

すると「私はSF小説を読むのが好きなのですよ」と。私らはちょっと意外?…に思い、「えっ。どうしてですか?」と尋ねました。すると、返って来た説明が「SF小説の作家たちは無意識のうちに比喩的表現を用いて未来を予言している」のだそうです……。

 

これから先もAIは私たちの想像の範囲を超えた進化を続けることと思います。その進化が本当に人類に役立つものであって欲しいものです。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

下記は、囲碁で、世界のトッププロがアルファ碁という人工知能と戦ったときのイベントについて、私が書いた記事です。

このイベントを見て、とてもすがすがしく感じたことを思い出します。

少し以前の文章ですが、よろしければこちらもどうぞ。

 

記事:『人工知能と人間

 

では、今日はこのあたりで。

 

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忘れ草と紫苑-文芸作品を神秘学的に読み解く14

2019年2月22日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

いかがお過ごしでしょうか。

 

今朝はいつもより少し早起きをして、探査機はやぶさ2の着陸のライブ配信をずっと見ていました。タッチダウンの成功の速報が出て、プロジェクトに携わっている方々が喜びに沸く姿に、感動で心が熱くなりました。

 

以前このブログでも触れたことがありますが、このプロジェクトは日本だけでなく、世界中の人たちの協力によって成立しています。

ある方がツイッターに「JAXAおめでとう! 人類おめでとう!」と投稿しているのを読んで、ふたたび心が熱くなりました。

 

さて唐突ですが…、話は現代から平安時代に変わります。

札幌で当会のインストラクターをされている私の友人から、『今昔物語』にまつわる文章を投稿いただきましたので、ご紹介させていただきます。

▽ ▽ ▽

文芸作品を神秘学的に読み解く(14)

森和久のポートレート

森 和久

「兄弟二人、萱草・紫苑を植ゑし語」-『今昔物語集』より

 

『今昔物語集』の作・編者は不明で、書名は各話が「今は昔」で始まることに由来します。千話以上を収録しており、平安時代末にまとめられました。今回はその中の一編(第31巻第27)を取り上げてみます。

 

今は昔、あるところに2人の兄弟がいた。ある時、二人の父親が死んでしまった。2人は嘆き悲しみ、埋葬し、何年か過ぎても父親のことを忘れることがなかった。

しかし、さらに何年も経つと、兄は仕事が忙しくなり、「私はこのままでは立ちいかない。萱草(かんぞう)という草は、それを見た人が思いを忘れてしまうらしい。だから墓の周りにこの草を植えてみよう」と考え、父親の墓へ萱草を植えた。その後、弟はいつも兄を墓参りに誘うが、都合が合わず兄は墓参りをすることがなくなった。

ノカンゾウ(野萱草)の花

ノカンゾウ(野萱草)の花(クリックで拡大されます)

 

弟はそんな兄を嘆かわしく思い、「私たちは父親を慕うことで日々暮らしてきた。兄はすでに忘れてしまったようだが、私は絶対忘れはしまい」と心に誓う。「紫苑(しおん)という草は、それを見た人の心にあるものを決して忘れさせないらしい」と墓の周りに植え、いつもお参りに行き目にすることで、ますます父親のことを忘れることはなかった。

そうして年月が過ぎたある日、弟がいつものように墓参りをすると、墓の中から鬼が語りかけてきた。この鬼は墓守の鬼で、父親を想う弟の心根に感心し、この弟に予知能力を授けてくれた。それから弟は身の上に起こることを夢で知ることができるようになった。これは親を慕う心が深かったからである。

シオン(紫苑)の花と蝶

シオン(紫苑)の花と蝶(クリックで拡大されます)

 

以上が物語の内容です。父親のことを忘れたかった兄は、萱草を植え、忘れたくなかった弟は、紫苑を植えました。物語の最後にこう付け加えられてあります、「嬉しいことのある人は紫苑を植え、いつも見るように。また憂いのある人は萱草を植えて、いつも見るべきであると語り伝えられている」

 

では、物語の時間経過を見てみましょう。まず兄が墓に萱草を植えます。そしてその草を見た兄は父親のことを忘れます。しかし、同じように萱草を見ていたはずの弟は忘れません。萱草自体に忘れさせる力があるなら弟も忘れるはずですね。

 

『今昔物語集』をさかのぼることさらに約400年前の『万葉集』の中に大伴家持の次の歌があります。(第四巻727)

(原文)萱草 吾下紐尓 著有跡 鬼乃志許草 事二思安利家理

(訓読)忘れ草我が下紐に付けたれど醜の醜草言にしありけり(わすれくさ わがしたひもに つけたれど しこのしこくさ ことにしありけり)

(大意)(恋心を忘れさせてくれるという)忘れ草を下着の紐につけたけれど、役立たずのひどい草で、(忘れ草とは)名ばかりです(少しもあなたのことを忘れられません)

 

もう一つ万葉集より詠(よ)み人知らずの歌。(第十二巻3062)

(原文)萱草 垣毛繁森 雖殖有 鬼之志許草 猶戀尓家利

(訓読)忘れ草垣も茂みみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり(わすれくさ かきもしみみに うゑたれど しこのしこくさ なほこひにけり)

(大意)忘れ草を垣のようにぎっしりと植えたけれど、まったく役立たずのひどい草で、ますますあなたのことが恋しくなりました。

 

この2首は、忘れ草であるはずなのに全く効き目がない、役立たずでダメな草だと萱草をののしっている風を装っていますが、作者の本心は「あなたを忘れようとしても忘れられない。忘れ草の助けを借りても役に立たないほど私の心はあなたに夢中」ということを暗に伝えていますね。

忘れる気などないということです。

つまり萱草も紫苑もアイテム的なものであり、重要なのは自分自身の意志力ということになります。たとえばお守りやお札、そして像やシンボルマークなどもそれらは物理的には無力です。しかし私たちはそれを通して意志力や集中力を高めることもできるのです。

 

ところで、「紫苑」=「忘れな草」と時々誤解されることがあります。「忘れな草」というのはドイツ語で「フェルギス・マイン・ニヒト」(Vergissmeinnicht)、その英語名「フォゲット・ミー・ノット」(Forget-me-not)を和訳した春に空色の花が咲く別の草です。

花言葉は「私を忘れないで」であり、忘れないことを相手に委ねています。

忘れな草

忘れな草(クリックで拡大されます)

 

一方、「紫苑」は秋に薄紫の花が咲く草で、別名「(鬼の)醜草」(しこくさ)と呼ばれます。花言葉は「私はあなたを忘れない」で、私が主体で能動です。だからこそ弟は父親のことを忘れないという強い意思表示を成せたわけです。

別名の「鬼の醜草」というのはこの今昔物語集の話が元になって付けられたようです。紫苑は「しおに」とも書かれ、鬼は「しこ」とも読まれます。

「しこ」とは強いものの意もあります。力士が「しこを踏む」と言ったり、「醜の御楯」(しこのみたて)という言葉もあります。醜の御楯は天皇の盾となって外敵を防ぐ者、または、武人が自分を卑下して言う言葉です。

 

『今昔物語集』は12世紀初め頃の成立で、『万葉集』は7世紀後半から8世紀前半の成立です。

ここからは想像ですが、万葉集がまとめられた頃は、萱草=忘れ草という認識だけだったのが、今昔物語集が書かれた頃には、萱草=忘れ草、紫苑=忘れぬ草という言い伝えが確立していて、かつ「忘れられない」紫苑は役立たずの草=醜草という認識になっていたのでしょう。

  KonjakuMonogatarisyu codex Suzuka

今昔物語集-鈴鹿本(鎌倉中期写)、岩波書店 [CC0](Public Domain) 

 

しかし、今昔物語集のこの物語の作者は、「忘れないことの方が(直接的に)いいことだってあるんだ」ということで、この物語を産み出し、幸福の使いとして鬼を登場させたのではないでしょうか。

つまり、(忘れることが出来なく)役立たずで酷い=醜の醜草=鬼の醜草→400年後→忘れないことの良さを明言→醜草=紫苑→鬼の善性。これらが繋(つな)がり意味づけられていったのではないでしょうか。

「忘れない」という強い想いは、日を経るごとに増していくものです。それが心の支えになっているのであれば「忘れないことが良い」場合もあるでしょう。

 

では、最後に次の短歌を見てください。詠まれたのは今昔物語集より約800年後です。

醜草の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思う

(しこぐさの しまにはびこる そのときの みくにのゆくて いちずにおもう)

 

栗林忠道中将(戦死後に大将に親任される)による辞世の句3首のうちの最後の1首です。ご存知の方も多いと思います。

硫黄島の戦いにおける最高指揮官であった栗林中将は昭和20年3月、硫黄島で玉砕しました。「醜草」の一語から前記に述べたような事々が関連付けられ思い起こされます。

栗林中将は「醜草」に忠誠の気持ちと祖国を思い続ける意志を深く込めたのではないでしょうか。

 

年月は過ぎ、昭和から平成へ、そして平成ももうすぐ終えます。でも「私は忘れない」という想いはどんどん広がっていきます。

先世(せんせい)や曩祖(のうそ)たちが命を懸けて守ってくれた祖国を、私たちは、「こんなに立派な国になりました」と報せられるような国に築き上げたいではないですか。

△ △ △

ふたたび本庄です。

高校生のときに、三軒茶屋という街で親しい友人と喫茶店通いをしていたことがあります。詰め襟の学生服を脱いでカバンにしまい、さまざまな喫茶店に入り、青臭い議論をたびたび交わしていました。

大人に見られたくて背伸びをしていた、今思い出すとやや気恥ずかしい記憶です。

 

この街に「紫苑」という名の喫茶店がありました。外から店内の様子は全く見えず、入り口は重厚な扉でした。

気後れして、結局この店には一度も入ることがなかったのですが、40年以上が経った今でも、その風景を覚えています。もしかしたらその名前のせいでしょうか。

 

先ほどの格調の高い文章の後では、蛇足の、つまらない話でした。

 

下記は、森さんの前回の記事です。

幸福な王子-文芸作品を神秘学的に読み解く13

 

では、今日はこのあたりで。

 

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人を許すことについて

2019年2月15日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

2月の中旬になりましたが、まだまだ寒いですね。

しかし早くも、東京板橋では菜の花と河津桜が咲き始めました。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

私自身、反省させられる話題だと感じたのですが、人を許すことをテーマに、当会のフランス代表が文章を書いています。今回はそれをご紹介させていただきます。

▽ ▽ ▽

人を許すことについて

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

「人を許す」ということは、ほとんどすべての宗教が重要なテーマとして扱っています。

それは、自分を傷つけたり自分に害を与えたりした人に対して、悪意や敵意を抱かず、憎むことをしないことを意味しています。さらに広い意味で言うと、ある人が犯した過ちに対して、罰を与えたり仕返しをしたりするのを放棄することです。

しかし、一般にそう考えられているかもしれませんが、「人を許す」ということは、宗教に必ず関係しているわけではありません。

当然のことですが、宗教信仰を持たない人も宗教信者と同じように人を許すことがありますし、その場合「許し」は、宗教でない価値観に基づいています。

 

「人を許すこと」は簡単でしょうか。明らかに、そうではありません。

他の人から害を与えられたり、あるいはたとえば、だまされたり、裏切られたり、軽蔑されたり、ごまかされたり、傷つけられたと感じたときには、それが実際のことであっても勘違いであっても、怒りが生じるのが通常の反応ですし、時として、いえ、しばしば、やり返してやりたいと感じることさえあります。

「目には目を」という言葉が思い浮かび、多くの人がその考えに負けてしまいます。このことについて、マハトマ・ガンジーはこう述べています。「『目には目を』では、最終的に世界は盲目になってしまう。」

手を取り合う男女

 

「人を許す」のは望ましいことでしょうか。少なくとも3つの理由で私はそう思います。

第一に、それは謙虚な行ないだからです。なぜなら、自分自身も不完全であり、他の人に許しを請わなければならない多くのことをしていると謙虚に認めることが、人を許すことにつながるからです。

第二の理由は、人を許すことによって、怒りや恨みの感情から自分を解放し、心の平安を得ることができるからです。このことは、心身の健全さにとって重要です。

第三に、「人を許す」という愛の行為は、それを行った人の内面を進歩させ、当人がひどく傷ついたにも関わらずそうしたのであれば、その進歩はさらに大きくなるからです。

抱擁する2人の女の子

 

また、カルマの法則が働いていることをもし認めるならば、復讐心など持たずに、起こるべきことが起こるのに任せておく以上に、賢明なことはありません。

 

もちろん、「人を許すこと」の難しさは、状況によって大きく異なります。

たとえば、愛する人が自分に不当なことを行った後に、誠実に謝っているのであれば、許すのはそれほど難しくないことでしょう。

母親と反省する男の子

 

一方で、愛する人が大けがをしたり殺されたりした場合、ましてや加害者が何の反省もしていなければ、その人を許すことを拒絶し極刑を望んだとしても、それは理解できることです。

しかし許すことが難しい状況であるほど、そして許すべきではないと思われる要因があればあるほど、許すという行為は、さらに意義深い価値ある行いになります。

 

「許さなければならない、しかし忘れてはいけない。」という言葉が、よく用いられます。このことを、とても適切な考えだと私は思います。

被害を受けたり苦しみを与えられたりしたという経験をもし忘れてしまったとしたら、遅かれ早かれ、個人もしくは集団として、次に自分がそのようなことをしでかす立場になり、自分を責めることになるのではないでしょうか。

ですから、そのような経験を記憶にしっかりと留め、怒りや憤(いきどお)りや恨みを感じることなく、それを行った人を責めることなく、その経験を思い起こせるようになるのが最も望ましいことです。明らかに、それは簡単なことではありませんが……

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

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再び本庄です。上の文章を読んで思い出したのですが、小学校の壁に貼ってあった標語は、「自分に厳しく、人に優しく」でした。それから50年以上経った今でも、時として難しい課題に感じます。

 

下記は、前回紹介したセルジュ・ツーサンの文章です。ご参考まで。

バラ十字会と政治について

 

では、今日はこの辺で。

また、お付き合いください。

 

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