クラウディオ・マッツッコ(Claudio Mazzucco、バラ十字会AMORC世界総本部代表)

私は英語を話さない。チャップリンはフランス語を話さない。しかし私たちは何の苦労もなく意思を伝え合う。なぜそれが可能なのか。二人の間のこの新しい言語は何なのか。それは活気に満ちた言語であり、あらゆる言葉の中でも最も生き生きとした言語であり、何としても意思を伝え合おうとすることから生じる。この言語とは身振りと表情という言語であり、詩人の言語であり、心の言語である。(*1)
ジャン・コクトー(Jean Cocteau:フランスの詩人、作家、芸術家)
私はこの記事で、さまざまなレベルで意思を伝え合っている生きものの能力について、皆さんと一緒に考えてみたいと思っています。たとえば、スピーチの原稿から恋人同士の無言の目くばせ、あるいは哲学の講義から赤ちゃんを撫でている母親の指といった、さまざまなコミュニケーションについてです。最近読んだ本によると、バクテリアでさえ、ある種の微生物学的なコミュニケーションによって遺伝物質を交換しており、木々もまた、根の部分にある組織を通して互いにコミュニケーションを取っており、栄養となる物質を交換することさえあるそうです。
私たちバラ十字会員の多くは、この有名なフランスの詩人のメッセージを特に身近に感じ理解します。バラ十字会のエグレゴアが現れるような状況が作られるたびに、私たちはこのメッセージの本質を目の当たりにします。それに相当する大きな経験のひとつが、2019年8月にイタリアのローマで行われたバラ十字会の世界大会でした。大きいと申し上げたのは、それを経験された会員の方々の数が多かったからでもあり、この大会には72ヵ国から2400名あまりの会員の方々が参加されました。実は今日、あらためて世界大会のビデオや画像をもう一度見ながら、私たちの誰もが味わっていた雰囲気、私たちが感じていた振動や私たちが作り上げていた友愛の空気を鮮明に思い出し、このとき私たちは小さなユートピアを作っていたのだと気づきました。私たちは一人一人が、優しさにあふれた仕草や微笑み、握手やハグ(抱擁のあいさつ)で、そしてたくさんの身振りや手振りで意思を伝え合い、コミュニケーションを取っていました。私たちイタリア人にとっては、皆さんもよくご存知の通りこれは簡単なことです。イタリア人は手を使って話すとよく言われますが、まさにその通りです。
しかし、大会の4日間で最も重要だったことを私は強調しておきたいと思います。それはまさに、私たちが調和を築き上げることができたことであり、その結果としてすばらしいコミュニケーションができたことです。というのも、人間同士の調和や意思疎通は天からの恵みとして降ってくるようなものではなく、約束や努力や善意によって、そしてまたエネルギーや時間をかけて、築き上げなくてはならないものだからです。またそのためには気配りも必要です。なぜなら調和とコミュニケーションを築き上げるのはとても複雑な作業ですが、それを壊すのにはほとんど時間がかからないからです。バラ十字会が伝えていることは、基本的にはまさにこのことです。つまり、自分自身の内面や自分の周囲に調和を築き上げるための手段であり、また自分自身や他の人たちと対話するための手段を私たちはお伝えしています。
ここで、「調和」という言葉が意味していることを明確にすることが役に立つでしょう。しかしこれは難しい作業ですし、もしかしたら不可能なことなのかもしれません。このようにイメージしてください。皆さんは今までに永遠に続いてほしいと思った瞬間を経験したことがあるでしょうか。この瞬間が終わらなければいいのにと思ったことはありませんか。もしそうであれば、調和を正確に定義することができないとしても、調和とは何かを示す具体的な状況を思い浮かべることができることでしょう。
このように考えてみると、より良いコミュニケーションができるように「調和」という瞬間を作り出すことは、やり方が明らかな作業でもなければ簡単な作業でもないことがわかります。特に、私たちが生きている現代は、他の人の言葉に耳を傾けないことが人間関係の特徴であるような時代です。多くの人が、他の人にも自分自身の内面にも、あまり耳を傾けていません。たとえば、政治的なコミュニケーションは、ある範囲の人たちの幸せ、あるいはより望ましくは、すべての人たちの幸せを守るための真の方策を探し出して、そこから外れないようにすることを目標にするべきです。しかしそうではなく、過ちを指摘されないように努めることが特徴になってしまっています。このような状況は政治の分野に限らず、人間関係においても見られます。ある人が話しをしているときに、もう一人の人が、話し手が息を吸うために間を置くやいなや、すぐに何かを言おうと待ち構えていることがよくあります。このようなときは、相手の話を真に聞いてなどいないのです。それでは、コミュニケーションをより深く、より質の高いものにするための要素とはどのようなものでしょうか。人と人が実際に会って、お互いの思いや考えを伝え合ったり、ときには人生の痛みさえも分かち合ったりしたいと思う要因は何なのでしょうか。
山歩きをしたことがある人は、他の登山者とすれ違ったときに、たとえまったく知らない人であっても挨拶を交したり、多くの場合、笑顔を浮かべたり手振りで挨拶したりすることを知っています。その一方で、私たちの誰ひとりとして、あるいは、いたとしてもほんの少しの人しか、都市の中心部にある通りで出会ったすべての人に、あえて挨拶をすることはありません。もしそんなことをしたら、たぶん怪訝な目で見られるか驚かれてしまうことでしょう。なぜこのような違いがあるのでしょうか。この2つの状況で、私たちはなぜこれほど異なる行動をするのでしょうか。

このように説明できると私は思います。山道をハイキングしているとき、私たちは自然を体験し、美を感じ、新鮮な空気を吸い、調和した瞬間を生きるためにそうしているからです。ですから私たちは、ハイキングで出会う人たちが同じ理由でそこにいることをよく知っています。そこで出会う人たちは、同じ目的、同じ意図で結ばれているのです。ですから、この考えを簡単にまとめるとすれば、「共通の目的を持つことは、コミュニケーションをうながす」ということになります。自分と同じものを求めている人がいるのを知ることで、質の高いコミュニケーションをもたらす関係を築くことができます。
しかし、二元性が支配するこの世界では、白か黒か、真実か誤りか、正義か正義でないか、論理的か非論理的かなどを区別しなくてはならないという強い思いを持ってしまうことがしばしばあります。そうすると私たちは、より真実に近いと思われることや正義であると思われる考えを支持したいと思ってしまいがちです。私たちは常に、ものごとを区別し、明確にし、定義し、修正し、自分が正しいと確信しています。客観性という観点から考えると次のことがわかります。人間は何かを経験しているときに、見かけ上は反対に思える2つのものを調和させる第3の可能性に、ほとんどの場合気づくことができません。第3の可能性によって調和を得るためには、その経験を、何にもとらわれない今までとは異なる観点から見るようにして、全体として理解する必要があります。絶対に正しい意見を持ちたいという思いからは解放されていなければなりません。実はこのような思いがまさに調和を乱す要因になるからです。私たちは自分自身の考えや話し手の考えよりも、さらに重要な真実が常に存在していることを受け入れなくてはなりません。そしてそれは、私たちが力を合わせたときにだけ、はっきりと見えてくるものです。そのためには、ちょうど山道を登っていくときのように、自分自身を進歩させていくことが必要です。そうすると、今まで想像さえしていなかった新しい景色が見えてきます。
私は先ほど「ユートピア」という言葉を使いました。この言葉は古代ギリシャ語に由来しています。ギリシャの歴史と言語の専門家は、この言語には、とても明瞭で繊細で精密な概念を表現する力があると教えてくれます。古代ギリシャ語はそれ単独で、極めて高度に洗練されたレベルで思考の内容を表現できたため、この言語によって西洋哲学の発展がもたらされました。ユートピア(utopia)という言葉は、「存在しない場所」を意味する「オウ・トポス」(ou-topos)という語に由来します。つまりユートピアとは、「存在しない場所」ということになります。私たちバラ十字会員は、ユートピアという特別な場所、この〈約束の地〉が、地図の上には実際には存在しないけれども、人の心の中に存在していることを経験的に知っています。人が地図上にこの場所を見つけようとするたびに、その結果は破壊的なものになりました。今日においてさえも、真のエルサレムが地図上に存在する都市であると2つの勢力が信じているために、彼らは常に戦争と圧制の状態にあります。そして国境線を常に移動させていますが、国境のような境界線は、私たちの精神の中にしか存在しない単なる取り決めです。
ユートピアという言葉は、子供じみた夢や達成することのできない空想の代名詞として使われることも多いのですが、それははなはだしい誤りです。というのも、現在人類が達成している数々の状況が、過去のある時点ではユートピアだと見なされていたものだからです。たとえば、第1次世界大戦や第2次世界大戦の最中に、ヨーロッパには、ひとつになった平和なこの大陸を夢見た人たちがいました。平和とは単なる休戦、つまり、戦力を回復して再び戦いを始めるようとする2つの勢力の間の小休止ではなく、協力や交流や文化的な成長に基づく真の共存です。かつて人々が思い描いた状況が、今日では多くの人たちの献身的な努力によって実現しつつあります。自分自身の考えるユートピア、自身の〈約束の地〉へ向かって歩むことが、地球上のすべての人の定めなのではないでしょうか。それは誰にもわからないことなのかもしれませんが。
宇宙論の研究家のクリス・インピーはこう述べています。「宇宙は我々のことを気にかけていないのかもしれない。しかし宇宙はまるで我々がやって来るのを知っていたかのように、ベッドを用意し、枕元にミントを置いてくれた(*2)」。バラ十字会AMORCの知識のような、心の深奥に関する知識を指針にして”歩む人”が積み上げていくあらゆる経験を、この文章は含んでいるかのようです。人生の意味、この地球上に自分が存在することの意味、自分の家族の目的、自分が携わっている仕事の目的、自分の暮らしの状況が意味すること、歩いていて道端で、あの人やこの人に出会う理由、さらに言えば、今まさにこの場所でこの記事を読んでいる理由、これらを見いだすことが私たちにとって最も重要なことです。これらの状況をそれぞれ別なものとして見たのでは、何の意味もなさないことでしょう。しかし、すべてを全体として見て流れる音楽のように感じるならば、人生のさまざまなできごとに、実際に深遠な意味があることが見いだされます。体験するできごとは、自身の人生と密接に結びついているため、自分にとって根本的なあることを明らかにしてくれます。
ですから、この意味を解き明かすことが必要です。ものごとには意味があることを宇宙全体が教えてくれています。それゆえに、人生で起こるさまざまな出会いは偶然に起こっているのではなく、偶然とはほど遠いものです。そして、私たち人間という種の特徴である愛情や知識の交換とともに、コミュニケーションを常に充実させていかなくてはなりません。深い共感や思いやりを示す人たちや、優しさや愛情にあふれる生き方をしている人たちを見たとき、そのような人たちが「とても人間らしい」とされることに気づいたことはないでしょうか。その理由はまさに、愛情、共感、思いやり、優しさとともにコミュニケーションを取る能力があることが、私たち人間の特徴だからです。これこそが人間であることの意味です。

私たちは誰もが、心の中のユートピアの到来を告げる先駆者なのです。というのも、ユートピアという約束の地が存在するのは人の心の中だからです。ですから、ユートピアへの旅は心の内面で行われます。それはある意味で、私たちに伝えられている心の財産です。私たちがこの旅に取りかかり、内面的な指針に沿ってこの散歩道を歩きはじめると、すぐに同じ道を歩いている人たちの姿が見え、声をかけて挨拶することを始めます。なぜなら、この旅がどれほど困難なものになるかを知っているからです。プラトンが「理想郷」と述べた場所、先ほどのたとえで言えば山の頂に達するために、ひとりひとりの人ができることすべてを行わなくてはならないという苦難を理解しているので声を掛け合うのです。
スタンフォード大学の文学の教授であるロバート・ポーグ・ハリソンが、紀元前4世紀の哲学者エピクロスについてこう述べていることを思い出します。「耳を傾け、互いを励まし、互いを高め合う方法を知っている友人との知的で有益で楽しい会話にまさる人間の喜びの実例はないし、それにまさる種類の心の幸せもない(*3)」。私たちバラ十字会員にとって、心を込めて話を聞きコミュニケーションを行うというこの単純な指針に注意を払うことはとても重要です。というのも、バラ十字会のような神秘学と入門儀式の道を、主知主義(訳注)のような無味乾燥な種類の考え方と混同してはならないからです。私たちは、哲学や神秘学の思想への知識欲にとらわれた博学家になりたいわけではありません。錬金術や秘伝哲学の文献から教養にあふれる引用を行うことができるけれども、心の中の〈絶対なるもの〉を感じ取ることができない人になることを望んでいるわけではありません。この〈絶対なるもの〉は、自身を超越した〈普遍的実体〉と言うこともできますし、端的に〈遍在〉ということもできます。それとは全く反対に私たちは、万物の統一性を心の中で感じ、自然界のすべての生きものと自分自身を結びつけている絆を実感することを心の底から願っています。普遍的実体は小さな実体の単なる集合ではなく、宇宙全体に充満している唯一の存在です。そしてこの普遍的実体は無限であるため、私たちひとりひとりは、無限なるものの表現の一つにすぎません。
(訳注:主知主義(intellectualism):知性的、合理的、理論的なものを重んずる立場。主知説。知性主義。)

先ほどのたとえに戻りましょう。まず最初に、歩くことは疲れるものだということを知っておかなくてはなりません。特に高い山であればあるほどそうです。道はたいてい上り坂であり、それぞれの段階で多くの努力を必要とします。折々に体力を回復できる平坦な場所もあれば、残りの行程は楽に違いないと思わせるような小さな下り坂もあることでしょう。そうかと思うと、また上り坂を歩き始めることになります。しかし、山は素晴らしい景色、珍しい花々のうっとりするような香り、新鮮で澄んだ空気、他では見られない動物や虫たち、そして他の人たちとの出会いを与えてくれることを私たちは知っています。そして、何人かの人たちが一緒に歩くようになります。山では連れ立って歩くほうが望ましいからであり、誰も孤独でいるべきではありません。
私たちは頂上に達したいという願いに動かされています。そこではいずれ、素晴らしい景色が明かされることになります。その景色を私たちはまだ見たことがないので、どのように見えるのかは分かりません。しかしそこにその風景があることは確かであり、私たちはそれを自身の心の内面で感じています。それが私たちのユートピアです。それこそがこの世界で私たちに命を与えているものであり、私たちが心の中で感じている調和であり、他の人たちと一緒に達成したい望みなのです。
私たちはこの景色に出会うために生まれてきました。その準備をしておきましょう。
参考文献
1 Mon Premier Voyage (1936) – Jean Cocteau
2 How it ends: From You to the Universe (2010) – Chris Impey
3 Gardens: An Essay on the Human Condition (2008) – Robert Pogue Harrison
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第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
第3号:学習の4つの課程とその詳細な内容、古代の神秘学派、当会の研究陣について