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桜の園

2020年3月6日


 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。いかがお過ごしでしょうか。

昨日は、北海道の広い範囲で猛吹雪だったようです。あまり被害がないと良いのですが…。

 

東京板橋でも風が強く、駐輪してあった自転車が道に倒れていましたが、こちらは日に日に温かくなり、寒桜や菜の花、モクレンの花が咲いています。本格的に春が近づいてきているようです。

 

札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人から、この季節にふさわしい文章を届けていただきましたので、ご紹介します。

▽ ▽ ▽

文芸作品を神秘学的に読み解く(19)

『桜の園』 アントン・チェーホフ

森和久のポートレート

森 和久

 

ロマノフ朝ロシア帝国の末期、19世紀と20世紀の変わり目頃に、ロシア貴族のラネフスカヤは5年ぶりにパリから自分の邸宅「桜の園」に戻ってきます。「桜の園」はドネツク(現ウクライナ領)の大草原に近い地域にあったと思われます。

ドネツクの草原

ドネツクの草原

 

ラネフスカヤは6年前に夫と7歳になる息子を相次いで亡くし、フランスへ旅立っていたのでした。母親のラネフスカヤを気遣った17歳の娘アーニャも母親の面倒を見るべく家庭教師のシャルロッタとフランスへ向かい、母と暮らしていました。

さらにラネフスカヤがフランスで雇った召使の青年ヤーシャも同行して帰ってきます。ラネフスカヤと娘のアーニャは自分たちの屋敷を懐かしみ帰ってきたことを喜びます。桜の花々も咲き誇っています。ところがラネフスカヤは、借金返済のために家屋敷が競売に出されることを知りつつ何も改善策は講じず浪費癖もそのままです。没落貴族の典型です。

 

地主ラネフスカヤの不在中、「桜の園」を管理していた51歳になる兄のガーエフも借金返済の手立てはなく、言動はいつもいい加減で真剣みは全くありません。24歳で平民出身の養女でアーニャの姉であるワーニャだけはこまごまと働いているという次第です。

小間使いのドゥニャーシャ、召使のフィールスもこの「桜の園」存続にはあまり関心を示しません。唯一、商人のロパーヒンだけが、改革案を何度も提案します。彼の祖父と父はこの「桜の園」の農奴でした。しかし、ガーエフは全く取り合いません。そもそもロパーヒンの改革案というのは「桜の園」を潰して別荘地にしようというものです。

 

百科事典にも載っているこの有名な「桜の園」を誰一人として真剣に守ろうとはしていないのです。日本語の題名こそ『桜の園』となっていますが、原題「Вишнёвыйсад」の意味するのは、「さくらんぼの果樹園」です。87歳になった召使のフィールスは言います、「四、五十年も前には、桜の実を乾したり、砂糖漬けにしたり、酢漬けにしたり、ジャムを煮たり、それによく、乾した桜の実を幾台も車につんで、モスクワやハリコフへ送ったものでございます。」(中村白葉訳)

しかしながら今では、さくらんぼを使ったそのこしらえ方を知っている人は誰もいないのです。ここのさくらんぼは2年に1回しかならないし、欲しがる人ももういないのです。「桜の園」はすでにその役目を終えてしまったかのようです。

果樹園でサクランボを集める子供

 

チェーホフはこの作品を喜劇としていましたが、それは登場人物たちの滑稽な振る舞いを見ればそうなのでしょう。小津安二郎監督の映画に通じる諧謔(かいぎゃく)性が全体を通して表れています。ガーエフは何かというとビリヤードの仕草をし、氷砂糖を舐めています。小間使いのドゥニャーシャはフランス貴族のような格好をしたがります。ラネフスカヤがトロフィーモフに言い放つ言葉「あなた二十六だか七だか知らないけれど、中学二年生とおんなじよ!」(浦雅春訳)などは今なら「中二病」ということでしょう。

養女のワーリャは商人のロパーヒンと自他共に認める婚約者なのですが、2人に進展はなく、最後にはロパーヒンはワーニャへの求婚を蔑ろにします。小間使いのドゥニャーシャは桜の園の管理人エピホードフにプロポーズされますが話は進まず、ドゥニャーシャの方はフランス帰りの召使いヤーシャに惹かれていきます。しかしこちらも不発に終わります。アーニャとトロフィーモフだけは、「恋愛を超えた関係」として描かれます。

 

作中、唯一思想的に未来を見据えているのはトロフィーモフだけです。彼は「万年大学生」ですが、川で溺死したラネフスカヤの息子の家庭教師でした。

【トロフィーモフ】 なんの話でしたっけ?

【ガーエフ】 人間の誇りのことさ。

【トロフィーモフ】 きのうは、長いこと議論したけれど、けっきょく結論は出ませんでしたね。あなたの言われる意味で行くと、人間の誇りなるものには、何か神秘的なところがありますね。まあそれも、一説として正しいかも知れません。がしかし率直に、虚心坦懐に判断してみるとです、そもそもその誇りなるものが怪しいと言わざるを得ない。げんに人間が生理的にも貧弱にできあがっており、その大多数が粗野で、愚かで、すこぶるみじめな境涯にある以上、誇りとかなんとかいっても、なんの意味があるでしょうか。自惚れはいい加減にして、ただ働くことですよ。

【ガーエフ】 どっちみち死ぬのさ。

【トロフィーモフ】 わかるもんですか? 第一、死ぬとは一体なんでしょう? もしかすると、人間には百の感覚があって、死ぬとそのうちわれわれの知っている五つだけが消滅して、のこる九十五は生き残るのかも知れない。

(神西清訳)

 

トロフィーモフは実践の伴わない哲学論を否定しています。彼は「人類は一歩一歩自己の力を完成しつつ前進しているのです。人類にとって現在では理解しがたいこともすべて、いつかは身近な明瞭なものになるに相違ないのです。」(中村白葉訳)と述べます。

 

なし崩し的に「桜の園」は競売に掛けられ他人の手に渡ります。ラネフスカヤとガーエフは気落ちしますが、「しょうがない」という諦め感を感じさせます。それに対しアーニャとトロフィーモフの若い2人は新たな旅立ちという希望を見いだします。

【アーニャ】 あなたのおかげで、わたしどうかしてしまったわ、ペーチャ(トロフィーモフの愛称)。なぜわたし、前ほど桜の園が好きでなくなったのかしら? あんなに、うっとりするほど好きだったのに、――この世に、うちの庭ほどいい所はないと思っていたのに。

【トロフィーモフ】 ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は宏大で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ。(中略)だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるためには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、――それは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。そこをわかってください、アーニャ。

【アーニャ】 わたしたちの今住んでいる家は、もうとうに、わたしたちの家じゃないのよ。だからわたし出て行くわ。誓ってよ。

【トロフィーモフ】 もしあなたが、家政の鍵をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。

【アーニャ】 (感激して)それ、すばらしい表現だわ!

(神西清訳)

 

トロフィーモフは、農奴たちを搾取することで成り立っていた栄光はまがい物だから捨て去るべきだと、そして新たな実を結ぶ果樹園を作ろうとアーニャにいいます。

 

そして、物語の最後、揃って「桜の園」を出て行くときのシーン。

【ラネフスカヤ】 あと十分したら馬車に乗りましょう。(部屋を見まわして)さようなら、私の大好きだったお家、古くなったおじいさん。冬がすぎて春が来るころには、お前はもうこわされてないのね。この壁が生き証人! (感極まって娘にキスをする)大切な大切なアーニャ、そんなに晴れ晴れとした顔をして、目なんか二つのダイアモンドみたいに、きらきらしてる。これでよかったのね? 思い残すことはないのね?

【アーニャ】 ぜんぜん! 新しい生活がはじまるのよ、ママ!

【ガーエフ】 (うきうきと)実際こうなってみると、万事まるくおさまるもんだ。庭が売却されるまでは、みんなはらはらのしどおしだったが、いざ、問題に片がついてみると、やれやれこれで一安心とせいせいしたくらいだ……。私は銀行勤めで、今やいっぱしの金融のプロってわけさ……黄玉をサイド・ポケットへ、リューバ(ラネフスカヤの愛称)、お前だって、なんだか若やいで見えるよ、いや、本当。

【ラネフスカヤ】 そうね。めそめそすることはなくなったわ、たしかにそう。

【ラネフスカヤ】 ああ、いとしい、かけがえのない、美しい庭!……ああ、私の生活、私の青春、仕合わせだった日々、さようなら!……さようなら!……

(浦雅春訳)

 

ラネフスカヤも家族も、ほとんどの使用人たちも「桜の園」を後にします。そこには、競売で「桜の園」を落札したロパーヒンの指図で桜の木々を伐採する音が響いていました。ただ、「桜の園」と共に生きてきた老齢の召使いフィールスが屋敷に取り残され、弱った身体をソファに横たえます。

 

さてラネフスカヤはなぜパリから「桜の園」へ帰って来たのでしょうか。意味の無いことだったのでしょうか。

神秘学では「今日出来ることは明日に延ばすなかれ」(『Unto Thee I Grant』より)と言われています。そしてこれはより大きなスパンでも考慮されるべき事柄です。「今週出来ることは来週に延ばすな」であり、「今年出来ることは来年に延ばすな」でもあります。さらには「今生で出来ることは来生に延ばすな」ということです。

ラネフスカヤの帰郷は「桜の園」の終焉を全うするということでした。借金返済の目処もなければ、方策もないのに戻ってきたことには大きな意義があります。けじめを付けるということです。

周期の終わりは、新たな周期の始まりに繋がります。この物語では、物理的な再生はロパーヒンが受け持ち、精神的な新生はアーニャとトロフィーモフが担うことになります。

 

もう手遅れだ、今更どうでもいい、人間死んでしまうんだから、と自分に言い訳して何もしないのは、当座は楽かもしれません。しかし、そのような思考は自分の中に滓(おり)のように溜まっていき、自分を蝕んでしまいます。さあ、今生で出来ることは来生に延ばすなかれ!

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

調べてみて驚いたのですが、『桜の園』は、日本で大正時代にすでに上演されています。

それ以降、チェーホフの四大戯曲(かもめ、ワーニャ伯父さん、三人姉妹、桜の園)と短編は、“定番”として、日本で何千回も上演されているのだそうです。

アントン・チェーホフ

アントン・チェーホフ(Wikimedia Commons / Public domain)

技巧をこらしてストーリーを展開するのではなく、人間の内面を描くのに徹したことが人気の秘密のようです。

 

では、今日はこのあたりで。

下記は、森さんの前回の記事です。

雪のひとひら

 

また、よろしくお付き合いください。

 

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