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虹の7色について

2021年4月30日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

東京板橋は昨日までの雨も上がり、今日は初夏を思わせる暖かい陽気になっています。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、一年を12ヵ月、一週間を7日に定めたのは、おそらく古代バビロニアの人たちだと言われています。

今までこのブログ(メルマガ)でも何回かご紹介したことがありますが、神秘学(mysticism:神秘哲学)では、12という数はマクロコズム(macrocosm:宇宙)に深く関わり、7という数はミクロコズム(microcosm:人間)に深く関わるとされています。

 

7という数からは、今回の題名の「虹の七色」など、さまざまなことが思い起こされます。この図が示しているのは、プリズムに入った白色の光が7色に分かれる様子です。虹の7色も、これと同じ原理から生じています。

プリズムによる分光

 

物理学的に言えば、虹の光は外側から内側に連続的に波長が変化しています。それにもかかわらず、なぜ7色に分かれて見えるのかということにはさまざまな説があるようです。

 

ひとつには、使っている言葉の影響だという考え方があります。つまり、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫という言葉を私たちは光にあてはめて、それぞれが別の色だと判断しているという見方です。

このことは、言葉の分節作用と呼ばれます。

言葉の分節作用の一例ですが、木には幹、枝、茎、葉、花があります。しかし、言葉にとらわれずに細かく観察すると、実際には明確な分かれ目などなく、虹と同じように連続的に特徴が変化している場合が多く見られます。

 

さて、話は変わりますが、17世紀のドイツの哲学者ライプニッツは、世界は「基礎はあるが見かけ上のもの」であると考えていました。

そして、そのたとえとして虹がよく用いられています。虹が空に見えるとき、そこに7色をしたアーチ型の橋が実際にあるわけではありません。しかしそれは想像でも幻覚でもなく、水滴が空中に存在し、光の物理的性質や人間の視覚のしくみなどが基礎になって、虹がそこに見えています。

私たちが見て聞いて触れている世界も、そのようなものだとライプニッツは言っています。

参考記事:『ライプニッツ - バラ十字の哲学者

 

 

これは、福島の青空にかかった虹の写真です。濃い虹の外側に副虹(ふくにじ)と呼ばれる薄い色の虹が見られます。副虹は色の配列が濃い虹(主虹)とは反対になっています。

福島の青空にかかった虹

 

哲学に、このような問いがあります。森の奥深くで落雷が起きました。しかし、誰一人としてそのできごとを見ても聞いてもいなかったのです。雷の音は存在したと言えるのでしょうか。

さまざまな答えが可能ですが、落雷で起きた空気の振動は存在したけれども、それを聞いた人(生きもの)がいなければ、音は存在しないと言うこともできます。

 

この問いについて考えていくと、通常「世界」と呼ばれているものを2つに区別して考えなければならないように思えてきます。ひとつは私たちが五感によって知覚している世界です。この世界は、哲学の用語として「現実」(reality)と呼ばれることがあります。

一方で、知覚されているかいないかに関わらず存在する世界は「実在」(actuality)と呼ばれます。私たちは五感を通して世界を知るので、通常は実在を知ることができません。

 

この図はバラ十字会に伝えられている現実と実在の説明のひとつです。先ほどのプリズムと同じように、左から白い光が入って、プリズムで7色に分かれています。

プリズムとレンズ、現実と実在を表す図

 

白い光は実在のたとえです。最近はやりの「非二元」(non-duality)という言葉が表している通り、実在はひとつです。実在には物と心の区別もなく、主観と対象の区別もなく、時間も空間もありません。

しかし光が七色に分れるように、人間はこの世で、さまざまな現象を現実として体験しています。

 

この図では七色の光がさらに集光レンズに入り、もう一度、右端の一点にまとめられています。この一点は、人間が実在を体験できるということを表しています。

しかし、そのためには集光レンズが必要です。この集光レンズは、すべての人の心の奥に秘められているある能力を表しています。

この能力によって、人間の意識は、まるで周波数を高めるようにして実在と同調することができます。

それはまるで、音叉が別の音叉と共鳴するようなできごとです。しかしそれを実現するためには練習が必要です。

 

古今東西のさまざまな秘伝思想によって伝えられているように、瞑想や参禅やヨガや他の行法を練習することによって、人は実在と同調し、実在を体験することができます。

このことから、神秘学の探究は「実在体験の道」と呼ばれることがあります。バラ十字会が提供している通信講座に含まれている実習の多くも、この同調と体験を目指しています。

 

しかし、なぜ一所懸命に練習までして、多くの神秘家が実在の体験を目指すのでしょうか。それは、下記の前回の記事に書かれていました。

地上で幸福に生き、宇宙と自然界と自分自身の神秘を理解するために人が知っていなければならないすべての知が、実在体験に含まれているからです。

参考記事:『知を求める人たちへの公開書簡(その3)

 

音楽の全音階の7音と虹の7色は対応しているという見方があります。この図は、昨年の12月に出版された「図形と数が表す宇宙の秩序」という本に掲載されているものです。

虹の7色と全音の対応

 

この本はバラ十字国際大学の公認講師であったルイ・グロース(故人)という方のライフワークとも言える著作で、下記のように多くの方から高い評価のユーザーレビューをいただいています。

https://www.amazon.co.jp/dp/4774518751

「図形と数が表す宇宙の秩序」表紙

 

今回は、虹の7色に関連する、さまざまな事柄を紹介してきました。ゴールデンウィーク中の皆さんの思索の参考に、少しでも材料が提供できたとしたら、とても嬉しく思います。

 

下記は前回の私の記事です。ご興味のある方はどうぞお読みください。

参考記事:「しめ縄と生命の樹

 

では、今回はこの辺りで。

来週はこのメルマガの配信はお休みさせていただきます。

 

次の配信は再来週の5月14日を予定しています。

またお付き合いください。

 

追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。

知を求める人たちへの公開書簡(その3)

2021年4月23日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、ツツジ、バラなどの花が咲いています。昨日、今日と良い天気で、半袖のシャツではまだ少し寒いですが、初夏が近いことが感じられます。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

当会のフランス代表が自身の人気のブログで公開した『知を求める人たちへの公開書簡』の最終回をお届けします。

前回と前々回の記事はこちらで読むことができます。

 

知識を求める人たちへの公開書簡」(その1)

知を求める人たちへの公開書簡」(その2)

 

話のつながりの都合上、前回の文章の一部を再掲載しています。

どうぞ、お楽しみください。

▽ ▽ ▽

記事:「知を求める人たちへの公開書簡」(その3、最終回)

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

セルジュ・トゥーサン、バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表

 

(ここから再掲載)「知」とは何なのでしょうか。大まかに言えば、それは、観察と研究を通して人間が手に入れる知識(savoirs)とノウハウ(savoir-faire)です。

ですから知は、産業技術、科学、医学、心理学、歴史、地理、文学、哲学など広い分野に関わります。実際のところ、世界には限りなく多くの種類の知があり、それらを学びたい理解したいと望むことは、人間にある偉大な性質です。

 

先ほど述べたように、人間は地球上に出現したときから、世界、自然界、自分自身の神秘について知ろうと常に努力を続けてきました。

そしてこの探究から、さまざまな信念と多種多様な知が生じ、今日ではその数は、まるで天上に輝く星ほど多くなりました。(ここまで再掲載)

花の咲く野原に置かれた一冊の本

 

それでは、誤った知というものがあるでしょうか。私はそうは思いません。というのも、誤った知とは実際のところ誤った信念だからです。

一方で、いかなる知も、肯定的にも否定的にも、建設的な目的のためにも否定的な目的のためにも用いることができます。

 

たとえば、空が飛べるようにするために行われたあらゆる研究と技術開発によって飛行機が作られましたが、それは人をある国から別の国に運ぶために使うこともできますし、市街地に爆弾を投下するために使うこともできます。

まったく別の例ですが、民法についての詳細な知識を用いて、人や社会に損害を与える悪辣な人たちがいます。

 

知識とノウハウからなる「知」を所有していることは、その人が道徳的に高潔であることを意味しません。なぜなら知は、善いことを行うためにも悪いことを行うためにも用いることができるからです。

信念は、信仰という形で宗教と深く関連していますが、知の多くは科学と関連しています。科学は「信じるのではなく調べよ」という指針を採用しています。

竹林、水、石、蓮の花、ロウソク

 

科学の取り組みは、自分たちが研究しているものを理解し、可能な限りそこに働いている法則、原理、理論、原則を突き止めたいという望みに基づいています。

そうするために科学者は、取り組む分野によって異なるさまざまな手法を用います。観察、抽象化、推定、分析、総合、演繹、帰納、実験、モデル化などです。

 

さらに付け加えるとすれば、科学者は既知のものから始めて未知のものを理解しようとする、つまり、形あるものから始めて形なきものへ、可視のものから始めて不可視のものへ進もうとすると言うことができます。

このやり方が、有名なエメラルド・タブレットに書かれている「下にあるすべてのものは、上にあるものに似ている」という言葉に沿っていることは、とても印象的なことです。

 

明らかに、知への科学の貢献は計り知れないほど大きなものです。科学がなければ、人類はいまだに原始的な生活を続け、互いに異なるさまざまな信念からなる迷宮をさまよい歩いていたことでしょう。

しかし、科学は完全ではなく真実を所有しているわけでもありません。さらに、科学には主に2つの欠点があります。

第一の欠点は、科学の大部分が、ものごとの「どのようにして」(how)にだけ関心があり、「なぜ」(why)に無関心だということです。第二の欠点は、科学は思考を重視するあまり、直観を軽視することです。

そのため科学には、どちらかというと物質主義的(唯物論的)な傾向があり、それが一因となり、現代社会にも同じ傾向があります。

 

しかし最近では、観念論や神秘学(神秘哲学:mysticism)の取り組みを採用する科学者が現れていることが見受けられます。

これらの人たちの一部は、神という言葉までは使わないとしても、世界には少なくとも普遍的な知性が働いていると考えることをためらいません。

この動向を私はとても喜ばしく思っています。科学と神秘学には、知に貢献するために世界を理解したいという共通の動機があるからです。

 

しかし、科学的な知よりも高度な知があります。それは、「普遍的な知」(Connaissance)と呼ぶことができるものです。絶対的な意味で言えば、それは自然界、宇宙、精神の世界に働いている崇高な法則を理解することです。

そのような法則を研究したり学習したりするということは、たとえばバラ十字会員の多くが、自分たちに伝えられてきた知識を用いて行っている作業です。

広く言えば、普遍的な知に近づこうとすることは、さまざまな神秘家が行っている探求の一部であり、この探求には、人間の幸せに寄与する肯定的な側面だけが含まれます。

大ピラミッドとスフィンクス

 

さらに、この探求が主に働きかける対象は、人間の表面的な知性ではなく深層意識です。

ですから、神秘家の探求は、現在の人生という範囲に限られる知性を育むことを目的にしているのではなく、ソウル(âme:魂)と自己との一体性をもたらすことが目的です。

ソウルは不滅であり、精神的な進歩に役立つ記憶を保持しており、その記憶は、現在の人生でも今後の人生でも有益だと言うことができます。

 

ご存知かもしれませんが、「知る」(connaître)という言葉は、「一緒に」を意味する「co」と「生まれる」を意味する「noscere」からなります。ですから語源的には、「知る」ということは「それとともに生まれる」ということを意味します。

このことは、すべての人が「自分の内部にある知とともに」生まれてくるということを示しているように思われます。

 

古代ギリシャの哲学者プラトンは、まさにそのように主張しました。

肉体に宿り人に命を与えるのはソウル(魂)ですが、地上で幸福に生き、宇宙と自然界と自分自身の神秘を理解するために人が知っていなければならないすべての知が、ソウルには決して失われることのない形で含まれているとプラトンは考えていました。

このことを彼は確信しており、人間が地上でなさなければならないことは、あれやこれやの分野でまだ知らないことを学ぶことではなく、自分自身の心の奥深くにすでにある記憶を呼び覚ますことだと考えていました。

 

このプラトンの考えからは、普遍的な知の最も重要な側面が思い起こされます。それはまさに、デルファイに建てられていたアポロンの神殿に刻まれていた警句「汝自身を知れ」が意味していることです。

しかし、「自身を知る」とは何を意味しているのでしょう。それは、ひとりの人間としての自分の真の性質を知るということです。

 

そのためには、それを望まなければなりません。しかし、多くの人はこのことを望んでいません。その重要さを理解していないことが理由の場合もありますし、自分自身に向き合うことを恐れている場合もあります。

確かに、自分自身の心のスクリーンの上で自分を見つめることにはある種の勇気が必要であり、特に妥協のない内省を行う場合にはそうです。このような内省によって、自分の性格の美しい部分とともに、生まれ持った望ましくない部分が明らかになるからです。

しかし、人間の行為として、この内省以上に気高い行ないはありませんし、自身を進歩させて人間としての最良の性質を表わすことができるようにするために、この内省以上に役立つことはありません。

地球儀を見て学ぶ子供たちと先生

 

「自身を知る」ということは、最高のレベルで実現された場合、それは、個人としての自分の性格を知るということにはとどまらず、自分に命を与えている魂自体の性質さえをも知ることになります。

自分の中に非物質的な何かが宿っていて、何度も人生を体験して進歩を続けていくということを承知しているのは望ましいことです。

しかし、自分の魂について、その性質が確認できるほどにまで「自身を知る」ということは、魂が存在するという知識を持つこととは、まったく別のことです。

 

バラ十字哲学の目標はまさに、この点に関して少しずつ目覚め、気づくことができるようになり、最終的には「私は自身を知っています」と自分に言うことができるレベルに達することです。

このとき私たち人間は、単なる生物としてだけでなく、自身の魂の持つすべての善良さと完全性とともに地上に生きる魂として、考え、発言し、行動することができるようになります。

このことからは、フランスの思想家テイヤール・ド・シャルダンの次の言葉が思い起こされます。「私たちは、魂に響く経験を積んでいる人間ではなく、人間としての経験を積んでいる魂である」。

本棚に並べられた多くの本

 

17世紀の初めに薔薇十字団が世間に姿を表したときから、彼らは「普遍的な知を探し求める人たち」でした。このことは、彼らが1623年にパリ市のいたるところに張ったポスター(訳注)に特に良く表れています。

数世紀が経ち、その理念を継承する団体として創設されたバラ十字会AMORCにも、このことがあてはまります。

 

訳注:このポスターの内容は次の宣言書の冒頭に紹介されています。

宣言書『バラ十字友愛組織の姿勢』(2001年)

https://www.amorc.jp/pdf/amorc_positio_jp_111018.pdf

 

さまざまな形で無知が、そこから生じた誤った信念や迷信とともにいまだに存在していて、多くの人が自分自身や他の人や自然界を傷つける原因になっています。

それに加えて、多くの知識が望ましくないやり方で用いられ、不当な利益を得るために役立っています。

 

明るい未来が到来し、すべての人が幸せになることをもし人類が望むならば、普遍的な知を探し求めること以外に選択肢はありません。

もしあなたも私と同じ意見でしたら、この公開書簡のことを、興味を持っていただけるであろうあなたの知人に知らせて、熟考と瞑想の役に立ててもらってください。

 

友人としての思いとともに、皆さんのご多幸をお祈り申し上げます。

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

本文中で、エメラルド・タブレットからの引用が話題になりました。

エメラルド・タブレットにはさまざまなバージョンがありますが、6年ほど前に、『バラ十字会員の秘密の象徴』という18世紀の本に掲載されていた文章の翻訳を、このブログで紹介したことがあります。

解説、図版を加えたこの記事はとても好評で、ある雑誌のエメラルド・タブレットに関する特集でも取り上げられました。ご興味のある方は下記でお読みください。

 

参考記事:「エメラルド・タブレットとは

 

では、今日はこのあたりで。

また、よろしくお付き合いください。

 

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知を求める人たちへの公開書簡(その2)

2021年4月16日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋ではこの数日、寒い日と暖かい日の差が激しくなっています。葉桜になったソメイヨシノに代わって八重桜が花吹雪を散らしています。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

当会のフランス代表が自身の人気のブログで公開した『知を求める人たちへの公開書簡』の第2回をお届けします。

前回の表題と今回の表題が、ほんの少し変わっていることにお気づきの皆さんもいらっしゃることと思います。「知識」を「知」に修正しました。

というのも、今回の部分を翻訳していて分ったのですが、彼は「知」(connaissance)という言葉を「知識」(savoirs)と「ノウハウ」(savoir-faire)の両方を含めた意味で使っているからです。

 

前回の記事はこちらで読むことができます。

記事:「知識を求める人たちへの公開書簡」(その1)

 

話のつながりの都合上、前回の文章の一部を再掲載しています。

どうぞ、お楽しみください。

▽ ▽ ▽

記事:「知を求める人たちへの公開書簡」(その2)

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

セルジュ・トゥーサン、バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表

 

(ここから再掲載)さて、これまでご説明してきたようなことを見ていくと、正しい信念と誤った信念を区別すること、より広く言えば、真実と間違いを区別することは、誰にとっても難しい行ないだということが分ります。

私たちは完璧でもなければ、すべてを知っているわけでもないので、この区別に取り組むのはたやすいことではありません。ですから、人生のある時期に正しいと考えていたことが後に間違っていたということが少なからずあります。

私たちは誰もが、さまざまな事柄について自分の考えとその確実さを進歩させています。このことを実感するために、少し時間をとって過去を振り返り、あなたがかつて持っていた宗教的な信念や政治的な意見や、他の確信を思い起こしてみてください。

それらは時とともに変化し、その中には、わずかに変わったものも大きく変わったものもあることでしょう。中にはこのような変化が極めて激しい人もいますが、そうでなくても、すべての人の心にこのような進歩があり、それはこれからも続いていくことでしょう。(ここまで再掲載)

 

誰もが知っているように、宗教という分野では信念が本質的な役割を果しています。それは宗教が信仰に基づいているからです。信仰の一部は、知的な批判を棚上げした信念であると言われることがあります。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教など、いずれの宗教も信仰に基づいています。たとえば、ユダヤ教では旧約聖書、キリスト教では新約聖書、イスラム教ではコーラン、仏教では三蔵など、そのそれぞれの聖典を信じることが求められます。

この要求が正当である理由として、宗教の聖典は、神の言葉がまさに表されたものだと考えられています。宗教の信者はまた、その宗教の教義を、理論としても道徳としても心から信頼するように求められます。

読書する東南アジアの子供の僧侶

 

私はさまざまな宗教の肯定的な側面に深い敬意を感じていますが、しかし、いかなる宗教の聖典も、神の言葉が表されたものでないことが、私には明らかに思えます。

世界中にいる無数に多くの宗教信者の中には、神のことを何か人間に似た超越的な存在であると考え、神自身の手によって、聖書やコーランが書かれたと考える人がいます。

この見解は明らかに、神のことを極端に擬人化した考え方にあたります。

 

さらに言えば、個々の聖典に表されている宗教の教義と道徳規範は、それぞれの宗教によって大きく異なっていて、時として互いに矛盾することもあります。

さまざまな聖典の作者が、実際には人間であることが私には明らかに思えます。

もちろんそれぞれの作者の大部分は、超越的で高度な啓示を受け取り、それを誠実に伝えようとしたのでしょうが、人間は誰もが欠点を持ち完璧な存在ではありません。

ですから、それらの作者が目撃したできごとや自分が受け取った神の啓示として報告していることは完全ではありません。

その結果として、さまざまな宗教によって伝えられている信念には、少なくとも一般に流布されている教義には、多くの誤りが含まれています。

 

さらに言えば、人間の意識や知的能力は、長い歴史を経て進歩してきました。そのため、遠い過去に成立した宗教の信念は、もはや現代人の疑問に、特に、人生の意味と存在理由について自ら思索する若い人たちの疑問に答えることができていません。

世界はほんとうに6日間で創造されたのでしょうか。人類はアダムとイブという夫婦から生じたのでしょうか。地獄や天国が死後の行き先なのでしょうか。時の終わりに肉体が復活するのでしょうか。悪魔は本当に存在するのでしょうか。

もちろん、すべての人の信仰は自由であり、それ自体として尊重されるべきものです。しかしそれは、すべての信仰が真実であると見なされるべきだということを意味してはいません。

 

さまざまな宗教によって伝えられている信念には多くの誤りがあり、存在論的な基礎がない場合があると私は考えていますが、一方で、宗教の信仰自体が、その人自身や社会に望ましくない影響を及ぼすとは考えていません。

ただし、固定的な信条という暗闇の中に閉じこもり、より高度な精神的態度を自分に禁じてしまっている人に対しては、気の毒なことだと個人的に感じます。

 

また、強い信仰を持つ人の一部には、他人の感情を思い測る能力が鈍く、過激な考え方を持つ人がいて、原理主義や狂信主義に陥ってしまう危険があります。

残念なことに、いかなる宗教にもこの種の危険があるということを人類の歴史は示しています。しかし、このことは誰もが知っている事柄でしょうから、この話題についてはこれくらいにしましょう。

 

さて、誤った信念が劇的な影響を及ぼしているある事柄があります。それは迷信です。

たとえば、ある品物が幸運や不運をもたらすと信じること、さまざまな種類の魔法使いがいて、誰かに魔法をかけたり解いたりすることができると信じること、ゾウの牙や虎の骨などには特別な効果があると考えること。

あれこれの動物を生け贄にすることで、神の好意を得られると考えること、いわゆる占いを行うことによって未来を知ることができると考えること、悪霊というものがいて、人の体や魂を乗っ取ることがあると考えることなど、ありとあらゆる迷信が世の中に存在していて、それを信じる人に望ましくない影響を与えています。

これらの迷信はひどいことに、信じている本人だけではなくその周囲にも害を及ぼします。たとえば、ある動物種に絶滅をもたらしたり、自然の破壊をもたらしたり、他の人が持っている神についての観念に侮蔑を投げかけることになったりします。

迷信という誤った信念は、人間が分泌するようになった毒の中でも、おそらく最も有害なものだと言うことができるでしょう。

ゾウの親子(タンザニア国立公園)

 

ここで考えるべきなのは、宗教的なものであれ迷信であれ、さまざまな誤った信念に終止符を打つためには、どのようにしたら良いのかということです。

そのための「奇跡の薬」は存在しないようですが、その害を取り除く最も望ましい方法は、健全な思考に頼ることだと私は思います。

 

思考という人の能力が絶対確実なものであり、私たちを必ず真実に到達させてくれると私は主張しようとしているのではありません。

しかし思考は多くの場合、自分の判断や行動の過ちを明らかにするために良く働いてくれます。

思考を最良の形で用いれば、人間の思想や活動のあらゆる分野において、さまざまな信念を鍛え上げて、それを真実に満たされたものにすることができます。

健全な思考、より広く言えば理性というものが、「知」(connaissance)を手に入れ、あらゆる種類の迷信と無知から自分を解放するために必要不可欠に思えます。

本と鍵(理性のイメージ)

 

しかし「知」とは何なのでしょうか。大まかに言えば、それは、観察と研究を通して人間が手に入れる知識(savoirs)とノウハウ(savoir-faire)です。

ですから知は、産業技術、科学、医学、心理学、歴史、地理、文学、哲学など広い分野に関わります。実際のところ、世界には限りなく多くの種類の知があり、それらを学びたい理解したいと望むことは、人間にある偉大な性質です。

 

先ほど述べたように、人間は地球上に出現したときから、世界、自然界、自分自身の神秘について知ろうと常に努力を続けてきました。

そしてこの探究から、さまざまな信念と多種多様な知が生じ、今日ではその数は、まるで天上に輝く星ほど多くなりました。

(第3回に続く)

好奇心(イメージ)

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

ふたたび本庄です。

次回は、セルジュ・ツーサンのこの文章の最後の部分をお届けします。そこでは、「知」とは何かということがさらに掘り下げられていきます。

 

では、今日はこのあたりで。

また、よろしくお付き合いください。

 

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知識を求める人たちへの公開書簡

2021年4月9日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

ソメイヨシノはすっかり葉桜になりました。東京板橋の昨晩は花冷えという言葉の通り涼しくなり、雷とともに軽く雨が降りました。

いかがお過ごしでしょうか。

 

当会のフランス代表が自身の人気のブログで公開した『知識を求める人たちへの公開書簡』を、今回から3回に分けてご紹介します。

インターネット上にさまざまな情報が飛び交うようになり、さらに時代の過渡期だと考えられる今、知識とは何か、知識と信念はどう違うのか、正しい信念と誤った信念をどう区別すべきかなど、私たちの誰もが深く考える必要があるテーマだと思います。

どうぞ、お楽しみください。

▽ ▽ ▽

記事:「知識を求める人たちへの公開書簡」(その1)

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

セルジュ・トゥーサン、バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表

 

「ほとんどの人が犯す最大の誤りは、知識の目的を誤解することである(中略)。知性のことを人間に与えられた貴重な贈りものだと考え、それを人類の利益のために用いる人は、ほんのわずかしかいない。」(フランシス・ベーコン、1561-1626)

 

バラ十字会に伝えられている格言に次のようなものがあります。「人間が解放されなければならないのは無知からであり、無知からだけである」。

この格言の主張は、誰もが望んでいる幸せや満足できる状況は知識によってもたらされると言い換えることができることでしょう。

あなたがこのお手紙を読んでいる理由は、「知識」という言葉があなたの心の琴線に触れたからかもしれません。この手紙がさまざまな思索のきっかけになり、あなたの役に立つことを心から望んでいます。

 

さて、知識とは何かということを見ていく前に、信念とは何かについて考えるのが有益なことに思われます。信念とは何なのでしょうか?

一般的に言えば信念とは、自分が事実だと考えるものを構成している考えであり、あなたの心の中にあるものです。信念には、自分が作り上げたものもあれば、他から伝えられたものもあります。

 

すべての人がさまざまな信念を持っています。ご自身のことを考えていただければ、あなたが持っている信念をいくつも発見なさることでしょう。そしてそれは、宗教上の信念であったり、政治、経済、芸術、道徳などに関する信念であったりすることでしょう。

信念とは多くの場合、「自分が確実だと考えていること」とほとんど同じ意味です。

つまり事実だと確信していること、言い換えれば、しっかりとした根拠があると確信している事柄と言い換えることができます。

 

信念を持つのは普通のことでしょうか。はい、私はそう思います。信念を排除するように私たちは努力するべきでしょうか。いいえ、私はそうは思いません。

人間には心の働きが理由で(私は特に、記憶、推論、想像のことを思い浮かべていますが)、ものごとについて考えずにはいられないという傾向があります。人間にとって考えることは、満たさずにはいられない欲求だとさえ言うことができます。

2人で本を読む女の子たち

 

この欲求に促されて人間は、自分自身とは何者なのか、人生にはどのような意味があるのかということを考え続けてきました。幾世紀もの間、いえ何千年もの間、知的な好奇心に導かれて、人間はさまざまな信念を発達させ、そこからさまざまな体系の思考が生じてきました。

端的に言えば知的好奇心によって、一般に「文化」と呼ばれているものが育まれ、多様な分野に適用されるようになりました。宗教、政治、経済、社会に関する文化があり、また、西洋、ヨーロッパ、東洋、アフリカ、アメリカなど、それぞれの地域に文化があり、異なる信念があります。

本を手にする世界各国の子供たち

 

ですから、私たち人間が信念を持っているということが問題をはらんでいるのではなく、信念の性質こそが問題なのだと言うことができるでしょう。

つまり、皆さんもご存知の通り「誤った信念」と呼ばれるものがあります。それはその名前が示している通り、さまざまな分野の「間違った考え」にあたります。

 

人類の歴史は、数多くの「誤った信念」に彩(いろど)られています。際立った例をいくつか挙げるとすれば、地球は平たく、その中心に大陸があり海に囲まれているのだと考えられていた時代があります。

人体内の血液は肝臓で作られ体全体の組織に染み込んでいくのであり、血液が循環するとは考えられていなかったことがあります。動物には知性も感情もないと考えられていたこともあります。

 

当時これらの信念は正しいと見なされ、大部分の人がそれを信じていたのですが、結局それは間違っていました。

では、今現在、「誤った信念」はどのくらい残っているでしょうか。数百でしょうか、数千でしょうか。どうかこのことについて考えてみてください。

書庫とアンティークの書き物机

 

さて、これまでご説明してきたようなことを見ていくと、正しい信念と誤った信念を区別すること、より広く言えば、真実と間違いを区別することは、誰にとっても難しい行ないだということが分ります。

私たちは完璧でもなければ、すべてを知っているわけでもないので、この区別に取り組むのはたやすいことではありません。ですから、人生のある時期に正しいと考えていたことが後に間違っていたということが少なからずあります。

私たちは誰もが、さまざまな事柄について自分の考えとその確実さを進歩させています。このことを実感するために、少し時間をとって過去を振り返り、あなたがかつて持っていた宗教的な信念や政治的な意見や、他の確信を思い起こしてみてください。

それらは時とともに変化し、その中には、わずかに変わったものも大きく変わったものもあることでしょう。中にはこのような変化が極めて激しい人もいますが、そうでなくても、すべての人の心にこのような進歩があり、それはこれからも続いていくことでしょう。

(第2回に続く)

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

今回の文章で話題になっていた血液循環説について、情報を補足しておきます。

「人体内の血液は肝臓で作られ体全体の組織に染み込んでいく」と唱えたのは、西暦2世紀の古代ローマの学者ガレノスでした。彼の医学についての考え方の多くの元になっていたのはアリストテレスやヒポクラテスの説でした。

アリストテレスやヒポクラテスがあまりに偉大だったので、血液についてのこの誤った信念は、何とそれから1,500年ほどにわたって信じ続けられてきました。

 

私も初めて知ったときにびっくりしたのですが、西洋の中世の科学者の多くは、思索こそが人間の最も高尚な行ないであり、実験を用いて自然を研究するのは軽蔑すべきことだと考えていました。古代の権威を盲信し続けたことも、この考え方に影響されています。

 

この考え方を打ち破ったのはレオナルド・ダ・ヴィンチ、カンパネラ、ガリレオ、フランシス・ベーコン、コペルニクス、デカルトなどの勇気ある先駆者たちでした。

17世紀にはウイリアム・ハーベイというイングランドの医師が、血液は循環するという説を唱えます。当時この説は医学界全体から激しい反論を受けたとのことです。

人間が過去の信念にどれほど縛られてしまうかということを示す良い例だと思います。

 

ちなみに、人類は今、中世の末期と同じような規模の大転換期に直面していて、私たちのすべてが勇気と聡明さを試されていると私は考えています。

 

以下は、前回のセルジュ・ツーサンの文章です。

参考記事:「超越について

 

では、今日はこのあたりで。

また、よろしくお付き合いください。

 

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時間よ止まれ

2021年4月2日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋は春たけなわです。職場に向かう途中に坂道があり、八重桜とハナミズキが道の両側に並ぶように植えられています。この時期にいずれも開花して、パステルカラーにあふれた見事な景色になります。

いかがお過ごしでしょうか。

 

山形県にお住まいの私の友人から、時間と時計にまつわる文章を寄稿していただきました。

▽ ▽ ▽

記事:『時間よ止まれ』

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

「年を取ると時間の流れが速くなる」。若い頃に良く聞かされました。でも、そのころは全く実感がありませんでした。

ところが、古稀を過ぎたこの歳(73歳)になりましたら良~く理解できる様になりました(笑)。

ところで、これは単なる思い込みによるものではなく、ジャネーの法則と呼ばれる心理学の理論で説明がつくのだそうです。

これを簡単に説明しますとこうなります。

「年を取るにつれて自分の今までの人生の長さに対して一年の比率が小さくなるため、体感としての一年が短く感じられる様になり、そのせいで時間の流れが速くなっていると感じる様になる」のだそうです。

砂漠に埋まっている数々の時計

 

それでは時間とは何なのでしょうか?

一般論としてですが、物理的解釈と哲学的解釈の二通りに分けられるのだそうです。「地球が一回の自転に要する期間を一日と定め、その期間を二十四等分した期間が一時間、さらに六十等分した期間を一分、さらに六十等分した期間を一秒と定めた」のを物理的解釈と呼び、哲学的解釈とは「物理的解釈の時間が流れている、と精神内で意識している期間の長さ」なのだそうです。つまり精神内で意識しなければ時間の流れは止まっている、あるいは遅くなっているという解釈になるのだそうです。

なぜかジャネーの法則にリンクする様ですね。

きらびやかな腕時計

 

さて、頭痛を誘発しそうな話はこの辺で切り上げることにして次に行くことにしましょう(笑)。

ちょっと古い話になります、我が家の近くにあったスナックに時刻の読めない……いや、それどころか時間が逆行しているのでは? と思える様な不思議な、というよりは奇妙なデザインの文字盤の時計が店の壁に我が物顔でドーンと張り付いていました(笑)。

時刻を表すのは数字ではなく12個の丸い点、そして長針と短針は細長い三角形をしており、ちょうど人間の眉毛のような形でした。さらに驚くことに、針を支える真ん中の軸がないのです。二本の針は盤上に張り付いた様な状態で不規則とも思える動きで移動しているのです。

もう少し分かりやすく具体的に説明しましょう。「正月の福笑いのゲームを二本の眉毛だけでやっている様なもの」と言えば分かってもらえるのではないでしょうか?

ちなみに、針の動くメカニズムはどうみても解明不可能でした。

そんなこんなで、店内にしばらくいますと客の誰もが時の流れが止まってしまったかの様な錯覚に陥ってしまうのでした。

それに加えて、常連客の間で「時刻はどうやって読むんだ!? じ~っと見てると頭が(目も)変になって来る!!」。更には『ありゃ本当に時計か(怒)』の声まで(笑)。

らせん形をした奇妙な時計

らせん形をした奇妙な時計

 

ある時、私がマスターに時刻の読み方を聞いてみました。

すると、『こっちの長針のこの箇所と、こっちの短針のこの箇所で時刻を見ることになります。今ですと○時◇□分になりますね』。

なるほど、説明を聞きましたら何となく分かった様な気になりました。ところが、数分後にはもう『あれ!?』でした。

そこで、もう一度聞いてみました。

するとマスター。ニッコリ笑って「もう少々(お酒を)お飲み頂きますと普通の文字盤の時計に見えて参りますよ……」

「オイ、オイ」(笑)

アンティークの時計と女性

 

次に行きましょう(笑)。

これは知り合いの時計店のオヤジさんから聞いた話です。

その昔、店の壁にはお客さんから預かった修理・調整中の柱時計やら商品の新型の時計等がところ狭しと壁に掛けられていたのだそうです。それらの時計達は定期的に(つまり一時間ごとに)時を告げてくれるわけです。

そしてその時、全ての時計が、きっちり同時にボ~ン・ボ~ンと鳴り響いてくれた時、これぞ時計職人冥利に付きるといった瞬間だったそうです。

その話を聞いて「楽しい仕事ですね」と言いましたら、ちょっと苦笑いしながら「実は、そうでもない時も……」と。

そこで「え、どういう事ですか?」と問うと。

ぼそっと一言「真夜中の12時を想像してみて下さい……」。

なるほど、納得です(笑)。

 

それでは、もう一つ時計の話を。

その昔、ホームセンターの激安コーナーで980円の懐中時計を購入したことがあります。

本気の安物でしたが色とデザインだけは本物のアンティーク品さながらでした。

この時計、普段使いには何も支障なく、持ち歩くにも気を使う事なく便利に使っていました。二つほどの問題点を除きましては。

一つは一日に最低でも二回、ネジを巻く必要があったこと。

もう一つは、この時計と生活を共にすると一日の時間が24時間と20分になる、ということ。平たくいえば、一日に20分遅れるということです(笑)。

ある時、この時計の事が友人と話題になりました。そこで私が「この時計と一緒に生活してると一日に20分得するんだよ」。すると友人が、アハハと笑いながら「長生きするよ……」(笑)。

はい。今もって元気に生きてます(感謝)。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

山下さんの楽しい文章の後では、やや蛇足の情報かもしれませんが…

時間とは何かということは、さまざまな時代にさまざまな人が議論してきたけれども、いまだに解決がついていない大問題だと多くの人が考えています。

神秘学(mysticism:神秘哲学)の立場から言うと、「神秘体験とは、時間がないことを体験すること」だと言うこともできます。

枯山水を見つめている女性

 

下記は前回の山下さんの記事です。

記事:『右向け左

 

では、今日はこのあたりで

また、お付き合いください。

 

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