以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

コメニウスが熱望したすべての人への教育
Comenius & Universal Education
マーク・コーンウォール
By Marc Cornwall

クリスチャン・レビッセ(Christian Rebisse)の著書『バラ十字会の歴史』(訳注、*1)では、コメニウス(Comenius)という呼び名で知られるヤン・アーモス・コメンスキー(Jan Amos Komensky)に関する記述に多くのページが割かれています。この偉大な神秘家は『光の道-探求された道、探求されるべき道』(Via Lucis, vestigata et vestiganda)を1641年に著しましたが、そのきっかけになったのは、1618年に始まり1648年に終わり、中央ヨーロッパから北ヨーロッパまでを荒廃させた悪名高い三十年戦争でした。戦争が生じないようにするために、すべての人が教育を受けられることを望んだ彼の志は、20世紀に国連から表彰されています。
(訳注:『バラ十字会の歴史』(Rosicrucian History and Mysteries): https://www.amorc.or.jp/about_us/history1.html に日本語訳を掲載。)
『バラ十字会の歴史』の第10章では、チェコの哲学者、教育者で、作家でもあり、さらに「王立協会」(*2)の設立にも関わったコメニウスが「永遠の哲学」(訳注)の歴史に果たした重要な役割について書かれています。著書『光の道』の冒頭には、コメニウスの次の言葉が記されています。
「我々の望みは、すべての人が、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、身分や性別に関係なく、集団もしくは個人として、申し分のない教育を受け、教養ある人間になる機会を得ることである。教育の目的は、あれこれの知識や技能を身につけることだけではない。自分の本質を十分に知り、真実を知る方法を学ぶためでもある。また、見せかけにだまされることなく、善を愛し、悪に誘惑されず、為すべきことを為すと同時に避けるべきことを避け、語るべき時には口をつぐまず、何ごとについても、すべての人に分別を持って語るためである。そして、あらゆる物事と人間と、そして神を軽んずることなく常に注意深く接し、迷うことなく目的地に至るためである。幸せという目的地に。」
(訳注:永遠の哲学(Perennial Philosophy):あらゆる民族と文化に共通の真理であるとされる思想。ライプニッツは、すべての宗教の基礎となる思想としてこの言葉を用いた。)
『光の道』は、1641年に執筆されたものの、出版されたのは彼が死去する2年前の1668年でした。この本の中でコメニウスが、ロンドン王立協会を立ち上げようとしている学者グループに提案したのは、キリスト教の学識者による新しい取り組みとして「光の大学」を設立することでした。これは、同じ知識の基盤、同じ宗教的使命、さらには同じ言語を共有する幅広い学識者の共同体を築こうとする試みでした。コメニウスは、イギリス議会の議員たちから、公共教育改革委員会に招かれ、その職務に真摯に取り組みました。その結果、議員たちは期待以上の成果を得ることができました。
「暗闇を打ち破るためには、4つの作戦行動が必要となる。すなわち、普遍的な書物、普遍的な学校、普遍的な大学、そして普遍的な言語である。」(コメニウス)

生涯と時代
Life and Times
「博識な人の多くは心の崇高さを尊重し、『自然という書物』からインスピレーションを得ようとする。」(クリスチャン・ベルナール、バラ十字会AMORC元代表)
本名ヤン・アーモス・コメンスキー(1592年3月28日~1670年11月15日)はモラヴィア出身の哲学者、教育学者、神学者で、近代教育の父とされています。彼は1592年にボヘミア王国(訳注)のモラヴィア辺境伯領(訳注)で生まれました(*3)。正確な出生地は不明ですが、ナーデン(Naarden)にある墓碑に記されたウヘルスキー・ブロト(Uhersky Brod)や、ニヴニツェ(Nivnice)あるいはコムニャー(Koma)などの土地の可能性があります。「コメンスキー」という苗字は、コムニャーにちなんで彼が後に名乗った可能性があり、「コムニャー生まれの男」を意味するのかもしれません。
(訳注:ボヘミア王国(Bohemian Crown):現在のチェコ共和国の前身となった王国。首都はプラハ。神聖ローマ帝国の領邦のひとつで、ボヘミア王は選帝侯(神聖ローマ帝国皇帝の選定権を有する諸侯)の一人だった。)
(訳注:モラヴィア辺境伯領(Margraviate of Moravia):現在のチェコ共和国の東部地方。辺境伯は、中央から離れて大きな権限を認められた地方長官。)
彼はボヘミア兄弟団(訳注)というプロテスタント集団の最後の主教を務めていましたが、後に宗教難民になりました。その後、普遍的教育の初期の推進者の一人になり、その思想を著書『大教授学』(Didactica Magna)にまとめました。教育者および神学者として、彼は17世紀半ばまでプロテスタントが主流のヨーロッパの国々で学校を指導し、各国政府に助言を与えました。
(訳注:ボヘミア兄弟団(Bohemian Brethren):モラヴィアやボヘミアにルーツを持つプロテスタント系の宗教団体。)

1613年にコメニウスは21歳で故郷モラヴィアを離れ、ハイデルベルク大学で学業を続けました。この時期に、神聖ローマ帝国屈指の権力者であったプファルツ選帝侯フリードリヒ5世(訳注)と、スコットランド王ジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1世)の娘エリザベス・スチュアート(Elizabeth Stuart)との祝婚会に出席しました(*4)。彼らの宮廷はハイデルベルク(訳注)にあり、ヨーロッパのプロテスタントの諸国にとってフリードリヒ5世は大いなる希望の星でした。
(訳注:フリードリヒ5世(Friedrich V):プファルツ選帝侯兼ボヘミア王(在位1619-1620)。三十年戦争時代のプロテスタント諸侯の一人。1610年に父の跡を継いでプファルツ選帝侯位につき、プロテスタント同盟の指導者となる。ボヘミアでオーストリア・ハプスブルク家への対立が激化し三十年戦争が始まると、1619年にプロテスタント貴族に推されてボヘミア王となった。しかし翌年にはワイセルベルクの戦いでフェルディナント2世率いる皇帝軍に敗れ,ボヘミア王の地位は1年も続かなかった。)
(訳注:ハイデルベルク(Heidelberg):ドイツ南西部の都市。カトリック勢力のブルボン朝(現フランス)に近接し、プロテスタント改革後の思想的・学術的な拠点でもあった。)
コメニウスは生涯を通じてこの国王夫妻を支持し続けました。1619年に夫妻がボヘミア国王と王妃として戴冠し、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の従弟にあたり、神聖ローマ皇帝であったフェルディナント2世(訳注)と戦争状態に陥った際にも、この夫妻に熱心に肩入れしました。その後、コメニウスは国王夫妻と共にオランダに亡命し、1670年にアムステルダムで生涯を閉じました。
(訳注:フェルディナント2世(Ferdinand II):オーストリア=ハプスブルク家初代のフェルディナント1世の孫。「ボヘミア国王」も彼の数ある称号の1つ。幼少期にイエズス会の教育を受けた熱烈なカトリック教徒であったため、1617年に神聖ローマ皇帝マティアスからボヘミア王国(チェコ王国)の国王に指名されると、プロテスタント弾圧策を強めた。プロテスタント側は彼の廃位を一方的に宣言してプファルツ選帝侯(フリードリヒ5世)を迎え、三十年戦争の誘因となった。1619年に神聖ローマ皇帝となり、プファルツ選帝侯を破ってプロテスタント勢力を駆逐し、カトリック以外の信仰を禁じた。)

コメニウスと社会改革
Comenius and Reform
コメニウスはヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの友人であり、バラ十字会(薔薇十字団)の3冊の主要な宣言書である『バラ十字友愛組織の声明』、『バラ十字友愛組織の信条告白』、『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』に述べられている社会改革の構想に心酔していました。1623年は、パリ中の壁にバラ十字会の存在を知らせるポスターが出現した年であり、コメニウスが『世界の迷宮と心の楽園』(Labyrint sv.taa raj srdce)をチェコ語で出版し、バラ十字会に託した希望を蘇らせた年でもありました。理想主義者であったコメニウスでしたが、三十年戦争の勃発とともに彼の期待は薄れてしまいました。しかし、かつて抱いた期待が打ち砕かれ失望を味わっても、彼は諦めませんでした。一度彼の中に花開いた理想主義は、彼という存在に染み渡っており、彼はそれを実現するために最善を尽くしました。

そして、数多くの教育についての発想と革新的な教育技術を取り入れることに邁進しました。具体的には、ラテン語ではなく母国語で書かれた絵入りの教科書、単純な概念から包括的な概念へと段階的に着実に進んでいく教授法や、退屈な暗記とは対照的な論理的思考に重点を置いた生涯学習、貧困にあえぐ子どもたちへの平等な学びの機会の提供、女性への教育、国や地域を超えた実用的な指導などが挙げられます。
彼はまた、自然と宗教と知識は繋がっていると確信しており、知識は自然から生まれ、自然は神から生まれると主張しました。彼が暮らし活動した土地は、故郷のモラヴィアのほかに、神聖ローマ帝国内の他の地域や、スウェーデン、当時はヨーロッパ有数の強国であったポーランド・リトアニア共和国、トランシルヴァニア、イングランド、オランダ、ハンガリーといった国々にまで及びました。

主な著作
Important Works
コメニウスは、当時の国際語であったラテン語と、彼の母国語であるチェコ語で多くの著作を残しています。そのうちの数作を見るだけで、彼がなぜこれほど重要な人とみなされているのかが深く理解できることでしょう。彼が生きていた時代には、教育を受けることは上流階級と中流階級だけが持つ特権でしたが、コメニウスはこれを変えなければならないと確信していました。
『世界図絵』(Orbis Pictus)もしくは『見てわかる世界図絵』(Orbis Sensualium Pictus)は、1658年に出版され、広く使用された子ども向けの教科書です。これは、世界初の挿し絵付きの子ども用教科書で、まずラテン語とドイツ語で出版され、その後ヨーロッパ各国で、その国の言語で出版されました。この絵本は「教育を目的として作られた子ども向け絵本の元祖」と考えられています。この画期的な絵本はまたたく間にヨーロッパ中に広まり、その後何世紀にもわたり、子ども向け教科書の決定版となりました。パパやママや、孫を溺愛するおじいちゃん、おばあちゃんの膝の上で、絵本の読み聞かせをしてもらうことが大好きな、現代の世界中の子どもたちに、彼が残してくれた何と素晴らしい遺産でしょう。

この本は、各章に銅版画の挿し絵が載っており、その内容を説明する文章が添えられています。ほとんどの版で、この説明がラテン語と、その子の母国語の両方で記載されています。この本には150もの章があり、無生物の世界、植物学、動物学、宗教、人間とその活動など、幅広いテーマが取り上げられています。
この本のかなりの部分が、学びを光にたとえるという、よく用いられる比喩の意味を注意深く解説することに充てられています。聖書に記された「堕落」(Fall:楽園追放)以来、闇が地上を覆い、無知、苦悩、大災害は絶えることがありません。医学において病気の治療とは、その原因を取り除くことであるように、教育においても人々を救うためには、もっと多くの光が必要であると彼は考えました。
闇を克服するには、4つの作戦行動が必要です。それは、すべての人のための世界共通の書物(普遍的な書物)、誰もが受けられる世界共通の初等中等教育(普遍的な学校)、誰もが受けられるの世界共通の高等教育(普遍的な大学)、誰もが交流するための世界共通の言語(普遍的な言語)への取り組みです。普遍的な書物によって、誰もが共有する知識の土台が確立します。それを構成する第1の書物は『汎知識』(Pansophia)であり、すべてのものの全体的なあり方をすべての人が理解することを目指しています。第2の書物は『汎歴史』(Panhistoria)で、世界の始まりから現在に至るまでに知られている、個々の行動、出来事、問題点のすべてを扱います。最後の書物は『汎理論』(Pandogmatia)であり、物事についてのあらゆる理論と意見を、それがどこでどのようにして作られたものであれ、またそれが正しいか誤りであるかを問わず、すべて詳細に述べることを目指しています。




コメニウス著『世界図絵』より
『大教授学』
The Didactica Magna
「教育(education)という言葉は、『内側から引き出す』という意味のラテン語『エデュカーレ』(educare)に由来しています。『引き出す』ための多様な方法と戦略を見いだすことこそ、まさに教育学の仕事なのです。」(クラウディオ・マッツッコ著『I Saw Your Light from Afar』より)。
コメニウスの最大の著作は『大教授学』(Didactica Magna)です。もともとはチェコ語で執筆されましたが、1657年にラテン語でも出版されました。学校教育のほぼすべての部分を説明し、それに指針を与えようというその野心的な目標と願望が相まって、この書物は時代を超越した魅力を放っています。現代の教育において本質的で議論の余地のない部分となっている概念、体系、理念に関心のあるすべての人にとって、この書は発見の宝庫です。たとえば、子ども時代を人生の発達段階における主な学びの期間とみなすこと、教育課程を構成する場合は、知識の習得具合と年齢による区分を大原則とすること、日常の学校教育においては空間的、時間的、社会的な組織化を重視することなどといった考え方です。
『大教授学』の中で、コメニウスは教育や教授法に関する多くの考え方を整理して、明快に述べています。また、道徳教育や宗教教育の重要性、教育行政、学校における規律の役割などについての見解も示しています。コメニウスが神学者および教育者として活躍したのは、三十年戦争という混乱の時期と、宗教改革、反宗教改革、科学による重要な新発見によって、政治的状況、思想的状況に根本的な変化が生じた時期でした。コメニウスは個人としても戦禍に見舞われており、何人もの家族を失っています。また宗教的迫害を受けて、1621年に故郷モラヴィアから逃れました。その後彼は、生涯にわたる亡命生活を余儀なくされ、その間に、ヨーロッパ大陸と北欧を広範囲に旅しました。
『大教授学』は、教育を再構築するための、16世紀から17世紀初頭にかけての重要な取り組みでした。コメニウスは、マルティン・ルター(1483-1546)、フィリップ・メランヒトン(訳注、1497-1560)、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(1568-1654)といったルター派の神学者・教育者たちの系譜に自分自身も連なると、はっきりと考えていました。彼らはいずれも、教育についての考え方を徐々に改革し、国家の統治において、教育がさらに重要な役割を果たすことに貢献した人たちだと見なすことができます。
(訳注:フィリップ・メランヒトン(Philip Melanchthon):ドイツのルター派宗教改革者であり、神学者、教育者。ルターの友人であり、ルターの宗教改革の理念を理論面から支えた。また教育改革にも寄与し、「ドイツの教師」(praeceptor Germaniae)と称される。)

一生の中でも子ども時代は、特に生理学的な発達という面で重要かつ影響の大きい時期であると、歴史的にも考えられてきました。また子ども時代は、知識を得てそれを吸収し、正しい社会的行動を身につけ、道徳観や宗教的価値観を形成する時期だとされてきました。こうした考え方は、子どもの脳が「柔らかさ」と「みずみずしさ」を生まれつき備えているため、ひときわ柔軟で感受性が強いという信念に根差しています。さらに、学校での集団教育は学習に最も適した方法であると考えられていました。
集団教育は、人数という面で効率的であっただけでなく、社会性と知性という両面が相乗効果をもたらし、社会的交流と共同学習が促されました。コメニウスはインクルーシブ教育(訳注)を提唱し、社会経済的背景や性別に関係なく、すべての子どもが知識や道徳を身につけたり、宗教教育を受けられるようにすべきだと主張しました。彼はそれが社会全体の進歩のために有益であると考えていたからです。なんと感動的で、しかも現代的な考えでしょうか。
(訳注:インクルーシブ教育(inclusive education):障害や病気の有無、国籍や人種、宗教、性別といったさまざまな違いや課題を超えて、全ての子どもたちが同じ環境で一緒に学ぶ教育形態。さまざまな個性や価値観を受け入れる心を育み、誰もが活躍できる共生社会の実現を目標としている。)
コメニウスは自身の教育方針の中で、個人が獲得すべき3つの事柄を挙げ、その重要性を強調しています。(1)科学と言語を通じて得られる世界についての包括的な知識(2)道徳的美徳と礼儀正しさ(3)人生で真の喜びを得るための宗教的理解
健康、美しさ、富、成功といった外的な報酬を教育方針に含めることは可能ですが、これらは、人生の目標として十分とは言えません。コメニウスは、真の達成は、あらゆる個人に内在する本質的な資質である知恵、徳、国や民族や親を大切に思う心を追求することで得られると考えました。彼は、人間を本来の堕落していない状態に戻すには、理想的なやり方で適切な手段を用いて、これらの資質を養う必要があると主張しました。
コメニウスは、こうして確立された社会的行動規範から、追加のガイドラインを導き出しました。それは、誠実さ、真摯さ、忍耐といった価値観を、対人関係や労働に対する倫理観として若い人たちに浸透させるためのガイドラインでした。彼らが怠け者になったり、不誠実になったりしないことが強調され、そのために子供たちは徳の高い人たちと交わり、その人たちの前でさまざまな仕事に取り組むことが奨励されました。こうした取り組みには、教師、貴族、親などの、さまざまな背景を持つ人々とコミュニケーションを図り、交流する訓練を子どもたちに施すことが含まれていました。また、怠惰、無思慮、無作法、あるいは失礼な態度を示している子供たちを矯正する行いも含まれていました。
学校という組織では、明確な位置づけと機能を維持しながら、すべての要素が途切れなく相互に連携している必要があります。それによって学校という、有機的でまとまりのある社会的実体が生じます。効果的な教育を実現するために必要なのは、何よりも、時間、科目、教授法を巧みに配置することです。コメニウスは、混乱を最小限に抑え、学校の内外で発生する悪影響が広がることを防ぎながら学校を組織することの重要性を強調しました。また、気が散ったり、邪魔が入ったりすることのないよう、静かな場所に学校の校舎を設置することや、子供たちの心を鼓舞するために、学校の内部と屋外のスペースを好ましい見た目にすることを提案しました。
同時に、学校で使用される教育内容や書物は、子供たちが知恵、道徳心と、国や民族や親を大切に思う心を育むための助けとして申し分のない教材になるように、注意深く選ばれました。コメニウスはまた、心身や学びにおいて、調和を作り出すことと「不調和を避けること」に深い関心を寄せていました。
彼の教育モデルは、一度に100人もの児童を収容する集団教育に重点を置いていました。このモデルを効果的に実施するには、いくつかの追加的な方策が必要でした。たとえば、一部の生徒を監督生に選び、他の生徒たちを監督するという特別な任務を与えました。生徒たちは、10人ほどで構成されるグループに分けられ、各グループは監督生に率いられました。これらのグループとそのリーダーを監督するために、さらに上級の監督生が置かれ、教師がその最高責任者を務めました。
仲間同士の競争心やライバル意識に備わっている、意欲を起こさせる効果や切磋琢磨しようとする影響を利用するために、生徒間で行われる定期的なコンテストを教師が開催し、好成績を競わせることをコメニウスは提案しました。この取り組みの目的は、批判を受けることや低い順位を取ることを恐れる気持ちと、教師に認められ評価されたいという望みを同時に利用して、生徒の熱意を刺激することにありました。
「誤解しないでください。自分の無知を認めて自己改革に取り組むには、極めて特別な勇気が求められるのです。実際のところ、より良い仕事を見つけることよりも、自分を磨き完璧にすることの方が、内面の鍛錬がより必要とされます。」(エドワード・リー著『神秘学の実践』(Practical Mysticism)より)
コメニウスは、当時としては他に類を見ないほどの先進的な考えを持っており、彼が交流していたバラ十字会や、バラ十字会の思想から影響を受けていたことに間違いはありません。当時はまさに変革の時代であり、彼はその最前線に立っていたのです。






コメニウス著『世界図絵』に見られる教育用の挿絵
脚注と参考文献
1.『バラ十字会の歴史』(Rosicrucian History and Mysteries)(クリスチャン・レビッセ著)、 http://amorc.or.jp/about_us/history1.html に日本語訳が掲載されている。
2.「王立協会」(1660年11月28日設立)の正式名称は「自然についての知識を改善するためのロンドン王立学会」(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)であり、学術団体の一つであり、英国の国立科学アカデミーである。
3.ボヘミア王国のモラヴィア辺境伯領は、チェコの東部に位置する地域で、ボヘミアとチェコ・シレジアとともに、チェコの3つの歴史的領土であった。
4.現在の英国王室は、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世と英国王ジェームズ1世の娘エリザベス・スチュアートの直系の子孫である。
5.https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/0046760X.2020.1739759 — By Bjorn Norlin
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
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