投稿日: 2021/12/10
最終更新日: 2023/11/02

グスタフ・ジークマン

ゲーテの作品の中でも謎めいた戯曲である『ファウスト』は、人類が、原初の時代に始めた進歩の道筋を象徴的に描いた物語と呼ぶことができるでしょう。そして私たち人類の進歩は、この世の体験とそうではない体験のすべてを通して、すべての生き物の究極の目標である〈一なるもの〉へと向かっていきます。神秘学という眺めの良い視点から、ゲーテのさまざまな作品を見ると、『ファウスト博士』という古風な伝説(訳注)から作られたこの戯曲は、「探求」の物語のひとつであるということが分かります。探求の物語とは、失った宝を人類が探し求める旅です。そしてその宝が見つけだされたとき、私たち人類には神聖な力が与えられ、あらゆる逆境を乗り越えて、人生を自在に操ることができるようになります。またそれは、宇宙によって定められた道の案内を探し求める旅でもあります。この道を先に進むには、皆さんもご存じの通り、有形のものも無形なものも含め、周囲のさまざまな世界に知覚の範囲を広げようとする、つね日ごろの努力が必要になります。

(訳注:後述されるように、実在したとされる錬金術師ヨハネス・ファウストについての、16~17世紀にドイツで流布した伝説が、ゲーテの戯曲『ファウスト』のモチーフとなった。)

『ファウスト』と同じ探求というテーマは、エジプトやギリシャの古代神話の中にも見られます。たとえば、エジプト神話のイシスとオシリスの伝説や、ギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケの話などですが、特に顕著な例は、エレウシス神秘学に見られます。この神秘学の伝承では、大地の女神デメテルが、行方知らずになった愛娘ペルセポネを探します。心理学では、魂や信仰、欲望や愛という観念の起源や、それらの説明となる物質が探されます。また、「聖杯探求」の伝説もあります。バラ十字会では伝統的に、「失われた言葉」を見いだすことが取り上げられています。

これらと同様に、ゲーテの『ファウスト』も、普遍的な調和を人類が探し求めることを象徴的に表しています。この探求の根本にあるのは、「世界を一つにまとめている秘められた力、世界を進むべき方向に導いてくれる秘められた力を見いだしたい」という、私たちに本来備わっている心の促しにほかなりません。ファウスト博士は、この世で重ねる様々な、入り組んだ経験のすべてを通して、自身の内部に現れている、人間の性質の数々の神秘を理解することを学びます。ですから、『ファウスト』は、低いレベルから高いレベルへと意識が果てしなく上昇して行く、一連の入門儀式だとみなすことができます。

ゲーテの作品には深い神秘学的な意味が込められており、神秘学を学ぶ者にとって注意深く検討するに値します。物質主義が圧倒的な支配力をふるっているように思われる現代でさえ、人生の非物質的な面に関する数々の事実を、人々は認識するようになってきました。原因と結果という宇宙の法則の総合的な働きのもとで、このような認識は、物質主義と歩調を合わせるように広がっていくのでしょう。そして、物質の世界と形而上学的世界についての認識の間に調和のとれたバランスが保たれていくのでしょう。このことは、あらゆる生き物が宇宙の完全性に向かって近づいていくために絶対に必要とされる前提条件であり、至高の存在があらかじめ定めたものです。

参考記事:『ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテと神秘思想、主な作品の紹介、テンプル騎士団

認識の拡大

Expansion of Awareness

 今述べたような認識の拡大は、ゆっくりと進行するものであり、今のところ、大多数の人は意識していません。しかし、正しい真の道をすでに発見している人は、このような認識を意図的に拡大しようとしています。このことをゲーテは、『ファウスト』の開始早々の「天上の序曲」の中で、私たちに語りかけています。この場面では、主である神の声が聞こえ、メフィストフェレス(以下メフィスト)という悪魔と会話を交わします。メフィストによれば、この世界の「小さき神」である人間どもは、天地創造以来ひとつも進歩しておらず、手前勝手なくだらない思い込みにどっふりと浸っており、悪魔でさえそそのかしてやろうという気が起きないと嘆きます。さらに、人間どもは、神の恩寵によって、「理性」と呼ばれる天の光を、わずかに授かっているにもかかわらず、最も下等な獣よりも自分が獣らしくなるためにしか使わないと吐き捨てます。

神はその言葉をさえぎり、「だが、ファウストがおるぞ。彼は学者にしてわが僕である」と言います。ドイツ文学の大家ゲーテは、神と悪魔とのやり取りであるこの出だしの場面で、大宇宙における人間の立場を垣間見せています。神と悪魔、天国と地獄、光と闇、肯定と否定という2つの極のはざまに置かれ、しかもそうした二元性が自身に備わっている人間は、まるで、電気を帯びた粒子の塊が、陽極と陰極のどちらからも引っ張られて、宙に浮いているようなものです。そして、観客の視線は、典型的な神秘家であるファウストに集まります。ファウストがどのような人物であるかは、次のメフィストの答えにはっきりと表されています。

「ごもっとも! ファウストめの、神であるあなた様への仕え方ときたら、けったいなことこの上ありません。あの戯(たわ)け者ときたら、この世で飲み食いするだけじゃ飽き足らず、ふつふつと沸き立つものが奴を遠くへ駆り立てるんです。自分がいかれてることに半ば気づいてはいるんですがね、天上には、もっとも清らかな星々をねだり、地上からは、至上の喜びと最高の贅沢をせがむときている。そのくせ、遠くのものだろうが近くのものだろうと、奴の望んで得たものが、その胸の内の波風を鎮めたためしは、いちどもございませんや。」

さてここから、宇宙のさまざまな力が、この神秘家に作用することになります。宇宙の進化は決して方向を変えることがないという不変の法則によって、人間は、この世での様々な浮き沈みを経験しながら、必ず、自身の魂を高め、認識の範囲を無限に広げていきます。心理学者のグスタフ・ユングはこのことを「個性化の過程」と呼びました。劇の中で神は、この原理が真実であることをこう断言しています。「私に対するファウストの奉仕ぶりは、今のところはまだおぼつかないものだが、そのうちに、すっきりと晴れた朝の光へと導いてやるとしよう。よい庭師は、芽吹いたばかりの若々しい木に、何年か後にその木を飾ることになる花や実を望んだりはしないものだ。」

否定に明け暮れる悪魔

The Spirit Who Ever Denies

 この言葉に対し、「否定に明け暮れる精神」であるメフィストは、「やつを手に入れるチャンスはまだこっちにある」ことを確信し、神に向かって「ファウストを丁重に導く」許しを求めます。するとそれを許し、神はこう答えます。「彼が地上で生きている限りは、お前を止めることはすまい。人間は、過ちを犯すからこそ向上したいと願うのだ。よかろう。そなたの頼みを聞き入れようぞ。この者の魂を、源泉から引き離し、罠を仕掛けてひっ捕らえ、そなたと共に、低きところに導くがよい。人間の活気は、あまりにも早く衰え、誰にも邪魔されることのない休息を求めるようになるものだ。しからば悪魔よ、彼を誘惑するがよい。彼をあやつり、煽り立て、奴隷のように精を出して彼に奉仕するがよい。最後にはそなたは、恥じ入ってこう言わねばなるまい。心清き人間は、どれほど闇に包まれた卑しい野望にとり憑かれようとも、〈ただひとつの正しき道〉を忘れぬものでございましたと。」

ドイツのフランクフルト・アム・マインにあるゲーテの生家

ゲーテの作品には、この世で生きる人間についての、考えうるありとあらゆる思想が盛り込まれています。人生の目的と基本法則、聖なる影響と俗なる影響の心の中での対立などです。ヨハン・ブォルフガング・フォン・ゲーテは、ドイツのフランクフルト・アム・マインで生まれました。この都市は、彼が生まれた1749年当時は神聖ローマ帝国の直轄地であり、諸侯や領主が支配する土地ではありませんでした。弁護士であり市の顧問でもあった父ヨハン・カスパールから、徹底した現実主義をゲーテは受け継ぎ、若く快活で豊かな想像力を持った母エリザベートから美と調和に対する感覚を譲り受けていました。

両親とも高い教養を身に着けた人ではあったものの、性格は正反対でした。父親の知的な性質と母親の感覚的な性質の隔たりは、幼いゲーテの心をたいそう苦しめ、そのせいで、彼は少年時代に、大病を患ってしまったほどです。そしてこの心の痛みは、大人になってからも長く彼を苦しめました。

疾風怒濤

Sturm und Drang

 若いゲーテが大人になりつつあった頃のドイツでは「疾風怒濤」(嵐と衝動)という文学運動が起きていました。この運動は、合理的な知識と直観との間にある感情的な隔たりを表現しようとするものです。教会が説く古い固定的な教義と、ルネッサンスとルターの宗教改革によって目覚めた新しい知識の間で引き裂かれていた当時の知識人たちの間に、この文学運動が広がっていきました。

こうした相反する二つの面が、この作品におけるファウスト博士の人物像に表されています。「やれやれ、俺の胸の内には二つの魂が宿っていて、互いに、もう一方を無視したり、反発したりし合うのだ」とファウストが語るとき、そこには作者自身の性格が色濃く投影されています。ゲーテの本質的な部分に巣食うこの対立は、ある程度までは和らげることができましたが、それは母方の祖父のおかげでした。この祖父は、ゲーテの父親と同様に弁護士であり、また、フランクフルト市長としてひとかどの人物だったのですが、同時に、将来を見通す洞察力に恵まれていました。

祖父の蔵書に、幼いゲーテは胸を躍らせました。そこにある旅行記や探検記や自然科学の本を通じて、さらに祖父のサイキックな性質の体験談を通じて、ゲーテは、オカルトや人生の見えざる神秘の数々に小さな頃から接していました。それと同時に、人間の真の価値がそこにあると神秘家が考える、優れた資質を持つ人々にも触れていました。そのため彼は、物質に関する知識と精神に関する知識について、18世紀の人間が手に入れることのできる、知識という知識をすべて身につけていた最後の人物であると評価されていました。彼の後、現在に至るまで、そのような評価を受けるに値する人物はひとりもいないことでしょう。なぜなら、人が手に入れることのできる知識そのものが、ゲーテの時代以降は、人間には理解しきれないほど膨大に増えてしまったからです。

一体性の探求

The Search for Unity

 ゲーテは、当時の、知るに値するすべての知識を身に着けていました。さらに、その知識を、同時代や後世の人に余さず伝えるために、あらゆる手を尽くしました。「統一された全体(ganz werden)になること」が、彼の人生の根本にある目標でしたが、それは、自身の内に潜む三重性(訳注)、彼が人間のすべての問題の元凶であると考えた3つの感情の状態を一体化する方法を見つけ出すことに他なりませんでした。そして、この一体性の探求こそが、『ファウスト』という神秘的戯曲のテーマになっています。この作品の全編が出版されて以降、今日に至るまで、ゲーテの研究家たちは、この一体性とは何を意味するものなのかを明らかにしようとしてきました。

(訳注:身体とサイキック体と魂にそれぞれ関連する、3種類の感情を指していると思われる。)

フィリップ・メランヒトンの肖像

人間の進化と、宇宙的な一体性へと至る道の案内となる入門儀式の各段階に関する自身の考えを表わすために、彼は、下敷きとなる物語と悪役が必要だと考えました。そして、マルティン・ルターの盟友として宗教改革に尽力したフィリップ・メランヒトン(1497-1560)の語った、ヨハネス・ファウスト博士(1480頃-1540頃)の古風な伝説に行き当たったのでした。フィリップ・メランヒトンは、ファウスト博士を直接知っており、その性格はこの上なく邪悪であり、いかがわしい奇術の知識を身に付け、民衆の心をたぶらかして金銭をまきあげるいかさま師であると伝えています。当時の民衆の目にも、ファウスト博士は悪魔と契約を結んだ人物だと映っていました。そこから伝説が伝説を生み、少しずつ形を変えたファウスト伝説が次々と作られていきました。

こうした伝説に登場するファウストには、破滅の運命が否応なしに待ち受けています。悪魔に尽くしてもらう代償として、自分の魂を悪魔に渡す契約を交わしたからです。ゲーテはこの物語を用いて、地上で生きる私たちの様々な欲望と苦悩、喜びと避けがたい試練を描いています。しかし、神秘家としての彼は、魂の破滅という物語の結末に満足できませんでした。彼が伝えなければならなかったのは救済のメッセージだったからです。それは、信仰、希望、拡大された意識という光に促されて、あらゆる困難に対してたゆまぬ努力を重ねることによって、私たちは愛を通じて、永遠の命へと向かう高みへと導かれるというメッセージです。

ゲーテは、二部構成のこの戯曲を書き上げるのに丸々60年を要しました。「悲劇」と題されたこの作品の第一部は1808年に初演されています。私たち自身の内部に潜む、よこしまな傾向が引き起こす人間の悲惨さを描いた暗い内容であるにもかかわらず、この「悲劇」は、またたく間に大成功を収めました。表面的に見れば、第一部自体の幕切れは、読者や観客になんとも煮え切らない印象を与えるかもしれません。大騒ぎの場面と波立つ感情、着想の源と悪魔の誘惑が、ひどく混じりあっているからです。しかし、愚かさには知恵、魔術には清らかさ、無知には知恵、憎しみには愛が釣り合わされるように、第一部は調和を象徴する構成になっています。そして、これらの要素すべてが、地上世界と地下世界、すなわちこの世とあの世の両方で繰り広げられるのです。

しかし、劇の開始早々の「天上の序曲」からすでに、第一部は、より広大な全体へと至る導入部に過ぎず、その後に第二部が控えていることが予見されます。この第二部こそ、ゲーテが生涯の目標に据えた物語で、第一部の初版から26年を経た1831年に発表されました。それからわずか数ヵ月後に、彼はこの世を旅立ち、自身の〈大いなる入門儀式〉を通過したのでした。

知識の無益さ

Futility of Knowledge

「天上の序曲」の挿し絵

「天上の序曲」が終わると、ファウスト博士が登場します。彼のいる中世の書斎は、占星術や錬金術や魔術の記号で飾られています。有名な冒頭の独り言の部分で、ファウストは自身が修得した知識がすべて無益なものだったという思いを口にします。哲学、法学、医学、そして神学までをも勉強したというのに、自分が少しも利口になっておらず、大ばか者であると彼は感じています。そしてこう嘆くのです。「骨身にこたえることに、ああ、ただ一つ分かったのは、人間には、何ひとつとして知りえないということだ」。この独白場面で彼は、学者として今まで自分が得たことに満足していないだけでなく、直接自然と親しく交わることへの熱烈なあこがれ、当時の人々が魔力の現れとして恐れている、自然の妙なる現象を理解することへの強い望みを語っています。

この世の知識だけでは喜びも味わえなければ心も満たされないことに幻滅しきっているファウスト博士は、次に、地獄も悪魔も恐れずに、魔術を学ぶための資料を手にします。「ノストラダムスが自らの手で神秘について書き記したこの一冊のノートこそ、物質を超越したあらゆる世界で、彼の案内役となったのだ」と言って表紙を開きます。そしてすぐに、大宇宙の記号を目にして有頂天になります。「この記号を、神秘に満ちた高貴な促しによって書き記した者は、神だったのではないのか。まさにこれらの記号のありさまに、創造力に満ちた自然が、わが魂に扉を開くのが見て取れるぞ。」

宇宙の全体像

Cosmic Totality

 このセリフによって、私たちは、普遍的なインスピレーションを元に作られた、何らかの記号を思い浮かべるようにさせられます。その記号とは、森羅万象の全体像、つまり、私たち自身が魂の進歩をなし遂げるための導きとなる計画を、自身の内面に作り出すことを意図して作られた記号です。象徴的に描かれたこの万物の地図を見渡すことで、私たちが宇宙のどこにいるのか、つまり、”道”のどこまでを辿ってきたのかを知ることが容易になり、また真の自己が普遍的意識の一部であることを、よりはっきり悟ることができるのです。

私たちは誰もが、多少なりともファウスト博士と共通する部分を持っています。ただ、私たちの方が自分の無知や欠点を、よりよく自覚しているだけであり、この自覚は、学習や研究を積めば積むほど確かなものになって行きます。神秘学を学ぶ私たちが、とてもよく心得ていることですが、学習や研究だけでは、どこにも到達することはできず、瞑想に時を費やし、その成果としての経験を積まなくてはなりません。そして、そのときに、象徴的に描かれた宇宙の全体像によって、私たちの精神が調和した状態に入ることと、創造的な思考をすることが助けられます。

戯曲の第一部は、ファウストがカルマ(訳注)の負債を背負ったまま、悲劇のうちに幕を閉じます。このカルマの負債からの解放が、比喩的に語られる第二部のテーマになります。「探求」という題材は同じですが、いまだにメフィストの後ろ盾と手引きはあるものの、ファウストは自身の魂、つまり自身の真の人格の探求に踏み出しています。しかし、ファウストの真の人格は、自分の犯した悪事の記憶によって厚く覆い隠され、メフィストが彼の感情を支配しているうちは、手が届きそうもないほど深くに閉じ込められています。読者や観客は、ファウスト博士が変わったことに気づきます。彼はもはや、自然の神秘を深く知ろうとしている一介の学者とは違います。冒頭の独白場面で語っていた「世界を一つにまとめている秘められた力、世界を進むべき方向に導いてくれる秘められた力を見いだす」ことだけを、彼は渇望しているのではありません。そんな望みは、遠い過去のものなのです。彼は今や、とても広い意味で「世界を極めた者」となったのです。

(訳注:カルマ(karma):サンスクリット語の「行為」(karman)が語源であり、思考と発言と行為によって生じる、将来の幸不幸への影響。)

ファウストは、「疾風怒濤」(嵐と衝動)が次々に襲いかかる時代を乗り越えて、まるで別人のようです。太陽と地球を通して表されている、宇宙にみなぎる無尽蔵の力は、彼の奥底に眠る力を蘇えらせ、メフィストの魔力に一切頼らずに建設的な活動をするように彼を駆り立てます。今度は、彼の方が、メフィストの能力を思慮深くうまく利用します。彼は、自己の完成に向けて不断の努力を続けながら、日増しに悪魔の誘惑に抗う力を身につけていきます。しかし、メフィストが、時空をあやつってさまざまな世界に自分を連れまわすことには、今なお逆らいません。

皇帝の宮殿で上級貴族の輪に加わりながら、利己的で心が狭く、貴族とは名ばかりな人たちに嫌悪感を抱いたファウストは、その昔、真に清らかで美しい人間性がこの地上に花開いた、麗しき古代ギリシャ文化に触れたいと恋い焦がれるのです。

化学の結婚

Chymical Wedding

 ゲーテはファウストの望みを叶え、トロイアに連れて行かれたヘレネ(訳注)をメフィストの魔力によって目の前に出現させる場面を設定して、彼をギリシャの文化に触れさせます。ヘレネは、ギリシャ・ローマ時代における女性美と気品の典型とされた女性でした。ファウストがヘレネに熱烈な愛情を注ぎ、二人が結ばれたことを象徴的に描いた場面を通してゲーテが語りかけているのは、“化学の結婚”の神秘学的な意味、すなわち、ユングがしばしば語っている「結合の神秘」(Mysterium Conjunctions)という錬金術上の概念です。ゲーテはそれを、正反対のものの和解、魂の内部で対立しあうものの調和の象徴として描いています。ファウストとヘレネが結ばれた結果、翼を持った息子のオイフォリオンが生まれます。オイフォリオンによって象徴されているのは、完璧な詩作の才能であり、夢や空想への憧れであり、さらに偉業と古典美と、自由という人の尊い権利に対する熱狂的な賛美です。

(訳注:ヘレネ(Helen)はスパルタ王メネラオスの妻であったが、トロイアの王子パリスに連れ去られ、トロイア戦争の原因になった。)

ゲーテが私たちに語りかけているのは、「化学の結婚」の神秘学的な意味です。

オイフォリオンの性格の中には、きわめて望ましいさまざまな美点を見ることができます。これらの美点は、知性と知識と知恵の3つが、美と気高さに対する感覚と結び付き、調和した統一体に至ったときに、人間が手に入れることのできるものです。

別の場面には、ファウストがかつて所有していた実験室で作り出された、ホムンクルスという人造人間が登場します。ホムンクルスは、完全な肉体や世俗の知識や人生の官能的な喜びを求めようとする人間の内的な性質を擬人化したものです。ホムンクルスが魂をまったく持たないことにより、ファウストの深層意識がホムンクルスの性質とは異なることが表されています。ファウストが知らず知らずのうちに、詩や芸術、科学や自然の見事さに美の究極の理想像を求め、あこがれていることが示されているのです。

これらの場面を見ると、ファウストが着実に成長し、メフィストの甘言に乗らなくなったことが分かります。つまり、このような経験によって、人類の幸せと豊かさに積極的に役立ちたいというファウストの願いが、どのように育まれたのかを知ることができます。心の安らぎを見いだした彼は、次に、ある壮大な奉仕の計画に身を投じようとします。その計画には、広大な荒野が必要とされ、それを手に入れるには、まだメフィストの魔力に頼る必要があります。しかし、内部にみなぎる活力に促されて、彼は、手に入れたものに真にふさわしい人間になり、それを本当に所有しようと努力します。「先祖から受け継いだ財産なんぞは借り物にすぎぬ。己の手で掴みなおせ。それでこそ、真の所有と呼べるのだ。」

ファウストは、今や、自身に課したこの教訓に従って行動ができるまでに成長しました。そして、彼の指揮の下に、ある大事業が行われます。彼が手に入れた荒れ地を開拓して、人々が幸せに暮らせる豊かな土地に変えるのです。今のファウストの心にあるのは思いやりだけです。それは、欲求から生まれたわけでも必要に迫られたからでもなく、また、罪の意識にも、もはやさいなまれているわけでもありません。人生の最期に視力を失ってもなお、思いやりの心だけは彼を離れません。それは、他の人々の幸せを願う心です。

こうして、ファウストは地上での生の営みを終えます。メフィストはいまだに、ファウストの魂を手に入れることを望んでいます。しかし、ファウストは自身の内面の進歩を通して、「天上の序曲」の場面で神が予言していた通りの人格を作り上げたのでした。「心清き人間は、どれほど闇に包まれた卑しい野望にとり憑かれようとも、〈ただひとつの正しき道〉を忘れぬものだ」。ファウストは、自分自身の努力によって、貴い愛の力が、数々の地上の誘惑に勝る水準にまで、魂を鍛え上げたのでした。

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