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青春小説

2021年2月26日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

例年と同じように、早春のこの時期は寒暖の差が激しいですね。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人が、ちょっとギョッとする題名の青春小説についての文章を寄稿してくださいました。若い人たちの言葉では「アオハルっぽいストーリー」と言うのですね。ご紹介します。

▽ ▽ ▽

文芸作品を神秘学的に読み解く(26)

『君の膵臓をたべたい』 住野よる

森和久のポートレート

森 和久

 

私は書名を聞いて、「ホラーなの? そういうのはちょっと、好きじゃないんだよ」と、紹介してくれた生徒に返事をしました。膵臓は大切で、膵臓の病気は治りにくいと話していた時のことです。

「そう、膵臓の病気で治らないの。アオハルっぽいストーリー、結構流行ったよ」と説明され、アオハル(青春)の意味は分からなかったけれど、膵臓の病気というのが気になったのもあり、つまらなければやめるだけと思いながら読み始めました。

いわゆるBoy Meets Girlのライト・ノベルで、読み進むうちに自分が10代の頃の感じを思い出させてくれました。病気で余命1年未満の女子高校生と彼女の家族以外で、彼女の病気について知っているただ1人の男子高校生の物語です。

並んで歩く制服の高校生の男女

 

作品の冒頭を見てみましょう。

『クラスメイトであった山内桜良(やまうちさくら)の葬儀は、生前の彼女にはまるで似つかわしくない曇天の日にとり行われた。』

桜良は死んでしまいました。明るく活発な女子生徒だったと読者に知らされます。

対して、主人公の「僕」は友人など参列者が多いだろう葬式にも通夜にも行きませんでした。それは「僕」の唯一の友人は桜良だけで、かつ二人の関係を知っている大人もいないわけで、行かないという選択を全うできたのです。

この桜良と「僕」という正反対の高校生二人がどう関わり合って行くのかということがはじめに提示されています。私は文学少年の「僕」にシンパシーを募らせながら読み進めました。

全く友人も知人すらいない「僕」は桜良と交流していく中で、文学では得られなかった精神的成長を遂げていきます。そして生きている自分、肉体を持って生を全うしている自分を感じるようになります。では、それを見ていきましょう。

本とキャンドル

 

「僕」と同じ図書委員になった桜良は、本の整理なんかやらずにもっと死ぬ前にやるべきことをやったらいいのに、と言われこう答えます、『でも今、それをやってないじゃん。私も君も、もしかしたら明日死ぬかもしれないのにさ。そういう意味では私も君も変わんないよ、きっと。一日の価値は全部一緒なんだから、何をしたかの差なんかで私の今日の価値は変わらない。私は今日、楽しかったよ』。そうですよね。17歳の1日も80歳の1日も同じ重さのはずなのです。ましてや他人が判断することでもないですね。桜良は二人の関係を「仲良し」と表現しています。

桜良に好意を寄せる学級委員に殴られ、「僕」は学級委員のようには一途に桜良のことを考えてなかったことに思い当たり、偶然出会った「僕」よりも彼の方が桜良には相応しいのではないかと伝えます。

『違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、自分で選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ』、と桜良は答えます。そうです、偶然は必然なのです。すべてのことはそれぞれの選択によって成り立っているのです。だからこの日、二人は、桜良の言う「仲直り」をしたのです。

 

また、人気者の桜良に好意を寄せてくる男子も多かったようです。けれども、何人にも好きになられようとも、自分が好きな人に振り向いて貰えることこそ最も大切ということを桜良は判っていて、願っていたのです。

桜良に質問を1つ出来るチャンスを手にした「僕」は、臆病故に「僕」に対する桜良の気持ちを聞き出せません。代わりに口から出た質問は、『君にとって、生きるっていうのは、どういうこと?』でした。そこには桜良が死ぬということを受け入れられない「僕」の気持ちの表れがありました。桜良は答えます、『生きるってのはね。きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ』。「僕」の魂は揺らぎます。そして以前とは違う「僕」であることを自覚します。

いろんな面で正反対の二人は、磁石のN極とS極、色の補色同士のように惹かれ合い、補い合う関係です。「君の膵臓をたべたい」ということは、その人を自分の中で生き続けさせたいということ。共に生き、そして共に死を迎えたいとの願い。そのため桜良は「僕」を選び、「僕」はそれを悟ることが出来ました。

雨の日に窓の前で読書する女性

 

ところが、桜良をアクシデントが襲います。桜良は宣告されていた余命までをも生きることは出来ませんでした。

神秘学について、半ば茶化すように「神秘学の魔法を使って災難から逃れたり、事故を止めたり出来ないの?!」という人がいます。端的に言えば、できません。もちろん意識の有り様、特に人々の集合意識によって影響を与えることは出来ますけれども。また、クリスチャン・ベルナール前代表はこう述べています、「神秘家はレッスン(教訓)からの免除者ではありません。我々は学ぶことが少しばかり容易になることを知るのです」

花束

 

終盤、桜良は、なぜ桜が春に咲くのかについて、こう述べます、『教えてあげる。桜は散ってから、実(じつ)はその三ヶ月くらい後には次の花の芽をつけるんだよ。だけど、その芽は一度眠るの。暖かくなってくるのを待って、それから一気に咲く。つまり、桜は咲くべき時を待ってるんだよ。素敵じゃない?』 これは桜良の自分に照らし合わせた死生観であって、神秘学的にも輪廻転生に繋がるものでしょう。

 

この物語は各媒体で作品化(メディアミックス)されています。私は[コミック(漫画)-小説(途中まで)-実写版映画-小説(続きから最後まで)-アニメ映画]の順でみました。無粋ですが、各作品に個人的採点をしてみました。☆の数5点満点として、小説☆☆☆☆、コミック☆☆☆、アニメ映画☆☆、実写版映画☆です。皆さんの評価はいかがでしょうか。

△ △ △

ふたたび本庄です。

インターネットで調べてみたところ、『君の膵臓をたべたい』は2016年の本屋大賞で第2位になった作品でした。

 

森さんの紹介文を読んでいて思ったのですが、ある人生が突然終わりを迎えてしまうというストーリーは、無常というこの世の本質を私たちに突きつけてくれます。

それが、神秘学(mysticism:神秘哲学)などに取り組むきっかけになることもあります。

 

そのような作品として私が思い浮かべるのは、映画「ディア・ハンター」と石川達三さんの小説「僕たちの失敗」です。「僕たちの失敗」はTVドラマ化され、主題歌として用いられたのは五輪真弓さんの「落日のテーマ」でした。乾いたような無常を感じさせる素敵な曲でした。

いずれも古い話です。失礼しました。

 

下記は、森さんの前回の文章です。

記事:『大草原の小さな家

 

では、今日はこのあたりで。

また、お付き合いください。

 

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大地の母

2021年2月19日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

職場へと向かう道の途中に河津桜が2本あります。10日ほど前に開花したのですが、今日は快晴の空に多くの花が映えていました。

東北、北陸にお住まいの皆さんも、少しずつ春が近づいてきていることを、きっとお感じのことと思います。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、スイスの心理学者ユングは、世界中のさまざまな時代の神話や伝承には、とても良く似たエピソードがあったり、同じ性質のキャラクターが登場したりすることに注目しました。

そしてその説明として、人間の心は表層では個人個人に分かれているけれども、奥深くでは一緒になっていて「集合的無意識」というものを構成しているという説を唱えます。

この考え方は、現在では多くの研究者の支持を受け、ほぼ定説とされています。

集合的無意識の働きから生じる典型的なキャラクターには、老賢者、大地の母、永遠の少年と永遠の少女、トリックスター(いたずら者)などがあります。外国の物語にも、日本の物語にも、このようなキャラクターがよく登場することに、皆さんも思い当たるのではないでしょうか。

 

このうち今日は、大地の母を話題として取り上げたいと思います。

 

南フランスの南西部にトゥールーズという都市があります。13世紀にはすでに大学があった歴史の古い町で、バラ十字会の歴史にも深く関わっているのですが、町の南のガロンヌ川のほとりにはラ・ドラードと呼ばれる大聖堂があり、そこには黒い聖母が祭られています。

参考記事:「クレマンス・イゾール-バラ十字の黄金のイシス

 

十字軍の指導者であったシモン・ド・モンフォールは、ある女性の投げた石に当たって命を落としました。このことは、黒い聖母のおかげで起こったと言われています。

1944年には、ナチズムが早く終わるようにと、人々は黒い聖母に祈りをささげました。

黒い聖母に対する信仰は、10世紀まで遡ることができます。今日でも、安産のために黒い聖母に祈りが捧げられています。

 

12年ほど前に私も観光する機会に恵まれました。この写真はそのときに撮影した黒い聖母です。

ラ・ドラード大聖堂の黒い聖母像

ラ・ドラード大聖堂の黒い聖母像

ラ・ドラード大聖堂の黒い聖母像(拡大)

 

もともとここは、西ゴート族が大地の母なる神を祭っていた場所で、後にキリスト教の聖堂が建てられました。

つまり、古代に地母神として祭られていた神をキリスト教が取り入れ、黒い聖母への信仰が成立したのだと思われます。

 

フランスには、この一帯を中心として200体以上の黒いマリア像があり、世界中には450体の黒い聖母マリア像があると言われています。

日本でも、山形県の鶴岡カトリック教会天主堂に黒い聖母像が祭られています。

 

先ほどお話ししたように地母神は、集合的無意識の働きから現れるキャラクターのひとつですが、具体的には、大地の植物を育む力を人格化した女神です。地母神の像の遺物は、ヨーロッパでは旧石器時代の遺跡にも発見されています。

古代人は、植物が冬に枯れて春に再生することを生きものの繁殖と同一視したので、地母神はほとんどの場合、生物の繁殖をつかさどる神、安産や子育ての神にもなっています。

日本でも「縄文のビーナス」と呼ばれている土偶は、妊娠した姿で表されていることから、このような地母神のひとつなのではないかと推測されています。

縄文のビーナス(2018, 東京国立博物館ほか, 『特別展-縄文』より)

縄文のビーナス(2018, 東京国立博物館ほか, 『特別展-縄文』より)

 

古代ギリシャでは、デメテルという神が地母神にあたります。彼女は穀物の発芽をつかさどる神で、ペルセポネという娘がいました。ペルセポネが草原で花を摘んで遊んでいると、大地が突然割れてあの世の支配者であるハデスが現れ、ペルセポネを妻とするためにさらって行きました。デメテルは長い間娘を探し続けますが見つけることができず、深い悲しみの果てに、アテネのすぐ東にあった都市エレウシスの王の宮殿に姿を隠します。そのため穀物は発芽しなくなり、一帯が飢饉に襲われます。

ギリシャ神話の主神ゼウスは、人間たちを救おうとして、ペルセポネを解放するようにハデスに命じます。ところがハデスは計略を巡らし、ペルセポネがザクロの実を食べるように仕向けます。オリンポスのおきてによれば、ザクロの実を食べた女性はハデスと結婚しなくてはならないのでした。ゼウスは仲裁案を示し、ペルセポネは一年のうちの3ヵ月はあの世でハデスと過ごし、残りの9ヵ月は地上でデメテルと過ごすことになります。

このときから、地上では冬の3ヵ月の間には植物が育たないことになりました。

 

女神デメテルへの信仰は、もともとは当時の農村の人たちが行っていた、穀物の収穫を感謝するお祭りでした。しかしこのお祭りは都市国家の宗教儀式として発展し、女神デメテルとペルセポネに感謝するイベントは壮大な国家規模の祝祭になります。

一方でこの祝祭には別の側面があります。エレウシスで活動していた神秘学派があり、この神秘学派は、デメテルとペルセポネの逸話から作られた儀式を、自分たちの神秘学派に入会した人たちに秘密の教えを伝える手段として用いていました。これから説明するように、この手法はほぼ確実なことですが、古代エジプトから伝えられたものです。

実は神秘学(神秘哲学:mysticism)という言葉そのものも、このことに語源があります。エレウシス神秘学派の研究者カール・ケレーニイ(Carl Kerenyi)によれば、ミステリア(mysteria)というギリシャ語は、「そこで、秘密が伝えられた祝祭」を意味します。

ハドリアヌス帝によって建設されたエレウシスの聖域への入り口

ハドリアヌス帝によって建設されたエレウシスの聖域への入り口

 

古代エジプトでは女神イシスが地母神にあたります。イシスは自然界の象徴であり、すべてを育むものとされていました。イシスの夫は創造神であるオシリスでした。オシリスにはセトという弟がいましたが、セトはオシリスの地位に嫉妬し、計略を巡らしてオシリスを殺害します。セトはオシリスの遺体を14の断片にした後に、エジプトのさまざまな場所にばらまきます。女神イシスは長い間探し続け、オシリスの遺体のうち13の断片を見つけ、その体をまとめて復活させます。イシスとオシリスは再び一緒になり、ホルスという息子をもうけます。

エジプトの神秘学派では、死と再生にまつわるこの物語が密儀(集団の構成員にしか公開されない儀式)になり、学派内の人たちのために用いられていました。

 

古代インドにはハリーティー(Hariti)という地母神がいました。言い伝えによれば彼女には500人の子供がいて、人間の子供をつかまえては食べ物として与え養っていました。お釈迦さまはこの話を聞き、ハリーティーの末子プリヤンカラを誘拐して隠しました。

ハリーティーは長いこと子供を探し、悩み悲しみ、お釈迦さまに相談したところ、人間の子供に対する愛も自分の子供に対する子供への愛と同じことを悟り、仏教に帰依したとされます。中国、日本でもハリーティーは広く信仰されていて、日本では鬼子母神(きしぼじん、きしもじん)という名で、安産と子育ての神とされています。

鬼子母神の像は手に吉祥果を持つ天女として表されますが、吉祥果とは一説にはザクロの一種だとされます。

雑司ヶ谷、鬼子母神堂本堂

雑司ヶ谷、鬼子母神堂本堂

 

以上のような地母神の逸話を調べていて、似た点が多いことに改めて驚きました。大切な誰かが隠されてしまうこと、長年の探索が行われること、取り戻されること、そしてザクロが登場することなどです。

 

さて、これらの神話、言い伝えにはどのような現代的意義があるでしょうか。

これらは古代の呪術と深く関わっていました。たとえばエレウシスの祝祭では、男と女の生殖器にかたどった菓子を焼き食べたりすることによって、植物を育てる大地の力を促す呪術が行われていました。それは類感呪術もしくは模倣呪術と呼ばれますが、明らかに迷信の一種です。

類感呪術の別の例としては、穴の開いた容器に水を入れて大地にまき散らすことによって、雨ごいをすることなどが挙げられます。

地震、火山の爆発、天候の不順などの自然界の猛威を前にして、風に吹き散らされる木の葉のように生きていた古代人にとっては、このような呪術が心の大きな慰めだったことは容易に想像することができます。しかし明らかに、現代人の私たちにとってこのような呪術は何の意味も持ちません。

一方で、古代の祝祭と同じように現代のお祭りにも、私たちの心の奥に影響を与える別の強い力があるように私には感じられます。収穫祭、秋のお祭りによって私たちは、自然界に対する畏れと感謝を心の奥底に育んでいるのではないでしょうか。

科学があまりにも発達し、多くの人の価値観を規定している現代の社会では、季節の巡りを記念したりするさまざまな行事が軽視されがちですが、エコロジーと深層心理という観点から見たとき、これらには見直すべき価値があるように思います。

 

いかがでしたでしょうか。今回の話題を、人の心の不思議さに思いを馳せるきっかけにしていただければ、とても嬉しく思います。

 

下記は前回の私の文章です。

参考記事:『自分とは何か

 

では、今回はこの辺りで。

またお付き合いください。

 

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右向け左

2021年2月12日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、少しずつ春が感じられるようになってきました。梅や河津桜も開き、バラの新芽も伸びています。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

山形県にお住まいの私の友人から、右利きと左利きにまつわる文章を寄稿していただきましたので、ご紹介します。

▽ ▽ ▽

記事:『右向け~っ、左!!』

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

『右向け~っ、左!!』これエッセイ集のタイトルなのです。副題が『人と同じでなくっていいじゃない、自分らしく行こう』となっています。去年の夏に新刊本の案内記事で見つけたのです。

このユニークなタイトルと著者名に導かれ、何も考えずに行き付けの本屋さんに直行。真っ先にエッセイのコーナーに。すると、あったありました。すぐに『他の誰かに買われてたまるか』、とばかりに内容の確認もせずに即、購入。

著者は水森亜土さん。そしてプロフィールの紹介が『イラストレーター・画家・歌手・舞台女優』となってます。

 

私と水森亜土さんのイラストの出会いはン十年前のことになります。ある年の二月十四日に貰ったチョコレートのパッケージに亜土さんのイラストが描かれていたのです。チョコレートは食べてしまいましたが、パッケージだけは一生涯保管する予定……だったのですが、予定とは変更の二文字を包有する、といった不変の法則(?)が発現。

つまり、チョコの送り主との縁は切れてしまったと……。ところが、どうしたことか亜土さんのイラストとは今でも縁が繋がっているという(?)。

さて、気を取り直して本題に入りましょう(笑)。

 

超が付くほどのユニークな家族に囲まれての子供時代の話に始まり。両手を使って絵を描くパフォーマンスは某テレビ局のオーディションを受けた際に苦し紛れに両手で絵が描けますと言ってしまったことがきっかけだったといった話。

実は亜土さんは子供の時に左利きを右利きに矯正したので両手利きなのですが、絵を描くのは左手、文字を書くのは右手だったので右手で絵を描く猛特訓をやったのだそうです。人間、必要に迫られると色んなことができるようになるものですね。

左手で習字をする少年

 

楽しい話としては、一月を二万円で暮らしているという「下田の仙人」と呼ばれている友の話(本当の幸せって何?と考えさせられます)。

『右向け~っ、左!!』を絵に描いたような亜土さんのお母さん・お義母さんの思い出話も愉快・痛快です。ちなみに亜土さんのお母さん、江戸っ子としての意地だったんでしょうね、「子供の世話はしても、子供の世話にはなるもんか」が口癖だったとか。そして、その通りの見事な旅立ちだったそうです(私もそうありたいですね)。

 

こういった楽しくも愉快なエッセイが亜土さんのイラストと共に100篇収められています。

そして、本の最後のコーナーに歌手の石井好子さんの『亜土ちゃんについて』といったエッセイが載っているのですが、これも亜土さんのエッセイに負けず劣らず愉快・痛快。亜土さんの人となりが見事に描かれています。これは一読の価値ありです。

金魚を捕ろうとしている左利きのネコ

 

最後になりましたが私が亜土さんのイラストを好む最大の理由はイラストのバックに暖かな心地好い音楽の存在を感じているからです。

それが童謡であったり、ゆったりとしたジャズ・ボーカルであったり。

作品によっては、自由奔放なフリー・ジャズが聞こえてくるものもあったりと実に多彩で見飽きることがありません。

コロナ禍で自由に出歩くことが難しい現在、こういった本と付き合ってみるのも一興かと思っています。

 

ところで、最近は暗いニュースばかりですね。そこで今回は右・左をテーマにした笑い話をおまけに書いてみました。

タイトルは『タクシー・ドライバーの意地』です。

昔、友人達との酒の席で聴いた笑い話です。

※ ※ ※

したたかに酔った男性が客待ちのタクシーに乗り込んできました。どっこいしょとリヤシートに座り込むやいなや「俺の家までやってくれ~!!」

時たまいるんだそうです、こういった客が。それでも運転手さん、ぐっとこらえて。

「お客さん、それじゃ困りますよ、どちらまでですか、ご住所は?」

「そ~か。それじゃオレの言う通りの道順に行ってくれ、先ずはこの道を真っすぐ~!!」

何とも横柄な客を乗せてしまったなと思ったのですが降りてくれとも言えません。渋々車をスタートさせました。真っすぐ進むと道は十字路の交差点に差し掛かりました。

「お客さ~ん、この先十字路の交差点になりますけど、真っすぐに行きますか、右ですか、それとも左ですか~?」

すると「お~、そこの交差点はメシ食う時に箸持つ方向に曲がれ~」

すると運転手さんニッコリ笑って「はい了解しました~。それでは左折しま~す」。

左折と聞いて驚いたお客さん「おいおい運転手さん、これじゃ方向が逆だよ、右だ右、ここは右折だよ、箸を持つって言ったら右だろ~に!!」

すると運転手さん、すました顔で「すみませんね~お客さん、わたしゃ左利きなもんで・・・」。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

左利きについてインターネットで少し調べてみました。国や時代にかかわらず8~15%の人が左利きで、まだその原因は分っていないとのことです。

私も小さい頃左利きでした。今でも、パソコンのマウスの操作をどちらの手でもできるなど、時おり便利に感じることがあります。

 

下記は前回の山下さんの記事です。

記事:『陰陽師

 

では、今日はこのあたりで

また、お付き合いください。

 

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愛へのお手紙~その3

2021年2月5日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。いかがお過ごしでしょうか。

 

東京板橋には、いよいよ、春の気配が近づいてきました。サクラソウや梅が咲いています。

そちらはいかがでしょうか。

 

今回は、当会のフランス代表が書いた『愛へのお手紙』の最終回です。前回、前々回は下記で読むことができます。

参考記事:

愛へのお手紙」(その1)

愛へのお手紙」(その2)

 

▽ ▽ ▽

記事:「愛へのお手紙」(その3)

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

ご存じのように多くの哲学者と思想家が、人と人が互いに愛し合うことを勧めています。このことを最も強調したのはイエスであることに間違いはありません。というのも彼は、自分の敵であっても愛せよと語ったからです。

しかし、そうすることを望んだとしても、私たちの中の一体誰が、そのようなことを本当にできると言うのでしょうか。聡明であり善意を持っていれば、そんなことができると言うのでしょうか。いえ、私たちにできるのは誰も憎まないということです。このように考えると、完全に永遠に憎しみを持たないと言うことは、消極的ではあるけれども愛のひとつの形であるように私には思えます。

もし互いに憎しみ合う人がひとりもいないとしたら、世界はどれほど素晴らしい場所になるかを想像してみてください。このような期待は、実現することのないユートピアのようなものであるのかもしれませんが。

しかしこの場合も、この目標に向かって人が努力できるようにするのは教育の役割です。子供に寛容の心を育み、肌の色が異なっていたり、国や文化が違っていたり、考えや信念や、生活スタイルや理想が異なっていたとしても、それが理由で他の人を決して憎まないことを子供に教えるということが教育に含まれるべきです。

読書している2人の女の子

 

すべての人を愛することは不可能だとしても、人類を愛するように努力することができます。私たちはいわば人類という体の細胞であり、この体は70億個の細胞からできています。この体は集合意識を持ち、それはすべての個人の意識が結びついて構成されています。

個人の意識は人類全体の意識に影響を与えますし、人類全体の意識は個人の意識に影響を与えます。この相互作用が有益なものであり、すべての人の幸せに役立つことを私たちが望むならば、人間関係は憎しみでなく愛に基づかなければなりませんし、悪意でなく善意に基づかなければなりません。

心理学者のカール・グスタフ・ユングは、これと同じ「集合的無意識」という観念を提唱しました。集合的無意識が肯定的にも否定的にも個人の無意識に影響し、また個人の無意識が集合的無意識に影響し、それが望ましいものになるかそうでないかは、ひとりひとりの人が日常的に抱いている思いの性質に左右されると彼は考えました。

仲の良い犬と猫

 

例外はありますが、多くの場合、血のつながった兄弟姉妹は互いに愛情を持ちます。なぜでしょうか。それは母や父が同じであるという血縁関係によって、多かれ少なかれ意識的にお互いを尊重し助け合うからです。

そして、すべての人間は大部分の遺伝情報が同じであり、血管の中を流れている血もほとんど同じなので、突き詰めて言えば兄弟姉妹だと言うことができます。また、母なる地球に生存を支えられているということもすべての人に共通しています。このことを念頭に置いているだけでも、愛し合うとまではいかなくても、すべての人が少なくとも互いに尊重するのには十分ではないでしょうか。

また、あらゆる人と人の間にはさらに深い絆があります。個人の魂は、普遍的な魂(Universal Soul:宇宙の魂)から生じたものなので、すべての人はソウルメイトです。それゆえにすべての人は、生物学的な意味だけでなく、スピリチュアルな意味でもひとつの家族です。このことは、人と人が親密な関係を維持すべきであり、憎んだり恨みや悪意を持ったりすることや、より広く言えば互いを傷つけようとする望みのすべてを拒絶すべき、もう一つの理由です。

壮年の女性のバス乗車を助ける女の子

 

さて、自然への愛を取り上げましょう。それは、“自然”に湧き上がってきます。自然を愛することは、受け身ではなく活動であるべきだと私は思います。たとえば、自然に対して敬意を示す行動をすること、自然保護の活動に関わること、自然と共同で作業をすることなどです。

しかし誰もが知っているように、私たち人類の調和を欠いた行動によって、地球が傷つけられています。私たちの星は、もがき苦しんでいるとまではいえないまでも、かなりひどい状態にあります。実際のところ、まるで人間は、地球に対して無知な暴君のように振る舞うようになったとさえ言えるかもしれません。

ですから、長い間地球に人類が科してきた不調和を解消しようとして、地球が時として荒々しい反作用を示したとしても、それは驚くべきことではありません。

もし地球の回復をもたらすような意図的な行動が何も行われなければ、そう遠くない将来、数億人の命が脅かされる危険がありますし、もしかしたら人類全体の存続さえ脅かされるかもしれません。地球が、母なる大地としての尊敬を受けてきた日々は、遠い過去となってしまったようです。私たちが、地球を愛することを学び直し、環境問題に常に配慮を払うことがこれほど重要になったことは、いまだかつてありません。

 

全体として人類は地球を尊重していませんが、多くの人が自然を愛しています。それは、水、ミネラル、微量元素など大地に由来する要素で人の体が構成されているという意味で、地球がすべての人にとって母にあたるからでしょう。人間の中の最も貴重な部分である魂についても同じで、人間の魂と地球の魂は不可分です。

私たち自身が気づいているかいないかにかかわらず、地球と人の間には、生物学的にもスピリチュアルな意味でも、極めて深い絆があり、それゆえに人間にとって地球に愛を感じるのは極めて自然なことです。日暮れの美しさ、渡り鳥たちの編隊、巨木、散りばめられたように花が咲いている野原に心を動かされたことが一度もなかった人がいるでしょうか。

このようなときに私たちが感じているものは、客観的な感覚も思考もはるかに超越しているので、その感情を言葉で表現したり、他の人に伝えたりするのは極めて難しいことです。

日暮れの海岸とヤシの木

 

人間の最も貴い部分である魂は、自然界の魂と不可分であると同時に、宇宙の魂(Universal Soul)とも不可分です。それゆえに愛とは、万物に内在する普遍的な力だと推測することができます。

このことから考えると、さまざまな宗教で語られているように、宇宙の創造それ自体の源泉は、ある創造者の愛なのではないでしょうか。何らかの宗教を信じている人の多くは「そうです」と答えるでしょうし、無神論者は「いいえ」と答えることでしょう。

しかし確かに私たちは、満天の星空をじっと見つめたとき、無限の宇宙に“引き寄せられる”ように感じ、まさにこのような瞬間に、ビクトル・ユーゴが次のように述べた感情を体験するのではないでしょうか。「何か偉大なものが、私たちに耳を傾け、私たちを愛している?」。

興味深いことに古代ギリシャの哲学者たちは、このお手紙の最初に話題にしたアガペ(Agape:精神的な愛)が、「至高の善」(Supreme Good)を意味するアガソス(Agathos)と不可分であると考えていました。

 

友愛の思いとともに、皆様のご多幸をお祈り申し上げます

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

3回にわたって、セルジュ・ツーサンの「愛へのお手紙」をご紹介してきました。

最後に話題になりましたが、皆さんが満天の星空を最後に見たのはいつのことでしょうか。私は、湯西川温泉で露店風呂から見た夜空が最後で、もうそれから7年ほどが経ちました。

コロナ禍の時期が過ぎたら、のんびりゆっくりと旅を楽しみたいと、もしかしたら皆さんもお考えではないでしょうか。

 

では、今日はこのあたりで。

また、よろしくお付き合いください。

 

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愛へのお手紙~その2

2021年1月29日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。いかがお過ごしでしょうか。

昨日は東京板橋にも雪がうっすらと積もりました。春が待ち遠しいですね。日本海側はこれから暴風雪とのことです。くれぐれもお気を付けください。

 

今回も引き続き、当会のフランス代表が書いた『愛へのお手紙』の紹介をさせていただきます。前回をまだ呼んでいない方は、できれば下記を先にお読みください。

参考記事:「愛へのお手紙」(その1)

 

▽ ▽ ▽

記事:「愛へのお手紙」(その2)

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

では、人間に働いている「引き寄せの法則」とはどのようなものでしょうか。生理学的にいえば、人間は発達した動物にあたるので、生殖の必要と欲求にはこの法則が物質的な愛(エロス:Eros)として表れています。

しかし人間は感情面での愛(フィリア:Philia)も感じ、必要とし、愛し愛されること誰もが望んでいます。人種や文化や国籍や、人の表面上の差異を作り出している他のあらゆる要素とは無関係に、男性にも女性にも子供にも大人にも、この2つの種類の愛を見てとることができます。

人類の歴史の始まりから地球の人口が70億人以上に達した現在まで、このことに変わりはありません。本能的で生まれたときから持っている性的な愛と感情的な愛への欲求がもし存在しなければ、人類は存続することなく滅びていたことでしょう。

 

しかし人間のことを、体と脳だけから生じる一連の働きによって単に活動させられている生きものであると見なすことはできません。人間には魂(soul:魂)という要素が備わっており、その主な働きは最も高度な愛(agape:アガペー)を発揮することです。

性的な愛や感情的な愛をはるかに超えた愛を他の人に感じることは、人に宿る魂の作用に他なりません。人間は魂の働きによって、同情、共感、思いやりを心の底から感じることができます。

友情についても同じです。有名な人に対しても無名な人に対しても分け隔てなく常に友情を示す人を私たちの誰もが知っています。あなた自身も友情を日々感じていることでしょうし、そのときは必ず心地良い幸せを一緒に感じ、自分の心の深いところにある性質が表れていると感じるのではないでしょうか。

なぜならそのときあなたは、神聖という言葉を使わないとしても、自身の貴い、最良の部分を表現しているからです。

 

もしすべての人が共通に愛し愛されることを望んでいるのだとしたら、なぜ人類はあらゆる時代に、互いに殺し合ったり戦ったり、搾取したりしてきたのかという疑問が生じることでしょう。また、人間が互いにひどく憎しんだり、他の仲間に残酷な仕打ちをしたりすることができることは、どのように説明できるのでしょうか。

その答えは自由意志にあります。動物の中で最も発達した人間だけが自由意志を持ち、そのため人間は愛という法則に反して、最も原始的な本能を解き放つことができます。そのとき、人間の性質の中の最も否定的な部分が表され、他の人に敵対する思考と発言と行動が生じます。

このことが意味しているのは、一人一人の人の心の奥には愛という長所が必ず備わっているけれども、人間はそれを目覚めさせて、判断と行動を通して外に表さなければならないということです。そうしなければ、愛し愛されることを必要としているという人間本来の性質も、愛し愛されたいというという欲求も結局は隠れたままになってしまいます。

 

さまざまな哲学者と同じようにバラ十字会員の多くも、人間は本来、善良な存在だと考えています。その理由はまさに、人間は魂を持ち魂の本質は愛だからです。

子供を育てた経験のある方でしたら、子供たちが何も教えられなくても、苦しんでいる人や困っている人に自然に思いやりを示すのをご存知のことでしょう。また子供たちは、苦しんでいる動物に同情を感じて自発的に助けようとします。

しかし成長するにつれて、発達するエゴの影響によって、時として他の子供とけんかをしたり意地悪をしたりするようになります。そのようなことが起ったとき、私たちは子供をなだめ仲裁して、彼らの心が調和を取り戻す手助けをすることができます。

このように、保護者の教育には欠くことのできない役割があります。自分と他の人たちを愛する心、動物と、より広く言えば自然を愛する心を子供の中に育むことは保護者の責任です。このことは、子供を愛しその愛を子供に伝えている場合にだけなし遂げることができます。

ゴールデンレッドリバーを抱擁している女の子

 

先ほど「自分を愛する心」と述べましたが、それは具体的には何を意味するのでしょうか。明らかなことですが、自分の姿に恋をしたナルキッソス(訳注)のように、自己中心的に自分だけを愛することを意味してはいません。必要なのは自分を知ることであり、長所と短所、強さと弱点、知識と無知など、あるがままの自分の姿に向き合うことです。自分を愛さないとしても、少なくとも私たちは、実際の自分を受け入れなくてはなりません。

訳注:ナルキッソス(Narcissus):ギリシャ神話に登場する美青年。あまりにも美しかったため、失恋したニンフのひとりであるエコーが憔悴して声だけの存在になってしまい、神々の怒りを買った。その罰として泉に映った自分の姿に恋をし、その場を離れられなくなって死に、水仙に変わった。

水仙

 

実際の自分を受け入れることは、いつも簡単なわけではありません。とりわけ現代のように、社会があらゆる場面で、身体や顔の美しさを称賛することを重視している状況では、ありのままの自分を受け入れることが困難になりがちです。現代社会ではファッションという現象とともに、身体や顔の美しさが特に強調されていますが、実際のところそこには主観的な基準しかありません。

もし人類が望ましい成熟を遂げたならば、身体や顔は、内面的な美しさのためのショーケースと見なされる日が訪れることでしょう。内面的な美しさは、魂そのものから発しているので失われることがありません。「美しい人」のことが語られるのではなく「美しい魂」、つまり善意、不執着、寛容、正直などの意味での徳の高い人のことが語られる時代が訪れることになるでしょう。

女性を撮影するカメラマンたち

 

次に「他の人たちを愛する」ということについて考えてみましょう。ひとつにはそれは、仲間と一緒にいる時間を楽しむことです。多くの場合、一緒に過ごすのは親類や家族や親密なパートナーであることでしょう。相手に欠点、弱さ、弱点があったとしても、これら親しい人への愛情が妨げられることはありません。そして、彼らの長所、強さ、知識などが、その人を尊敬する理由になります。

親しい人は人生の一部だと言われることがありますが、それだけでなく自分の一部だとさえ感じられます。ですから長いこと会えなければ寂しさを感じますし、その人が病気になったり事故に遭ったり、心身をすり減らすような困難に直面したりしているときには、自分のことのように心が痛みます。もしその人が亡くなったときには、もう会えないという思いから、満たすことが困難な空しさが生じます。

 

しかし、他の人を愛するということは人間にとって自然で普通のことであり、愛する対象は親しい人に限られる訳ではなく、家族ではなく同郷でもなく、宗教や住む国や肌の色や、好みや興味や政治的立場が異なる人たちなど、本来愛する理由が特にない人たちにまで広がっていきます。

このような場合に私たちは世界の住人として、ハリール・ジブラーンの次の美しい言葉に沿うようにふるまっています。「地球は私の故郷であり、人類は私の家族です」。

手短に言えば、それは心の底からヒューマニスト(humanist:人間を尊重する人)であることであり、バラ十字会員や他の神秘家が「普遍的な愛」と呼んでいるものを育むことにあたります。しかし認めなければなりませんが、普遍的な愛を育むのは簡単なことではありません。

(その3に続く)

地球儀と先生と子供

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

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ふたたび本庄です。

 

文中に紹介されていたレバノンの詩人ハリール・ジブラーンですが、彼の書いた『預言者』という本があります。心が洗われるような美しい内容で、何度も読み返したことがあります。

今回初めて知ったのですが、『預言者』はアニメーション映画にもなっていました。原作の書籍があまりにも素晴らしいのでイメージが壊されないか少し不安なのですが、今週末に見てみようかとも思っています。

ご参考まで。

 

では、今日はこのあたりで。

また、よろしくお付き合いください。

 

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