公式ブログ

音楽の聖人チェチリア(前半)

2019年9月27日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

湿度が下がって、すっかり過ごしやすくなりました。東京板橋ではヒガンバナも咲き始めました。

いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、先月ローマに出張したのですが、そのときに少しだけ市内観光ができました。特に目を惹いたのは、壮麗な教会の多さでした。私はキリスト教徒ではないのですが、教会見学をして、その歴史を感じるのが好きです。

今回も何ヵ所か訪れることができたのですが、その中でも特に興味深かったトラステヴェレ地区のサンタ・チェチリア教会を、撮影した写真と一緒に紹介させていただきたいと思います。

 

ご存じの方も多いと思いますが、ローマにはテヴェレという名の川が、おおむね北から南に蛇行しながら流れ、最後には地中海(ティレニア海)に注いでいます。この川がバチカン市国の横を通り過ぎて、ほんの1キロほど先の西側にトラステヴェレがあります。

ローマの中心地はこの川の東側にあたり、トラステヴェレは「テヴェレ川の向こう側」を意味します。

この事情は、浅草で隅田川の東側が「川向こう」と言われるのとまったく同じで、ローマの下町を指しています。

 

ここにはパラティーノという大きな橋がかかっていて、トラステヴェレの対岸には、映画『ローマの休日』で有名になった、「真実の口」があります。嘘つきが手を入れると噛(か)み切られるという言い伝えのある、口を開けた怖い顔の石の彫刻です。また、やはり対岸には、マルタ騎士団の団長の館があります(写真1)。(記事中の画像はいずれもクリックで拡大できます)

テヴェレ川から見たマルタ騎士団長の館

写真1:テヴェレ川から見たマルタ騎士団長の館。末広十字が見えている

 

トラステヴェレを訪れた最大の理由は、サンタ・チェチリア教会を見学することでした。この教会のあるあたりは、最寄りの駅からも大通りからも少し離れていて静かです。着いたのは平日のお昼前頃で、観光客も少なく、ゆっくりと見ることができました。

 

現地に着くとまず、落ち着いた統一感のあるデザインの中庭が目に飛び込んできました。芝生が美しく手入れされ、薄紫色のブーゲンビリアと、やはり紫色のムクゲの花が咲いていました。教会の正面は改装され現代的ですが、右手にそびえている鐘楼は12世紀に建てられたものとのことです(写真2)。

サンタ・チェチリア教会

写真2:サンタ・チェチリア教会(記事中の画像はいずれもクリックで拡大できます)

 

しかし、12世紀どころか、この教会にはとても古い歴史があります…

 

サンタ・チェチリア教会は、その名の通り、聖チェチリアという聖人を称える教会です。聖チェチリア(イタリア語ではSanta Cecilia、ラテン語ではSancta Caecilia)は、英語読みでは聖セシリア(Saint Cecilia)となります。彼女は自身の婚礼で、楽器を奏でながらイエス・キリストへの思いを歌ったという言い伝えがあり、音楽の守護聖人とされています。世界的に有名な聖人で、この名の付けられた学校がイタリア、米国、日本などにあります。彼女の祝日(11月22日)のミサのための音楽や彼女を讃える音楽を、ヘンデルやリストなどの名だたる音楽家が作っています。

 

チェチリアの聖人伝によれば、彼女は西暦2世紀ごろのローマ帝国の貴族でしたが、キリスト教を信仰していました。キリスト教がローマ帝国に公認されるのは、西暦4世紀の初めなので、この当時は異端の宗教でした。

ですからもちろん、当時教会のような表立った建物はなく、信者は、仲間の中でも裕福な人の家に集まり、通常はその家の地下の一室で密かにキリストと神を崇拝していました。

このサンタ・チェチリア教会の地下にあるローマ時代の遺構は、そのような初期キリスト教徒の家のひとつです。一説には、ここにチェチリアが住んでいたのだとされています。

 

教会に入ってすぐ左手には売店があり、そこの脇にある入り口から、地下にあるローマ時代の遺構とクリプト(納体堂)に入ることができます。

まず遺構に入ってみました。かび臭い土の臭いが少ししますが、1700年も前の初期キリスト教の人たちの家の遺構だと思うと、神妙な気分になります。(写真3)

ローマ時代の遺構

写真3:ローマ時代の遺構

 

銘板が展示されていて、その下部にギリシャ文字で「ΙΘ」と刻まれていました(写真4)。初期キリスト教は、「魚」を意味するギリシャ語の「イクトュス」(ΙΧΘΥΣ)を、秘密のシンボルとして用いていたそうです。この語の中の「Ι」は「イエス」(ΙΗΣΟΥΣ)、「Θ」は神(ΘΕΟΣ)を意味しています。イタリア語の解説が読めなかったので確実ではないのですが、銘板の2文字は「イエス」と「神」を表し、キリスト教の信仰を示す暗号だったようです。

もうひとつの板には、太陽のような図形と、草花のような文様が描かれていました(写真5)。

初期キリスト教徒の残した銘板

写真4:初期キリスト教徒の残した銘板

 

初期キリスト教徒の残した文様

写真5:初期キリスト教徒の残した文様

 

クリプトは、教会の地上部分にある祭壇の真下に位置しており、聖チェチリア(聖セシリア)と夫である聖ワレリアヌスの聖遺物が納められている場所です。また、聖チェチリアと聖アガタと聖アグネスの美しいモザイク画があります(写真6)。

聖チェチリア(聖セシリア)のモザイク画

写真6:聖チェチリア(聖セシリア)のモザイク画

 

写真を見ていただければお分かりになることと思いますが、この場所の柱とアーチと床はモザイクで装飾された大理石で、息を呑むほど素晴らしいものです(写真7)。この装飾はコスマーティ様式(cosmatesque)と呼ばれる、ビザンチン様式から派生した、主に中世ローマで用いられた室内装飾です。このクリプトは20世紀の初めに造り直されたものだとのことです。

教会地下のクリプト(納体堂)

写真7:教会地下のクリプト(記事中の画像はいずれもクリックで拡大できます)

 

そのときクリプトを見学していたのは、私たちの他には研究家だと思われる2人だけで(ルーペで熱心にモザイクを調査していました)、静かにこの場所の雰囲気を味わうことができました。

 

この教会の玄関の上には、13世紀末に作られたという、古いフレスコ画『最後の審判』が残されています。このフレスコ画は残念ながら撮影禁止だったので写真をお見せすることはできないのですが、見学していると幸運なことに、ミサの準備でしょうか、本堂のパイプオルガンの試し弾きが始まりました。

運良く録音することができました。音質はそれほど良くなく、機械音が混じってしまっているのですが、何と言っても、音楽の守護聖人の教会のパイプオルガンです! ご興味のある方は聴いてみてください。

 

この教会の名前は、イタリア語では『Basilica di Santa Cecilia in Trastevere』となります。最初のバシリカ(Basilica:聖堂)という語は、今でこそ教会の格付けを表しますが、もともとは古代ローマの集会所のことでした。

 

バシリカには興味深い話があるのですが、少し長くなりましたので、今回はこの辺りにして、次回はこのバシリカの話と、サンタ・チェチリア教会の本堂の様子を、やはり写真を交えながらお伝えしたいと思います。

 

私にはキリスト教の信仰はありませんが、ローマの町はずれにある、歴史と多くの人々の思いが積み重なったこの場所には、不思議な安らぎと静けさを感じました。

その雰囲気を、皆さんにも少しでもお感じいただけたなら、嬉しく思います。

 

また、お付き合いください。

(この記事の後半は、こちら古代ローマのバシリカと音楽の聖人』で読むことができます。)

 

追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。

 


伝統こけしと暮らした日々

2019年9月12日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

千葉にお住いの方々は、台風でたいへんな思いをなさっていることと思います。

どうか、体調など崩されないように、くれぐれもお気を付けください。

 

山形県にお住まいの、私の友人の山下さんに寄稿をお願いしたところ、40年以上にわたる思い出についてのエッセーをお届けくださいました。

▽ ▽ ▽

記事:『伝統こけしと暮らした日々』

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

こけ女(じょ)という言葉をご存知でしょうか? 女性のこけしマニアの方々をこう呼ぶのだそうです。実は私もこけしマニアと呼ばれる輩(やから)の一員なのです。ところで…、男性の場合はなんと呼ぶのでしょうか…?(笑)。

 

さて、私が伝統こけしの世界に足を踏み入れたのはもう四十数年も前のことになります。カミさんと二人で美味いと評判の蕎麦屋さんに行った時のことがきっかけとなりました。

店の壁に『全日本こけし祭り』と印刷されたポスターが貼られていました。見ると開催日は当日です、場所は宮城県の鳴子温泉。車でおよそ二時間ぐらいの距離です。楽しそうなイベントだね、行ってみようとなりました。

 

会場は学校の体育館でした。

会場内にはコンクールに出展されたこけしが多数展示されており、フロアに設置された仮設のテーブルの上には数えきれない程のこけしが所狭しと並べられ、そのすべてが即売品とのこと。

そこでカミさんと相談して『めったにない機会だから一本だけ買っていこう』ということになりました。実は、この『一本だけ』が大正解だったのですが、私のそれからの人生を変える事になってしまったのです(詳しい話は後ほど)。

さて、いざ買おうとはしたものの、伝統こけしに関しては二人ともまったくのド素人です。どのこけしを購入してよいのやら全く見当が付きません。そこで私は何も考えずに一本、一本のこけしと御対面と云う手段に出ました。すると大量のこけしの中の一本が私に向かって「連れてって…」と小さな声でささやいた様な…気が…。

色白でふっくら顔の鳴子系のこけしでした。直感的に『このこけしだ!!』と思いました。直ぐに手に取り即購入。その瞬間『こけしマニア』と呼ばれる人種がまた一人誕生したのです(笑)。

古品こけし―伊藤松三郎作(昭和14年)

古品こけし―伊藤松三郎作(昭和14年)

 

それから数日後、伝統こけしとそれに関しての資料集めに夢中になっている自分がいました。

物事は深入りすればする程に疑問が湧いてくるのだとか。私の場合もそうでした。こけしの美とは一体何? 名品・美品・名工・名人と云った基準は? いくら考えても答えは出てきません。評論家と称する方々の論評も読みまくりました。しかし、ただ単に「これが名品・美品。この方が名人・名工」とあるだけです。

感覚的には理解出来るのですが、まるで雲を掴(つか)んでいる様な感じです。それからの私は何かに取り付かれたかの様に伝統こけしの美の追求に没頭して行きました。休日ともなると各地のこけし資料館や伝統こけしを販売している店舗等に足繁(しげ)く通いまくりました。

そうした時に興味深い話しに出くわしました。伝統こけしに対してそれほどには興味を持っていない方の前に、複数のこけしを並べ、『気に入ったこけしを一本差し上げます、選んでください』と言うのだそうです。

するとその方は無意識の内に一番出来の良いこけしを選ぶのだそうです。ところが『もう一本差し上げます』と言うと、今度は一番出来の悪いこけしを選んでしまうのだそうです。

このことを知って以来、こけしの購入は一回につき一本だけにする事にしました。それでも二本以上の購入の時には(贈答品などを購入の際)ちょっと時間を空け、気持ちをリセットしてから選ぶことにしました。

木目の美しい夫婦のこけし

 

そんなある日のことです。宮城県の遠刈田(とうかった)温泉に工房を兼ねて店を開いている某伝統こけし工人の元を訪ねた時のことです。私が初めての客にも関わらず仕事の手を休め、「いらっしゃい。ゆっくり選んで下さい」と笑顔で声をかけてくれました。

棚に飾られているこけしは、六寸物・八寸物・尺物(一尺サイズ)が主で大きなこけしも何本かありました。でも私は八寸物だけを凝視していました。十数本はあったでしょうか。いずれも見事な出来です。

どう頑張っても最良の一本の判定ができません。思い余って、ここは工人の方の意見も聞いて見ようか…。ひょいと後ろを振り向いた瞬間、ドキッとしました。こけしを選んでいる私の後ろ姿を先程の笑顔とは裏腹の厳しい表情で見つめていたのです。私は一瞬にして悟りました。私のこけしを選ぶ目利きの度合いを試しているのだと。

同じ様なことはその後も各地で何回も経験しました。この頃のこけし工人の方たちは、こけしの美を理解出来ないと判断した客には絶対に心を開いてくれませんでした(通り一辺の応対はしてくれましたが)。この時、これは大変なことになってしまった、何が何でも最良の一本を選ばねばと思いました。

 

気を取り直してもう一度、全てのこけしを見渡してみました。すると上の棚の端にポツンと一本、忘れられた様な風情のこけしを見つけました。良く見ると、店内に飾られたどのこけしよりも強力な存在感を発揮しています。いわゆる、オーラが違うのです。

そこで私は「オヤジさん、このこけしは非売品ですか?」と声をかけました、すると今度は急に寂しげな表情になり『非売品ではないんですけれどね…』

さらに続けて『お客さん、やっぱりそれを選ばれましたか…実はそのこけし、頭の上の所に節が入っているんですよ、木取りの段階では見つからなくって、ある程度ろくろ作業が進んだ段階で見えてきたんですよ。それでも最後まで造り上げたんですけど、こういった物に限って特に良いのが出来るんですよ』。

聞けば、節が入っている場合その箇所からひび割れが起こる可能性があるのだとか。欲しいと言った常連客は何名かいたとのことでしたが『節が入ってます』の一言で皆さん購入を渋ったのだとか。しかし、必ずひび割れが起こるとは限らないとのこと。『だったら買います!!後々、ひび割れが起きたとしてもかまいません!!』。

あれから四十と数年。あの時のこけしは、今も我が家で微笑んでくれています、もちろんひび割れも起こっていません。

右が最初に購入した鳴子のこけし。左が頭の上に節のあるこけし。

右が最初に購入した鳴子のこけし。左が頭の上に節のあるこけし。

 

実は私、ここ数年間こけしの世界から遠ざかっていました。今回、エッセーの依頼を受けた瞬間、なぜかこけしの美を追いかけていた頃のことが次々と思い出されてきたのです。そこで久しぶりにこけし達との御対面を行いました。するとこけし達が私に言うんです。「連れて来てくれて有り難うございました、これからもよろしく」って。

△ △ △

ふたたび本庄です。

上の文章からも、山下さんとお話をしたりしていても感じるのですが、東北には何とも言えない、決して他の場所では感じられない奥の深い独特さを感じます。今まで駆け足で通り過ぎたことしかないので、今度、じっくりと旅ができたらなと考えています。

 

下記は前回の山下さんの記事です。こちらもどうぞ。打って変わって奈良県にまつわる話です。

記事:『居場所はどこ

 

では、今日はこのあたりで。

 

追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。

 


弥勒

2019年9月6日

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

台風シーズンに入ったせいでしょうか、大雨が多いですね。各地の土砂崩れや浸水のニュースを見ると心が痛みます。

週明けに、またひとつ台風が来るそうです。くれぐれもお気を付けください。

 

さて、札幌で当会のインストラクターをされている私の友人に寄稿をお願いしたところ、実に本格的な文章をお寄せいただきました。

小説の中には、作者が自分の命を削るようにして創作されたものがあることが思い起こされます。

▽ ▽ ▽

文芸作品を神秘学的に読み解く(17)

森和久のポートレート

森 和久

 

『弥勒』-稲垣足穂(たるほ)

物語の始まりは、「江美留には、或る連続冒険活劇映画の最初に現れる字幕が念頭を去らなかった。明るいショーウインドウの前をダダイズム張りの影絵になって交錯している群衆を見る時、また夏の夜風に胸先のネクタイが頬を打つ終電車の吊革の下で、そのアートタイトルは──襟元にただよう淡いヴァイオレットの香りといっしょに──なかなかに忘れがたかった。」と述べられます。

この部分では映画の大画面に映し出されたであろうカリグラフィーなタイトル文字を描写しています。

映画のタイトル画一つを説明するのに視覚や触覚を細かに陳述し、あまつさえ嗅覚をも呼び起こします。読者は一気に作品世界へ取り込まれていくことになります。

京都市 八坂の塔の夜景

 

物語は短編の連なりのように紡がれていき、それらがひとつの体系となるセル(胞)群であることに気付いていきます。

あたかも巨視的には人間の魂(ソウル)の遍歴のように、それぞれの人生も一生という単独のようでありながら、ひとつの書物のページのように繰られることで輪廻転生が続いていくのです。

 

全編に散りばめられた未来都市と孤独な飛行機乗りを夢見た主人公の幻想譚。そしてフランスの神秘家ギュイヨン夫人とモンテクリスト伯、さらにベルグソンへの憧憬などがゼンマイ仕掛けのように、星々の軌跡とポン彗星(ポンス・ヴィネッケ彗星)の周期のように訪れます。

我々読者は鼻の奥がつんと来るような想い出に襲われながら、ノスタルジーに埋没するのではなく、そこから飛翔するビジョンを顕現させるのです。

 

主人公の江美留は自身の幻想が幾多の登場人物と入れ替わっていきます。

「イリュージョンが過ぎ去ろうとして彼は彼女の胸に倚(よ)りかかって、静かなハートの音を聴いていた。それは恰(あたか)も新世界の偉大な呼吸に通じているのかと訝(いぶか)しまれた。『や!』と彼は叫ぶ。『貴女の胸の中でプロペラーが唸っている』」

こんなゾクゾクする描写を提示されて読者としては抗えるはずもありません。

Inagaki Taruho

稲垣足穂(1948年)、朝日新聞社 [Public domain]

 

江美留は菩薩の写真を見せてくれた夫人にこう伝えるべきだったと気づきます、「(前略)弥陀の声が筬(おさ)のように行き交うている虚空の只中で、この銀河系は何十回も廻転しました。地球なんか勿論とっくの昔に消えてしまった。(後略)」と。

 

ここまでが物語の第一部です。この作品は二部構成になっており、第一部はいわばマクロコズム(宇宙)的想像で、第二部はミクロコズム(人間・個人)的思索です。そして神秘学的に言われる「上のように下にも(as above, so below)」に相通じる作りになっています。

マクロコズム世界とミクロコズム世界が二元的に存在していますが、時々マクロコズム世界の裂け目からミクロコズムの世界が覗けたり、飛び込んできたりします。さらにそれは逆の立場でも起こり得ています。

なんとなれば主人公の江美留は著者の足穂でもあるからです。たとえば作中のH・S氏は作家の佐藤春夫であり、実際の足穂とのエピソードが盛り込まれています。

 

作品冒頭には次の文章が置かれています。

「この未来の宇宙的出来事が間違いなく起こるということは、哲学にとっても将又(はたまた)自然科学にとっても疑問の余地がない。何故なら、如何なる進化も、進化としてはその概念の性質上、一つの終局を有(う)たなければならない。即ち、その目標に、その目的に到達しなければならないからだ。」

これは人類の存在証明の定理となりうるのではないでしょうか。

Maitreya Koryuji

木造弥勒菩薩半跏像(国宝・広隆寺)、小川晴暘・上野直昭 [Public domain]

 

第二部において、絵美留は古びたアパートの二階の一室、それも墓地のほとりに暮らしています。暮らしぶりは赤貧洗うがごとしです。いや清貧です。

文中では「(前略)そしていまや身辺皆無という処だが、しかし実際は、身につけている筒袖の単衣と、腰に巻き付けた布製バンドと、他にタオルと洗面器と枕と、傷んだ字引と、下駄、これだけが彼の所有品であった。」と説明されます。

彼はもはや死ねないから生きている、死を迎えるためだけに生きているというような胸中になっています。救いは微塵もないかのようです。

終盤、彼の所有物はさらに無くなっていきます。我々読者は怒濤のごとく繰り出される極貧ぶりに精神的苦痛までも沸き起こります。

ところが江美留は、自死は言語道断とばかり退けます。「自殺者は途中で放棄したのだから、却って出発点まで自分を引戻してしまう」と喝破します。

 

彼は清貧ゆえに何度も何日間も断食状態に陥り、幻覚を体験します。

私の妻も体調がすぐれず落ち込んで引きこもって寝ていたとき、視界に入る天井の火災報知器に貼られたラベルが天然色の『生命の木』に見えてくる、いやそれにしか見えないと言っていました。

 

文中では、「魂は苦悩と悲哀とによって鍛錬されねばならない。われわれは魂の向上の妨げになるものに対しては戦い続けねばならぬのであるが、これも、より上位な霊の加護がなくては為し能(あた)わない。」と述べられています。

そして「『それが即ち汝』(Tat-tvam-asi)」という言葉が彼の心に響き続けたのです。

彼は1920年のドイツ表現主義映画『カリガリ博士』(Das Cabinet des Doktor Caligari)を何度目かに観たあと、「これは出来すぎている、ここに在るのは映画ではなくて一つの自然である」という思いに駆られます。

そしてショーペンハウエルにインスパイアされて、「既に意志に隷属するのではない。人間とは認識にまで到達すべきである」、つまり認識する主体に到達すべきという考えに至ります。

 

情念の為すがままでは悲観主義に落ちて行ってしまいます。困難も幸福への道程たり得ます。人生を能動的に見つめ『自分の人生を支配する』という解に至るのです。

江美留はいみじくも思い見ます、「目指す人間とは何であるか? それは自分自身である」。これらの結果、ついに彼は、菩薩は「そうしてまたこう考えている自分の大脳の中にも、おそらく数ミクロンの光束となって納まっている?」と自分の使命を悟ります。

五十六億七千万年後に訪れるのは自分自身でなければならないと。

△ △ △

ふたたび本庄です。

蛇足かもしれませんが補足しますと、仏教の説話では、ゴータマ・ブッダの入滅後56億7千万年が経つと弥勒菩薩が地上に現れ、悟りを得て、人々を救うとされています。

 

下記は、森さんの前回の記事です。

親友に勧める酒-文芸作品を神秘学的に読み解く16

 

では、今日はこのあたりで。

 

追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。

 


もったいないお化け

2019年8月30日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

東京板橋では、今週はやや過ごしやすい日がありました。暑さのピークは過ぎたようです。

そちらはいかがでしょうか。豪雨に見舞われている地域の皆さん、くれぐれもお気を付けください。

 

さて、今回の表題についてですが、「もったいないお化け」とは、公共広告機構が1982年に作った広告に登場するオバケで、食べ物を粗末にした子供たちの前に、夜に現れて驚かします。この広告では物を粗末にすることが戒められています。

これは一例ですが、「もったいない」という言葉に表されているのは、持続可能な社会を実現するために必要な、素晴らしい観念だと私は思います。

 

一方で対照的に、日本を含む現代の先進国の多くでは、物を粗末にすることが社会システムによって意図的に助長されています。

マスメディアの大部分は、立場上このことを積極的に取り上げることがあまりありません。しかし、「大量消費社会」などのキーワードで検索すると分かりますが、このことは検証された事実です。

環境保護に携わっている人だけでなく、多くの社会学者が以前から警鐘を鳴らしています。

 

当会のフランス代表がブログに掲載した、以下の説明をお読みいただければと思います。

▽ ▽ ▽

『消費について』

“A propos de la consommation”

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

世界中のほとんどすべての国で、経済というものは成長するべきものだ、あるいは成長しなければならないということが前提にされ、この原則のもとに、あるいは、あえて言うならばこの先入観のもとに、より多くの物を消費することが奨励され、より多くの物が生産されています。

そして、このような経済の成長こそが、失業を減らし、新たな雇用を生み出すために必要な好ましい状態だと、当然のように考えられています。ほとんどの経済評論家や政治家や政党が、消費こそが経済の原動力だと考えています。

私はこの分野の専門家ではありませんが、より多くのものが消費されるように生産を増やしたり、ほぼ同じことですが、より多くのものを生産するために消費を増やしたりするという意味の経済成長は、魅惑的な落とし穴のようなものであり、いずれ行き詰まってどうにもならなくなると考えています。

買い物袋5つを持った女性

 

物質的な満足のために必要とされるものを、社会が住民のために確保し提供するということは正常なことでしょうか。私はそうだと思いますし、それは社会が負っている義務だとさえ言うことができると思います。

しかし、真に必要とされる範囲を超えた消費を奨励し、コンシューマリズム(訳注)を支持するのは聡明なことでしょうか。私の考えではそうではありません。

現代では、“あらゆる手段を用いて”消費が奨励され、本来必要でない商品を含む多くのものを消費者が購入するように誘導されています。

魅惑的なキャッチコピー、あらゆる種類の宣伝、ほとんど偽りとさえ言える広告など、使えるものは何でも使われます。そして、幸せとは望む品物を所有することだと考えるように仕向けられ、妥当な範囲を超えた借金を抱え込む人も少なくありません。

他方では、所有という欲求が際限なく駆り立てられて、消費者の心は満たされることがありません。

訳注:コンシューマリズム(consumerism):商品の消費が常に拡大することが、国民のために有益だとする考え方。

 

大まかに言うと、多くの国で人々が2つの集団に分断されています。大量に物を消費するための十分な収入を得ている人たちと、そうでない人たちです。

十分な収入を得ている人たちについて言えば、今以上に物を消費することを奨励するのではなく、好ましい生活とはどのようなものであるかという規範を持つことが必要でしょう。そのためには、道理をわきまえた消費や、節度ある生活の美しさが実例として示されなければなりませんし、生活の一部を簡素化することが想定されることでしょう。

十分な収入を得ていない人たちについて言えば、そのような人たちが生活必需品を確実に手に入れ、物質的に快適な生活を過ごすことができるようにすることが必須です。私の考えでは、このことこそが、経済の真の役割にあたります。

廃棄された山積みの家電

 

また、生産ということの意味を、徹底的に見直さなければならないと私は考えています。

現代社会では、雇用を確保するために生産が行われています。多くの商品が過剰に生産され、生産ラインで作られたものの全てが購入されるわけではなく、在庫が増え続けていることが知られています。

このことは特に、白物家電、家具、衣類などで顕著で、食品に関しては言うまでもありません。食品の生産と消費の状況は実にひどいもので、毎年、賞味期限を過ぎた何百万トンもの食べ物が廃棄、焼却されています。

このような過剰生産の方針が、もし世界中に広がったとしたら、必要な原材料を得るだけでも、地球と同じような星がいくつも必要になることは確実です。

廃棄された食品を集める回収車

 

生産量を減らして望ましい方法で生産を行う、つまり生産という活動の中心に人間を据えることが今すぐに必要だと私は考えます。このことは、自然を尊重することにもつながります。

また、発展途上国に先んじているとされるいわゆる“先進国”での行き過ぎた機械化を終わらすことも意味します。生産の一部を機械から人間の手に取り戻すことによって、さまざまな分野で多くの雇用を生み出すことができるということは私には明らかなことに思えますし、また環境保護関連の分野で多くの雇用を創出することもできます。

多くの人が、逆戻りすることはできないと言うことでしょう。しかし私はそうは思いませんし、選択のための時間はあまり残されていないと考えています。

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

再び本庄です。

 

上の文章でも指摘されていましたが、多くの社会学者の意見によれば、マスメディアが多数の人たちの欲望をあおりたてることによって、現代の消費社会は支えられています。

このことは20世紀の初めに起きた世界大恐慌をきっかけに本格化しました。以前にブログ記事で、この経緯についてご説明したことがありますので、ご興味があれば下記の記事をお読みください。

 

参考記事:『作られた現実という罠-消費社会について

 

では、今日はこの辺で。

また、お付き合いください。

 

追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。

 


空(くう)って何

2019年8月16日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日はお盆の16日ですので、送り火や灯ろう流しが各地で行われることでしょう。寂しさとともに、心が凪いだように静まるひとときではないでしょうか。

いかがお過ごしでしょうか。

お盆の飾りつけ(精霊馬)

 

お盆というこの機会に、このブログでは、米国の思想家ケン・ウィルバーの書いた、初期の仏教の“進歩”についての文章をご紹介させていただいています。

 

前回の記事からの続きになっていますので、まだお読みでない方は、よろしければそちらを先にお読みください。

参考記事:『お盆と初期の仏教

 

前回の話をまとめると、このようになります。

初期の仏教の目標は、迷いの状態を脱して、涅槃の状態に入ることでした。

しかし800年後の西暦2世紀に、南インドに龍樹という人が現れ、迷いと涅槃(悟り)という異なる2つの性質のものが共に存在しているということは、奇妙なことだと考えました。

(以下の文の、文頭のカッコ内は私の補足です。)

▽ ▽ ▽

龍樹は、迷いと涅槃という異なる2つの性質のものがあるのでは、実在(訳注)が真っ二つに引き裂かれてしまうので、人は解放されるのではなく微妙な幻想に囚われてしまうと考えたのでした。(中略)

訳注:実在(Reality):世界の真の姿。

(彼の考えでは、実在にそのような2つの性質があるのではなく、)実在を、概念とカテゴリー(訳注)を通して人間が見たときには、迷いの世界として現れるのであり、同じ実在を、概念化とカテゴリー化から解放されて人間が見たときには、涅槃の世界になります。

訳注:概念とカテゴリー:カテゴリーとは共通の特徴を持つ人や事物の集まりのこと。集合とほぼ同じ意味。カテゴリーを作る共通の特徴が抽象的なものである場合、そのカテゴリーは概念と呼ばれる。虹の光は内側から外側へと連続的に波長が変わっているが、それを7色であると見れば、色彩を表す言葉によって作られるカテゴリーを通して虹を見ていることになる。

 

ですから、迷いの状態と涅槃の状態は別の2つのものではなく、“ノンデュアル”(訳注)です。

この考え方が、仏教の思想と実践に一大改革を巻き起こします。(中略)

訳注:ノンデュアル(non-dual):非二元的。実際には別々の2つものではないということを表す形容詞。名詞はノンデュアリティ(non-duality)。

 

(迷いの世界に陥らないためには、実在をあるカテゴリーによって判定してはなりません。たとえば無であるかどうかを判定してはなりません。そこで、)龍樹はこう言っています。「実在は無ではないし、無でないのでもない、その両方でもないし、そのどちらかでもない。それは〈空〉と呼ばれる」。(中略)

 

(さてこれから、カテゴリーや概念を用いることができないので、原理的には)語ることも示すことも直接理解することもできない〈空〉の要点を、比喩を用いて説明していくことにします。(中略)

 

概念とカテゴリーを通して見るならば、世界は、完全に別々である個々の事物から構成されている迷いの世界として現れます。

そして、世界をそれらの個別の事物であると捉えて、それらに執着することで「苦」が生じます。

なぜなら、すべての事物は、最終的には別々になるからであり、どのようなものに執着したとしても、遅かれ早かれ、それと別れるときに「苦」が生じるからです。(中略)

 

(悟りとは、目覚めだということができます。)では、何に目覚めるのでしょう。これもまた、最善を尽くしたとしても比喩でしかありませんが、徹底的な自由、無限の解放、あるいは徹底した輝かしさ、〈空〉そのものの愛に目覚めるのだということができます。(中略)

 

形ある世界(Form)と〈空〉の関係を説明するために、よく用いられる比喩を使うならば、それは、波と海のようなものです。

たとえば、山を見ていたり、幸せを感じていたり、恐れを感じていたり、飛んでいる鳥を見ていたり、モーツァルトの音楽を聴いているような、限定された典型的な意識の状態は、すべて部分的な状態であり、それゆえに、他の状態とは別のものになっています。ですから、それらの状態すべてには始まり(誕生)があり、終わり(死)があります。

それらは、海にある個々の波のようなものです。個々の波は、ある時に生じ、特定の大きさ(小さい、中くらい、大きい)があり、最後には消えていき、そしてもちろん、それぞれが異なる個別の波です。

 

しかし、〈空〉すなわち個々の瞬間の実在は、まさにむきだしの存在であり、単に「それそのものであること」、「そのようであること」、「存在するという性質」であり、それは海の湿り具合のようなものです。

どのような波も、他の波よりも、より湿っているなどということはありません。ある波は、別の波よりも大きかったりしますが、より湿っているわけではありません。(中略)

そして、ある波が別の波よりも長く続いたりすることはありますが、より湿っていることはあり得ません。

ある波は、海の中で最も小さい波よりも、それそのものであるという性質や、そのようにあるという性質を、より多く持っているわけではありません。

 

枯山水

 

そして、このことが意味するのは、私たちの精神の状態が、今まさにここで、どのようなものであったとしても、それは「悟った状態」と完全に同じなのであり、あなたが余分な足を手に入れることができないのと全く同じように、今以上に悟りを手に入れることもできないということです(このことは、ある波が、今以上に湿ることはできないのと同じです)。

 

悟りと、そして、悟りによって明らかになる「偉大な精神/偉大な心」は、常に存在する実在なのであり、私たちに必要とされることは、それを把握することだけなのです(このことについては、後に触れます)。(中略)

 

(以上のような)中論(訳注)に示された〈空〉についての考え方は(中略)、大乗仏教と密教のほとんどすべての宗派の基礎になりました。(中略)

訳注:中論(Madhyamaka):龍樹の主著。そこから生じた宗派は、中観派と呼ばれる。

 

西暦4世紀が近づくと、次の疑問が特に、しきりに取り上げられるようになります。絶対的実在というものが、二元的な用語や概念を用いたカテゴリー化をまったく許さないものだとすれば、それについて語れることは、そもそも全く一つもないのだろうか。

少なくとも、通常の真実(俗諦)という範囲内で、実在に関して、それを把握するためのシステム、地図、モデルのようなものを提供することはできないのだろうかという問題意識です。

(ケン・ウィルバー著『The Religion of Tomorrow』(Shambhala Publications, Inc.)、第1章 “A Fourth Turning of the Dharma”)

△ △ △

バラ十字会は、いかなる宗教とも独立した立場を採っているのですが、会員の方々に提供している教材が「実在の探究」に深く関連していることもあり、お盆というこの機会に、2回にわたって、仏教についての文章を紹介させていただきました。

ここまでお読みくださった方は、仏教が始まってからの1000年ほどの歴史を旅したことになります。ほんとうにお疲れさまでした。

灯ろう流し

 

ちなみに、今回ご紹介した文章の最後に書かれていた、実在を理解するためのシステム、地図、モデルについて、ケン・ウィルバーはこの文章の続きで説明しています。そして彼はそれを、仏教の“進歩”の新しい段階だと考えています。

それを作ったのは、無着(むぢゃく、Asanga)と世親(せしん、Vasubandhu)という北西インド出身の天才兄弟であり、その説は、瑜伽行(ゆがぎょう)派(Yogacara)あるいは唯識(ゆいしき)派と呼ばれています。

 

『西遊記』は、マンガ化やドラマ化されて有名になりましたが、玄奘三蔵という中国の高僧が、孫悟空らに助けられて、この唯識を学ぶためにインドに渡ったときのことをテーマにした小説です。

唯識派は日本では法相宗と呼ばれており、薬師寺や興福寺など、奈良の多くのお寺で教えられています。

 

このブログは、来週はお休みしますが、再来週は、当会のフランス本部代表のブログから、まったく別のテーマの文章を選んでお届けする予定です。

また、お付き合いください。

 

追伸:メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」に、こちらから登録すると、このブログに掲載される記事を、無料で定期購読することができます(いつでも配信解除できます)。

 


過去の記事一覧

このページのTOPへ