投稿日: 2021/12/10
最終更新日: 2022/08/08


資料室

エラ・ウィーラー・ウィルコックス-バラ十字会員の神秘家・詩人

Ella Wheeler Wilcox: Rosicrucian Mystic and Muse

カレン・シュルツ

by Karen Schulz

「あなたが笑うとき、世界はあなたとともに笑います。あなたが泣くとき、あなたは一人で泣きます」。よく引用されるこの一節を書いたのは、ひとりの若い女性でしたが、彼女は後に、世界的に有名な詩人、優れた神秘家、バラ十字会員になることになります。

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 エラ・ウィーラーは、1855年の11月5日に、ウィスコンシン州のつつましい農家に生まれました。貧しいながらも教養ある家庭で4人目の子供として育ったエラは、胎教に熱心だった母親のことをたびたび賞賛し、次の言葉を残しています。「文筆家になるための私の歩みは、生まれる前からすでに始まっていたのです」。そして、母親はこう語っていたと彼女は言っています。「お腹の子は女の子よ。そして作家になるわ。文学で身を立てるの。若いころから始めるわ。いろんな土地を旅したり、私がやりたくてできなかったことを、この子はすべて叶えるでしょう」。母親は、エラがお腹にいる間にシェークスピアを読み漁り、生まれてくる我が子に良い影響を及ぼすような、あらゆる種類の文学作品を暗記しました。

エラは7歳のときに、壁紙の余りに初めての物語を書き、9歳のときには、紙を見つけるとどんな切れ端であろうとそこに物語を書き連ねて、10章からなる小説を書き上げました。数年後、この若き野心家は散文と詩に心血を注ぎました。初めての小切手を受け取ったのは10代になって間もなくのことで、それは、3作の短い詩に対するフランク・レスリー社からの10ドルの報酬でした。フランク・レスリー誌に掲載されることになったエッセーの報酬として郵便受けに40ドルの小切手が届いたときは、「ほとんど精神的ショックに等しい」喜びでした。彼女はしばしば、8キロ離れた最寄りの郵便局まで馬を走らせて、少額の小切手を受け取ったり、お決まりの文面の不採用通知を受け取ることもありました。

年老いた魂

An old Soul

 自称「田舎の小娘詩人」には、しばしば生活が耐えがたく息苦しいものに思われ、家族への不満が募ったことがあります。彼女は、自叙伝『世界と私』(The Worlds and I)の中で、家族の不可知論的な考え方に対する自身の反発について次のように書いています。

私の魂は年老いた魂であり、家族の誰にも増して何度も生まれ変わりを経てきているので、この人たちには明らかになっていない、精神の世界のさまざまな事柄についての真実にも、私は馴染んでいました。知っていることを明確に言葉にすることはできないけれど、私は自分のことを、自分より年上の家族たちの精神的な保護者であると感じていて、彼らがより明晰な視点を手に入れる力になりたいと思っていました。」

「過去の人生という情報源と、母の胎内で受けた影響を通して、絶えることのない希望と神への揺るぎない信仰と、保護者としての精神を持って、私はこの世に生まれたのでした。失望と心配だらけの一日の終わりには、涙にくれて眠りにつくこともよくありましたが、翌朝目を覚ませば、人生の喜びを高らかに歌っていました。」

想像力と空想に満ちたエラは、飽くことなく文筆に明け暮れました。10社もの編集者に突き返された後に、11社目で75ドルという、当時としては破格の値段で買い取ってもらえた小説もあります。

「郵便局は何キロも先にあり、鉄道駅はさらに遠く、文学センターなどはるか彼方でした。文章の技法について何らかのことを知っている知人もいなければ、編集者に会うつてもない私は、彼らの城塞を訪ねて、その扉を開けてくれるまで、子供のようなこぶしで叩き続けたのでした。」

実際にチャンスの扉は開かれ、このうら若き女性に幸運の女神が微笑むことになります。そして彼女は、勇敢に努力し続けた実りを手にし始めました。エラは、ある年の夏と秋を費やして『モーリーン』(Maureen)という一連の詩からなる小説を書き上げ、そこそこの成功を収めました。その後、1883年に『情熱の詩』(Poems of Passion)を出版すると、思いがけないことでしたが、華々しい名声を手に入れることになりました。「勇気」(Courage)という短い詩の冒頭には、この詩集の全体的なテーマである情熱が端的に表現されています。

このような勇気がある。
苦痛に満ちた顔から湧き出る威厳。
成熟し、ミネルヴァ(訳注)のような、
知る限りの危険に挑む勇気。

訳注:ミネルヴァ(Minerva):ローマ神話の知恵と武勇の女神。ギリシャ神話のアテナにあたる。

この数行には、この時期のエラの女性詩人としての姿勢が表されています。残りの生涯を通じて、エラの詩には、自身の状況や変化の数々が反映される傾向がありました。ですから、これらの詩によって彼女の自叙伝を補うと、彼女の人生について極めて良く知ることができます。

彼女の有名な詩「孤独」(Solitude)は、列車で一緒になった、夫を亡くした若い女性の悲しみに触発されて書かれた詩で、彼女のこの最初の詩集に収められています。しかし、文学界には、エラに対する賛否両論がありました。というのも、この『情熱の詩』という薄手の処女詩集に収められた作品群ほど頻繁に「キス」という言葉を用いることは、当時としては極めて不道徳なことだったからです。当然ながら、彼女の作品は売り上げを伸ばしました。自身の著作から得た最初のかなりの収入によって、彼女は、自分の古い家を増改築しました。この時点で、彼女はすでに、ミルウォーキー詩作学校の中心メンバーとみなされており、文筆家としての腕前を上げるにつれて社交範囲も広がり、作品の寄稿先も増えてきました。

ロバート・ウィルコックス

そして、まるで物語に出てくる光輝く鎧兜に身を包んだ騎士のように、富と教養を備えたロバート・ウィルコックスが、単調な現実生活からエラ・ウィーラーを救い出し、彼女本来の才能と気質にふさわしい生活へと運び去ってくれました。このできごとを、詩集『情熱の詩』の中の「愛の訪れ」(Love’s Coming)という詩に彼女はこう表現しています。

かつて彼女は、荒々しい嵐に煽られて
海が逆巻くように、
恋人の訪れが自分の魂を
激しく揺さぶることを夢想していた。
しかし彼がもたらしたのは、
妙なる静けさ、癒やしの膏薬と
心の平安であり、それらが
王冠のように生活を飾った。

 エラは自叙伝の中で、ロバート・ウィルコックスを賛美する詩を繰り返し詠んでいます。彼は確かに並みの男性ではなかったに違いありません。包み込むような優しさにあふれた人であり、力強くそして忍耐強く、この詩人の手助けをしたのでしょう。二人は牧歌的生活とさえ描写できるような結婚生活を32年間に渡って送りました。結婚に関して、エラはこう述べています。

「より広い知恵とより優れた判断力を授かるようにと、常に祈ることに助けられながら、私の能力の及ぶ限り、妻という難しい役割を果たすことが、私を支配する目標となりました。」

エラの詩には、ロバート・ウィルコックスに触発されて生まれたものがたくさんあります。たとえば詩集『力の詩』(Poems of Power)の中の「私たちふたり」(We Two)です。

私たちふたり、私たちふたり、
私たちで、私たちの世界、
私たちの晴天と風雨を作っていく。
私たちの道は、天上の小道の
すぐかたわらに通じる。
私たちふたり、私たちふたり、
私たちは、とこしえの愛に生きる。

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

Swami Vivekananda

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

シカゴ万博と合わせて開催された世界宗教会議の後、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、一年ほどの間、ニューヨークで講演を行っていました。1893年にエラはこの講演に参加して、「一心に最初のレッスン」を受けました。

「それ以降、彼のレッスンを受けることが、実際のところ、私の日課の一部になったのですが、毎回のレッスンの後には、15分から30分間、たった一人で座って、活動しすぎる自分の精神を、手綱で抑えるように意図的にコントロールする練習をしました。私は、あらゆる考えを心から追い出すように努力し、唯一の至高の存在であり、今ある世界とかつて存在した世界のすべてを創造した、全能の神についての思いだけが残るようにしました。いつも、このような短い時間の集中が終わると、新しい力とともに椅子から立ち上がり、人生に立ち向かう準備ができていたのでした。」

スワミの講義で受けた深い感動の冷めやらぬまま、自身の書斎に戻ったある晩、彼女は、ほとんど自然と湧き出てくるように、自分のお気に入り作品の一つである「幻影」(Illusion)という詩を書き上げていました。

宇宙のただ中に、神と私だけ、他には誰も見えない。「おお主よ、あの人たちはどこにいるのでしょう」と私は言った。「下には大地が、頭上には空が広がっています。でも、私がかつて知っていた、今は亡き者たちはどこに。」
「それは、ひとつの夢であったのだ」と神は微笑みながら言った。「事実に思われる夢。生きている者も死んでいる者も存在しなかった。大地もなければ頭上の空もなかった。あるのは我自身のみ、汝が心の内に。」
「なぜ私は恐れを感じないのでしょう」と私は質問した。「ここでこうしてあなたを前にしながらも。私が罪を犯したことを、私は十二分に承知しているのに。天国はあるのでしょうか。地獄はあるのでしょうか。今日は審判の日なのでしょうか。」
「おお、それらこそ夢にほかならぬ」と偉大なる神は言った。「消え去りし夢。恐れや罪といったものは存在しない。汝も存在しないし、一度も存在したこともない。〈私〉を除いては、まったく何も存在しない。」

 この詩は、インドから来た偉大な師の思想が、「田舎の若き女流詩人」の精神に流れ込み、それを彼女が自分流の抒情的な文体で書き留めたものです。3作目として発表された詩集『力の詩』(1901年)に収められたこの詩は、エラが生涯記憶に留めていた唯一の詩です。それほど師の言葉は、彼女の心に深く刻まれていたのです。

コネチカット州メリデンに住んでいるとき、若い夫婦の楽しい生活は、生まれたばかりの息子、ロバート・ウィルコックス・ジュニアの死によって崩れ去りました。彼がこの世に生を受けていたのは、わずか12時間でした。ふたたび、エラの人生における重大なできごとが、喜びの場合も悲しみの場合も、詩として表されることになります。このときは、万感の思いで綴った『顔』(A Face)という詩です。

奪い取られたものはすべて、
良きものとされるであろう。
私を混乱に陥れるものはすべて、
理解されるであろう。
私が愛する、小さな白い手は、
いつの日か、より望ましい道へと
私を導くであろう。

 この辛い経験の後、ウィルコックス夫妻は決して次の子供を作ることはありませんでした。エラ・ウィーラー・ウィルコックスは、持てる力を振り絞って、残りの人生の間、自身の創造的なエネルギーを執筆に向けました。やや自責の念にかられながら、彼女は次のように書いています。「私に次の人生を選ぶことが許されるのなら、愛する夫の、よくできた気の利く愉快な連れ合いとして、彼の息子たちと娘たちの母親として、この世に戻ることを願うでしょう。世間の目から見て際立ったところなど、他にはひとつも望みません。」

胎教の影響

Prenatal influence

 エラは、その後わが子を持つことはなかったものの、好ましい胎教がどのような効果を持つかにずっと関心を持ち、次のように書いています。

「妊娠した女性は誰もが、神から託された大切な務めに対して、自身の神聖な使命を恐れたりせず、自信を持って取り組まなくてはなりません。妊婦は健全で楽観的であることを心がけ、精神に活気を与えてくれる興味深いテーマの本を読んで、広い範囲にわたる優れた事柄について考えるべきです。それとともに、祈りを習慣にし、大きな志を待たなければなりません。自分が養い育てることになる我が子の理想の姿を常に心に描き、将来の世代に存続させることを望む資質が、“あらゆる豊かさの偉大な源泉”から生まれてくる子供に与えられることを要求するべきです。そうすれば、それは与えられます。」

ロバートとエラ・ウィーラー・ウィルコックスはニューヨークに転居し、その後の1888年にエラは、第2のヒット作となった詩集『喜びの詩』(Poems of Pleasure)を出版しました。1889年には、『麗しきノドの地』(Beautiful Land of Nod)(訳注)という題の、子供向けの詩が多数収録された本を出版しました。

訳注:ノドの地(Land of Nod):エデンの東にあるカインが住んだとされる土地。

多くの人を惹きつけたエラの詩の魅力

Her Poetry’s Wide Appeal

 ものごとのとらえ方の幅広さと、あらゆる人に対する自然な思いやりによって、エラは生涯を通して多くの友人を得ました。この女流詩人が友人として挙げる人々の中には、ジャック・ロンドン、ルーサー・バーバンク、サラ・ベルンハルト、ローズ・オニール、マリー・コレリ(訳注)といった、きら星のような当時の有名人がいます。彼女はマリー・コレリと会った日のことをこう書いています、「心の中のカレンダーに、その日のことは赤字で記されています」。この頃は、彼女の人生の中でも、特に楽しい時期でした。

訳注:マリー・コレリ(Marie Corelli,1855
-1924):英国の大衆文学作家。バラ十字会員。アーサー・コナンドイル、H・G・ウエルズ、ラドヤード・キップリングなどを含む当時の他の作家すべての本よりも、彼女の小説の売れた冊数のほうが多かったという。

「シエラ山脈の詩人」ことホアキン・ミラーは、会合の席でエラに向かって、あえてこんな暴言を浴びせました、「なんてこったエリー、お前さんがこんなに垢抜けたおちびちゃんだとは思ってもみなかった。てっきり、西部の腕っぷしの強い乳しぼり女かと思ってたぜ!」。アパッチ族の酋長として有名なジェロニモは、90才に至って彼女をすっかり気に入って、「白羽のプリンセス」と名付けました。彼女は蝶のような、まさに社交界の花形でした。あらゆる地位や立場の人を包み込む、開放的な精神の持ち主でした。

1890年にウィルコックス夫妻は、コネチカット州グラニット・ベイにあるショート・ビーチ・オン・ザ・サウンドに「地上の楽園」を造りました。二人のためのバンガローは避暑の別荘であり、老後の住み家となるはずでした。ところが、後に彼らは放浪の旅に乗り出し、10年をかけて世界中を見聞して回りました。ジャマイカ、イギリス、インド、セイロン島、日本、アフリカは、漂泊する冒険家のふたりにとって、特に印象的な土地でした。「大仏」(Diabutsu)という詩には、世界中の宗教の共通点についてのエラの幅広い理解が反映されていますが、これは、何年もかけて行ったこの旅を通して実感として得られたものでした。横浜から数キロ離れたところにある高さ13メートルの青銅製の大仏像(訳注:鎌倉の大仏)を描写して、エラは詩の末尾をこう結んでいます。

その芸術家の名は残されておらず、
その信念も、おぼろげにしか
伝わっていない。
だが、彼の手による青銅の
驚嘆すべき像は、
彼の信仰が足を踏み入れた高みへと
私を引き上げるのに充分であった。
価値あるひととき、
豊かさ極まりないひととき、
クリシュナとブッダ、
キリストとともに私は歩いた。
そして感じた、神の完全なる静けさを。

 彼女は、東洋とのこの出会いについて、自叙伝の中で次のように述べています。

「神聖な英知に関する、現存する最古の書であるヴェーダは、悟りという忘我の状態を人間の究極の目標として描き出し、ブッダはキリストが現れる300年も前に、その状態についての教えを説いていますが、大仏には、それらのすべてが表現されています。大仏を見れば、ニルヴァーナという誤解の多い言葉の真意が自ずと分かります。それは意識が消滅してしまうことではなく、達成の確信であり、人と神が一体である忘我の状態(ecstasy of at-one-ment)なのです。」

多くの天才と同じように、エラもまた、執筆以外にも多種多様な才能を持っていました。彼女は、とても若い頃からダンスが大好きで、それは大人になっても変わることがありませんでした。また、マンドリンの腕もプロ並みであり、後にハープにまで手を広げました。さらに、手相占いも夢中になるほど好きな趣味であり、フランス語にも堪能でした。他にも、大の猫好きであったり、世界中からお守りのアクセサリーを集めたりしていました。彼女の好きな色は「心が浮き立つような明るい黄色」でした。

バラ十字会への入会

Rosicrucian Affiliation

 神秘学的なあらゆる事柄に彼女が生涯興味を持ち続けていたことを考えれば、ニューヨークで暮らしている間に、ハーヴェイ・スペンサー・ルイスとの交友が生じたのは驚くべきことではありません。ルイスは、20世紀の北米におけるバラ十字会の初代代表でした。ルイス博士が、創設後間もないバラ十字会世界総本部の代表に選任されると、エラは、世界総本部の理事としての協力を求められました。そして、1919年に他界するまで、アメリカ本部の再建に協力しました。詩集『喜びの詩』(Poems of Pleasure)の中の「秘密の思い」(Secret Thoughts)という詩は、今日もバラ十字会の印刷物に引用され続けています。

私の確信は揺るがない。
人の思いは物である。
それには、実体と活力と羽が
授けられている。
そして、私たちは思いを放って、
世界を正しき結果や
悪しき結果で満たす。

 1901年に出版された『力の詩』(Poems of Power)は、20世紀という新しい世紀の到来を告げる詩集でした。この詩集は、神秘家として成熟した女性のペンから生まれた、私のお気に入りの作品集です。楽観的なエラの人生は順風満帆に進んでいました。しかし、1916年に夫が突然亡くなったのです。彼女は完全に打ちひしがれ、「悲しみの谷」で喪に服したと自叙伝の中で告白しています。詩集『喜びの詩』に収められた「私たち二人のどちらかが」が書かれたのは、エラが若いときでしたが、まるでこの一件をすでに予感していたかのようでした。

私たち二人のどちらかが、
すべての光を見るでしょう。
すべての美を、すべてのこの世の喜びを、
永遠に紡ぎ出される物語を。
それからは、生きることが
義務に過ぎないのを知るでしょう。
ああ、神様! ああ、神様!
その者を憐れみ給え。

 エラは、独りになった晩年の3年間を、自己の魂の探究に費やしました。そこには死と死後の世界の性質に関する深い考察が必然的に伴いました。そしてとうとう彼女は、次の結論にたどり着いたのでした。

「死は、より大きな生命へ通じる扉に過ぎません。だから、思い出も愛情もその人の特徴も失われることはありません。死は、それぞれの人の魂を、ある場所の、ある高さへと導きます。そこは、魂が自体のために、この世に生きている間に、思いの性質と気質によって作った位置です。」

生涯の最後の年には、心臓の具合がいくらか快復したこともあり、エラはフランスへと赴きました。それは、第一次世界大戦の戦士たちが助けを必要としているのだから、彼らとともに働かなければならないという義務感からでした。最晩年の数年、死への誤った恐れに付きまとわれていたエラでしたが、「終結」(The Finish)という題の以下のたぐいまれな詩の中で、彼女はこの恐れを打破しています。

何も望むことも欲することも、
もはやなくなった今、
私の魂の中には神だけが残っている。
神のもとへ帰る最後の旅のことを思う。
それは、大きな白き炎のように、
遠くに輝いている。
私は道を歩いて、
アメジスト色の海の波打ち際を縁取る
金色の雲を突き抜けていくことだろう。
つづら折りの緩やかな坂道を上って、
以前のさまざまな世界を
過ぎていくだろう。
そこは、肉体を次から次へと
置き去りにしてきた場所。
地獄と天国を過ぎる。
そこは、私と同じく下位の世界から来た
仲間の魂と、かつて過ごし、
あらゆる罪に対する科料を支払い、
あらゆる価値ある行ないに対する
報酬を刈り取った場所。
天上界と、そこに住み
歌い続ける者たちの前を通り過ぎる。
(そこは、かつて私が智天使たちと
尊い歌を詠唱した場所)
その先は、完全な静寂の世界。
突然、すべてを包み込む広大な意識の、
長い長い旅が終わる。
もう一度曲がり角を過ぎる。
すると、輝き、輝き、無限の輝き。
自我が消え失せ、神とひとつになる。
その光線は再び太陽に溶け込み、
循環が終わる。

 以上のように、貧しい身から出世し、輝かしい人生で無数の人々の道を照らした高貴な女性詩人は、69年という一つの周期、ほぼ10回にわたる7年周期(訳注)を死が定めである世界で過ごした後に、次の領域へと静かに旅立っていったのでした。エラ・ウィーラー・ウィルコックスの人生と活動は、『力の詩』の最後に収められた「この世界に必要なもの」という、次の短いメッセージに集約されているのかもしれません。

訳注:バラ十字会の哲学では、人生が7年の周期に分かれていて、各々の周期には別の特徴があると考えられている。

あまりにもたくさんの
神々や教えや道があり、
あちらに行ったり、
こちらに行ったりしているが、
この悲しい世界が必要としているのは、まさに、
人が心優しくなるための方法だけです。

脚注

この記事で引用した発言は、1918年にジョージ・H・ドラン社から出版された彼女の自叙伝『世界と私』(The Worlds and I)の英文を翻訳したものです。「大仏」と「終結」の抜粋もこの作品に収められています。「胎教の影響」の節の引用は、1902年に出版された『The Heart of the New Thought』からの抜粋の翻訳です。その他の詩や詩の一部は、次の詩集からの翻訳です。

『情熱の詩』(1883年 W.B Conkey & Co., Chicago刊)より-『勇気』、『愛の訪れ』、『孤独』
『喜びの詩』(1888年 Bedford Clarke & Co.刊)より-『顔』、『私たち二人のどちらかが』、『秘密の思い』
『力の詩』(1903年 Gay and Hancock, Ltd., Lon-don刊)より-『幻影』、『この世界に必要なもの』、『私たち二人』

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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