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名誉を重んじることについて

2018年5月25日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、このところ雨が降ったりして、梅雨が近づいてきたことを思わせます。

いかがお過ごしでしょうか。

 

当会のフランスの代表が先週、名誉をテーマにブログ記事を書いています。その中で彼は、フランスでは最近、倫理的であることがあまり重視されなくなった、手本になる人が少なくなったと嘆いています。

 

このところ日本で話題になっているニュースのいくつかにも、同じことが感じられないでしょうか。悲しいことです。

以下に、この記事の翻訳を紹介させていただきます。

 

▽ ▽ ▽

 

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

記事「名誉を重んじることについて」

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

 

名誉を重んじる(honneur)とはどのようなことかを辞書で調べると、「自分自身や他の人からの、自分への評価が下がることを行わないようにするという道徳的な原則」とされています。

ですから、名誉を重んじることは、「善と悪を判別する良識」にあたる道徳心と深い関係があります。別の言い方をすれば、名誉を重んじることと倫理観には、切っても切れない関係があります。

そして、正直であること、道義的であること、責任感があること、そして敬意を払うことなどを含むその人の倫理観が、名誉を重んじる態度に反映されています。しかし、これらの倫理は、最近ではあまり重視されなくなってしまったように思われます。

このことは、真の道徳教育が足りていないことが理由なのでしょうか。それとも手本となる人が少なくなったのでしょうか。

 

一方で、名誉を重んじることを、自分の評価を高めるような道徳的な価値観に従うということだけに限定して考えるべきではありません。そこには、倫理的に高い水準にある人たちの素晴らしさを理解し、そのような人に高い評価や敬意を示すということが付け加えられるべきだと思います。

実際に、聡明さや知識、努力、功績が理由で、名誉を与えられるべき人が多数います。地域社会の人々から、あるいは国家から、さらには人類全体からでさえ、尊敬と表彰を受けるに値する人たちがいます。

そのような人と知り合う機会があったら、私たちはそれを名誉なことと考えるべきでしょうし、その人と親密に心を通わせることは貴重な体験になることでしょう。有名であろうとなかろうと、そのような人の多くは、生き方の貴重な手本になってくれます。

赤で統一された表彰舞台―月桂冠と王冠

 

ご存じのように、一部の国には、尊敬と名誉に値する人に対して公の表彰が与えられる制度があります。たとえばフランスでは、受彰者の功績の分野と重要さによって、シュバリエ、オフィシエ、コマンドゥールなどの種類のレジオンドヌール勲章があります。

不必要な議論を起こすことを望んでいるわけではないのですが、これらの勲章の選定基準が、はなはだしく適切でないことが時としてあります。

しかしそれでも私は、この制度を好ましいものだと考えています。この世に完全なものなどひとつもないのですし、名誉を重んじるという観念が失われてしまうのを防ぎ、社会的な価値として保つことに、この制度が役立っているからです。

 

名誉を重んじるということは、たびたび話題にされますが、時として別のことと混同されています。名誉が倫理観に基づいておらず、エゴの過剰な反応がそのベースにあるような場合です。

たとえば過去の世紀には、貴族が侮辱されたことを理由に、「汚名をすすぐこと」を求めることが度々あったことが知られています。彼らは、どちらが勝つかがはっきりしない決闘という手段を用いて、自分の名誉を回復しようとしました。

このような極端な場合ではなくても、現代でも、実際には自身の名誉が問題にされているのではなく、エゴが傷つけられたというだけの理由で、より具体的に言えば謙虚さに欠けていることが理由で、さまざまな状況に対して、極めて望ましくないやり方で行動する人たちがいます。

二丁のフリント銃

 

もちろん、実際に不当に名誉が傷つけられるというできごとも少なくありません。

このようなことは個人的な場でも、公の場でも起こりますが、後者の場合には「悪口を言え、悪口を言え、そうすれば必ず何か(の影響)が残る」という言葉の通り、名誉を回復するのが簡単でないことが多々あります。

マスメディアの一部は、単なるうわさや中傷を広めることをほとんど躊躇(ちゅうちょ)しませんが、不当に傷つけられた個人の名誉の回復に努力することに、それほど熱心ではありません。

その理由はまさに、マスメディアで働く人たちの一部が、他人の名誉だけでなく、自分の名誉を重んじる心を時として失っているからでしょう。

そして、報道が適切でないのか、それとも報道された人が何かと引き換えに道徳心を手放してしまったのか、そのどちらであるかを判別するのは常に難しいことです。

 

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

本稿はそのブログからの一記事。

 

△ △ △

 

再び本庄です。

「悪口を言え、悪口を言え、そうすれば必ず何か(の影響)が残る」(Calomniez, calomniez, il en restera toujours quelque chose.)は、フランス18世紀の戯曲『セビリアの理髪師』に出てくるセリフのようです。

 

今日はこの辺で。

では、また。

 

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武器軟膏について

2018年5月18日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日の東京板橋は、梅雨前のさわやかな一日になっています。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

今日は、ある人から聞いた奇妙な話題を取り上げたいと思います。

それは、中世に流行した「武器軟膏」(weapon-salve)と呼ばれている傷の治療法です。

現代の私たちから見ると、あまりにも奇怪な方法なのですが、17世紀のヨーロッパでは実際に使われていましたし、この治療法になぜ効果があるかが真剣に議論されていました。

 

この治療法に用いられる軟膏の多くには、「共感の粉」と呼ばれていた薬が含まれていました。この粉は緑礬(りょくばん)という鉱物から作られていました。

緑礬は錬金術でもよく用いられていました。この当時は、医学と錬金術がそれほど明確に別々の分野ではなかったのです。

中世の錬金術師の実験テーブル(イメージ)

 

面白いのは、この軟膏を用いる方法です。誰かが剣などの武器によって傷を負ったときに、それを治療するために、傷口ではなく、傷を負わせた武器のほうに軟膏を塗るのです!

「何と非科学的な」とお思いになるでしょうか。私もそう思います。しかし、具体的にはどこが非科学的なのでしょうか。

 

すぐに思いつくのは、傷口から離れたところに塗られた薬が、傷を治す作用を及ぼすはずがないということでしょう。

そして、当時もそのように武器軟膏を批判する人がいました。武器軟膏を用いている人たちのこの批判に対する反論は、たとえば磁石が発する力は、離れたところに及ぶではないかということでした。

 

さらに面白いことに、武器軟膏の効力を確かめるための、“科学的”だと思われる検証実験が行われていました。

傷を負った人とその傷を負わせた武器を、多数集めて(そのようなことができたのは驚きですが、当時は戦争が多かったのでしょう)、それらを半分に分けて、一方のグループには傷口に軟膏を塗り、もう一方のグループには武器に軟膏を塗ったのです。

その結果、武器に軟膏を塗った人たちの方が、治りがはるかに良かったのです。

中世の武器

 

なぜこのようなことが起こったのでしょうか。当時は消毒という考え方がなく、軟膏が不衛生な作られ方をしていたので、それを患部に塗るよりも、むしろ何もしないほうが傷の回復が良かったのではないかと思われます。

 

この話がなぜ面白いかというと、“科学的”であるということが実際にはどういうことであるかを深く考えさせてくれる一例だからです。

現代に暮らす私たちは、「それは科学的でない」とか、「それは科学的な考え方ではない」という言葉をよく使ったりしますし、さまざまな機会に耳にしたり、文章で読んだりもします。

そして、「科学的だ」という言葉が、「正しい」という言葉とほとんど同義語として用いられていることが多いようです。

 

しかし、改めて考えてみると、科学者を含む多くの人が現在信じている常識が、単に「科学的」と呼ばれていることが多いのではないでしょうか。

何が科学的で何がそうではないかと言うことは、単純な問題ではありません。

 

もう何十年も前のことになりますが、私は大学で、科学の基礎になっている枠組み(パラダイム)を研究する学部に所属していました。

今でも覚えているのですが、その学部の授業で、ある教師が「タイムマシンを作ることはできると思うか」と学生たちに質問したのです。

この質問には多くの学生が驚きました。熱力学という物理の分野ではエントロピーの法則というものが知られていて、タイムマシンはこの法則に反しているので、“科学的”に作れるはずがないというのが常識だったからです。

 

ひとりの学生がそのように述べると、その教師は言いました。

「私はその意見に賛成できない。それは考えの道筋が反対だからだ。現実をよく観察して、その現実を説明することのできる数学を発見するのが物理学だ。もしタイムマシンができたなら、その現実に合うように、物理学のほうを修正しなければならない。」

 

これと似た話をもうひとつ紹介させていただきます。以前にもこのブログで採りあげたことがあるのですが、南部陽一郎さんは、2008年にノーベル物理学賞を受賞した素粒子研究の第一人者でした。彼の業績を紹介したある番組で、ゲストの西田敏行さんがこう尋ねたのです。

「そうですか、世の中のすべての物は素粒子でできているのですね。」「それでは、命も素粒子でできているのですね。」

間髪を入れずに、南部さんはこう答えていました。

「あっ、それは私には分かりません。」

 

先ほどのタイムマシンの話もそうですが、このような言葉を聞くと、そこに表れている謙虚さに心を打たれます。

 

科学の歴史の研究家には次のことが知られています。ある時代のある地域には、物の見方や考え方を支配している特定の枠組みがあります。この枠組みはパラダイムと呼ばれています。

パラダイムの面白いところは、特殊な制約であるにもかかわらず、それに支配されている人たちの大部分が、そのパラダイムに気づかないとことです。

このことは、水面から出たことのない魚が水に気づかないことや(ほんとうでしょうか)、文法を知らなくても私たちが日本語を話せることにたとえられます。

 

先ほどの武器軟膏の場合も、その当時のその地域の人たちは、現代人とは異なる自分たちのパラダイムで、ものごとを見たり考えたりしたのであり、そのため、少なくない人が、武器軟膏のことを決して奇怪な方法ではなく “科学的”だと感じていたのです。

 

そして、現代の私たちが持っているパラダイムの多くも、未来になれば、時代遅れの“非科学的”な見方、考え方になるというのは、おおむね確実なことです。

実際に、現在の科学には多くの“非科学的”な点があるということが、21世紀に入ってからたびたび指摘されるようになり、今後のパラダイムがどのようなものになるかが研究されています。

 

このように考えると、現実をよく観察してそこから出発すること。現在主流になっているものの見方、考え方は決して絶対的でなく、時代や地域に限定されたものであり、将来も正しいかどうかは保証されていないということを意識しておくこと。

突き詰めて言うとこの2つ、特に後者が、21世紀後半に科学的だと言われる態度になるのではないかと私は考えています。

 

参考記事:「科学的なことと非科学的なこと

 

さて、先ほどの武器軟膏は、人類学という観点から見ると、接触魔術という行ないにあたります。

この行ないは、一度接触していたものは、接触しなくなった後にも互いに影響しあっているという迷信に基づいています。

 

原始的な宗教さえまだ出現していないほどの昔、原始人は、接触魔術と共感魔術という2つの魔術を行っていました。

接触魔術は先ほど説明しましたが、共感魔術とは、形が似ている2つのものは互いに影響するという迷信に基づく魔術です。

たとえば原始人は、日照りが続いたときには、小さな穴を空けた容器に水を満たして振るという魔術を行いました。それによって雨をもたらすことができると信じていたのです。皆さんも、敵の姿に似せた、木や藁(わら)でできた人形が、何に使われるかをご存じのことと思います。

 

この当時の人類は、狩猟、漁労、採集によって食物を得ていました。自然に対する正しい知識もとぼしく、農業技術も、しっかりとした住居も、協力体制を可能にする組織的社会もなく、飢餓、天候の変化、天災、肉食獣の危険に常にさらされ、嵐の中の木の葉のように無力な存在でした。

このような原始人の、恐れに満ちた心の状態と無力感を想像してみてください。

そして、彼らのパラダイムだったのが魔術的思考であり、彼らが主に頼っていたのが先ほどの2つの魔術でした。

人類がこのような暗闇の状態、背負わされていた恐怖から抜け出すことができたのは驚くべきことです。

 

私たち現在の人類はホモ・サピエンスと呼ばれ、およそ30万年前に出現しました。それに対して、人類の多くが魔術的思考から脱け出せるようになったのは、数万年前です。

つまり、私たちがホモ・サピエンスに進化した後だけを考慮に入れても、魔術的な思考をしていた時代のほうが、その後の時代よりもずっと長かったのです。

 

ですから、私たちの潜在意識には、魔術の時代の迷信が今でも影響を与えています。(それに加えて、今回お話しする余裕はありませんが、私たちの心の中には神話の時代の迷信もあります。)

 

参考記事:「人類と子供の心の進歩の段階

 

私たちは自分がどのような迷信に影響されているかを学び、心の奥底にある不要なガラクタを捨て去らなくてはなりません。

当会の提供している通信講座では、学習を始めてから12ヵ月後にこのことが詳しく解説されます。

 

今回は、このあたりで。

話題が行ったり来たりしましたが、興味深い、参考になったと、少しでもお感じになった点があれば、嬉しく思います。

次回もまたお付き合いください。

 

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握手-文芸作品を神秘学的に読み解く10

2018年5月11日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

東京板橋では、昨日まで冷たい雨が続いていましたが、今日は初夏を思わせる晴天です。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

札幌で当会のインストラクターをされている私の友人から、井上ひさしさんの小説についての文章を寄稿いただきましたので、ご紹介させていただきます。

 

▽ ▽ ▽

 

文芸作品を神秘学的に読み解く(10)

森和久のポートレート

森 和久

 

『握手』 - 井上ひさし

主人公の「わたし」は、桜の花は散ってしまったが葉桜にはなっていない季節に、天使園の園長であるルロイ修道士に会ったのでした。場所は上野動物園近くの古い西洋料理店。動物園は休みで店内は、「気の毒になるほど空(す)いている」というまったく盛り上がりに欠ける情況下です。

 

天使園というのは児童養護施設で「わたし」は10代の3年半をそこで過ごしたのです。ルロイ修道士は故郷のカナダに帰ることになったのでかつての収容児童たちにこうやって会っているのだということです。

 

会話の中で、「わたし」の現状を案じたルロイ修道士は「『困難は分割せよ』。焦ってはなりません。問題を細かく割って一つ一つ地道に片付けていくのです」と諭します。これは普遍的な金言ですね。是非参考にしたいものです。

 

ルロイ修道士はこんなことも言います。彼は戦争中、日本人監督官に左手の人差し指を木槌で叩き潰され、この時も潰れたままです。「わたし」は、「日本人は先生に対して、ずいぶんひどいことをしましたね。申しわけありません」と謝ります。それに対して、「だいたい日本人を代表してものを言ったりするのは傲慢です。一人一人の人間がいる、それだけのことですから」とルロイ修道士は「わたし」に注意します。まったくそのとおりですね。

 

 

さて、『握手』という題ですが、この作品には握手をする場面が3回出てきます。まず、少年の「わたし」を天使園の園長室でルロイ修道士が迎えてくれた時。この時、ルロイ修道士の握力は、万力よりも強く、しかも勢いよく上下させたため机の上の本にぶつかり腕がしびれたほどだったのです。

 

そして、再会した西洋料理店での握手。「わたし」はまたあのしびれるほどの握手をされるかと顔をしかめたのですが、この時は打って変わって、病人の手でも握るようにそっと握手をしたのです。昔は手が2・3日痛くなるほど強い握手をしたルロイ修道士が、年数を経て、まったく穏やかな握手をするようになっていました。何か心身の変化があったと伺い知れます。

握手するシニア

 

握手とは人間関係の絆を表し、結合の印とも言えます。そして握手のやり方で感情や意思も伝えることが出来ますし、受け取ることになります。

 

 

この作品には握手の他にもルロイ修道士による手や指にまつわる話が盛り込まれています。一つは「平手打ち」。「わたし」が天使園にいた時に平手打ちされたことを告げると、ルロイ修道士は悲しい表情をします。同じように手を使いますが、握手とは対極の破壊的行為です。

 

次に「掌をすりあわせる」行為。オムレツを前にしてルロイ修道士は「おいしそうですね」とこの動作を行います。でもこれも昔は、農作業を熱心にやっていたため掌が樫の板でも張ったように堅く、ぎちぎちと音が鳴ったのに、この時には音はしませんでした。

洋食屋さんのオムレツ

 

それから「右の人差し指を立てる」。怒ったり、注意したりする時にルロイ修道士はこの動作を行います。それに「右の親指を立てる」。これは良いとかOKということを意味する時に行います。対して、「両手の人差し指をせわしく交差させ、打ち付ける」。こう指を動かすことでルロイ修道士は、ダメだ、怒っているんだということを表現します。

 

また、「右の人差し指に中指を絡めて掲げる」。これは、幸運を祈る、しっかりおやりという意味です。日本では「えんがちょ」とか「カギかけた」と言われる指言葉です。古くは平安時代の絵画にもすでに見られ、忌み嫌うものを避ける仕草として行われてきました。それに対して、欧米では、ルロイ修道士のような使い方が一般的で、多くの映画やドラマ、写真などでも目にします。

 

 

当会では、このしぐさにある種の効力があることが知られています。手、特に指、その中でも親指、人差し指、中指は、ある種の生命力のエネルギーの通り道になっていることがこの効力に関係しています。

 

具体的な作用と使用法のテクニックについては、バラ十字会出版の書籍『ビジネス錬金術:幸福のためのバラ十字会の技法』を参照ください。またこのエネルギーの他の活用法は、当会の通信講座の主要なテーマのひとつになっています。

 

(付記:電子書籍版『ビジネス錬金術』は、下記のURLで購入することができます。)

https://www.amazon.co.jp/dp/B01KJ7K602/

 

 

話を戻します。ルロイ修道士と「わたし」の3回目の握手は、上野駅の中央改札口で別れる時です。「わたし」はルロイ修道士の手をしっかりと握り、それでも足りずに腕を上下に激しく振りました。「痛いですよ」とルロイ修道士は、顔をしかめて見せたのです。そして、上野公園の葉桜が終わる頃、ルロイ修道士の知らせが届きました。「わたし」は両手の人差し指を交差させ、せわしく打ち付けていました。

 

△ △ △

 

ふたたび本庄です。

 

この寄稿文をいただいて、短編小説『握手』を読んでみました。優れた小説の多くが共通してそうであるように思いますが、世の無常をつきつけられ、人の誠実さについて考えさせられます。

 

では、今日はこのあたりで。

 

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感謝について

2018年4月27日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

暦の上での夏の始まりは立夏の日で、今年は5月5日だそうですが、東京板橋はもうすっかり初夏の陽気です。

いかがお過ごしでしょうか。

 

ふと思ったのですが、日本人の優れた点のひとつは、日常的に感謝を表わす習慣があることではないでしょうか。

食事の時にはほとんどの人が、「いただきます」、「ごちそうさまでした」と、用意してくれた人どころか、命そのものにも感謝しますし、「ありがとうございます」も、とてもよく使われる言葉ではないでしょうか。

 

 

実は先日、当会のフランスの代表が、感謝を話題にしてブログ記事を書いたのですが、それによると、フランスでは最近、親切を受けたり世話になったりした人に感謝を表わすことが少なくなっているようなのです。

 

日本にも最近、そのような傾向があるでしょうか。私はそれほど実感していませんが、もしそうだとしたら、ほんとうに悲しいことです。

以下に、この記事の翻訳を紹介させていただきます。

▽ ▽ ▽

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサンのブログ

記事「感謝について」

バラ十字会AMORCフランス語圏本部代表セルジュ・ツーサン

Serge Toussaint

 

人間を気高い存在にしている道徳的長所の中でも、話題にされることがあまりない長所があります。それは感謝ということです。

感謝とはもちろん、お世話になったり親切な行ないをしてもらったりしたときに、お礼の気持ちを表わすということです。また広い意味では、恩を受けた人を大切に思うことです。

食事へ感謝して手を合わせる

 

何らかの形で、誰かに助けてもらったことが一度もない人は、ほとんどいないのではないでしょうか。しかし残念なことに、受けた親切を心からありがたく思うどころか、感謝の気持ちを何らかの方法で表す人でさえ、それほど多くなくなってしまいました。

 

なぜ現代社会では、感謝を表わすことが少なくなってしまったのでしょうか。さまざまな状況において自分が受けたよい行ないのことを無視したり、そこから目を背けたりする傾向が関係しているのでしょう。そのような善行が当然のことであると考える人が増えたことが理由かもしれません。

そして時とともに親切にまつわる人と人の関係が希薄になり、親切を受けた人が、それに感謝を感じなくなることさえ起きています。

極端な場合には、親切に対して、悪意や反発をほのめかす言葉で応じたりすることさえ起こっています。親切の価値が認められない場合には、悪意や恨みや憎悪が生じることが良くあります。

 

それでは、親切にしてくれた人にどうしても感謝を感じることができない場合には、私たちはどのようにしたら良いのでしょうか。そのような場合に最低限できることは、その人に対して敵意を持つことだけは避けるということだと思います。

私の考えでは、親切ということに関して理想的な態度は、人や集団や社会に一度でも助けてもらったり、あるいはそのサービスを利用したりしたことがあるならば、恩を受けたと常に考えることです。

もし誰もがこのことを心がけたとしたら、世界から恩知らずな行ないは、ひとつもなくなることでしょう。

 

私たちが感謝しなくてはならないのは、親切にしてもらった人に対してだけではありません。私たちの誰もが、地球に感謝の思いを感じるべきです。

実際のところ、私たちはあらゆる面で地球から恩恵を受けています。やや擬人的な言い方になってしまうかもしれませんが、人類が必要とする無数に多くのものを地球が提供してくれています。間違いなく地球は私たちの“母”であり、私たちが愛すべき対象です。

残念なことに私たち人類は十分にはこのことに気づいておらず、そのため人類は地球に対して極めて恩知らずな行ないを続けています。このことを確信するためには、地球が現在どのような状態にあるのかをちょっと調べてみるだけで十分です。

The Earth seen from Apollo 17
By NASA/Apollo 17 crew; taken by either Harrison Schmitt or Ron Evans [Public domain], via Wikimedia Commons

 

世界全体を見渡してみると、多くの人が生活に困難を抱えているばかりか、苦痛に満ちた暮らしをしています。十分な食事が得られない人、まともな住居で暮らすことができない人、最低限の快適ささえ得られない人がたくさんいます。

そこまでひどい状況ではないとしても、人生には波乱がつきものであり、病気、事故、失業などとまったく無縁な人は誰もいません。

 

そのような状況にある私たちが、どのようにしたら、人生に対して感謝の念を持つことができるでしょうか。

できるだけ幸せであることはすべての人の権利であり、この権利を満たすことは実際に可能であり、それを実現するかどうかは私たち人類全体に任されているということをどうか忘れないでください。

その実現には、私たちが個人としても集団としても、道徳性と意識レベルにおいて進歩することの重要性に目覚める必要があります。

この進歩によって私たちは世界をより良い場所に変えることができ、いつの日か、「人生に感謝します」と誰もが言うことができるようになります。

 

バラ十字会AMORCフランス本部代表
セルジュ・ツーサン

 

著者セルジュ・ツーサンについて

1956年8月3日生まれ。ノルマンディー出身。バラ十字会AMORCフランス本部代表。

多数の本と月間2万人の読者がいる人気ブログ(www.blog-rose-croix.fr)の著者であり、環境保護、動物愛護、人間尊重の精神の普及に力を尽している。

本稿はそのブログからの一記事。

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再び本庄です。

記事の中で、裕福な国と貧しい国の格差が話題になっていました。このことが国際的な課題として広く知られてからもう何十年もが経ちますが、状況はひどくなっていく一方のようです。

 

2014年に当会が発行したマニフェスト(宣言書)にも指摘されていますが、この格差の最大の原因は、経済活動によってもたらされる生産物や天然資源が、すべての人間を尊重する精神に基づいて運用管理されていないことです。

そして、その根本にあるのは人間のエゴイズムです。人類の一員としてこのことをほんとうに恥ずかしく思います。

 

参考記事:『バラ十字友愛組織からあなたへの訴え』(2014年)

https://www.amorc.jp/pdf/manifesto2014_appellatio.pdf

 

最後までお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

 

よい連休をお過ごしください。

では、また。

 

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サイコメトリーについて

2018年4月20日

 

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

バラ十字会日本本部代表、本庄のポートレイト

 

今日の東京板橋は、よく晴れてさわやかな一日になっています。

 

いかがお過ごしでしょうか。

 

今回はまず、40年ほど前の私の体験についてご紹介させていただこうと思います。

大学生だったときのことですが、心理学のある実験を行うので協力して欲しいと友人から頼まれたのです。何か、経済のモデルを作るために必要な実験なのだそうです。

 

私が役に立つならばと快く応じると、後日、大学のキャンパスの普段は行ったことのない部屋に呼び出されました。私と同じような協力者が他に7人いて、被験者は全員で8人でした。その中に、私の知っている人はひとりもいませんでした。

そこはとても殺風景な部屋で、打ちっぱなしのコンクリートの壁には、ポスターひとつありません。

そして、部屋の左と右には、長テーブルが2つずつ置いてありました。それぞれのテーブルをはさんで、向き合うように2つの椅子が置かれ、テーブルの中央には割と高さのあるついたてが、椅子を隔てるように置かれていました。

 

他の被験者と一緒に、その部屋に入ろうとしたときに、私は今までに一度も体験したことのない奇妙な感じを受けたのです。

それは、部屋の右側にはどうしても行きたくないという感じでした。右の方に進もうとすると、体自体が何かを警戒して、まるで押し戻されるような感覚でした。

そして、まったく反対に部屋の左側には、何やら楽しげな感じがしたのです。

 

どの椅子に座っても良いという説明だったので、「今のは何だ?」といういぶかしさを感じつつも、部屋の左側に進み、置かれている椅子のひとつに座りました。

 

そして、全員が席に着くと、私たち被験者は4組に分かれることになりました。私を含む、部屋の左側に座った2組のペア、部屋の右側に座った2組のペアです。

ペア同士は向かい合わせに座わっているのですが、ついたてのために、まったく相手を見ることができません。

 

そして、金ピカに光るおもちゃのコインが10枚ずつ全員に渡され、実験の説明が始まりました。

 

経済をまねたゲームを、あるルールに従って行います。

ゲームのルールは簡単です。まずゲームの目的は、自分の持っているコインを増やすことです。終わったときに一番多くコインを持っていた人が優勝です。

コインを増やすために、ペアになった相手と、互いのコインを交換するということを20回行います。

 

コインの交換では、手元にあるコインのうちの何枚を相手に渡すかを決めます。同時に相手も、こちらに渡す枚数を決めます。そしてそのコインを、そのテーブルの実験を補助する係の人に預けます。

預けることのできるコインは最大10枚と決められていました。しかし、自分の手元にあるコインが10枚よりも少なくなっていれば、持っている枚数までしか渡すことができません。

 

そして係の人は、渡されたコインそれぞれの枚数を2倍にして、もう一方の相手に渡すということがルールとして定められています。

実験中は話すことが一切許されておらず、ペアになった相手には、係の人を通してコインを渡す以外には、何も情報を伝えることができません。

 

状況がご理解いただけたでしょうか。つまり、私たち被験者は一種のジレンマ状態に置かれたわけです。

ペアになった相手に、たくさんのコインを何回か渡すことで、もし相手との間に信頼関係を築くことができれば、相手もたくさんのコインを自分に渡してくれるようになることでしょう。そうすれば、結果的に多くのコインを手にすることができます。

しかし一方で、コインを多く渡すと決断したにも関わらず、相手が少ない枚数のコインしか渡してくれなければ、自分のコインはどんどん減ることになります。

 

さて、実験が始まりました。

第1回目の交換で、私はずいぶんと考えたあげくに6枚のコインを係の人に渡しました。ですから相手は、12枚のコインを受け取るはずです。すると、相手からは16枚のコインが届きました。つまり、相手は私を信頼して、10枚中の8枚ものコインを手放してくれたのです。私の手元には10 – 6 + 16 = 20枚のコインがあります。

 

今でも覚えています。おもちゃのコインを使った単なるゲームなのですが、この瞬間の喜びは、かなり大きなものでした。

その後の交換でも、相手はたくさんのコインを渡してくれ、私もすっかり嬉しくなって、毎回毎回10枚近いコインを渡しました。

私の手元のコインはどんどんと増えていき、20回の交換が終わったときには、かなりの枚数になっていました。

 

きっと私か相手が優勝だろうと思っていると、驚きのからくりが種明かしされます。私たち被験者は全員がだまされていたのです。

 

実は、部屋の左側に座った被験者4人には、相手が何枚のコインを手放したかに関わらず、必ず14枚から18枚のコインが、係の人から渡されることに決まっていたのです。

一方で、部屋の右に座った被験者4人には、相手が何枚のコインを手放したかに関わらず、係の人からは、必ず2枚から6枚のコインしか渡されないようにされていました。

 

部屋の右側の人たちは、この実験の間ずっと、かなり不快な思いをし続けていたに違いありません。「この人は、ケチなのだろうか」、「何でこの人は私のことを信頼してくれないのだろう」と何回も思ったのではないでしょうか。

一方で、部屋の左側にいる私たちが築くことに成功したと思っていた信頼関係も、実は架空のものだったことになりますので、結局のところ、右側の人に比べて幸せな体験をしたのかどうかということには、ちょっと疑わしいところもあります。

 

ちなみに、この実験は何をしようとしていたのか、心理学や経済学にどのように役に立ったのかは、残念ながら聞く機会がありませんでした。

 

 

さて、皆さんは、サイコメトリー(psychometry)と呼ばれる現象のことを聞いたことがおありでしょうか。

それは、ある人の感情や記憶が、その人の身につけているアクセサリーや時計などの物体、もしくは、その人が長時間過ごしている部屋の調度品や壁に記録され、他の人が後から感じることができるという現象です。

 

いわゆる「サイキック」(超心理学的)と呼ばれている現象のひとつですが、バラ十字国際大学の研究によれば、この現象は、数々のサイキック現象の中でも、比較的簡単に多くの人が体験することができる現象です。

 

先ほどの心理学の実験が始まる前に、部屋の右側と左側に感じた奇妙な印象のことを、私は、このサイコメトリーの一例だと考えています。

つまり、私たちが実験を行う前にも、この部屋には多くの被験者が入り、何回も実験が繰り返されていたのでしょう。そして、部屋の右側には、被験者が感じた不信と不快の感情が何回も記録され、部屋の左側には、信頼感と楽しい思いが記録されたのでしょう。

 

サイコメトリーが物理学的にどのようなメカニズムで起こるのかは、まだ明らかにされていないようです。

しかし、人間にはこのようなことを感じ取る興味深い能力が、おそらく誰にもあるということはほぼ確実です。

 

私たちが提供している神秘学の通信講座では、初回の教材でサイコメトリーが扱われ、この現象をひとりで体験するための実習が紹介されます。

今までも何回かこのブログでは、「神秘学」(mysticism)(神秘哲学と呼ばれることもあります)について話題にしてきました。

 

神秘学とは何かということは、さまざまな方向から説明することができますが、人生のあまり知られていない側面を明らかにして、より幸せでより有意義な生き方を実現するために役立てる取り組みだと言うこともできます。

サイコメトリーも、人間の深層意識の働きに関連している、人生のあまり知られていない側面のひとつにあたります。

 

読者の皆さんの中には、新年度に入ったこの機会に、何か新しいことを始めたいとお考えの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

この講座の初回の教材を、無料で体験することができます。真剣に検討してみたいとお考えの方は、下記のリンクをクリックして、お申し込みください。

https://www.amorc.jp/request/trial.html

 

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

では、また。

 


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