投稿日: 2021/12/10
最終更新日: 2025/04/02

ジーン・ユーイング

ソクラテスとはどんな人か

ソクラテス(紀元前470年頃~399年)は古代ギリシャの哲学者です。父親は彫刻家で、母親は産婆でした。都市国家アテナイ(アテネ)の市民であり、二度の戦争で勇敢に戦い、弟子で軍人であったクセノポンが落馬したときには彼を助けたという記録が残されています。

ソクラテスは高潔さと徳の高さから、アテネの市民に敬われ、親しまれ、多くの人が弟子になりました。

彼自身は本を書いたことはなく、ソクラテスについては主に、いずれも彼の弟子であったプラトンとクセノポンの著作から知ることができます。

その中でもプラトンの数々の著作には、ソクラテスの生き生きとした姿や言葉がよく表れています。しかし、プラトンが描いているソクラテスが本当のソクラテスにどの程度近いのかということには、疑問があるとする研究者もいます。

紀元前404年に都市国家アテナイは、30人の人たちからなる集団に支配されるようになります(三十人政権)。そのうちのひとりが、かつてソクラテスの弟子であり、彼と仲違いをしたクリティアスで、彼の謀略によりソクラテスはメリトスという人物に告訴されます。

罪状は「アテナイの伝統の神々に敬意を払わず若者たちを堕落させた」というものでしたが、彼は当時の伝統の神々に対して、敬虔な態度を保っており、これは根拠のない告発でした。

しかしソクラテスは、彼が論破した哲学者や政治家の一部から憎まれていました。またソクラテスが既存の秩序を脅かすと考えた人たちもいて、結果として有罪の判決が下されることになります。

不当な判決であっても、それに従うことが正義であるとソクラテスは考え、また魂の不滅を信じていたので、ドクニンジン(hemlock)の液を飲むことを受け入れ、命を落とします。

プラトンの対話篇『パイドン-魂の不死について』には、死の直前にソクラテスが友人たちと行った哲学談議と、彼の死の様子が描かれています。ソクラテスの最後の言葉は「クリトン、アスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある。忘れずにきっと返してくれるように。」(※)だったとされています。

※出典は、プラトン著、岩田靖夫訳『 パイドン-魂の不死について』(Kindle 版)、岩波文庫。 アスクレピオスは医療の神であり、この神に感謝した言葉であるが、真意にはさまざまな説がある。

絵画『ソクラテスの死』ジャック・ルイス・デイビッド(1787年)。ソクラテスがドクニンジンを飲もうとしている。
絵画『ソクラテスの死』、ジャック・ルイス・デイビッド(1787年)。ソクラテスがドクニンジンを飲もうとしている

ソクラテスとは何をした人か

ソクラテス以前の古代ギリシャの哲学者は、世界の成り立ちと自然現象を解明することが哲学の主な役割だと考えていました。

それに対してソクラテスは、そのようなことは人間にとってほとんど役に立たないと考え、善と悪について研究しました。そのため彼は、西洋の道徳哲学(倫理学)の創始者だと見なされています。

ソクラテスの産婆術とは

ソクラテスは、決まった場所で哲学の講義を行うことはせず、その代わりに、たまたまそこにいた人と道徳についての対話をしたとされています。

彼は、質問に対して別の質問で答えるというテクニックを用いて、弟子たちの徹底的な熟考を促し、彼らに新しい考え方が生じるようにしたとされています。この方法はソクラテスの母親の職業にちなんで産婆術(maieutic)と呼ばれました。

典型的な姿で描かれているソクラテス(ウグイス色のローブを着用)。アテナイの政治家であり、演説家、将軍でもあったアルキビアデスに教えを授けている
典型的な姿で描かれているソクラテス(ウグイス色のローブを着用)。アテナイの政治家であり、演説家、将軍でもあったアルキビアデスに教えを授けている。ラファエル作フレスコ画「アテネの学堂」(1510年)より

無知の知とは

プラトンの対話篇『ソクラテスの弁明』では、先ほど説明した告発を受けたソクラテスの裁判での発言が扱われています。

彼は、自分が多くの人に憎まれている理由についての説明をこう始めます。デルフォイの神殿で彼の友人カイレフォンが、「ソクラテスよりも知恵のあるものは誰か」と神に尋ねます。それに対する巫女の答えは「より知恵あるものは誰もいない」でした。

そこでソクラテスは、その神託が間違いであるということを証明しようとして、政治家や著作家や職人など、知恵があると自分が考えた人たちを次々と訪問し、質問攻めにします。

しかし、これらの人たちは、ソクラテスの知恵についての高い基準に照らしてみれば何ひとつ知っていないのに、自分には立派な知恵があると思い込んで、自分の知識を台無しにしていました。

そこでソクラテスは、自分が何も知らないということを知っているという小さな点で、彼らよりも自分は少しだけましであるというのが、先ほどの神託の正しい解釈なのであろうと考えるようになります。

プラトンの描いた、極めて謙虚なソクラテスのこの考えは「無知の知」と呼ばれています。

哲学事典による「無知の知」の説明

一方で、ある哲学事典の「ソクラテス」の項目には次のように書かれていました。興味深いことにこの項目の著者はプラトンとは異なり、ソクラテスのことを傲慢な人間だと考えており、その視点から「無知の知」について解説しています。


ソクラテス:(前半略)ソクラテスは、自身のさまざまな哲学的な確信を他人からの反論から守ることができたし、それらの確信に対して精細な知的検証を行ってきた。それではなぜ自分のことを、自身が無知であると知っている以外には何も知らない人間であると述べたのだろうか? その答えは、いかなる分野においてもその分野を完全に熟知し、それに熟練した専門家だけが、知識や知恵を持つと言えるというのが彼の想定だからである。

たとえば、ある人が航海術に関する知識を持つとされるのは、その人が航海術を習得していて、このテーマに関するあらゆる質問に答えることができ、自分と同様に航海するように他人を訓練できる場合に限られる。この高い認識論的基準で判断すると、ソクラテスは道徳の専門家であるとはとても言えない。なぜなら彼は、自分自身が提起したさまざまな道徳的疑問へ答えることができず、他人を徳のある人間に教育することができないからである。

ソクラテスは自分の道徳的信念を検証したり、その信念の理由を述べたりすることができるが(この達成により彼は、同時代の人々に対する傲慢な優越感を持っていた)、彼は自分自身のことを道徳的な完成という理想からはほど遠い存在だと考えていた。というのも道徳的な完成という理想には、すべての道徳問題を徹底的に理解することが含まれると考えられるからである。

すべての人間は、道徳的にも知的にも完全でないというソクラテスの鋭い感覚は、ソクラテスの魅力の大きな部分を占めている。それと同時に、彼の同胞市民に対する傲慢な軽蔑は、彼の死の一因となったことに疑問の余地はない。関連項目:アリストテレス、プラトン、ソクラテスの主知主義。

(この項目の著者: Richard Kraut, Northwestern University。出典:Audi, Robert. The Cambridge Dictionary of Philosophy (English Edition) (p.xix). Cambridge University Press. Kindle版。翻訳は執筆者。)


プラトンの対話篇『饗宴』には、ソクラテスが愛の本質について長い演説を行う場面が描かれています。このことを紹介した当会の元代表の記事がありますので、ご興味がおありの方はこちらもどうぞ。

ソクラテスの名言7選

  • 試されることのない人生には、生きる価値がない。
  • 知恵は驚きより始まる。
  • 私はこの地上で生きている者の中で最も賢明な人間である。というのも、私は一つのことを知っているからである。その一つのこととは、私が何も知らないということである。
  • 船がただひとつの錨(いかり)に頼るべきではないのと同じように、人生もまた、ただひとつの期待の上に築き上げてはいけない。
  • この世界で名誉を得たいのなら、自分がそう見られるように努めている人物に、実際になりなさい。
  • もし女性が男性と平等であれば、女性のほうが優れているだろう。
  • もし全員にとっての課題が、皆が等しく分担するために一つの大きな山に積まれているとしたら、ほとんどの人は自分自身の分の責任を喜んで引き受けて、取りかかるであろう。

△ △ △ 

以上、古代ギリシャの哲学者ソクラテスについて解説してきました。

ちなみに、当会の神秘学通信講座では本科課程の第5段で、古代ギリシャの哲学者のことを詳しく学習することになります。

この講座の詳細については、こちらをご覧ください。

下記は、当会の研究家が書いた記事です。

区切り

記事:『ソクラテス-試されることのない人生には、生きる価値がない』

ジーン・ユーイング
by Jean Ewing

神殿を背景にしたソクラテスの彫像

ミケランジェロは、若い彫刻家に向かってこう言いました。「彫像に当たる光の具合について、あまり心配しすぎてはいけない。彫像の価値が評価されるのは、人々が集まる広場の光によってなのだから」。真実は、自らを語るためにおのずから現れます。大衆の中に耳を貸すものが誰一人いないと分かっていたとしても、ほんの一握りの人が理解してくれる時を待ちながら、真実は永遠にたたずんでいるのです。ソクラテスの場合も、まさにその通りでした。

私たちがソクラテスについて知っていることや、ソクラテスが語ったとされている言葉は、ほとんどがプラトンの対話篇(訳注)に由来しています。この著作に出てくる対話は、まるで、ソクラテスが主人公である演劇のように感じられます。他の人々との対話を通して、ソクラテスがこの世によみがえるかのようです。彼は、ある使命に従事していた神秘家であり、その使命はギリシャのアポロ神より与えられたとされています。

訳注:対話篇(dialogue):対話形式を用いて書かれた哲学の著作。プラトンの対話篇がもっとも有名。

ソクラテス(紀元前469頃~399年)は、古代ギリシャの哲学者で、西洋哲学の創始者の一人として賞賛されています。彼は謎めいた人物で、自身では著作を残しませんでした。しかし、彼の弟子のプラトンとクセノポンの著作を通して、彼のことを知ることができます。また、プラトンの弟子であるアリストテレスの著作や、喜劇作家アリストファネスの諷刺劇によっても知られています。プラトンによれば、ソクラテスの父はソプロニスコス(Sophroniskos)であり、母はパイナレテ(Phainarete)でした。ソクラテスの外見には目を引くところもなく、背も低かったと言われています。彼はずっと年下のクサンチッペ(Xanthippe)と結婚しました。二人の間には、3人の息子が生まれました。ランプロクロス(Lamprokles)、ソプロニスコス(Sophroniskos)、メネクセノス(Menexenos)です。

ソクラテスおよび彼と同時期の偉大な思想家たち
ソクラテスおよび彼と同時期の偉大な思想家たち。ソクラテスは、彼自身の哲学について、一語たりとも記録を残していない。彼の思想は、4人の著者の作品によって伝えられた。彼の弟子のプラトン、アリストファネスとクセノポン、そして、アリストテレスの著作である。しかしアリストテレスは、ソクラテスと会ったことはない

アテナイ(訳注)がギリシャで覇権を誇ったその全盛期から、ペロポネソス戦争(紀元前431~404年)でスパルタとその同盟都市に敗北して衰退していくまでの、移り変わりの激しい時代にソクラテスは生きていました。この時代は、アテナイが国家の安定を模索し、その屈辱的敗北から立ち直ろうとしていた時期であり、アテナイの市民は、民主主義が政治の効率的な形態であるかどうかに疑いを持つようになりつつあったのでしょう。ソクラテスはアテナイの民主主義の批判者であったように思われます。そして、ソクラテスの裁判は政治の内紛の表れであったと解釈している学者もいます。
訳注:アテナイ(athenai):アテネ(英:Athens、羅:Athene)のギリシャ語名。古代ギリシャの都市国家。紀元前6世紀末に民主制が成立。古典文化の中心地として数多くの哲学者、科学者、芸術家を輩出。

対話法

Dialectic

 『ソクラテスの弁明』という題のプラトンの対話篇によれば、ソクラテスは法廷で次のように語っています。「『ソクラテスより賢明な者は誰一人いない』というデルポイのアポロンの神託によるお告げがあったので、最初はとても困惑した」。「一体、神のこの言葉は何を意味するのだろうか。私には、知恵など一つもないのに。」と彼は述べています。「とはいえ、彼は神であり、嘘をつくことはありえない」。ソクラテスは、自分よりも賢明な者を見つけ出すために旅を始めました。しかし、誰ひとりとして見つけることができず、会話を交わした人々について、次のような結論を出しました。「私は彼らよりもはるかにましだった。というのも、彼らは何一つ知っていないのに、自分が何かを知っていると思っているからだ。しかし、私は何も知らないし、自身が何かを知っていると思っていない」。神託に含まれていた謎の真の意味を、彼は次のように結論付けました。

「神だけが賢明でありうる。神は、私の名を一つの例として挙げただけである。神はこのように言いたかったのであろう。『おお人間たちよ、我はあらゆる者の中で最も賢明である。そして、ソクラテスと同じように、ソクラテスの知恵には、実は何の価値もないことを知っている』。そこで私は、神の言葉に従って世間を歩き回り、賢明であると思える人を探し、その人の知恵について質問をしている。そして、もしその人が賢明でないと分かれば、神託の正しさを立証するために、その人にあなたは賢明ではないと示している。」

ソクラテスは、人々が賢明ではないということを、問答を使った方法によって論証しました。問答法とは、質問と答えによって、さまざまな主張の根拠が確かであることを、論理的に吟味していく技法、あるいは実践法であるとされています。しかし、ソクラテスの問答法には、それ以上のものを見ることができます。彼には、多くのことを知っているにもかかわらず、何も知らないふりをしているユーモアのセンスにあふれた人物という印象があります。そして機知と皮肉を最大限に用いています。

ある人が何かの性質について質問すると、ソクラテスはそれについて何も知らないふりをします。そして彼は、質問をすることで相手に答えます。このようにして、ソクラテスは優れた質問をすることにより、相手が自分自身の質問に対して答えられるようになるまで問答を続けていきます。ソクラテスは、相手が見栄を張って賢明なふりをしているのが分かったときには、この場合も、さまざまな質問をすることによって、相手の主張の愚かさを指摘します。彼は、賢明なふりをしている者を、何が真実ではないかを示すことによって、遠慮なく真実へと導いていきました。彼は自分のことを知の助産婦と呼び、疑いの念は陣痛であると述べています。彼の言葉によれば、彼自身は意見を持たず、他の人が意見を持つことや見いだすことを支援していました。

真実を知ること

To Know Truth

 ソクラテスは、絶対的な真実、知識、美、善といったものが、永遠に存在すると考えていました。そして、私たち人間は、この地上でそれらの性質を知り理解することができると考えていました。なぜなら私たちは、過去に別の存在であったときに、一緒に暮らしていた真実、知識、美、善を思い出すことができるからです。別の対話編『パイドン』の中で彼はこう述べています。「地上に降りた後も、魂(soul:ソウル)は、真実からなる世界の思い出を保持している。私たちが学ぶことは、多くの場合、かつて別の世界で知っていたことを思い出すことである」。質問をすることによって、ソクラテスは、最初に質問をした人が答えを思い出すことを助けていました。

ソクラテスが口にしていた言葉の中で、最も有名なのは、おそらく次の2つでしょう。「汝自身を知れ。」、「試されることのない人生には、生きる価値がない。」

彼が最も関心を寄せていたのは、「善き生き方」についてでした。彼以前の哲学者たちは、天上の世界と地上の世界の性質に主に関心を持っていました。しかしソクラテスは、宇宙がどのようにして創られたのか、何からできているのかには関心がないと言い、なぜ宇宙が今あるように創られているのかに関心があると言っていました。ソクラテスは、内的な自己に注目することと幸福を得るための方法にだけ、自分の関心を絞り込んでいました。彼は、真の善と幸福とは全く同一のものであると考えると同時に、「アレテー」(αρετ?)という過程を通じて、私たちは分別のある人間になることが実現できると考えていました。ここでアレテーとは、道徳的な優秀さ、つまり美徳、または単に何かに熟練することを指しています。彼は、人間は誰もが、自身の内的な可能性のすべてに合致するように生きるべきであると考えていました。

ソクラテスが語った「絶対不変の性質」とは、ある事柄から表面的な性質を取り去った後も残っている、本質や姿、あるいはイデア(idea:観念)です。これらの本質を思い起こすことによって、私たち人間は、その本質と一体になることができるとソクラテスは考えていました。一例を挙げると、私たちが美しいと思っていた花が萎れた後でも、美という観念は残っています。この美という観念もまた、その花の本質です。そして、この本質を知っているからこそ、人はその花の目的も知ることができます。宇宙に、このような多様性が存在しているのは偶然ではないとソクラテスは考えました。あらゆるものには、全体と関係するある目的があります。個々の人や物には、他のどの人やどの物よりも優れた働きがひとつあります。そしてその働きこそが、その人やその物の目的であり、存在する理由なのです。

知識は徳である

Knowledge is a Virtue

 もしある人が知識を探し求め、真に善いことを学んだのであれば、その人は最善の結果が得られるように行動することでしょう。知識からは、善なる行いや善良な生活へと導く理解が生じるとソクラテスは考えていました。過ちは、情報が不足しているために生じます。もし人が、何が最善であるのかを知っているなら、その人は最善のことをします。誰一人として自分自身を意図的に傷つけたりはしないものです。盗みを行ったある人のことを考えてみましょう。自分が盗んだものを所有することが自身に幸福をもたらすと、この人は信じているに違いありません。誰かを殺したある人は、その人がいなければ、その人自身あるいは世の中が、何らかの形で良くなると考えているのではないでしょうか。「知識は徳である」とソクラテスは語ったのはこのような意味です。

私たち人間の本質は善です。善という道筋から外れてしまったとしても、本来の道筋に戻してくれる生来の安全装置が、私たちの中にあります。どんな人も、そしてどのような集団も、自身の個人的な利益を害したり、あるいは他の人々の利益にとって妨げになるような行動をいつまでも続けることはできません。そのようなことをしようとしても、物事がうまく進まなくなります。ですから、真の幸福を見いだすためには、人は、真の善を見いださなければなりません。

人々による裁判

Trial by the People

 歴史上の偉大な教師の多くと同じように、ソクラテスは多数の人々に不人気でした。彼の人生は、アテナイで紀元前399年に終わりを迎えました。この地は、70年前に彼の人生が始まった場所でした。彼は国家の神々を崇拝しなかったこと、新しくなじみのない宗教の実践を紹介したこと、都市の若者たちを堕落させたことで有罪とされ、裁判官からドクニンジン(hemlock)を飲むように命ぜられました。

裁判では、これまでのやり方を改める機会が与えられました。しかしソクラテスは、それを拒否しました。裁判と判決は、自身にとって最善だと考えていると彼は述べました。自身のダイモン(daimon:心の内にいる伴侶)について語り、ソクラテスは次のように述べています。

画家のジャンベッティーノ・チニャローニ(1706~1770)が描いた「ソクラテスの死」
画家のジャンベッティーノ・チニャローニ(1706~1770)が描いた「ソクラテスの死」。真実と徳について筋道だった検討を行い、それを追い求める活動をソクラテスは、人が人であることの本質であり、人間の性質の最高の表現であると見なした。そのため彼は国外追放ではなく、ドクニンジンを飲んで死ぬことを選んだ。彼は、自身を弁護する演説の中でこう語った。「試されることのない人生は、人間にとって、生きる価値がない人生だ。」

「このしるしが、それはある種の声なのだが、初めて私に届いたのは子供のころだった。それは常に私の行動を禁じるばかりで、私がしようとするいかなることも行えと命じたことはなかった。今までのところ、内なる神託の源であるこの生まれつきの能力は、常に私の反対をすることが習性になっている。どんなに些細なことであっても、もし私がしくじったり、誤りを犯したりしそうな場合であれば、必ず反対するのである。そしてとうとう、お分かりのように、考え得ることのうちで最終的かつ最悪のものであると、たいていは考えられている事態が、私に降りかかってきた。」

「しかし、私の内なる神託は、何も反対のしるしを示さない。それは、私に起きていることが善いことであると、それとなく知らせてくれているのであり、死が悪であると考えている一部の人たちは誤っているのだと知らせてくれている。というのも、私が悪いことをしようとしているときや、善いことをしようとしていないときに、いつもこのしるしは、
必ず私に反対していたからである。」

プラトンの衣を着て

Enter Plato

 「あるものからは、その正反対のものが生じる。それゆえに、死の後には、必ず生が引き続いて起こる」という考え方は、プラトンのものであると考えられていますが、プラトン自身は、ソクラテスの思想であるとしています。対話篇に表れているソクラテスの哲学を、プラトンの哲学から正確に区別することはできないと多くの人たちが考えています。多くの場合に、プラトンは自分自身の見解を表現してくれる代弁者として、ソクラテスを用いたと考えられています。しかし、それがどうしたというのでしょうか。その哲学自体が重要なのではないのでしょうか。あなたも、ある言葉を聞いてその聡明さに感心したものの、やがてその言葉を誰が言ったのか思い出せなくなることがよくあるのではないでしょうか。真実はおのずと明らかになるものです。

おそらくプラトンには、自身の思想とソクラテスの思想を混ぜ合わせて、区別がつかないようにするという意図がありました。理由はどうであれ、このことによってソクラテスの哲学が補強されているように思えます。というのも、学識豊かなあらゆる人々でさえ意見を一致させることができないような物事を議論することも、持っていても何の役にも立たない知識を探求することも、それは時間の無駄だからです。ある思想が、ソクラテスとプラトンのどちらのものかが分かったとしたら、私たちにとってそのことには、どういう利点があるというのでしょうか。2人のどちらの思想か分からないということによって、ある主張ではなくて、それを唱えている教師を尊敬するという罠から、私たちは守られます。結局のところ、もしプラトンが賞賛を望むのであれば、彼はただ、自分の思想として対話篇を発表すればよかったのです。しかしプラトンはソクラテスを父のように慕い、ソクラテスは20年間プラトンの師でした。対話篇はソクラテスの死後に書かれました。

プラトンは、単にそこに真実が存在することを知っていたのであり、彼の敬愛する師であるソクラテスが、一行たりとも文章を残さなかったので、真実が守られ後世に伝えることを望んだのでしょう。彼がそうしたように真実を守り続けましょう。真実は、今もなお理解してくれる人を待ち続け、たたずんでいるのです。真実が光で照らされるのを待っていることに、人々が集まる広場の光は、まだ気づいていないのです。

区切り

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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執筆者プロフィール

本庄 敦

本庄 敦

1960年6月17日生まれ。バラ十字会AMORC日本本部代表。東京大学教養学部卒。
スピリチュアリティに関する科学的な情報の発信と神秘学(mysticism:神秘哲学)の普及に尽力している。
詳しいプロフィールはこちら:https://www.amorc.jp/profile/

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