投稿日: 2021/12/10
最終更新日: 2023/11/17

ヴァレリー・デュポン

アレクサンドリアのヒュパティア。ジュール・モーリス・ガスパール(1862-1919)によるスケッチ。エルバート・ハバードのパンフレット『偉大な教師たちの故郷への小旅行』23巻4号(1908年10月発行)に掲載された挿絵のひとつ。
アレクサンドリアのヒュパティア。ジュール・モーリス・ガスパール(1862-1919)によるスケッチ。エルバート・ハバードのパンフレット『偉大な教師たちの故郷への小旅行』23巻4号(1908年10月発行)に掲載された挿絵のひとつ。

 作家であり、バラ十字会フランス語圏本部のバラ十字国際大学(RCUI)の講師であるヴァレリー・デュポン(Valérie Dupont)が、その著書『活躍目覚ましい女性、太陽のような女性』(Féminin Actif, Féminin Solaire)に、アレクサンドリアのヒュパティアの簡潔な伝記を書いていますので、ご紹介します。ヒュパティアは、新プラトン主義の偉大な哲学者で、傑出した女性でした。

ヒュパティア(370~410年)は、アレクサンドリアの大テオン(Theon)の娘でした。テオンは、有名な数学者であり幾何学者で、当時のきわめて高名な学者でした。父親から教育を受けたヒュパティアは、その仕事を支え、さらに発展させていましたが、当時の人々の意見でも、彼女の能力は父に勝っていたと伝えられています。また、天文学に関する数多くの研究においても、ヒュパティアは第一人者でした。

さらに、科学分野の研究に飽き足らず、当時よりも100年ほど前にプロティノス(Plotinus, 205?-270?)が発展させた新プラトン主義の神秘学(neo-Platonic mysticism)にも、とても若い頃から関心を持つようになりました。新プラトン主義の哲学者アンモニオス(Ammonnios)の教えを汲むものとして、ヒュパティアは知識と知恵において、同時代の多くの思想家を凌いでいました。そして、過去の偉大な思想家の数々にさえ勝るとするさまざまな記録もあります。ともあれヒュパティアは、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学の学校で数学と哲学の教職を得ました。

この学校でヒュパティアは、新プラトン主義の先駆者であるプロティノスとイアンブリコスの思想を発展させましたが、これらの思想に科学的な面と方法論的な面を加えたため、すぐに、彼女に名声が集まることになりました。ヒュパティアの講座は、空前の成功を収めたのです。

多くの人々が、この有名なアレクサンドリアの学校の真の創設者はヒュパティアであると考え、この学校は、その当時の最も評判の高い教育機関になりました。その堅実な基盤と上質な指導が理由で、この学校は数世紀にわたり大きな評判を博しました。

ヒュパティアには、膨大な数に上る熱烈な支持者がいました。彼女は、関連するあらゆる知識を彼らに教えました。彼女の知識と思想の奥深さだけではなく、ひときわ輝きに満ちたヒュパティアの人格にも、多くの支持者が魅了されました。また、その美しさと精神の純粋さ、堂々たる専門知識に加えて、極めて謙虚な面を持つ人物として彼女は知られていました。

ヒュパティアの著書は現存せず、主要な論文と著書の題名がいくつか知られているだけです。しかし、ピタゴラスがそうであるように、ヒュパティアを知る人々の証言のおかげで、その人物像を捉えることができます。特に、ヒュパティアと同じ年で、彼女の弟子であったキュレネのシュネシオス(Synesius of Cyrene)からの彼女への手紙には、ヒュパティアに対する敬意と愛情があふれています。

現代の新アレクサンドリア図書館は、古代のアレクサンドリア大図書館の跡地に建てられたと言われている。(バラ十字会主催のツアーにて撮影)

ちなみに、シュネシオスは、ヒュパティアに深く感銘を受けた熱心な支持者というだけの人物ではありません。シュネシオスは、権威ある立場にある、広く知られていた人物であり、道徳的な事柄で、皇帝を叱責することを恐れず、国境の軍事組織を委ねられていたことが分かっています。ですから彼は、手当たり次第に人を賞賛するような人物ではなかったと考えることができます。シュネシオスは、聖職についていない信徒であったにもかかわらず、当時、社会的に最も重要な役割を果たしていた司教の地位に就くように西暦410年に頼まれ、承諾のための2つの条件を出しました。その条件とは、結婚したままでいることと、2つの信念を放棄しなくても良いということでした。その2つとは、魂はその人の誕生以前から存在するという信念と、世界が永続するという信念でした。この2つはヒュパティアが彼に教えたものであり、キリスト教の教義に反する事柄でした。

これらの点から、シュネシオスは、間違いなくヒュパティアに関する信憑性の高い証人であると考えられます。彼のヒュパティアに関する見解は、全面的に受け入れることができるでしょう。ある手紙の中でシュネシオスは、ヒュパティアのことを、母、姉、先生、恩人と呼び、他にも称号があるならば、さらに多くの称号を受けるのにふさわしいと述べています。別の箇所では、以下のように記しています。「死によって、互いの記憶を消え去るということが、たとえ事実であったとしても、それでも、とても多くの友情を培ってきたヒュパティアの記憶を、私は保ち続けることができるであろう。」

シュネシオスは、深い知識を持ったヒュパティアの人格に強い影響を受けたことに感謝し、このように表現したのです。そして、ヒュパティアの影響は、一度の人生という範囲を超えるほど深遠なものであり、知性というレベルを超えた魂の学びであるということも表現しています。他のいくつかの手紙では、ヒュパティアのことを常に「哲学者」(philosopher)と呼んでいます。当時の哲学者という言葉には、現在よりもはるかに大きな意味がありました。当時の哲学者とは、単に知的水準の高い人のことでも、研究者のことでもありませんでした。哲学者とは、英知と知識を兼ね備えた達人であると評価されている人のことで、この称号にふさわしいとされる人はごく少数に限られていました。

またシュネシオスは、ヒュパティアが、理論的な知識の範囲をはるかに超えたさまざまな能力を持っていたことを記しています。たとえば、ある機会に彼は、水の純度を測定する装置「ハイドロスコープ」(hydroscope)を作製することをヒュパティアに頼んでいます。別の手紙では、古代の天体観測器の一種アストロラーベ(astrolabe)について質問をしています。これらの記述は、この並はずれた女性の才能が、あらゆる分野で発揮されていたのであり、技術や科学の成果でも、さまざまな理論や教育と同じほど優れていたことを示しています。私たちが思い描くヒュパティアの全体像は、一種の女性版アリストテレスです。それは、ヒュパティアが設立した学校が、アリストテレスが設立した学校と同様に長く存続していたという理由からであり、アリストテレスよりもさらに神秘主義的な思想を持っていたことが理由ではありません。さらに彼女は、後の時代のレオナルド・ダ・ヴィンチのイメージも合わせ持っています。

ヒュパティアは、キリスト教徒からもそうでない人からも、あらゆる人々に広く認められ尊敬されていました。ヒュパティアは、自身の政治的な影響力を何らかの形で行使したことに間違いはなく、それから間もなくして、凡庸な人々からなる少人数のグループの嫉妬を招くことになりました。ヒュパティアは、とても悲しい末路をたどりました。ヒュパティアの親友であったアレクサンドリア市の長官と、アレクサンドリアの大司教シリルとの間に不和が生じ、この対立の責任がヒュパティアにあるとされました。ある日、ヒュパティアが散歩しているとき、彼女を見張っていたキリスト教の狂信者の小さなグループが、彼女を待ち伏せて捕らえました。狂信者たちは、ある教会にヒュパティアを引きずり込み、殴り、惨殺し、切り刻み、焼却しました。

この時代の他の女性プラトン主義者については、残念ながら、名前を引用できるだけで、その肖像はもうありません。第一級の資料によれば、プロティノスの弟子であったジェミナ(Gemina)、その娘で母と同名であり、やはり弟子であったジェミナ、イアンブリコスの義理の姉妹であるアンフィクレア(Amphiclea)、およびそれよりも古い時代のアリア(Arria:ディオゲネス・ラエルティオスが著書「哲学者列伝」を捧げた人物)を挙げることができます。これらの女性たちは、当時の著書にたびたび引用され、いずれも非凡な才能を示しています。しかし、詳細な情報が不足しており、彼女たちがどのような人物であったかは、私たちの想像に委ねられています。それでも、この人たちの人生によって、女性が哲学に重要な役割を果たしたということを断言することができます。

根気強い調査によって、ギリシア・ローマ時代においても、自身の知恵と輝かしい知識によって、多くの女性たちが名声を得ていたことが確認されています。実際のところ、この記事で紹介した人物よりも、数多くの卓越した女性が存在したことは疑いようもありません。しかし、女性が哲学に果たした明白な貢献について知るためには、ここに挙げた例で十分でしょう。

そのうちの何人かは、幾度となく暗黒となった空に輝いた超新星のように、その時代を正しく照らし教え導いたことを述べておきましょう。この点で、イアフメスⅠ世の王妃ネフェルタリ(Ahmes-Nefertari)、テアノ、サッポー、班昭(訳注)、ヒュパティアは、人類を代表する最も著名な女性であると考えられます。

訳注:イアフメスⅠ世の王妃ネフェルタリ(Ahmes-Nefertari、BC1562-1495):ファラオ・アメンホテップⅠ世が幼少の頃、その摂政を務めたとされる。良く知られているラムセスⅡ世の王妃ネフェルタリとは別人。
テアノ(Theano):古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』に登場するイリオス(トロイ)のアテーナ神殿の女性神官。
サッポー(Sappho):古代ギリシャの女性詩人
班昭:中国、後漢の文学者。

アレクサンドリアのヒュパティア、19世紀中頃、木版画(作者不詳)

その中でも、ヒュパティアは、例外中の例外とさえ言うことができるでしょう。実際、溢れる知性、発明の才、知識と同時に、彼女のような崇高な精神を示す人々は、男性にも女性にも、ほんのわずかしか存在しません。ヒュパティアに匹敵する完全性に到達した人は、いまだに一人もいないのかもしれません。それにもかかわらず、ヒュパティアについて歴史書では、あまり深く言及されていないのはとても残念なことです。

「アレクサンドリアに、哲学者テオンの娘で、文学と科学にきわめて博識であり、同時代のすべての哲学者よりも秀でていたヒュパティアと呼ばれる女性がいた。プラトンとプロティノスの学校で学んだ後、ヒュパティアは、彼らの哲学について講義を行った。その講義を聞くために、はるか遠方から聴衆が訪れた。精神の研鑽の結果、ヒュパティアには指導者としての風格と謙虚な姿勢が備わっており、たびたび公の場に現れて、役人たちと席を共にした。男性が開催する会議に参加する場合でも、ヒュパティアは決して尻込みをすることはなかった。彼女の並はずれた威厳と高潔さのために、すべての男性が、ヒュパティアのことを心から賞賛していたのである。」
ソクラテス=スコラスティコス(Socrates Scholasticus)著『聖職者の歴史』(Historia Ecclesiastica)より(西暦439年頃)

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