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現実について

2020年9月4日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

まだまだ暑い日が続いていますね。

 

一方で、沖縄、奄美、九州に危険な台風が近づいています。

どうか、くれぐれもお気を付けください。

 

さて、もしかしたら皆さんにも、次のような経験があるのではないでしょうか。

 

ずいぶん昔のことになりますが、友人が運転している車の中でトランプをして遊んでいたのです。

車が高速道路のトンネルに入ると、トンネル内の黄色の照明にトランプが照らされました。

すると、ハートとダイヤの赤色の札が、スペードとクラブと同じ黒色になりギョッとしました。

 

最近はLED照明などの普及で減っているとのことですが、一部のトンネルでは低圧ナトリウムランプという照明が使われています。この照明の光には赤色の波長がほとんど含まれていません。

高速道路のトンネル

 

通常私たちは、目の前に見えているものが、見ている通りのものなのかなどということはあまり疑いません。

ところが、照明が変っただけで物の見え方が大きく変化するというこのような体験をすると、ほんとうの世界はどのようなものなのだろうかという疑問がわいてきます。

超音波を感じることができるコウモリや、嗅覚が人間の何万倍も鋭い犬は、きっと私たち人間とは、まるで異なる世界を体験していることでしょう。

 

哲学では、私たちが知覚している世界のことを「現実」(reality)と呼び、知覚とは無関係に存在している世界のことを「実在」(actuality)と呼びます(別の用語が使われる場合もあります)。

 

現実と実在の問題は、何千年もの間哲学で追究されてきました。おそらくいまだに解決していない問題です。

当会のフランス代表が自身のブログに、現実とは何かを話題にした文章を投稿していますので、ご紹介します。

▽ ▽ ▽

記事:「現実について」

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

現実とは、この言葉のそもそもの意味から言えば「本当であるもの」、「本当に存在するもの」です。しかし、より具体的に言えば、私たち人間の五感、つまり視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚によって捉(とら)えられるものが、通常「現実」と呼ばれています。

この立場から言えば、私たち人間にとって最も現実的なものは物質からなる世界です。私たちは毎日、物質の世界で生活し、他の人たちと交流しています。

私たち自身の身体は、物質の世界という現実の一部であり物質の世界と不可分のものです。目覚めているとき、私たちは自分の身体を自分自身だと見なしていて、自分にとって極めて現実的なもの、つまり真に存在するものだと考えています。

VRゴーグルで仮想現実を体験する若い女性

 

現実

五感によって捉(とら)えられるということを、現実であることの判定基準だと考えるということが、もし確実に正しいのであれば、「物質の世界だけが現実だと言い切れるのだろうか」とか、「心の働きによって私たちが持っている観念は、現実として存在すると言えるのだろうか」というような疑問を、私たちが持つことは決してないでしょう。

このような疑問が生じる最大の理由は、おそらく、実際には存在しない事物を、私たち人間は思考したり想像したりすることができ、それを自分の意識というスクリーン上で見ているときには、それが自身にとって現実に感じられるからです。

現実だと感じられるものに、このように異なる2つの種類があることから、心理学者は、「客観的現実」(objective reality)と「主観的現実」(subjective reality)という語を用いています。

私たち人間は、一日中、客観的現実の世界と主観的現実の世界との間を絶え間なく行き来しています。

空想にふけっている小学生の男の子

 

バラ十字哲学の立場から言えば、現実とは意識の状態です。そのため、意識を外に向けるのか内に向けるのかによって、結果的に現実は客観的になったり主観的になったりします。

しかし、どちらの場合にも誤りが生じる可能性があります。客観的現実の場合には感覚上の錯覚が生じますし、主観的な現実の場合には思い違いが生じます。

ですから私たちは「現実」と「真実」を混同するべきではありません。たとえば、死後の行き先として天国というものが存在するとある人が考えているとしましょう。その人にとって天国は十分に現実的な場所かもしれませんが、それは真実でしょうか?

 

あの世

物質的な世界というものが私たちにとって最も現実的であるということは、決して否定できないことでしょうが、バラ十字会員の多くは、死後の魂が2つの人生の間に滞在する、「あの世」というものが存在すると考えています。

確かに、五感によってあの世を知覚することはできず、そのため物質主義者や無神論者の多くはあの世が現実に存在すると考えません。

しかし、人間の意識には、あの世と同調してそこから印象を受け取ることが可能であり、特にこのために瞑想という手段を用いることができます。さらに、あの世にいる存在と接触することができる能力を持つ人がいることが知られています。

 

フランス人の大部分が知っている、「見たものだけを信じなさい(Ne croire que ce que l’on voit.)」という格言があります。この格言の通りに、見ることができないということを理由にして、極端に合理主義的な人たちはあの世が存在することを否定します。

しかし、空気を例に取りましょう。空気は見ることはできませんが、それが存在することは誰もが認めます。その理由は、さまざまな方法で科学がその存在を立証したからであり、どのような種類の気体で空気が構成されているのかが今では知られているからです。

同じように、多くの科学者が真に望むならば、いつの日か科学は次のことを立証すると私は確信しています。ひとつは、人間が魂を持ち、魂は脳の機能を超越した直観的認識の手段かつ知性であるということです。もうひとつは、万物にはある普遍的意識が備わっていて、この普遍的意識こそが宇宙の本質であるということです。

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

以前もご紹介したことがありますが、薬師寺、興福寺など、奈良にあるお寺の多くは法相宗という宗派に属します。

この宗派に伝えられているのは唯識という仏教の伝統的な考え方であり、この考え方では現実とは(本当に存在するものは)八識だけだとされています。八識とは五感による認識と意識と2種の潜在意識です。

上の文章で説明されていた「現実とは意識の状態である」というバラ十字哲学の立場と良く似た考え方です。

 

哲学者の大森荘蔵(1921-1997)さんも唯識と似た説を唱えています。大まかに言えばこの説では、世界そのもの(物)と世界を知覚する自己(心)は、認識というひとつのものから、私たち人間が勝手に分離、想像したものだとされています。

 

下記は前回のセルジュ・ツーサンの記事です。

記事:『SFについて

 

では、今日はこのあたりで。

また、よろしくお付き合いください。

 

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銀河鉄道の夜

2020年8月28日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

残暑のお見舞いを申し上げます。しかし残暑とは名ばかりで、まだ猛烈に暑いですね。

いかがお過ごしでしょうか。

 

この数日、東京板橋は空が晴れている夜が多いのですが、札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人が、この時期にふさわしい文章を寄稿してくださいました。

▽ ▽ ▽

文芸作品を神秘学的に読み解く(23)

『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治

森和久のポートレート

森 和久

 

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生が質問します。

 

物語は小学校の午後の教室、理科の時間の場面で始まります。話題は「天の川」についてです。カンパネルラを初め数人の生徒が勢いよく手を上げます。

ジョバンニは判っているような気がしますが、よく思い出せません。先生はそんなジョバンニに答えさせようとします。あてられたジョバンニは答えられず、立ち尽くし、級友たちが冷やかします。そこで先生は代わりにカンパネルラを指名します。しかし、判っているはずのカンパネルラも無言です。

そこで先生は自分で天の川銀河の物理的説明をし、「今日はその銀河のお祭なのですからみなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。」と授業を終えます。

以前ジョバンニはカンパネルラの家で一緒にこのことを雑誌や本で見ていたのです。ジョバンニは仕事の辛さで頭が回らなくなっていたのです。「カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。」

夜の湖と天の川

 

主人公のジョバンニは貧しい家の少年で、放課後は活版所で活字拾いのアルバイトをしており、この日は仕事の後、病気の母のために、配達されなかった牛乳を受け取りに牧場へ向かいます。

彼の父親は北の海へ漁に出かけており、長い間帰って来ていません。

ジョバンニはカンパネルラだけを親友と思っています。普段から級友たちやアルバイト先の大人たちからもいじめられ、疎外感を抱いています。孤独な少年にありがちの空想にふけることもたびたびです。

 

この日は星祭りの日なので、カンパネルラと級友たちはカラスウリを流しに川へ向かいます。牧場で牛乳を受け取れなかったジョバンニはその集団に出会いますが、ザネリに馬鹿にされたため、逃げるように街から離れ、『天気輪の柱』のある丘に来ます。

そこに寝転がり、街の灯りや楽しげな乗客の乗った汽車を眺めます。乗客たちはリンゴをむいたり笑ったりしています。いたたまれなくなったジョバンニは夜空を見上げます。するとそこは暗い夜空ではなく林や牧場のある野原のように思われるのです。

 

そのうち『銀河ステーション』という声がして、気がつくとジョバンニは軽便鉄道の車室の座席に座っていたのです。すぐ前の席には水に濡れたような服を着たカンパネルラも座っています。この銀河鉄道は天の川の岸を北から南へ向かって走っているのです。

車窓の外にはリンドウの花が咲き誇り、もう秋の訪れを知らせてくれます。銀河ステーションの近くには琴座のベガがあり、対岸には鷲座のアルタイルがあります。そして白鳥座のデネブとで、夏の大三角を形作ります。白鳥座には北十字があります。南へ進んでいくとひときわ明るい天の川の部分になります。作者はここを『コロラドの高原』と呼んでいます。ここでは、射手座が輝いています。

次には、蠍座のアンタレスが赤く光っています。さらに進むと南半球のケンタウルス座があります。もっと南へ向かうと南十字が現れます。その脇には石炭袋(暗黒星雲)が真っ暗な口を開けています。これらの星々を眺めながらジョバンニとカンパネルラは銀河鉄道の旅をするのです。

星の夜空と機関車

 

ジョバンニはいつも孤独感を味わってきましたが、銀河鉄道に乗っているときも、カンパネルラと女の子が楽しそうに話しているのを見て、疎外感にさいなまれてしまいます。自分でもどうしようもなく、女の子もカンパネルラも遠い存在のように思えて仕方ありません。

実は女の子たちが乗ってくるその前に乗っていた鳥捕りの男に対してジョバンニは、冷めた感情で接していた自分に気付きます。

そして後悔の念で、「もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸(さいわい)になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がし」ます。

「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」と自分の心情を吐露します。

 

カンパネルラは川で溺れた級友のザネリを助けるために自分が溺れ死んでしまいます。究極の滅私奉公かもしれません。しかし、カンパネルラ本人には割り切れていません。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」というせりふが何度も出てきます。でもそれは彼が心からそう行動せずにいられなかった行いだったのでしょう。

作者がこれを英雄譚として書いていないことからも判ります。人間の生き方のありようなのかもしれません。

 

ですからこの物語は、本当の幸福とは何か、他人のために尽くし、尽くしきれるかという問題を突き詰めると同時に、ジョバンニのさらなる学び、さらなる発展の物語です。

読者である私たちは主人公のジョバンニに感情移入し、カンパネルラのような人間になれるだろうかと考え、カンパネルラという友がいなくなっても一人で生きて行かなければならないんだと、そう心に決めるのです。

 

女の子とその幼い弟と家庭教師の青年は、乗っていた船が氷山にぶつかり沈没したのです。

そのとき青年は他の子どもや親たちを押しのけて、女の子と弟を救命ボートに乗せようと一旦は思ったのですが、

「けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。」

と思い直し、三人で板きれにしがみ付き浮いていられるだけ浮いていようと試みます。その時、賛美歌『主よ御許に近づかん』が聞こえてきて、大勢の人たちがいろんな言語でこの賛美歌を歌い出したのです。

 

このシーンは1912年に、実際に起こったタイタニック号の沈没をモチーフにしていると思われます。この時、船上楽団が最期に演奏した曲は何かということについて諸説あります。当初はこの物語でも取り上げられているように讃美歌第320番『主よ、御許に近づかん』とされていました。

「わが神よ、御許に近づかん、御許に近づかん。たとえ私を高く持ち上げるものが十字架であったとしても、なおも、わが歌の全ては、わが神よ、御許に近づかん、わが神よ、御許に近づかん。」と歌われます。

 

この物語を元にしたますむらひろしの漫画をアニメ化した映画もジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック』など多くのタイタニック号の沈没を描いた映画でもこの曲が使われています。

そのアニメ映画の音楽を担当した細野晴臣の祖父はタイタニック号に乗船した唯一の日本人で、無事生還することが出来ました。助かったおかげで晴臣の父が生まれ、晴臣も生を受けました。ところが彼の祖父は他の乗客を押しのけて、救助ボートに乗った卑怯者という汚名を着せられました。

しかし、1997年から行われた調査の結果、たまたま一人分の席が空いていたところに乗ることができたという事実がわかり、汚名をすすぐことができました。

 

その後、最後に演奏された曲は、『オータム Autumn』が有力とされてきています。

この曲は讃美歌第351番『友という友はなきにあらねど』のことで、「私たちを救うすべての友人のうち、誰が血を流すことができるでしょう? しかし、私たちのイエスは私たちを神と調和させるために死を選びました。これは確かに無限の愛でした。イエスは大切な友です。」ということを歌われます。

この賛美歌の照合する聖句は、『新約聖書 ヨハネによる福音書 第15章 第13節』です。そこには十字架にかかる前夜、弟子たちに語ったイエスの言葉としてこうあります、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」

 

イギリスの音楽家ギャヴィン・ブライアーズ(Gavin Bryars)はこの曲をアレンジして、“The Sinking Of The Titanic”のタイトルで3度音楽アルバムをリリースしています。

最初は1975年にブライアン・イーノの環境音楽レーベル、オブスキュア・レコードから出しました。彼は、奏でられた音楽が波の下に消えたとしても音は反響し続けると想像しました。音の響きは海底まで届き、その振動は永遠に鳴り続けるのです。

2作目は1995年にリリースされました。録音はナポレオン時代の給水塔で行われ、ミュージシャンたちは塔の地下で演奏し、給水塔は巨大な残響室として機能しました。

3作目は2007年にリリースされました。これには楽器としてターンテーブルが導入され、そのパチパチ音が巨大なうねりとなり新たな境地を表現しています。いずれのアルバムもタイタニック号が沈没する様を具現化した音響となっています。

 

『カンパネルラ(Campanella)』とはイタリア語で『(小振りの)鐘』を意味します。鐘とは『時』を知らせるものです。またルネサンス期のイタリアの司祭で哲学者のトマソ・カンパネッラ(Tommaso Campanella)も有名で、この物語のカンパネルラも彼からとられたという説があります。

彼は平等・共産を理想とする神政によるユートピアの実現を目指しました。『ジョバンニ(Giovanni)』はイタリア語で『ヨハネ』のことで、上記のこととの繋がりを感じさせます。ガリラヤ湖で漁師をしていたヨハネはイエスの弟子となり、磔刑の場でも最後までイエスのそばにいたとされます。

 

汽車は『コロラド高原』の駅に止まりました。するとドヴォルザークの『新世界交響楽』が流れてきます。この曲はドヴォルザークが新天地であるアメリカへ渡って、つづった交響曲です。

汽車は峠を越え斜面を大きく下り始めます。「ええ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向うからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう。」と老人らしい声が言います。

そうです、この銀河鉄道は北から南へしか走らないのです。冥界へ向かうのですから。

 

ジョバンニはだんだん心持ちが明るくなってきます。蠍座の近くに来た時、女の子は父に聞いたというサソリの話を始めます。サソリはその毒針で小さな虫を殺して食べているけど、ある時、イタチに追いかけられ、逃げ回っているうちに井戸に落ちてしまい出られなくなってしまいます。

「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。」

こう言って、今では天で自分の体を燃やして暗闇を照らしているということです。

 

南十字に近づいて来て、女の子たちはそこで降りなければなりません。ジョバンニは別れが惜しくなり、本当の神について女の子と言い争います。そして誰の神が本当なのかではなく、神は一人であると諭されます。

「ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。」

みんなは祈りはじめ、ハレルヤが高らかに響き渡ります。

 

女の子たちも他の人たちも降りてしまい、ジョバンニはまたカンパネルラと二人っきりになります。ジョバンニは言います、「どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」

ジョバンニが続けます、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云います。

 

汽車は『石炭袋』に近づきます。天の川の中に真っ暗な穴が開いているようです。「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」ジョバンニは言います。

そうして振り返ってみると、いままでカンパネルラがいた席にカンパネルラの姿はなく、ただ黒いビロードだけが光っていました。

みなみじゅうじ座の石炭袋

みなみじゅうじ座の石炭袋 Wikimedia Commons / Public domain

 

ジョバンニが目を開くと、そこは元の丘の上です。疲れて草の上で眠っていたのです。そして再びお母さんの牛乳を受け取りに牧場へ向かうのでした。

 

この物語でジョバンニはカンパネルラと銀河鉄道で天の川を旅するのですが、冒頭にあったように、天の川は英語では“Milky Way”と呼ばれミルクが流れているように思われたりします。

この日、地上においては、ジョバンニは母のために牛乳を求める道を歩みます。天上と地上がシンメトリーになっています。

 

付記:この物語は未完の作品です。結果的に第4稿が最終稿となりました。第3稿までは、車室でカンパネルラがいなくなった後、「ブルカニロ博士」の登場する一節が入れられていました。この謎の博士がジョバンニにいろいろと説き、銀河鉄道に乗る夢自体が博士の実験だったと種明かしのようなことをします。作者の推敲によりこの部分は削除されたわけですが、各出版社で判断が違っています。私見では不要な部分です。また、岩波版などは最後の「~もう一目散に河原を街の方へ走りました。」の後に、数行ノスタルジックな一節を(削らずに)入れ込んであります。

△ △ △

ふたたび本庄です。

森さんの文章にも書かれていたように、『銀河鉄道の夜』にはキリスト教の影響が見られます。しかし、ご存知の方も多いと思いますが、宮沢賢治は熱心な仏教徒だったことが知られています。

宮沢賢治(1924年、27歳当時)

宮沢賢治(1924年、27歳当時) Wikimedia Commons / Unknown author / Public domain

 

優れた童話や伝記の多くに共通する特徴だと私は思っているのですが、『銀河鉄道の夜』も一例ですが、読後にいたたまれないほど、この世の無常を感じます。

打ってかわって、宮沢賢治といえば私が最初に思い出すのは『注文の多い料理店』です。まさに夏向きの怪談話ですが、いったい彼はこの童話で子供に何を訴えたかったのでしょうか。不思議です。

 

『銀河鉄道の夜』も『注文の多い料理店』も、青空文庫で読むことができます。

 

下記は、森さんの前回の文章です。こちらは、文字にまつわる奇怪な古代アッシリアの物語です。

記事:『文字禍

 

では、今日はこのあたりで。

また、お付き合いください。

 

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名言?それとも迷言?

2020年8月21日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

ほんとうに暑いですね。ベランダで花の手入れをしていて、非常口の鉄板をはだしで踏むと、やけどしそうになって飛び上がります。

いかがお過ごしでしょうか。

 

今回は、山形県にお住まいの私の友人から届けていただいた、迷言についてのお話しです。

▽ ▽ ▽

記事:「名言?それとも迷言?」

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

還暦を迎えた時には別に考えませんでしたが、古希を迎える歳になりましたら真剣になって考える様になりました。

「残りの人生をどう生きる・・・」と。

色々と考えて、ふと思い付きました。「一から考えるよりも巷に溢れる名言を参考にすれば良いのでは」と。ちょっと能天気な思いつきとも言えなくもないのですが、これもありかと・・・(笑)。

田舎道を歩く2人の男性

 

そこで早速に新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、さらに友人、知人らとの何気ない会話などから「これは!!」と思える言葉を手当たり次第に集めまくりました。

その中で私の気に入った言葉の一つが「選ぶ言葉一つで世界は変わる」です。一見すると使い古された言葉のように思えますが、いつの時代にも(特に今の時代)第一番に必要とされている言葉なのではないでしょうか。

 

実はこれ、コミック本でタイトルが「カラーレスガール」の中で目に留まった言葉なのです。数ヶ月前の事です。新聞の新刊本紹介の記事の欄でそのタイトルを目にしたのです。目にした瞬間、直感的に「買う、買うのだ!!」と。単純な頭脳構造の私は迷うことなく即購入。結果は大正解でした。これは!! と思える名言が盛りだくさんでした。他にも気に入った言葉がたくさんあるのですが、次に行きましょう。

 

私の高校時代からの友人の言葉です。彼は、何か新しいことに挑戦しようとする時、あるいは難題に直面した時、ニッコリ笑って「ねじり鉢巻に腕まくりで行くか!!」が決まり文句でした。彼は何をやる時にも真剣勝負で挑んでいました。ちなみに冗談をかます時にも(笑)。

高校卒業後は私と一緒に自動車ディーラーに勤務。将来は自動車関連の会社を立ち上げるのを計画していたのですが、縁あって25歳の時に美容室を開業しオーナーに。その後は文字通り「ねじり鉢巻に腕まくり」で快進撃を開始。次々と支店を増やし、多くの従業員から本当の父親の様に慕われ、事業を全国規模にまで拡大したところで長年の不摂生がたたり(超の付くヘビースモーカー&大の酒好き・・・酒は私もだいぶん付き合いましたが)令和元年の十一月に「極上の人生だったよ」の言葉を残し旅立ってしまいました。

ウイスキーと葉巻

 

彼の人生は最後まで波乱万丈でしたが、文字通り「ねじり鉢巻に腕まくり」で駆け抜けた「極上の人生」でした。

私も残りの人生を彼の残してくれたこの言葉を背負って生きて行こうと思っています。

「お~い聞こえるか~俺がそっちの世界に行く時にはお前さんの大好きだった『旨い安い』の『名言』で一世を風靡したトリスウィスキーをお土産に持って行くからな~。それまでに禁酒・禁煙で体調整えて閻魔様と待ってろよ~(涙)。」

 

最後にもう一つ。

私には、その昔、プロのロックギタリストだったという経歴を持った友人がいます。

その友人が酒の席で語った名言(迷言?)です。

ビールを飲むロックバンドの仲間たち

 

当時は演奏が乗って来ると客席から「そら、飲め~!!」とばかりにビールジョッキに入ったウィスキーがステージ上に並んだのだそうです。

それをメンバー全員が一気飲み。これでは手元が狂って変な音が出てしまいます・・・。

そういった時は軽く目を閉じ、ちょっと上を向いて首を左右に振るのだそうです。すると観客は、「お~っ。今のはアドリブか? 味な事やるね~っ」。

これには私、笑ってよいものやら、どうしたものやら。

 

すると続けて、「それでもごまかし切れない時はな、ニッコリ笑って隣にいるメンバーを指差すんだよ」。さすがにこれには笑わせてもらいました。

この話を、今年の正月に私の所属するバンドの新年会の席でご披露したところ、全員大爆笑。

その後に全員が。

「今度、使わせて頂きます!!」

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

調べてみたところ、「カラーレスガール」は、白野ほなみさんという方が書いた美大生が主人公のコミックでした。タイトルを目にした瞬間に直感的に購入した山下さんの気の若さにびっくりしました。

というか、ここの裏事情を今度機会があったときに問い詰めてみます。

 

下記は前回の山下さんの記事です。

記事:『おやじバンド奮戦記

 

では、今日はこのあたりで。

 

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数とは何か?【その2】

2020年8月14日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、一昨日、昨日と、かなり激しい雷雨でした。今日は今のところ、どうにか落ち着いているようです。

ほんとうに暑いですね。いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、大阪で当会の役員をされている作編曲家の渡辺さんから『数とは何か?』の第2回の寄稿をいただきましたので、ご紹介します。

 

前回の記事はこちらです。

『数とは何か?』:https://www.amorc.jp/blog/?p=2676

 

▽ ▽ ▽

数とは何か?(Vol.2)

~形而上学における数の概念~

渡辺篤紀

渡辺篤紀

 

前回は、「全体(1)」を「分割」するという考え方についてご説明しました。

今回は、さらにそれを掘り下げてみたいと思います。

 

■分割と周期 ~数が意味を持つとき~

「1、2、3、4…」と無限に続く数直線上の数字は、そのままでは、その数字自体にはあまり意味はありません。

そして、この数字自体も人間が作り出したものなので、単なるラベルであり、物を数えたりする(カウントする)場合には有用ですが、例えば「4」という数字には、通常はラベリングされた数字以上の意味はありません。

 

では、「数が意味を持つとき」とは、どのようなときでしょうか?

 

その重要な要素は、「周期」または「一単位」です。

言い方を変えると、時計のように使用する数字を「限る」とも言えます。

アンティークな懐中時計

 

たとえば、「12」という数字は、それだけでは「12」番目などの意味しかありませんが、「一年(12か月)」という「周期」または「一単位」が与えられたときにはじめて、「12」をはじめ、その約数、倍数などの数が意味を持ち始めます。

 

■ 一年の分割

一年の「12」か月を一つの周期とすると、「24」という数は2年(2周期)、「6」という数は半年でちょうど一年の「1/2(半期)」を意味し、「4」という数は「3」か月と合わせて四季を意味します。

そして、立春、立秋などをあらわす「二十四節気」というものがありますが、これは一年を「24」分割して、約「15」日ごとに気候などが変わる様をあらわしています。

 

とても不思議なことに、上記のようにある周期が設定されると、数直線上では単なるラベルとしての意味しか持たなかった「6」や「4」、「24」などの数字は、一年を「全体(1)」として「12分割(12か月)」した瞬間から、「意味のある数」として、まるで生命を宿しているかのように生き生きと躍動し始めます。

 

同じように、数直線上では「7」番目という意味くらいしか持たない「7」という数字は、創世記に記された「7日(一週間)」という周期が与えられると、「安息日(※1)」として、カレンダー上では毎週訪れる「土曜日」という意味を持ちます。

(※1)安息日の定義は、宗教や時代によっても変わりますが、例として、日曜日から始まるものとして、7番目の土曜日を「安息日」として例示しています。

 

そして、たとえば、神が6日で天地創造を終えて7日目に休んだことから、「7」という数字を「神(完全)」を象徴する数であると仮定した場合、6日目に人間を作ったことから、「6」という数字は「人間(不完全)」を象徴する数とすることもでき、人間は「6(不完全)」から「7(完全)」へと至る存在として意味づけることもできますが、これは、使用する数字を1~7までに限った場合において、それぞれの数に象徴としての役割を与えることができるということを意味しています。

 

しかし、もし仮に、天地創造に9日を要したとすれば、どうなるでしょうか?

その場合、安息日は10日目となり、一週間は10日を一単位として考えられ、神を象徴する数字も「10」となります。

その場合、「7」という数字は、先ほどとは打って変わり、途端にそれほど重要な数ではなくなってしまいます。

 

このように、純粋に数学的な意味からではなくても、ある周期を与えられることによって、単なる記号に過ぎなかった数字たちは、「意味のある数」として、それぞれある特定の意味を持ち始めますが、それらはすべて、「どんな周期の上で語られるか」ということが重要になります。

 

■なぜ360度?

通常、私たちは円を360度に分割して考えますが、これは古代バビロニアから始まったと考えられています。

「なぜ、10分割や100分割ではないのか?」と一度は疑問に思った方も多いと思います。

実は、円を何分割したとしても「全体(1)」としての円の本質自体は変わりませんが、360という数は様々なパターンで等分することができ、とても扱いやすい数なのです。

それは、言い換えると「約数が多い」とも言えます。

 

円を360等分すると、1/2、1/3、1/4、1/5、1/6、1/8、1/9、1/10など、多くのパターンで等分することができます。

そして、1から10までの数のうちで、割り切れない数は7だけとなります。

金属製の分度器

金属製の分度器

 

では、100等分した場合はどうでしょうか?

等分できるのは、1/2、1/4、1/5、1/10などとなり、360で等分した場合に比べて少なく、そして、1から10までの数のうち、整数で割り切れる数は2、4、5、10となり、あまり使い勝手はよくありません。

 

ですから、太古の昔から人間は、「円(全体)」を様々に分割したいと考え、そして、それに適した「360」という数で円を分割するアイデアを思いついたのではないでしょうか?

 

■細胞分裂? 細胞分割?

実は、人間などの生命の発生過程の初期においても「分割」するという行為が行われています。

下図は、細胞が「分裂」する過程をあらわしていますが、よく見ると、実は「分裂」というよりも、「全体(1)」が「分割」されているということが分かります。

まさしく、「全体(1)」が1/2、1/4、1/8、1/16などに「分割」されているのです。

ヒトの胚の初期発生

ヒトの胚の初期発生

 

そして、見方を変えれば、「細胞が分裂を繰り返して増殖」するのではなく、「全体(1)が大きくなりながら分割され続けている」ということもできます。

 

■弦の分割

では、音で考えてみましょう。

あるギターの弦をどこも押さえずに鳴らし(例:220Hz)、その弦のちょうど半分の場所を押さえて鳴らすとちょうど1オクターブ上の音(440Hz)が出ます。

同じように、その押さえた場所からちょうど半分の場所を押さえて鳴らすと、元の音よりも2オクターブ上の音(880Hz)が出ます。

 

同一の弦の上で考えると、下表のようになります。

最初の音(開放弦)      1/2の場所          1/4の場所          1/8の場所

220Hz  440Hz  880Hz  1760Hz

基音      1オクターブ上              2オクターブ上              3オクターブ上

 

弦の長さを1/2にするごとに1オクターブ高くなり、周波数はその2倍になります。

そして、この比率は、どんな音の高さからスタートしても変わりません。

そして、これは、両端を固定した弦を「全体(1)」として、それを「分割」するという行為によって異なる高さの音を出していると言うことができ、最初の音(開放弦)よりも低い音を出すことはできません。

バイオリンと真珠とバラ

 

さて、駆け足で例を見てきましたが、「全体(1)」として例に挙げたものはすべて、始点と終点がある「閉じた世界(有限)」であることにお気づきでしたでしょうか?

これは、始点と終点がない「開いた世界(無限)」では、周期を設定することができないため、現実的には均等に分割できないということでもあります。

 

では、次回は、この「閉じた世界(有限)」と「開いた世界(無限)」について考察してみたいと思います。

△ △ △

ふたたび本庄です。

奇しくも昨日、当会の通信講座の内容に関連して、楽器の音の高さの基準について質問をある方からいただきました。多少専門的になりますが、今回の話題に関わっていますので、調べたことを紹介します。

現在、世界中でオーケストラなどに広く用いられている調律の基準では、中央のド(C音)の上のラ(A音)が440ヘルツに定められています。この基準は1834年にドイツで決められたものでA440と呼ばれています。

しかし西洋の古い時代には、これよりもやや低い調律の基準が演奏で用いられることが多かったようです(日本の古い楽器も同様に、A440よりやや低い調律で作られているものが多いようです)。

 

バラ十字会の昔の資料を調べたところ、1秒に1回振動する超低周波を基音(開放弦)にして、渡辺さんが今回書かれていたのと同じ、1オクターブ上の倍音を求めるという操作が繰り返されていました。

これを8回繰り返すと256ヘルツの音が得られますが、これを中央のド(C音)に定めるという調律の方法があります。

 

計算してみたところ、この場合のA音は純正律では426.7ヘルツ(256*5/3)、平均律では430.5ヘルツ(256*2^0.75)とA440よりも少しだけ低くなります。

古い時代に、一秒がどれほど正確に定められていたのかは分かりませんが、もしかしたらこの基準が、昔は使われていたのかもしれません。

 

今回も、最後までお読みくださり、ありがとうございました。

またお付き合いください。

 

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瞑想のやり方

2020年8月7日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

全国の多くの場所と同じだと思いますが、東京板橋も、梅雨が明けたとたんに猛暑に見舞われています。

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、グーグルやインテル、ゴールドマン・サックス、P&Gなどの多くの大企業が社員研修にマインドフルネスという瞑想を取り入れてから、もう数年が経ちます。

その狙いは、瞑想のリラックス効果によってストレスを緩和したり、仕事の効率を向上したりしようということでした。そして、実際に望ましい効果を上げているようです。

庭園を見ながら瞑想する女性

 

別に仕事中ではなく休日でも、瞑想に取り組むのは楽しいことですし、健康にとっても心にとっても望ましいことです。

今は、リゾート地に出かけてのんびりと過ごすなどということも、なかなか難しいかもしれません。次の手軽な方法で、瞑想のリラックス感を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

1.椅子に座って、背筋を軽く伸ばします。両手の手のひらは膝かふとももに置きます。

2.呼吸をコントロールしようとせず、自然にまかせます。そして、入ってくる息、出ていく息、喉を通る空気の感触、胸の動きなど、呼吸という体の働きの全体に、緊張することなく、ただただ注意を集中します。

3.5分ほどが経ったら、体を少し揺すって、手を握ったり開いたりして、日常生活に戻ります。

 

ひとつも特別なところのない、とても簡単な行いです。しかし実際に行ってみると、ほとんどの方が、すぐに何か別のことを考えている自分に気づくことでしょう。

そのようなときは、別に自分を責めることなく、「雑念、雑念、もどります」と心の中で唱えて、呼吸へと注意を戻し、集中とリラックスとの両立を再び楽しんでください。

石と砂紋

 

私たちの心には、あちこちに飛び回るように活動する性質があります。しかし時として、スムーズにひとつのことに集中かつリラックスすることができ、びっくりするような高いレベルや効率で何かがなし遂げられることがあります。

スポーツや楽器の演奏を熱心な趣味にしている方は、そのような状態になることがしばしばあり、「ゾーンに入る」と呼ばれています。

 

瞑想のひとつの効用は、「ゾーンに入る」ための練習になることです。

先ほど説明した方法の瞑想を何回か練習すると、人によって差はありますが、ゾーンに入る喜びが感じられてくることと思います。

 

ただここで、2点だけアドバイスさせていただきたいことがあります。

ひとつは、メリハリをつけるということです。瞑想はダラダラと取り組むのではなく、時間を決めて、「さあやるぞ」と始めて、きっぱりと終わって日常生活に戻ることをお勧めします。

もし瞑想が初めてでしたら、最初は1回5分程度にして、一日に2回以上は行わないようにします。馴れてきたとしても、1回40分以上の瞑想はお勧めしません。

長時間行うと、瞑想は妄想のようなものに変ってしまいがちになり、ろくなことは起こりませんし、そもそも貴重な時間の無駄です。

夕焼けに向かって瞑想する女性

 

もうひとつのアドバイスは、すがすがしく貴い感じがするということを目安にするということです。

それは、瞑想とはある意味で、心を何かに同調させることだからです。心の世界には、同調することが望ましい対象もありますが、同調せずにやり過ごすべき対象もあります。

そして人間には、それを判別するための信頼に足る感覚が備わっています。それが、すがすがしく貴い感じがするということです。

この感覚を大切にしてください。

 

ですから極端な例ですが、あまり瞑想に慣れていない方が、たとえば、雑誌が乱雑に積まれ、食べ残しのカップラーメンが片付けられていないような机を前にして瞑想をするようなことは避けるべきです。

人間の心は、周囲の環境の影響を思いのほか受けがちだからです。

きちんと整理整頓された部屋とか、心地よい自然に囲まれた公園のベンチでも良いのですが、すがすがしい感じがする場所で瞑想するようにしてください。また、自分の部屋でしたら、何らかの小物を置いたりお香を焚いたりして貴い感じが演出できれば、瞑想にとってさらに望ましい環境になります。

京都 源光庵 悟りの窓・迷いの窓

 

さて、ゾーンに入ることはとても素晴らしい経験ですが、瞑想には別の効用もあります。

たとえば、あなたがお仕事や家庭で、なかなか解決できない難問を抱えているとします。

このような場合は呼吸に集中するのではなく、たとえば瞑想の時間を20分と決めたならば、前半の10分でその問題について徹底的に考えます。そして後半の10分は、考えることを止めて何かを待ち受けるようにします。

 

うまくいくと、思いも寄らなかったような解決策が、まるで天から降ってくるように思い浮かびます。

このテクニックは、芸術家の方が創作を行う準備にも用いられています。

 

以上、ご参考になりましたでしょうか。ただ、正直に言えば瞑想は、正しい指導を受けて行うのが最も望ましいことです。

もしあなたが、本格的に瞑想に取り組もうと考えているなら、ぜひ、信頼できる指導者を、慎重の上にも慎重に探すようにしてください。

宣伝になりますが、下記の当会の通信講座もあなたの選択肢のひとつに加えてください。入会して2ヵ月目には人間の意識の構造、3ヵ月目には瞑想の具体的な方法が解説されます。

 

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最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今日はこの辺りで。

 

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