セシル・A・プール(Cecil A Poole)
なぜ私たちは生きるのか、多くの人がその理由を説明しようとしてきました。人生の目的は、要するに何なのでしょうか。ほとんどの哲学や思想の根底には、この基本的な疑問が存在します。この問いに対する一人一人の決意や結論がどのようなものであるとしても、他の何よりも有力であるように思える理由が一つあります。それは生きるというプロセスのすべてを全うしたいという欲求です。このことを、「存在するものとして、命を保ち続けたいという欲求」と言い換えることができるかもしれません。
通常の人であれば、自分の命を守るために、あらゆる力を尽くすでしょう。病気になったり、事故に遭ったりした場合、つまり生命体としての営みを妨げられるような状況になった場合には、誰にとっても最も貴重な所有物である命の火を保つために何ができるのか、もし可能であれば専門家にアドバイスを求めることでしょう。
私たちは誰もが、快適で幸せに暮らしたいと願っています。つまり、人間の行動から判断すれば、自分が置かれた環境にうまく適応することが、人生の根本的な目的の一つです。人はこのような適応を通常示しますし、少なくとも、判断を下すときの基準は、健康の程度や、個人として感じている幸せの程度に基づいています。よく適応した人とは、精神的に言えば充足感を得ている人であり、身体的に言えば、良い健康状態にある人です。言い換えると、人類の努力は、一見するとこの目的に直接向かっているようには思えないかもしれませんが、個々の人と、その人の外部にあるすべてとの間に、調和した関係を築くという目的に向けられています。
生命の価値
The Value of Life
生命には大きな価値があり、生命を守るために人間が大きな労力を費やしていることを考えると、この地上に生まれ落ちた人間にとって、生命はあらゆる価値の中でも最大の価値であるように思えます。このことが、極めて基本的な真実であることに間違いはありません。もし生命が存在しないならば、人間の理性で考える限り、存在するものには何の目的もなく、万物には普遍的な目標も目的も無くなることでしょう。実際のところ、何かを知覚する生きものがひとつも存在しなければ、いかなる物も、存在しないのと同じことでしょう。存在しているすべてのものが、もしくは私たちが知覚できるすべてのものが、物質の世界という私たちの概念、つまり生命と物質の世界との関係を中心に展開しています。
生命を守るためならどんな極端なことでも行うほど、私たちは誰もが生命を価値あるものだと考えています。ですから、この世界に生命が現れるようにしている肉体とは別々であっても、生命には何らかの価値があると考えられます。生命のように微妙で、定義するのも説明するのも難しい何かに、私たちが理解し知覚できる物質的現象の、いかなるものをも超える価値があるに違いありません。別の言い方をするなら、生命とは私たちが認識している非物質的なものの一つであり、そして、私たちが暮らしている物質的な世界を把握し、この世界から喜びや恩恵を受け取る能力のために、生命は絶対に必要なものです。したがって、生命には、私たちが活動を理解しているこの世界を超越する価値があるはずです。「コヘレトの言葉」の第3章1~2節で、この詩の作者はこう語っています。
「天の下では、すべてに時期があり、すべての出来事に時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある。植えるに時があり、抜くに時がある。植えるに時があり、植えたものを抜くに時がある。」
宿命論者は、人生でどんな努力をしようと、この時間も場所も私たちの経験の一部であると言うことでしょう。その対極にいる日和見主義者は、私たちが時間と場所を役立てて、人間存在の原動力である生命という恩恵を最大限に活用しているのだと言うことでしょう。しかし、人間と環境の関係についてのいかなる哲学理論を打ち立てようと、実のところ、私たちの本当の目的は、一時的でしかないあらゆる価値を超越するある目的のために、生命を活用することと密接に関連しているべきです。
止むことのない変化
The Constant of Change
ご存じのように物質の世界は、常に変化する世界です。常に変化する状態にある物質とエネルギーから、物質の世界は構成されています。物質とエネルギーは破壊することはできないことが科学的に知られていますが、物質とエネルギーは、その状態に関する限り、いつでも大きく変化することがあることを、私たちは経験的にとても良く知っています。
それでは、世界に対する私たちの望みは何なのでしょうか。私たちは、物質の世界を支配し、完全に征服して、それをコントロールするために生きているのでしょうか。それとも、物質の世界と宇宙を、人生という偉大なドラマを演じるための舞台として、手段として用いることを望んでいるのでしょうか。この2つの考え方は、哲学と関連しています。絶対的な唯物論を信奉する人たちは、時間と空間の両方を含む物質の世界の絶対的な支配権を得ることが、偉大な望みのひとつであり可能性であると信じています。
近代以降、物質の世界の基本的な性質である時間と空間をコントロールすることに、多大な労力が注がれてきました。人類は、時間と空間をかつてないほど高度に支配できるようになったため、人間の運命がどのようなものであるとしても、それをなし遂げたと信じています。しかし、そのような支配だけが、あらゆる生物の進歩の最終的な目的や終着点ではありませんし、そうであってはなりません。進歩は、生物学的なものであっても心理学的なものであっても、向上や成長という普遍的な概念を含んでいます。物質の世界を支配することは可能かもしれませんが、それによって必ずしも進歩に必要な成果が得られるとは限りません。
私たちの周りのすべての物理的な状況を完全にコントロールできる時代に、最終的に到達したと想定してみましょう。人生に対する私たちの哲学や生きる目的の全てが、物質の世界を支配することだけに向けられていたならば、完全な支配をなし遂げた後で、いったい何をすればいいのかと自問することになるのではないでしょうか。私たちが宇宙を支配し、物質として目の前に現れている物のすべてをコントロールするようになれば、生きる目的のすべてが消えて無くなることになります。物質的な支配が、生きることの究極の目的であるのなら、もはや向かうべき場所もなければ、さらなる進歩のための目標も残されていないからです。
人類の未来
The Future of Humankind
世界に対する私たちの望みは、必ずしも物質の世界を支配することではなく、生命自体がより意味のある要素になるように、物質の世界を利用することです。人間は、次のことを理解する必要があります。極めて多くの人が支配しようとしている物質の世界は、壮大なドラマのために用意された舞台に過ぎず、このドラマのクライマックスと結末は、物質の世界によって私たち人間に課されているあらゆる制約を超越したレベルに、最終的に到達することです。
ですから、世界に対する私たちの望みは非物質的な領域にあります。生命は、私たちが知覚する本質的エネルギー(essence:エッセンス)の一種であり、物質的世界に存在してはいるものの、物質の世界とは直接は関係しないという理解が世界に対する望みの前提になります。この前提が真実であるならば、生命は物質の世界を超越し、物質の世界とその変化するありさまに関係なく存続する要素や力に関連していると考えることができます。
支配だけでは、不十分です。人間の進歩は、単なる物質的な環境のコントロールではなく、さらに偉大な達成に向かいます。そして進歩を通して、人類は最終的に生命そのものを理解するようになります。世界に対する人間の望みは、生命そのものが、そして生命の源と生命の関係が、物質の世界全体をコントロールしたり所有したりすることよりも重要であるのを、私たちが理解することの中に見いだされます。
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