投稿日: 2026/05/15

以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。

※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

区切り

誠実さ、信義、感謝の心
Faithfulness, Loyalty, and Gratitude

クリスチャン・ベルナール(バラ十字会AMORC世界総本部前代表)
By Christian Bernard

「ユリシーズとセイレーン」ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス (1849–1917)
「ユリシーズとセイレーン」ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス (1849–1917)

辞書で「誠実さ」という項目を引くと、次のような定義が書かれています。「約束を守り、人を裏切らず、嘘をつかないように心を尽くすこと」。

誠実さや、信義や感謝の心という言葉から、中世の騎士道を思い起こす方もいらっしゃるでしょう。しかし、私たちの身に当てはめてみれば、誠実であるということは主に、率直な助言を求めている相手に対して嘘をつかないことも意味するのではないでしょうか。それはまた、相手と交わした約束を守るということでもあります。また、誠実であるということは、〈師〉や同僚を尊敬することであり、自らが選んだ、もしくは選ばれることに同意した、配偶者や友人に敬意を払うことです。しかし同時に、これらのすべてにもまして、誠実であるとは、自分自身を尊重することです。「寛容と親切はわが家から始まる」という諺がありますが、この言葉を実践するだけでなく、さらに「誠実さはいつも、自分に対する誠実さから始まる」と付け加えることができます。自分を尊重するならば、自分がすでに知っていることを他の人に教えてあげることも、他の人に敬意を払うことも容易になります。そして、自分の内にある自己と常に誠実に向き合っていれば、他の人に対して誠実でいることもたやすくなります。

誠実であるとは、様々な事柄を考慮に入れるのを止めることではありません。ある人や、ある事柄や、ある思想にやみくもに従うことでもありません。意図せず歩み始めてしまった危険な道を、脇目も振らずに突き進むことは、誠実であるどころか、浅はかであり、愚かであるとさえいえます。元々頭の回転が速く、小さな約束から大きな約束までを、その場で交わすことができる人がいる一方で、二つ返事を慎み、約束の重大性をよく吟味し見極めたうえで約束を交わすことが必要な人もいます。ひとたび約束を交わしたなら、私たちは、その約束を尊重するために、あらゆることを行わなければなりません。しかし同時に、「約束であっても、不可能なことは誰にも守れない」とも言われます。まさにこのような場合に、誠実さという観念の真価が問われることになります。

何らかの理由で、交わした約束が果たせない場合には、次のことを認める勇気を持たなくてはなりません。期待されていたことをなし遂げる力、約束したはずの援助を差し伸べる力、また、よくある状況では、満足のいかない人間関係を続ける力が、自分にはないということを認める勇気です。交わした約束を守れなくなる状況や不慮のトラブルには、様々なものがあるので、こうした実例はたくさんあります。

そのような場合には、道徳的にも理性的にも正直になり、心の中で自問をして、問題が自分自身にあるということを、しっかりと把握しなければなりません。求められていた内容が容易なことだと軽々しく考えていたこともあるでしょうし、疲れてしまったせいかもしれませんし、怠けていたことが理由である場合もあることでしょう。もちろん、ここで私は、ずる賢かったり、平気で悪事を行ったり、不道徳だったり、人を巧みに操る個人や集団によって裏切られるというような、極端な例について述べているわけではありません。もしそのような極端な場合にいったん気がついたならば、何よりも真っ先にすべきことは、できるだけ速やかにその危険から遠ざかり、距離を置くことです。そして省察と瞑想を行い、英知と、これから採るべき道についての指導を宇宙に求めるのです。

進んでいた方向が間違っていたこと、そして、約束を破棄するしかないことがはっきりとした場合は、冷静に、怒ったりせず、進む方向を正し、約束を撤回します。そうするときには、結論はたったひとつしかあり得ないという確信をもって臨みましょう。妥協したり、手の込んだ和解案を模索してはいけません。単刀直入に、勇気と決断力をもって臨むのです。

しかし、ここで強く申し上げておきたい事柄があります。自分が受け取った情報が正しく、約束を撤回する理由が道理にかなっているのを確認するのが大切だということです。自身の心の深底からこみ上げて来る、めったに外れることのない、あるしるしを感じることがあります。それは、例の感情、つまり、ある人や状況に面と向かった際に感じる落ち着かない感じです。これは、簡単に言えば「直観による」ものです。しかし、このような場合には、性急な判断を下さないようにしましょう。私たちを間違った方向に導き、私たちに備わっている様々な能力、サイキックな能力でさえも曲解させてしまう多くの要素があるからです。ですから、先ほども申しあげた通り、いかなる時にも正しい分析と熟考と見極めを怠ってはなりません。セイレーン(訳注)の歌声に用心しましょう。それは人を欺くためのものであるかもしれないからです。

(訳注:セイレーン(Siren):ギリシャ神話に登場する、上半身が女性で下半身が鳥の伝説上の生き物。美声によって船人を誘惑し難破させる。)

手短に言えば、約束を撤回することは不誠実ではありません。しかしそうする際には、正直でなければならず、生じる責任を自覚していなければなりません。そして、行った決断、あるいは行おうとしている決断のために、相手を非難してはなりません。自分の弱点かもしれない所や、理解の不足を正当化するために、かつては好きだったことや、追究したり関心を抱いていたことの価値を、貶める必要があると感じないようにしましょう。たとえ約束を撤回したとしても、誠実であり続けることができます。そのとき、気高さとは何か、高潔さとは、名誉とは何なのかということが問われているのです。

誠実であるとは、絶えず心変わりしたりしないようにする、あるいは、平たく言えば、「手のひらを返す」ような真似をしないことでもあります。「考えを改めないのは愚者にすぎない」という諺があることはもちろん承知していますが、この諺が、確信や信念などというものは捨て去ってしまった方がよいと言っているのではないことはもちろんです。それに、人を欺くことや、あるいはうわべだけを取り繕った、人に害を与えるような、結果として不誠実な態度に弁解の余地を与えているわけでもありません。

誠実さとはまた、感謝のあり方のひとつであるとも言えます。贈り物や恩恵を受け取ったときは、それが立派なものであろうとささやかなものであろうと、自身の感謝を表わし、その恩恵から生じる良い影響を汲み取ることができる自身の能力によって、〈創造主/神〉や生命や、母なる地球に感謝の気持ちを表すべきです。このことは、品物を受け取った場合でも、幸運な出来事が生じた場合でも、自分の助けになってくれる誰かに出会った場合にもあてはまります。

誠実さには、信義という考え方を含めることもできるでしょう。この2つは確かによく似た概念ですが、若干の違いが見られます。誠実さよりも信義と言った方が、礼儀正しい響きがあるのではないでしょうか。信義の心を、とても自然に表現している人たちがいます。信義とは、そのような人々に備わった気質の一部であり、彼らにとっては、それ以外の仕方で行動することは、思いもよらないことなのです。この種の信義とは、自分で選び取るものでもなければ、考えてそのように振る舞うのでもなく、ただ自然に“備わっている”というように私には感じられます。

自分の嗜好を変えることを好まず、特定のブランドやお店やレストラン、作家などに信義を抱き続ける人がいますが、そういった人は、ほとんどの場合、友情や愛情にも背くことがありません。このような人たちにとって、信義の心を持つことは容易で、裏切りなどということは思いもよらぬことなのです。彼らは自分の信念を曲げず、美辞麗句に心を動かされたり靡いたりすることもなければ、流行に左右されることもありません。そのような外からの働きかけにはほとんど影響されないのです。

この文章は、バラ十字会から公表されるのですから、バラ十字会に関連した例を挙げることにしましょう。生まれつき、信義に篤い人が、自分の心に適う道を見つけ、気に入って、入会したとしましょう。

そして、教本や書籍を読むことで満足感を手に入れ、当会のような友愛組織の一員であることを幸せに感じ、会のエグレゴア(集合意識)に由来する様々な恩恵や神秘的な力を感じ、さらにもしも、ロッジやチャプターやプロナオスの活動に参加する機会を得て、精一杯の貢献ができるとすれば、会員であることを止めてしまおうなどと思ったりするでしょうか。

バラ十字の道を歩んでいることが幸せである時に、それ以外の何かを、あるいは別の道を探そうなどと思うでしょうか。その結果、こうした人たちは会に篤い信義を示し続け、自分で選び取った、共感できる理想を支持するのです。そこには、多少の気持ちの浮き沈みはつきものです。出会った人々に多少がっかりとさせられることもあるかもしれません。また、たとえば、10回、20回、場合によってはそれ以上に何度も役員の仕事を引き受けなくてはならないとか、自分が所属する下部組織の委員会の責任者にならなければならないとしたら、多少なりとも疲労を感じたり、気持ちが萎えてしまいそうになることもあるでしょう。それでもなお、こうした人々の信念や信義は少しも揺らぐことはありません。たとえ、遅刻したせいで扉が閉まっていたとしても、兄弟や姉妹が、あなたから借りた本か何かを返し忘れているとしても、時々他の人から、きつい一言を投げかけられても、誰かに誤解されたり、何かに落胆することがあるとしてもです。

赤いバラと彫像

このような人は、要するに「知恵ある人」なのです。彼らは、生まれ変わり続ける限りバラ十字会を支持し続けるでしょう。なぜなら彼らは、通常の集会や大会にたとえ出席できない場合でも、自宅や自分だけの聖所で、あるいは安楽椅子に腰掛けたり、ベッドの中で、心の深奥にまつわる作業をたゆまず続けているのです。そして、いよいよ最期の瞬間が訪れたならば、次の言葉が表す通り―なんと的を射た言葉でしょう―、「自分のソウルを〈創造主/神〉へと返す」のです。バラ十字の庇護のもとで、彼らは最後の旅路の支度を調え、希望と確信を抱いて肉体を離れ、生まれ変わった後も、ごく幼い時期に再び、バラ十字の道を見いだすことでしょう。そうなのです、このような人は信義の心に満ちているのです。誠実であるかどうかは、彼らには大した問題ではありません。誠実であることがすでに当たり前になっている人たちなのですから。

同じ美徳でも、誠実さの方が信義よりも、行動に直結していると考えることができるかもしれません。というのも、誠実さには、十分に考え抜いて約束を行なうことが必要とされ、受け入れた誓いを守ることが含まれ、時には、断固とした態度を表明することが必要になるからです。誠実であること、そして、精神的な意味でも、また時には肉体的な意味でも強さを示すことは、私たちの義務です。よからぬ企みにはきっぱりと「いいえ」と言い、うわさ話には耳を貸さず、私たちの弱みにつけ込んで、自尊心をくすぐるような甘い言葉をささやきかける「悪魔」が私たちを試し、誘惑してきても、毅然として高潔さを貫かなくてはいけません。邪悪な力に捕まらないようにしましょう。そのような外力は、私たちが、自身の信念に背いたり、その信念について嘘を述べたり、いわれのない非難を行なったり、その信念を撤回したりするように仕向けます。また、これまで積み上げてきたものを破壊し、愛するもの、すなわち友人や家族を見捨てるように仕向けるのです。

他の人との関係を絶つことは、自分の価値を否定するのと同じことです。このことに関連して、自己否定と恩知らずという事柄について考察してみたいと思います。この2つは時として、他の人との関わりを絶つことで生じます。誠実であり、信義の心を持っているならば、多くの場合、恩知らずではありません。ありがたいという気持ちは様々な形で表に現れます。最も素朴で無邪気な表現は、単にうれしいと感じることであり、喜びをもたらしてくれるものの一切が、色々な人の手を経て自分のもとに届けられたのだということを、折に触れて思い出すといったこともそうです。多くの場合、外の世界で起こる出来事やトラブルがきっかけで、そう考えるようになります。そうしようと思って思い出すわけではなく、考え抜いた末の結論として思い出すのでもなければ、計画的に思い出すわけでもありません。その時の状況がそうさせるのです。しかし、意図せずに思い出すということ自体が、高く評価されるべきことです。というのもこのことは、記憶の中からも、心の中からも、感謝の気持ちや思い出をひとつも捨てていないという証しだからです。

感謝の気持ちを表明するということは、それが行動であるという点で、ありがたいという単なる気持ちよりも積極的であり、表現として豊かです。ありがたいという思いが、単に感情として放置されるのではなく、目に見える具体的な形で表されて初めて、感謝の気持ちが表明されたことになります。感謝する相手は、〈創造主/神〉であったり、偉大な宇宙意識であったり、あるいは自然界などであることでしょう。『バラ十字生活の規約』では、この考え方が何ヵ所にも出てきます。この文書を、もしあなたがご存じでないならば、きっとご興味を持っていただけることと思います。この文章には各国語版と、各国語版を集めてエスペラント語版を加え、出版された書籍があります。(脚注1)

私たちに与えられた命に対する感謝も、私たちが味わう様々な経験に対する感謝も、また、その結果として確実に進歩していることに対する感謝も、私たちの中に褪せることなく存在しています。このような感謝の思い、生き生きとした日々の感謝が沸き起こる機会を、意図して作るようにしましょう。そのようにすることが、最も完全な感謝の表し方ではありますが、ありがたいと思う気持ちは、形こそ違え、自然とにじみ出てくるものでもあります。世界のどこでも、崇拝や尊敬の念を表わすために作られた場所では、祈りが捧げられ、香が焚かれ、ロウソクやランプが灯され、果物や金銭、あるいは奉仕という形で供物が捧げられます。この場合、感謝の気持ちは、具体的で形のある行為や捧げ物によって、物質的に表されます。しかし、以前にも指摘したことがありますが、たとえ、ある特定の恵みに対して感謝を表わすとしても、本質としては、神聖な法則に適うことを意図した、宇宙に対する感謝だと言うことができます。バラ十字友愛組織では、この法則を「アムラの法則」と呼んでいます。

「〈アムラの法則〉という慣習は古代のエジプトで、特に神秘学派に属している達人の間で日常的に行われていました。これは多少異なった形でユダヤ教に伝えられ、今日では、キリスト教の中にも、様々な形で見いだされます。この慣習は、複雑なことではありません。つまり、〈アムラの法則〉という慣習は、ある恩恵を受けたならば、それに対する感謝を、何らかの方法で表現するということです。しかしながら、そのような恩恵とは、何かの品物を入手したり、経済的な恩恵を受けることに限らないということを心得ていなくてはなりません。実際のところ、気づいているいないにかかわらず、私たちは、自分の幸せに役立つすべてのことに対して、宇宙から莫大な恩恵を受けています。興味深い人と愉快な時を過ごすことができたという理由だけで、〈アムラの法則〉という慣習に従うバラ十字会員がいるのはそのためです。また別の人は、物質的な試練や道徳的な試練に打ち勝つための援助を宇宙がしてくれた時に、この慣習に従います。もちろん、〈慰めの評議会〉からの援助を受けた時に、この慣習に従う人もいます。実際のところ、私たちのひとりひとりに、〈アムラの法則〉という慣習に従う、その人独自の理由があります。ある人が、自身の優秀さによって得たものであると考えているものを、別の人は、天からの贈り物と考えるからです。自身が考え、語り、行なってきたことの結果として、自分はあることをなし遂げたのであると私たちは考えるかもしれませんが、実際のところ、私たちが得た恩恵はすべて、突き詰めて考えると、宇宙がなし遂げることを私たちに許してくれたものでしかありません。私たち個人を通して〈宇宙の聖なる知性〉が働いたのであり、私たちは〈宇宙〉が許してくれた恩恵を受け取ったに過ぎないのです。」

「〈アムラの法則〉を満たすことができる方法を考える前に、それが決して義務ではないということを強調しておかなければなりません。それはこの慣習が、まったく自発的に、そしてまったく無条件に、つまり見返りを求めることなく満たされるべきであることを意味しています。そうでなければ、〈アムラの法則〉のもとに提供されるものには、神秘学的に何の価値もないことになります。もうひとつ心得ておいていただきたいのですが、アムラの法則を、いかなる迷信とも混同するべきではありません。つまり、もしこの法則を満たさなければ、もはや援助や慰めを受け取ることができないと考えるべきではありません。感謝の気持ちを忘れたことによって、幸運がもたらされることはないというのは真実ですが、不運がもたらされるという恐怖感によって、〈アムラの法則〉という慣習を満たすことが強いられるべきではありません。あるいはまた、宇宙から何らかの恩恵を受ける前に、この法則を満たして宇宙への感謝を表わすならば、宇宙の援助を受けるのを確かにすることができると考えるべきでもありません。このような考えから行動することは、ある種の迷信に染まることです。」

「受け取る恩恵が、必ずしも金銭や物品ではないのと同じように、〈アムラの法則〉による慣習も、ある量の金銭や物品を渡すことによって機械的に行われるのではありません。それ以上にふさわしい、この法則を満たすための様々な手段があります。誰かに、その人が必要としていることをしてあげることもそうですし、苦悩している人を慰めるために時間を割くこともそうです。また、他の人との関係を改善しようと努力することもそうですし、より広い意味では、自分の才能と適性を活用して、周囲に存在する価値ある仕事にたずさわることによっても、この法則を満たすことができます。私たちはまた、〈慰めの評議会〉の活動にできるだけ定期的に参加することによって、この法則を満たすことができます。なぜならこのような活動は、他の人々の幸せに貢献することだからです。」(脚注2)

以上が、「アムラの法則」の意味についてのバラ十字会の考え方であり、この法則に適った行動の実例です。

ろうそくの炎

感謝の心に関して一言付け加えるならば、私たちの助けになり、時間を割き、様々な形で尽力してくれたり、贈り物をしてくれる人々に対し、私たちはもっと頻繁にその気持ちを表すべきだと思うのです。感謝の気持ちを表わす表現は、人の話すすべての言葉にあり、どんなに狭い地域の方言の中にさえも必ず存在します。それが言語であろうと身振りや笑顔であろうと、その気持ちを伝えることは、人類の誕生と同じぐらい古くからあるのです。なぜかと言えば、ありがたいという感情は、形式だけの礼儀、人間が時流に合わせて作りだしたうわべだけのそぶりなどとは比較にならないほど、心の奥深くに根ざしているものだからです。

自分の思いを通すことや、したたかに振る舞うことや、感情を隠すことが、いつのまにか人間の第二の本性となってしまい、それから幾世紀もの歳月が経ってしまいました。富や財産を築き上げ、有り余るほどの余暇と娯楽も手に入れたとき、そこからもたらされることの多くが、価値のない白々しいものに思われてくるということも多いのです。いわゆる「文明社会」や「近代社会」と呼ばれている状況において、私たちは、あまり考えることなく消費を続け、その背後では、自身も他の人々も、我が身をすり減らしながらあくせく働き続けているということに思い至ることがありません。つまり、私たちは不幸なことに、何かに感激したり感謝することがあまりにも少なく、目は閉ざされ耳はふさがれてしまっているのです。

だからこそ、「ありがとう」という言葉には、心の底からわき出る感謝の気持ちがこもっていなくてはならないのです。そして、その気持ちを、必ず外に表わすようにしましょう。礼儀作法を尽くす以上に、感謝の心を示すことで、私たちは優しく喜ばしい気持ちになります。家族そろって何かをする時や、友人と集まるとき、あるいは勤務時間に、目の前にいる人たちに感謝の気持ちを伝えてみましょう。彼らはそうされてしかるべき人なのですから。あなたがその人を、どれほど高く評価しているのか、どうして感謝しているのかを伝えるのです。あなたの感謝の気持ちを分かってもらい、その場にいる他の人にも聞いてもらいましょう。そうするだけで、その人は、あなたの感謝からさらに強い印象を受けます。

外に表さない秘めた感謝では、相手がそれと気づかないとしたら、いったい何の役に立つというのでしょう。あなたの気高い感情を表に出すことを私はお勧めしているのです。そうすれば、あなたが親切や感謝を示した相手に、幸せがもたらされます。そして、あなた自身も、真の幸せを感じることになります。なぜなら、私たちは、与えたものを受け取ることになるのだからです。短い言葉でいえば、感謝の気持ちを抱くことは良いことであり、その感謝の気持ちを表すことはさらに良いことです。

誠実さ、信義、感謝の心。これらは、身につけるべき3つの美徳であり、応用すべき3つの原理であり、掘り下げて考えるべき3つの考え方です。しかし、そこにある精神はただひとつです。どうか、この3つの資質が、人生の最後まで、あなたを突き動かすものでありますように。そして、あなたと関わる人々のすべてが、これらの資質を持っていますように。あなたと関わる人の一部に、これらの資質が、もし備わっていないとしても、どうか、明晰な思考力と強さと知恵があなたに備わり、あなたを護ってくれますように。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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