ルイーズ・レイン(Louise Lane)
私たちは、他の人に対して批判的にならないようにと教えられてきましたが、それには合理的な理由があります。他の人が現在の状況に至ったいきさつを十分に知ることは誰にもできないからです。理解する能力は本来誰にも備わっているので、他の人の経験が自分のものと似ていると理解することはできますが、それでも、まったく同じだということはあり得ません。思いやりの心とは、苦しみや不幸によって打ちひしがれている人に対する深い共感の感情であり、多くの場合、その人の苦しみを和らげてあげたいという思いや、その原因を取り除いてあげたいという強い願いが伴っています。思いやりという言葉を最も広い意味でとらえるとすれば、それは、自分の知的な能力や精神的な能力を用いて、人間のさまざまな体験が複雑に絡み合ってこの世に存在するという理解を自分にもたらすことです。
思いやりの心は、さまざまな形で生じます。最も一般的な思いやりの形は、自分が属する社会や文化の中にいる他の人たちの苦しみを、和らげてあげたいと心を動かされることです。このような思いやりの心は、社会を構成している他の人たちの中で、自分が認められていることと密接に関係しています。私たちはこの種の思いやりによって、特に子供や弱い立場にある人たちや、病人やお年寄りを助けたいと感じます。この感情は、自分自身の苦しみを理解する助けとなり、またこの感情によって、その日に善行を果たしたことが好ましく感じられます。しかし、この段階の思いやりはまだ、はなはだしく条件付きであると言えます。明らかに、助けたり理解したりするには値しない人たちがいると、自分の行動の基準で考えているからです。
二番目の段階の思いやりもまだまだ条件付きですが、自分が属する社会や文化の外にいる人たちの苦しみが含まれるようになります。しかし、異なる民族や異なる文化を持つ人たちは含まれますが、犯罪者や、自分の視点から見て非道徳的な人たちは除外されます。思いやりの心を示すことに、このような制限が付けられることには、もっともらしい言い訳がなされます。しかし実際のところその制限は、無意識に恐怖を感じていることから生じています。本当に自分自身に正直になれば、何らかの形で相手に恐怖を感じていることがまさに理由で、その人への思いやりや同情の気持ちが抑えられていることがすぐに分かります。
三番目の段階の思いやりは、純粋な思いやりと呼ばれるものです。これから見ていくように純粋な思いやりは、他の人に対する完全で無条件の愛を必要とするため、達することが最も難しい思いやりです。純粋な思いやりには、無意識に抱く恐れという陰りがひとつもなく、外見という妨げを突き破り、すべての人に働きます。私たち人間は、日常生活で自分が守られることを期待して、一生を費やして身の回りに無駄な防御壁を築いていますが、純粋な思いやりはその壁の向こう側を見通しています。最も気むずかしく、最も荒々しく、最も堕落した人は、それと同時に、最も感じやすく、自分を守ることが最も下手な人であることを、純粋な思いやりは知っています。
恐れこそが、潜在意識をそれほどまでに混乱させ、人格をねじ曲げ、暴力的で堕落した犯罪行為に人を駆り立てる唯一のエネルギーであることを、純粋な思いやりは理解させてくれます。それゆえに純粋な思いやりは、忍耐や施しや許しを超えたものです。なぜなら、純粋な思いやりとは、結局のところ、行動に移された真の思いやりだからです。
しかし、私たちは思いやりに対してどれだけ心を開いているでしょうか。無条件の愛を広く表すために必要な能力とはどのようなものでしょうか。愛が本物であるためには、愛を行動に移さなくてはなりません。愛は考えるものではなく感じるものです。思いやりを行動に移すということは、ひとことで言うなら、まずやってみることであり、そしてやるべきことは奉仕です。もちろん、奉仕は単なる援助とは異なります。援助という行為の根底には、不平等が存在するからです。援助を受けた人は、もしかしたら低い立場にあると感じるかもしれませんし、借りができたと感じるかもしれません。そこには、援助をする側と受ける側という区別も存在します。それはエゴ(外的な自己)の働きであり、善行を行ったという気分にさせてくれます。その一方で奉仕は、奉仕をする人にも奉仕を受ける人にも愛を与えます。奉仕には、他の人の痛みを感じる能力である共感が含まれます。奉仕とは、最高の善のために何かを行うことであり、ソウル(soul:魂)の働きです。奉仕には何のしがらみもなければ欲もなく、社会的な栄誉の意識も、やましさもありません。
思いやりは自分自身とともに始まります。思いやりとは、自分自身をさらに広い範囲でとらえ直す方法であるため、隣人を自分自身と同じように愛することが現実化します。たとえば、南アフリカで癌に関するヴッカ賞(Vuka award)の広告がテレビで放映されていました。その広告には癌と診断された10歳の少年が登場しました。化学療法の治療の過程で、彼はほとんどの髪の毛を失いました。しかし彼はそのままにせず、残りの髪の毛を全部剃ることにしました。やがて、少年は学校に戻れることになり、不安な気持ちで教室に入っていきました。そこで彼が見たのは、他の少年たち全員と担任の先生が、満面の笑みと歓迎の旗と、丸坊主の頭で彼を迎えている姿でした。それは、行動に移された思いやりの一例です。
もし私たちが、人類全体への連帯意識を心の底から持つことを学べば、このような利他的な心がエゴから完全に解き放たれ、最高の形の思いやりになります。私たちは思いやりを示すときには、他の人を批判することも判断することもせず、寛大でなくてはなりません。つまり、自分の望みを他の人に押し付けてはなりません。言い換えれば、完全に無条件であるべきです。見返りを考えることなく、区別せずに行動する必要があります。たとえば、困窮している人や慈善団体への匿名の寄付、火災や洪水などの災害などで苦しんでいる人々を支援すること、身の回りのことが自分でできない人を手伝うことなどが挙げられます。奉仕が必要とされている状況は無数にあります。ただ回りを見渡すだけで良く、遠くまで目を向ける必要はありません。
他の人が危機に陥ったとき、その人の必要に応えるという素晴らしい能力を人間は持っています。しかし残念なことに、多くの場合、この最高の力が引き出されるのは大災害が起きたときです。思いやりの心は、日頃から常に実践すべきものですし、まず私たち自身から始めなくてはなりません。もし私たちが、この世界で生きている他の人たちの幸せや精神的な成長に意図的に貢献することができないというのであれば、私たちは、何と心の貧しい人間でしょうか。自分自身に不親切であれば他の人にも不親切になってしまいますし、自分自身に無関心であれば他の人に対しても無関心になります。自分自身に思いやりを感じることにできてこそ、他の人に対しても思いやりを感じることができます。自分自身を愛することができなければ他の人を愛することもできませんし、他の人が愛されていることを受け入れられなくなります。自分に優しくすることができなければ、他の人が優しくされているのを見て腹立たしく感じることでしょう。無条件に心を込めて、自分自身を愛し大切にすることができれば、愛と優しさを切実に必要としている人たちにも、同じことができます。思いやりと奉仕と無条件の愛を通してこそ、私たちは学ぶことができます。
アメリカの哲学者であり古生物学者であった故ローレン・アイズリー博士は、私たちが生きているこの科学の時代の未来は、私たちが思いやりを実践し続けられるかどうかにかかっていることを確信していました。私たちが涙を流せる限り、感情を表せる限り、自分自身の幸福だけでなくすべての人の幸福を思いやることができる限り、文明は安全であると彼は述べています。人類は進歩し続け、完全さを目指して努力し続けるでしょう。しかしそれは、私たちが思いやりを示すことができる間に限って続くことでしょう。私たちが学び、この人生でなすべき仕事を進めるために努力するとき、そして身体的にも知的にも精神的にも自分を成長させたいという願いをかなえようと努力するときには、思いやりこそが、自分個人の進歩のための、とても重要な鍵になるということを覚えておきましょう。いえ、とてもでは言い足りません。最も重要な鍵なのです。
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