『死後の生について』(The Afterlife)
ウイリアム ハンド(William Hand)
以下は、バラ十字会の日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。
もし死後の生の存在が科学的に証明されたならば、世界は変わるだろうか?
通りを歩く多くの人たちに、死後の生(afterlife)、あるいは来世の存在を信じるかどうかを尋ねてみたとしましょう。きっと、いろいろな答えを受け取ることでしょう。大まかにいえば、次のような3つの答えが得られるのではないでしょうか。
- 死後の生があると考える、つまり意識が死後も存続すると考える人
- 分からないという人、あるいは意見がない人
- 死後の生という考えをナンセンスだと見なし、そのような考えのすべてを否定する人
上に挙げた答えはいずれも、その人個人の考え方によるもので、宗教を信仰している人の場合には、その教えが根拠になっているかもしれません。しかし、もし科学によって、理にかなった疑念がひとつもないように、ある種の意識が死後も存在することが証明されたとしたらどうでしょうか。この世界は変わるでしょうか。もし変わるのなら、どのように変わるのでしょうか。この短い記事の中で、私が検討してみたいのは、まさにこの問題です。
異なる意見も申し立てられてはいますが、科学の主流派の標準的な見解では、いったん肉体が死んだならば、特に脳が死んだ場合には、意識は永遠にその働きを停止し、それでおしまいになると考えられています。その後は、意識もなければ個人としての存在もなくなり、単なる無の状態になるとされています。そしてこの無は、人間の意識では想像することがとても難しい状態です。この状態が想像しがたいことが原因となり、肉体の死を深く恐れて、普段の会話では死について話すことさえ拒絶する人がいます。また、意識に関する先ほどの科学の見解は、人生についての物質主義的な見方を助長しています。そしてこの見方では、やりたいことをすべてなし遂げて充実した人生を送るためには、人に与えられている時間はかなり短かいことになります。
もちろん、充実した人生を送り、何かをなし遂げること自体に問題があるわけではありません。しかし残念なことに、そのために、他の人々を犠牲にして、さまざまな物を手に入れようとする人がいます。やりたいことのすべてを実行するには時間が限られていると、もし考えるならば、自分の目的を達成するために必要な、どのような行動を取る人がいたとしても、それは意外なことではないように思われます。たとえそれが、他の人々が苦しむことを意味しているとしてもです。
このような考え方は、権力を持つ人々にとって、あらゆる点で好都合です。さまざまなメディアを通じて、肉体がすべてであり、死んだときにはすべてが終わるのだと発信し続けことができるならば、目先の利益を得ることに懸命になっている人たちの切迫した気持ちに付け入ることができるのです。私は今、何かの陰謀のことを話しているのではありません。ただ単に、物質主義が広まった社会で普通に見られる行動について指摘しているのです。残念なことに、これらの行動は、戦争、地域紛争、人権侵害、資源の過剰な使用などにつながっていくのです。
意識
Consciousness
もちろん、意識が死後も存続するかどうかは、原理的に知ることができないという立場をとっている多くの人々が、今日の世界にいます。そのような人々にとって、死後の生は宗教に任せておくべき問題です。そして、最善を尽くして人生を送り、いざ死が訪れたときには、死後も自分が存続するかどうかが、どのみち分かるのだという意見や考えが一般的です。しかし、もしも死が本当に終わりであるならば、それが分かることは決してありません! 科学の主流派の見解や、世界中の一般的なメディアのほとんどの立場がどうであれ、このような見方は、確かに調和のとれた意見であり、私の経験からしても、おそらく最も多くの人の意見でしょう。しかし、近年のインターネットの出現は、死というテーマについて探究したいという人々に、さまざまな可能性をもたらしたことは確かです。
冒頭で申し上げた最初のグループに戻ると、つまり、死後の生や来世が存在すると確信しているグループの人々にとって、死とは、ある一つの状態から別な状態へ、存在が移行することにあたります。しかし、どのような種類の死後を想定しているかは、宗教上の信念によって大きく異なっています。キリスト教徒の多くは、亡くなった人が「最後の審判の日」まで「眠っている」ような状態でいると考えています。ヒンズー教徒の間では、生まれ変わるという考え方が一般的です。心霊主義(訳注)を信奉する人々は、亡くなった人が、常に私たちのまわりに存在しているけれども、いわば「別な部屋」にいるのだと述べています。これらの考え方に共通していることは、肉体的な死の後の存在の状態が、この地上で経験する状態とは異なっているということです。
訳注:心霊主義(spiritualism):死者の霊魂と通信することが可能であると主張し、霊媒を介して実際に霊と通信する行為を行う団体をいう。スピリチュアリズムと呼ばれることもある。
バラ十字会の見解は、バラ十字会AMORCの初代代表であったハーヴェイ・スペンサー・ルイス博士の著書「転生の周期」(Mansions of the Soul)に分かりやすく表されています。この本には、肉体の死後、意識と人格が生まれ変わりを待ちながら、精神的な領域で存在し続けるありさまが詳細に説明されています。ルイス博士によると、誕生や死という一連の変化は、自然界の周期的な法則に従って展開していきます。
以上のように、さまざまな考えを持つ人々が、死後の生が存在するという見方を採用していることが分かります。ただし、死後の生が存在するとは言っても、想定されている様子は、それぞれで大きく異なっており、悲しいことに、それがしばしば、不毛な議論と対立の原因になっています。ですから、死後の生についてのすべての可能性を、多くの人々が、馬鹿げたことだと片付けてしまうのも無理のないことです。
死後も意識が存続するということが事実であると、全世界のすべての人、あるいは少なくともその99%の人を説得するたった一つの方法は、理にかなった疑念がひとつもなくなるように、科学的にそれを証明することです。科学においては、単なる否定では何の証明にもなりません。死後の生が存在しないということを証明するのは、調査するべき可能性が無数にあるため、極めて難しいことです。一方で、それが存在することを証明するためには、再現可能な満足のいく証拠を列挙することだけが要求されます。ですから、死後も意識が存続することを証明できるかどうかは、まさに科学者の意志にかかっています。私がこの記事を書いている今の段階でも、まさにこのテーマを探究している科学者が世界中に大勢いて、素晴らしい進展を見ることができます。ただし、このような科学者は、懐疑論者から不快な扱いを受けたり、既成の補助金システムから資金を受けられない状況に直面することもたびたびです。しかし、今後見つかるであろう新しい証拠は、未来の記事のテーマとなることでしょう。
証明の影響
Proof
ここで、この記事の主題に戻ります。もし、理にかなった疑念がひとつもなくなるように、死後の生が存在することを科学的に証明できたとしたら、その後はどうなるのでしょうか。まず、死後の生の存在が証明されていく過程で、死後の生とはどのような種類のものであるかが確定していくことでしょう。そして、ルネッサンス時代の科学の発見に合わせて、中世の教会が変化しなければならなかったのと同じように、この新しい発見に、宗教の教義が適応しなくてはならなくなることでしょう。第2に、肉体の死とともに生命が終わるのではなく、生命はその後も機会を提供し続けてくれるという、人生のこの異なる見方に、世界中の人々が適応しなければならなくなります。
他の人を殺したり害を与えたりすると、この世の正義だけでなく、それを超えたそれ以上の正義から、自分自身に悪い結果が及ぶことを人は学ぶことになるでしょう。この理由ひとつだけでも、この世界は、今より平和で幸せな場所になることでしょう。戦争は少なくなり、地球を守るために必要な措置は、今まで以上に正当に評価されることになるでしょう。次の時代に、自分の子供たちに起きる結果を自分も目撃することになると、もし知っているならば、いったい誰が、私たちの美しい地球を手当たり次第に壊し続けるでしょうか。
この記事のまとめとして申し上げます。何らかの種類の死後の生が存在するということを、科学的に証明することによって、この世界が今よりもずっと素晴らしい場所になるということを、私は信じて疑いません。このことは熟慮に値するテーマです。ぜひ考え始めてみてください。
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