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親友に勧める酒

2019年7月12日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。いかがお過ごしでしょうか。

 

昨日は、「はやぶさ2」の2回目のタッチダウン中継を見ていました。世界中の人たちの協力でなし遂げられた人類の歴史に残る快挙に感激しました。地球に戻ってくるのは来年の終わりごろのことで、無事な帰還を心から願っています。

 

さて、札幌で当会のインストラクターをされている私の友人から、親友に勧める酒についての寄稿をいただきましたので、ご紹介します。

 

▽ ▽ ▽

 

文芸作品を神秘学的に読み解く(16)

森和久のポートレート

森 和久

『勧酒』-于武陵

 

別れの宴には酒が付き物なのかもしれません。中国は唐の終わりごろの詩人、于武陵(う ぶりょう)に『勧酒』という作品があります。友人との別れを惜しむイベント(催し)で、五言絶句の形式を用いて、去りゆく友へ酒を勧め己の心情を吐露する内容です。

 

まず原文(白文)を見てみましょう。

  勸君金屈巵

  滿酌不須辭

  花發多風雨

  人生足別離

 

次に読み下し文です。

  君(きみ)に勧(すす)む 金屈卮(きんくつし)

  満酌(まんしゃく) 辞(じ)するを須(もち)いず

  花(はな)発(ひら)けば 風雨(ふうう)多(おお)し

  人生(じんせい) 別離(べつり)足(た)る

 

では、内容を見てみましょう。

  あなたに勧めよう、この大きな金の杯を。

  杯になみなみと注がれた酒を辞退する必要はないよ。

  花が咲くとたちまち雨や風が多くなるように、

  人生にも別れは多いものだ。

酒の注がれた金杯

 

酒を勧める行為から作者が宴のホスト(客を接待する側の主人)であることが判ります。去って行く友に餞(はなむけ)の気持ちを表しています。「今までありがとう、未来に向かって歩んでくれ。幸運を祈る!」と。つまり、友が去るのは寂しい、しかし、仕方のないことだ、友のために潔く送り出そうということです。

花が咲くと雨や風に曝されてしまうことが多くなるように、誰かと知り合ってその人と絆ができると別れが訪れてしまうのも多いものだ、そう自分にも言い聞かせているわけです。その情景が古い中国映画を観るように脳裡に歴然と浮かびます。

 

さて、この詩を元に和訳したもので、有名なものが井伏鱒二の作品にあります。それを見てみましょう。

  コノサカズキヲ受ケテクレ

  ドウゾ ナミナミツガシテオクレ

  ハナニアラシノ タトヘモアルゾ

  「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 

元の五言絶句を日本風の七五調に変えています。当然、日本人にはこちらの方が受け入れやすいと思われます。そしてこれは完全に井伏鱒二の世界になっています。もう別物といってもいいでしょう。

つまりこれはこれで井伏鱒二の作品です。特に「サヨナラダケガジンセイダ」という表現は達観している、というよりちょっと斜(はす)に構えた感じが漂います。原詩にはない世界観です。

 

Masuji Ibuse 01

井伏鱒二(1952年に撮影)。角川書店「昭和文学全集36巻(1954年5月発行)」より。[Public Domain]

 

この井伏鱒二版に出てくる「サヨナラダケガジンセイダ」に感化され、寺山修司は『幸福が遠すぎたら』という詩を書いています。その一部を見てみましょう。

  さよならだけが 人生ならば

  また来る春は 何だろう

  はるかなはるかな 地の果てに

  咲いている 野の百合 何だろう

  (中略)

  さよならだけが 人生ならば

  人生なんか いりません

 

まさに寺山修司らしい詩です。もろに日本人、特に東北人のメンタリティが織り込まれています。引き付けられます。

 

『勧酒』や寺山修司の詩は、「人生」が主体になっていますが、井伏鱒二の方は「サヨナラ」が主体になっています。これは、井伏版は想像の度合いが大きく、本気度が低いのかもしれません。

なぜなら「別れるために人生がある」とは考えづらいです。結果的に別れが訪れると思われて然るべきです(この観点については禅の思想にも関連するでしょうが、また別の機会に考えてみたいと思います)。

 

于武陵の原詩を読み解けば、花が咲けば必ず風が吹き雨が降るわけではないように、人生も必ず別れが訪れるわけではありません。于武陵はこの友人と別れることを前提に付き合ってきたわけではないでしょう。

別れは突然で、もしくは判ってはいても、心穏やかならざるものであるということをこの詩に託したのだと思います。

 

ところで、私自身のことを思い出すと、17~18歳の頃、アルチュール・ランボーがお気に入りでした。

「~一匹の野兎が、岩黄蓍(いわおうぎ)と揺れ動く釣鐘草の中で立ち止まり、蜘蛛の巣越しに虹にお祈りを捧げた」というフレーズが初めの方にある、『イリュミナシオン』に収められている『大洪水の後で』を読んでガツンと頭に一撃を食らった気分でした。

そんな体験を当時、私の倍ぐらいの年齢の大人に話したら、「それって、英語や日本語で読んでないよな。ランボーは原語で読まなくちゃ意味ないよ」と言われてしまいました。私は口惜しいながらもなるほどと思い、ランボーを封印してしまいました(ちょっと大げさ)。確かに彼の言説は的を射ていると言っていいでしょう。

 

当時、同じように気に入っていた八木重吉の『雲』という詩があります。

  くものある日に

  くもはかなしい

  くものない日に

  そらはさびしい

これは日本人が日本語で読むから八木重吉の世界を共有できるのです。20年近く前に『ことばに出して読みたい日本語』というのが、ちょっとしたブームになりました。要は、その言葉と音には強い繋がりとエネルギーが宿っているのです。

 

神秘学では瞑想の前などに「母音詠唱」を行ったりします。この場合の『母音』はaiueoの母音ではなく、本来の”Vowel sound”、つまり「声として発する音」ということです。「母音」のそれぞれの音にはそれぞれの振動数とパワーがあり、精神にもそれぞれ特有の影響を与えます。

 

今回の『勧酒』も原詩を見ながら原語の発声で聴くのがお勧めです。

こちら↓は『勧酒』を原語で聴けるインターネット・サイトのアドレスです。

http://www.mars.dti.ne.jp/itot/chinese-poetry/chinese_poem-1/chinese-reading/54/21-uburyou-kanshu.mp3

 

なお、ここ20年ぐらいは、私は積極的には飲酒をしておりません。特に禁酒をしているわけではないのですが、昔から思考が緩慢になるのが好きではないからです。まあ、この詩のように誰かから勧められたら、喜んで戴きますけれどもね。

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

上の文章には、ランボーの詩集『イリュミナシオン』が登場しました。バラ十字会の通信講座で神秘学を学んでいる方々の多くは、この題名が気にかかったことと思います。

そこでは、「直観」(Intuition)、「インスピレーション」(Inspiration)、「イルミネーション」(Illumination、フランス語読みではイリュミナシオン)という3つの「I」が、神秘体験の3つの種類にあたるという説明がされています。

 

下記は、森さんの前回の記事です。

秘密の花園-文芸作品を神秘学的に読み解く15

 

では、今日はこのあたりで。

 

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居場所探しの旅

2019年7月5日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

 

梅雨の後半の大雨で、鹿児島を中心に大変なことになっていますね。東京板橋の私たちの事務所は、すぐ近くに石神井川が流れているのですが、今のところ大丈夫です。

皆さま、くれぐれもお気を付けください。

 

先週末にお届けしたのは、山形県にお住まいの私の友人の山下さんが書いた、“居場所”にまつわる話でしたが、今回はその後半で、話は佳境に入ります。

 

前半をまだお読みでない方は、こちらからどうぞ。

記事:『居場所はどこ』(前半)

▽ ▽ ▽

記事:『居場所はどこ』(後半)

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

最初の予定では京都の街中を勝手気ままに巡り歩くつもりだったのですが、いつの間にやら居場所を探しての放浪の旅となっていました。

 

さて、九面観音とのご対面の後は夢殿にと思っていたのですが帰りの新幹線の時刻が迫って来ました。また来る機会もあるだろうからと帰ることに。

ところが法隆寺を出てみますとまだ時間に余裕がありました。ならば、とばかりに参道の脇道に……。実は私、方向音痴のくせに知らない道に入って行くのが大好きという変わり者。これまでに迷子になること、数知れず(笑)。気が付けば、黒い板塀の通りを歩いていました。

そして曲がり角に差し掛かった時です。突然、何かに押し戻される様な力を感じたのです。単なる錯覚? それとも気のせい? これは引き返した方が良いのではと思ったのですが、恐いもの見たさの好奇心に勝てず恐る恐る角を曲がってみました。

板塀の通り

 

するとそこには一体のお地蔵さまが祀られていました。見ると、お地蔵さまとその周りに数えきれないほどの産着・子供服・子供の喜びそうな玩具・お菓子などが供えられていました。

ここは、幼くしてこの世を去らなければならなかった子供の親御さんたちの、悲しみの感情が凝縮された場であったのでしょう。私は足がすくんで動けなくなってしまいました。押し戻されるような感覚がしたのは、このためだったのでしょう。

私は気を取り直し、静かに手を合わせました。するとお地蔵さまが『良く来て下さいました』と優しい笑顔で微笑んでくれました。もうしばらくその場に居たかったのですが時間も迫って来ました。私は『また来ますから』と別れの挨拶を交わしバス停に。

お天道さまとお地蔵さま

 

しばらく待つと先ほどのバスが到着、当然ですが運転手さんも同じ方です。今度はポールのある席に座ることにしました。相変わらずの疾走でしたが今度は大丈夫です(笑)。

しばらくして母子連れの客が同乗。子供は四・五歳くらいの男の子で中々のやんちゃ坊主(失礼)のようです。

バスが出発してしばらくするとこのやんちゃ坊主、突然降車ボタンをポンと押してしまいました。たまたまそこが停留所のすぐ近くだったものですから運転手さん、大あわてで急ブレーキを踏みどうにか停車。

すぐに母親が『すみません、この子が…』。運転手さん、怒る訳にもいかず『お客さん、しっかりして下さい』。私は、声は出しませんでしたが、『よ~し。ボーヤ良くやった!!』

 

帰りの奈良線の乗客は相変わらず私一人でした。やがて京都駅に到着。急いでホームに直行、するとほとんど同時に新幹線車両が到着。ん? 時刻表の時間と違う…と思ったのですが迷わず乗車。

ところがこの新幹線、どうしたことでしょう各駅停車するのです。次の瞬間、埼玉に住む義弟から言われたことを思い出しました。『京都駅から新幹線に乗るのでしたら気を付けて下さいね、各駅停車する昔の新幹線車両がありますから』。

一瞬にして事の次第を理解しました。

 

さあどうしたことか…。このままですと東京駅到着は夜中になってしまいます。その日は埼玉の義弟宅に泊めてもらうつもりだったものですから。何か良い策はないものか……。

そこで時刻表を必死になって見てみました。するとあった、ありました。後続の新幹線が私の乗った列車を追い越すときにほんの数分ですが同じ駅に停車するのです。これだ、この時だ!! すぐにお互いの列車が停車するホームの番号を確認、するとそう離れてもいないようです。すぐに荷物を両手に抱え乗車口に。

待つことしばし、くだんの駅に到着と同時に猛ダッシュ、どうにかセーフで乗り移ることに成功。幸いなことに乗車口の直ぐ近くに空いている席が一つ。『はぁ~間に合った~座ったぁ~』でした。

すると車内販売のワゴンが…。待ってましたとばかりに『ビール下さい~』。あの時のビールの美味かったこと。その時、声は出しませんでしたが思わず叫んでいました。『あ~極楽・極楽…もう動きたくない。ず~っと此処に居たい~!!』その日、最高・最良の居場所でした(笑)

△ △ △

ふたたび本庄です。

 

山下さんが語っていた何かに押し戻されるような感覚ですが、ある特殊な状況で、私もはっきりと感じたことがあります。

このことについて以前に書いたブログがありますので、ご興味のある方はお読みください。

参考記事:『サイコメトリーについて

 

では、今日はこのあたりで。

 

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居場所はどこ

2019年6月28日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋は台風が過ぎ去ったにもかかわらず、曇り空のはっきりしない天気が続いています。

鹿児島など、大雨のところもあるようですね。どうかお気を付けください。

 

今回は、山形県にお住まいの友人の山下さんから届いた、法隆寺にまつわる話をご紹介させていただきます。

▽ ▽ ▽

記事:『居場所はどこ』

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下勝悦

バラ十字会日本本部AMORC 理事 山下 勝悦

 

だいぶん前の話になるのですが、今でもつい昨日のことのように思える楽しい(笑える…?)話です。

 

時は平成5年11月8日の朝、場所は大阪のホテルの一室です。前日と前々日の土・日曜の二日間、私の所属するバラ十字会の会合がこの地、大阪で行われたのです。最初の予定では翌日、つまり月曜日に帰るつもりだったのですが、せっかくここまで来たのです、京都観光としゃれこもう……と。

さて今日の天気はと窓から外を見れば、外は絹糸のような雨。次に階下に目を移すとそこは色とりどりの雨傘のオンパレードでした。若い時に観たフランス映画『シェルブールの雨傘』の冒頭シーンを思い出し『うわ~良いなあ~。ず~っとここで眺めていようか…』。

しかしそんな呑気な時間はありません。すぐに朝食を食べにレストランに。するとレストラン内には誰も来ていません(会の仲間が何名か同宿していたのですが)。別に気兼ねすることはないのですが何とも落ち着きません…。『しまった、もう少し後から来れば良かった』でした。

 

食べ終わると直ぐに活動開始です。外は相変わらずの雨でしたので、フロントでタクシーを呼んでもらいました…。ところが、実は私は車の後部座席がどうも苦手なのです。仕事柄(車の整備・販売業)いろんな車の運転席に座ることはあっても後部座席に座る機会が殆んどない(ほぼ全く)といったことが関係しているのでしょうか? とにかく後部座席はどうも落ち着きません(口の悪い友人の説によれば『一種の職業病』…とか)。

そこで採った対策が、運転手さんの『どちらまで』の問いに『一番近くの地下鉄駅までお願いします』でした。ところがその駅からですと京都駅直通便がありませんでした。それでも何とか無事に京都駅に到着。『さて、どこに行こうか』。何気なく駅の構内から外を見ましたら、駅前は車・車・車の大洪水。

思わず、『仕事が休みの時ぐらいは車の顔を見るのは嫌だ、勘弁してくれ、え~い、止めた・止めた!! そうだ法隆寺に行ってみよう』。ということで急きょ予定を変更、奈良線に乗って一路法隆寺駅に。その時、奈良線の車両の乗客は私一人だけでした。これ幸いとばかりに車両の真ん中の席に座ったのですが、広い車両にたった一人というのは何とも落ち着かないものでした。

 

しばらくして法隆寺駅に到着。意気込んで駅を出た私は一瞬にしてパニック状態に『だ、誰も居ない、人っ子一人、猫の一匹も見あたりません。』

私は駅を降りれば観光客が大勢…といった光景を勝手に予想していたのです。そこで気を取り直して、周りを見て見ました。すると駅舎と棟続きでコンビニが、さらに入り口のすぐ隣がバス停となっていました。

時刻表を見ると法隆寺前行きのバスがあるとのこと。待つことしばし、中型の路線バスが到着しました。しかし出発時刻まではまだ大分時間があります。すると運転手さん、バスから降りてコンビニの店員さんを相手にノンビリと立ち話を始めました。ちなみに私はこういった光景が大好きです(笑)。

しばらくして、『お客さ~ん、出発しますよ~』の声。早速バスに乗り込み、前輪と後輪の中間の位置に着席(バスはこの席が、一番乗り心地が良いといわれています)。するとバスは猛スピードで走り出しました。狭い道を中型とはいえ、そこそこに大きな車体を右に左に大きく揺らしながらの疾走です。

私は必死になって座席にしがみつき『おいお~い。私は法隆寺の観音さまに逢いに行くんですよ~。その他大勢の観音さまの元に連れて行かれるのだけはご勘弁願いますよ~!!』。

 

しばくして無事に法隆寺に到着(ほっとしました)。停留所は参道のすぐそばでした。ところがここでまたもや『?』です。参道沿いのお土産屋さんの何割かが臨時休業です。これは後から聞いた話なのですが、この時期、観光はシーズンオフなのだそうです(今は大にぎわいと思いますが)。

 

法隆寺 金堂と五重塔

法隆寺 金堂と五重塔

 

静かなのは大いに結構とばかりにまずは五重の塔を見学、次に観音像とのご対面です。あった、ありました、白檀が素材の観音菩薩立像(九面観音)です。ガラスケースの中に静かに立っておられました。小さなケースですのですぐ間近で対面することができました。幸い私の他に観光客は誰もいません。ゆっくりと色々な方角から鑑賞させていただきました。

それからしばらく後、私は妙な違和感を感じました、九面観音像が何かを訴えているような気がしてならないのです。気持ちを落ち着けて何も考えずに頭の中に浮かぶ言葉を待ちました。すると突然、声が聞こえて来たような……気が。

 

『わらわの居場所はここではない』と。九面観音像は元の場所、つまり最初に祀られていた場所に戻りたいと訴えていたのでしょうか?

このことに関しては、最近になり納得の行く答えを見つけることができました。作家で僧侶でもある瀬戸内寂聴さんが自身のエッセイの中で、『仏像は信仰によって守ろうとする方々の元で、それがたとえ雨風をしのぐだけの粗末な建物の中であろうとも、その場に収められていてこそ意味がある』といったことを書いておられます。

同じ意味のことをエッセイストの白洲正子女史も言っておられます。最初は観光が目的の小さな旅のつもりでしたが、いつの間にか“物理的ではなく精神的な居場所”を探し求めての旅となっていたようです。

 

この後も思ってもみなかった事件(?)が続くのですが、字数も多くなりましたので後半は次回とさせていただきます。

△ △ △

ふたたび本庄です。

インターネットで調べてみたところ、法隆寺の九面(くめ)観音菩薩像(国宝、写真下)は、白檀の一木造で彫られているとのことです。

右手の数珠(じゅず)も、左手の水瓶も、動く耳飾りも、波打って垂れ下がる衣も、同じ木から彫り出されたことになります。見れば見るほど、信じられない奇跡の彫刻です。

Horyuji Monastery Nine-Headed Kwannon (255)

法隆寺 木造観音菩薩像(九面観音)(Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition [Public domain])

 

下記は前回の山下さんの記事です。

記事:『もう一度会いたい

 

では、今日はこのあたりで。

 

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ベジタリアンについて

2019年6月14日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

関東が梅雨入りして、早くも一週間が経ちました。東京板橋でも、連日、かなりの雨が降っています。

お変わりはありませんでしょうか。

 

先日、大阪の高槻で講演を行ったときに、懇親会が開かれた居酒屋さんで知ったのですが、参加者のうち数人の方がベジタリアンでした。

東京の集会にも、ベジタリアンの方が参加されることがよくあります。

また、毎年10月に開かれている世界総本部の理事会には、当会の各国の代表が集まるのですが、そのうちの2~3割の方がベジタリアンです。肉だけでなく、卵や乳製品も食べないビーガン(完全菜食主義)の方もいらっしゃいます。

 

菜食主義について、当会のフランス代表が記事を書いていますので、今回はそれをご紹介させていただきます。

▽ ▽ ▽

『菜食主義について』

“A propos du vegetarisme”

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

 

さまざまな集まりでも、電子メールでも、次のような質問を受けることがたびたびあります。「神秘学などのスピリチュアルな(spiritual:道徳心や心の深奥の)探究やこの分野での進歩のために、菜食主義は役立つのでしょうか」。

率直に申し上げるならば、肉を食べないということが、このような分野の探究や進歩のために特にプラスになるとは、私は考えていません。

ベジタリアンの(菜食主義を採用している)方々の中にも、宗教や神秘学のことを重要ではないと思っている方もいますし、ベジタリアンでない方々の中にも敬虔な宗教信者や熱心な神秘家もいます。

重要なのは、スピリチュアリティ(内面的な価値)への関心であり、結果としてどのように行動するかということです。

神秘家イエスは、このことを次のように言い表しています。「人にとって重要なのは、口の中に何を入れるかではなく、口から何が発せられるかです」。

 

私の見解では、ベジタリアンになろうとする動機は、多くの場合、内面的な価値の尊重というような事柄ではありません。

私の知っているベジタリアンの大部分は、主に次の2つの理由で菜食主義を取り入れています。

1.肉を人間に提供するために飼育されているさまざまな動物の扱われ方や、それらの動物たちが殺されることに賛同できないため。

2.肉を食べないときの方が、自分がより健康であると感じているため。

野菜が入れられたガラスのボウルとフォーク(ベジタリアンのイメージ)

 

第一の理由について言えば、私はそれを十分に理解することができます。というのも、私は動物が大好きであり、食用の動物が飼育されている方法や、殺されるときに用いられる方法の多くが、憤慨すべきものであるどころか、ぞっとするようなものであることを知っているからです。

動物たちにそのような苦しみを与えていることは、人類の恥にあたりますし、動物に対して人間がいまだにどれほど残酷かを示しています。

あらゆる動物には、それぞれのレベルの意識と感受性があります。動物たちに敬意を払わず、動物たちが私たちにさまざまな物をもたらしてくれていることを感謝しないことは、生命に対する侮辱にあたると私は思います。

さらに、動物と人類は常にカルマの法則によって密接に結びついているので、人類が動物たちを苦しめている限り、人類のさまざまな苦しみがなくなることはないだろうと私は考えています。

ギリシャの哲学者ピュタゴラスは次の言葉を残しています。「人間が、自分たちよりも下位の領域にいる生きものを冷酷に殺し続けている限り、人間は健康も幸せも手に入れることができない。人間が動物を殺し続けている限り、人間は人間同士で殺し合う。殺害と苦しみという種をまく者が、喜びと愛という果実を収穫することはできない」。

 

健康が理由でベジタリアンになっている人は、自分にとって望ましい方法を採用しているのですから、それはその人の当然の権利です。

野菜を食べることが特に体に適しており、肉が体に合わない人がいるということが経験的に知られていますし、このことは、乳製品や卵や他の動物性食品や、時として魚にも同じことが言えます。

タンパク質、ビタミン、微量元素などが決して不足しないように配慮するならば、人間は肉を食べなくても健康でいることができます。しかし、そのためには栄養についての基本的な知識がいくつか必要とされるということも事実です。

野菜と果物とジュース

 

すべての人がいつかベジタリアンになると想定すべきでしょうか。もしそうならばなぜでしょうか。動物に対する敬意からでしょうか。健康上の理由でしょうか。経済もしくは生態学的な必要からでしょうか。

多くの人は、ほとんどすべての人が今後も肉を食べ続けるだろうと確信しており、このような疑問は馬鹿げていると考えることでしょう。しかし、一部の科学者によれば、今後の数世紀か一千年ほどの間に、人間に生理学的な変化が起こり、動物性タンパク質をもはや必要としなくなる可能性があるとのことです。

それはそれとして、確実なことがひとつあります。人間が肉を食べ続けるのであれば、自分たちの食料にするために殺す動物たちに十分な配慮を払い、彼らが快適に暮らすことができ、不必要な苦しみを感じないようにすべきだということです。

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

△ △ △

再び本庄です。

 

ベジタリアンの方々はどのぐらいの割合なのかと思い、インターネットで調べたところ、日本では5%程度だとのことです。

インドは30%~40%と極めて多く、その他にも、イギリス、中華民国、スイスなど、ベジタリアンの割合が10%を超えている国がいくつかあります。

そして多くの国で、若い人たちを中心に、ベジタリアンやビーガンが増えているとのことです。

 

下記は、前回のセルジュ・ツーサンの記事です。多くの皆さんが読んでくださった人気の記事です。

人の姿を表す十字

 

では、今日はこの辺で。

また、お付き合いください。

 

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地道なAIと革新的なAI

2019年6月7日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日は、日本の各地で大雨になっているようです。東京板橋でも先ほどから降り始めてきました。

どうかお気を付けください。

 

先日、あるテレビ番組で取り上げられていたのですが、ビジネスマン向けのアートセミナーがはやっているそうです。固定観念を捨てて発想力を高め、新商品の開発や、企業が進出する新分野の開拓に生かすためだとのことです。

このようなことの背景には、AI(人工知能)の進歩に対応しなければならないということがあるようです。AIが発達すると、機械的な仕事の多くは人に代わってAIが果たすようになるので、人間にしかできないことを探さなければならないという問題意識です。

また、大量のデータをAI技術で処理して、ある製品の機能を改善するという取り組みが社会全体で行われると、多くの企業の商品がどれも同じようなものになっていくので、他社に対して優位に立つためには、AIにはない人間の直感や感性を、商品の開発に生かさなければならないという危機感があるようです。

触れ合うアンドロイドの手と人間の手

 

この話を聞いて、現在実用化されようとしているAIの多くは、ずいぶんと「地道」なのだなあという感想を持ちました。そして、私ごとですが、昔趣味で作った競馬の予想プログラムのことを思い出しました。

もう20年以上前のことになりますが、ある企業でエンジニアをしていたときに、仕事のために多変量解析という数学のテクニックを使う必要が生じました。そこで、どうせなら楽しんで学ぼうと思い、競馬の予想をやってみようと思ったのです。

多変量解析というと難しく感じますが、要するにこの場合は、ある競走馬の前回の成績とか、前々回の成績とか、その馬に乗る騎手の過去の成績とか、前回とのレース間隔とかが、次のレースの結果にどの程度、どのように影響するのかということを、過去のデータから算出して予想に使うわけです。

今でも覚えていますが、実際にやってみると、多くの種類のデータを集めて、プログラムに取り込めば取り込むほど、予想が的中する率が高くなっていきます。しかし、正直に申し上げれば、出てくる結果は常識的な平凡なもので、そこに意外性はほとんど含まれません。

 

しかし、この解析プログラムと同じような地道さを持つ「地道なAI」が役に立たないわけではありません。それどころか、とても役に立ちます。

たとえば、あるプロ野球の試合が行われるときに、その日の気温や、対戦チームの人気等々の多数のデータから、ビールの売り上げが正確に予想できれば、売れ残ってしまう無駄なビールを仕入れる必要がなくなります。

手書きの帳票から必要なデータをコンピュータに自動的に入力できれば、人件費を削減することに役立ちます。

高速道路の料金所を通過する大量の車のナンバーを処理して、渋滞の状況を把握したり予測したりして公表することにより、ドライバーの方々に役立てていただくことができます。

 

しかし一方で、AIの応用にはずいぶんと異なるイメージのものもあります。

以前に、このブログでも話題にしたことがありますが、2016年に「アルファ碁」(AlphaGo)という名の囲碁の人工知能が世界のトッププロと対戦して勝利を収めました。

参考記事:『人工知能と人間

囲碁の盤面

 

囲碁では、過去の常識を破るような素晴らしい指し手のことを「妙手」と呼びます。妙手を生み出す能力は、人間に特有の創造力だと考えられていたのですが、AIの「アルファ碁」が妙手を連発しました。このようなことから、AIには、人間と同じような発想力、創造性、ひらめきがあるのではないかと考える人が増えました。

そして人工知能を、会社の経営、医療診断、裁判、国際政治などに広く活用することで、人類には明るい未来が訪れるのではと考える人がいます。

一方で、現在のペースでコンピュータの性能と人工知能の技術が発達し、人工知能の製造と改良自体も人工知能に任せるならば、2045年以降は、人類に変わって人工知能が地球を支配してしまうという暗い予測もあります。

参考記事:『アンドロイドと2045年問題

 

さらには、私もびっくりしたのですが、将来人間は、電極を脳に埋め込んでAIと一体になることにより、人間自身の知能を今の何千倍にも高め、神のような存在になるのではと考える人がいます。

以上のようなAIの応用分野を「革新的なAI」と呼ぶことができるように思います。

「地道なAI」と「革新的なAI」というイメージは、どちらが実際の未来の姿に近いのでしょうか。

世界を支配するAI(イメージ)

 

人間の心の性質を探究したり、人工知能には心が存在するのかを考えたりする哲学は「心の哲学」と呼ばれています。米国の心の哲学の研究者ジョン・サールは、心や自己意識を持つAIのことを「強いAI」(strong AI)と呼び、そこまで達していないAIのことを「弱いAI」(weak AI)と名付けました。

心の哲学という分野には、「心身問題」という哲学上の問題が深く関わっています。「心」と「体」は同じものなのだろうか、別のものなのだろうか、一方がもう一方を説明するのだろうかという疑問です。

フランスの哲学者デカルトは、当時のバラ十字会員だったと言われていますが、自分の著書で心身問題について詳しい考察を行っています。

 

「強いAI」と呼ばれるもの、つまり、人間と同じ心や意識を持つAIは、将来作ることができるのでしょうか。

私には分かりません。しかし、バラ十字会の神秘学(神秘哲学:mysticism)にはこのことを考えるひとつのヒントがあるように感じています。それは、少し言葉使いが難しくなりますが、「意識はソウル(魂)の特質である」という考え方です。

つまり、ある生きものに意識(心)が生じるためには、体や脳があるだけでは不十分であり、そこにソウル(魂)が宿ることが必要だという考え方です。

 

これは、心身問題に対する多くのバラ十字会員の伝統的立場にあたり、意識(心)を物質に還元すること、つまり、意識(心)を物質だけで説明することはできないと考えています。

参考記事:『人の姿を表す十字

 

この考えによれば、人工知能は、単に脳細胞という物質のしくみをまねたものなので、複雑ではあるけれども、単なる問題解決機械であり、心や意識を持つこともなければ、思考しているわけでもないということになります。

 

さらにこの立場では、直感、芸術的なセンス、創造性、自由意志、道徳意識なども、ソウル(魂)だけが持つ性質だと考えられています。

ですから、もしそれが事実であり、コンピュータにソウル(魂)が宿ることがないとすれば、先ほどの「地道なAI」というイメージが実際の姿に近いように思われます。そして、政治的な判断や裁判をAIに委ねることは疑問に思えてきますし、AIが作った画像を真の芸術だと考えることなどはナンセンスなことに感じられます。

 

以上、何らかの結論を出すことができたわけではないのですが、参考になる点、興味深い点があったと感じていただけたなら、とても嬉しく思います。

また、お付き合いください。

 

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