投稿日: 2021/12/10
最終更新日: 2023/04/08


 

資料室

ダンテの『神曲』-地獄巡りの旅と帰還

Through Hell and Back

パウロ・M・ピント

By Paulo M Pinto

 

ドン・シモーネ・カマルドリ(Don Simone Camaldolese)作「ダンテ・アリギエーリの『神曲』」(フォリオ判11 ページ)、Web Gallery of Art 21334(Public Domain)、1386 ~ 1388 年制作。

イタリアの詩人ダンテの代表作である『神曲』(The Divine Comedy)は、喜劇(comedy)という名が付けられていますが、笑いを誘うような要素はひとつもありません。重層的な教訓と、その根底に深い秘伝哲学の背景を感じさせる、厳粛な雰囲気に満ちた傑作です。不滅の価値を持つこの作品は叙事詩の形式で書かれており、そこに比喩的に表現されているのは、おそらくフィレンツェ生まれの詩人ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)が、巡礼者ダンテとして、感覚を超越した世界を巡った旅です。『神曲』は1308年から1320年にかけて、イタリアでも特に風光明媚なトスカーナ地方で書かれましたが、生きている人間が、死者の住む3つの世界を案内されながら旅する様子を描いています。その3つの世界とは地獄(Inferno)と煉獄(Purgatorio)と天国(Paradiso)です。この旅は、神の許しを得た後に、ダンテが生涯愛し続けたベアトリーチェによって手筈が整えられます。この作品には、心の世界の摂理によって、生前の行いからどのような結果がもたらされるのかを、人々に伝えるという意図が込められています。

この記事の目的は、注意深い読者が『神曲』のあらゆる部分に見いだす、高度で普遍的な秘伝哲学の考え方を示すことにあります。しかしもしかすると、作者はこのことを語ろうとして『神曲』の執筆を構想したのではなく、心の世界にある真実の源泉にダンテが触れていたことが、作品に反映されているだけなのかもしれません。神秘家の中には、ダンテが実際にアストラル投射を体験し、その記憶に着想を得て『神曲』を書いたのではないかと考える人もいます。確かに、アストラル投射の際に低次のアストラル界に入るという危険を冒したことのある人たちにとって、ダンテの描く地獄の響きと激烈さは、背筋の凍るような警鐘に感じられることでしょう。

もう一つの見方は、ダンテが秘伝哲学の研究に本格的に取り組んでいたとするものです。ダンテは、中世の賢者のひとりとして、当時のキリスト教会によって信奉されていた原理よりも高度な、心の深奥にかかわる普遍的な法則に精通していた可能性があります。評論家のジョナサン・ブラック(筆名)は、著書『ダンテの知られざる横顔』(The Secret History of Dante)の中でこう書いています。「ダンテの『地獄篇』の様々な秘密を解き明かすと、中世イタリアには秘密組織が数多く存在していたのを見て取ることができる。その中には、中世ローマカトリックが忌み嫌っていた高度な教えを熱心に研究するグループもあった」。

目を凝らし、耳を澄ます

All Eyes and Ears

 おそらく、『神曲』が極めて魅力的である理由は、純粋で高度な哲学的概念を中世の読者に伝えるために、文学という手段で偽装したという点にあります。カムフラージュすることで、作者は、宗教の狂信から自身を守ることができたのでした。同時に、そうすることで、見抜く目と聞き分ける耳を持った読者に向けて、普遍的真実の数々を詳細に描くことができたのです。

彼女のかたわらで

By Her Side

 『地獄篇』と『煉獄篇』でダンテは、罪を犯した人たちの一人ひとりが、その事情に応じて受ける罰を構想するときに、コントラパッソ(訳注)と呼ばれる文学的な技法を用いています。詩作に用いられたこの技法に従って、科される罰の内容は、元々犯した罪とは正反対のものになります。そうすることで、罪人には、自身の振る舞いを全く新しい角度から見つめ直す機会が与えられます。有名な例のひとつとして、リミニ(Rimini:イタリア北東部の港町)のフランチェスカと彼女の愛人パオロの場面が知られています。彼女は、ダンテと同時代に実在した有名な女性ですが、『神曲』の中では、ジョヴァンニ・マラテスタという、リミニを治める容姿の醜い、脚の悪い貴族のもとに嫁がされます。彼女は、ジョヴァンニの弟のパオロと肉体関係を交わしてしまいます。その現場を目撃したジョヴァンニは激怒し、2人を殺してしまうのでした。ダンテが2人の“影”(shade:亡霊)と出会ったとき、2人の魂は地獄の第二圏(愛欲者の地獄)の縁をあてどなくさまよい、叩きつける激しい風に翻弄されていました。情け容赦なく吹き付ける突風にも2人の魂は離れることはなく、縦に並んで永遠に回り続けるのです。これを読んだ読者の多くは、「フランチェスカとパオロは地獄に“勝利した”のだ。死してなお、恋人同士のまま離れずにいることをなし遂げたのだから」と早合点します。

訳注:コントラパッソ(contrapasso):ダンテが『神曲』の『煉獄篇』で用いた言葉。文字通りの意味は「釣り合った重し」。因果応報。ある罪にどのような罰が対応するかを意味する。

 

ドメニコ・ディ・ミケリーノ(Domenico di Michelino, 1417-1491)作の絵画「ダンテの『神曲』」(Public Domain)。ダンテは自作の叙事詩の本を左手に持っている。彼の右手の後方には地獄へ向かう罪を犯した人々の列が描かれ、背後には煉獄とフィレンツェの昔の風景が描かれている。

しかし、哲学者のマーク・ムーサ(Mark Musa)によれば、この解釈はほぼ確実に誤りであると同時に、この場面におけるコントラパッソは絶妙で、素晴らしい洞察に満ちたものです。ムーサは次のように指摘しています。放浪の旅人ダンテが、フランチェスカに彼女の境遇を尋ねたとき、彼女は決してパオロのことを彼の名前で呼ばず、決まって、「この者」とか「かの者」とか、「絶えず私について離れない者」といった、よそよそしい冷淡な言い回しをします。奇妙なことに、フランチェスカは、自分の死に様が「不快」であると告白しています。情事を目撃され、愛人の横で命を絶たれたことをです。考えてみましょう。もし、命を賭けた恋の相手との情事を誰かに目撃されたときに、“不快な”気持ちを抱くでしょうか。仰天したり、狼狽したりするかもしれませんが、決して“不快な”だとは思わないでしょう。ムーサによれば、フランチェスカが心からパオロを愛したことは一度もなく、2人の関係は欲望に基づいたものでした。それゆえに、このコントラパッソには深い洞察が満ちています。つまり、2人は愛なき欲望によって結ばれた結果、今では地獄で永遠に共にいることを強いられ続け、真に誠実で意義深いものは、2人の間にはひとつも無かったということを永遠に思い起こさなければならないという罰が与えられているのです。

木々の海

The Sea of Trees

 コントラパッソの別の例としては、自殺した人たちとダンテが関わる場面があります。地獄の第7圏(自殺者の森)で、ダンテと彼の案内役である古代の詩人ウェルギリウス(訳注)は、腐った木や朽ちた木で満ちた果てしない森を見つけます。そのうちの一本の枝を折った旅人ダンテは、その後に起こったことに驚愕します。その木が口を利き、第7圏に生えている木は皆、地上で自殺によって命を絶った者たちの魂であることを明かします。肉体を粗末に扱い、人生で置かれた状況と肉体を拒んだ罰として、死後の生では、もはや人間の姿を与えられることがないのでした。

訳注:ウェルギリウス(Vergilius):実在のローマの詩人。紀元前70年~紀元前19年。

コントラパッソは、原因と結果についての秘伝哲学の原理を、中世の西ヨーロッパの読者に紹介する巧妙な方法だったと言うことができます。ダンテはこの方法を、表向きは文学上の無邪気な技法として用い、詩人としての特権を生かして、カルマの法則が持つ、原因と結果の釣り合いと一貫性という観念を巧妙に作品に取り入れたのでした。結果があれば必ず原因があります。偶然に起こるできごとはありません。

Cocoon

 詩人としてのダンテは、カルマの法則(彼の言葉ではコントラパッソ)が、学びと成長のために役割を果たしているという考え方を、はっきりと論じているわけではありません。地獄の世界は、静止しているように思われます。そこにいる魂には何かを学ぶ能力が備わっていません。それができるのは読者だけです。ですからコントラパッソは、邪悪な者に死後に科される永遠の罰であるように見えます。もしかしたら、苦痛を通して学びを得るという考えは、中世の人々の精神には理解し難いものだったのかもしれません。あるいは、ダンテ自身にとっても高度な考え方過ぎて理解を超えたものだったのでしょうか。

しかし、そうではないと思われます。コントラパッソは「地獄」と「煉獄」のどちらにも適用されています。実際のところ、煉獄にいる魂が、地獄にいる魂よりもひどい苦痛や惨めさに責め苛まれることもあります。しかし、この2つの世界には重要な違いがあります。煉獄に住む魂には、責め苦が終わりを告げた暁に「天国」に昇ることができるという希望が残されています。地獄にいる魂には、その望みが絶たれており、永遠に責苦を負い続けます。

魂の行き先がどちらになるのかを決定づけるものは何なのでしょう。そのヒントを与えてくれるのが『地獄篇』第14曲で、旅人ダンテがカパネウス(Capaneos)の魂に出会う場面です。カパネウスは「テーバイ攻めの七将」(訳注)の一人でした。ダンテに対するカパネウスの物言いが横柄で威圧的であったため、ダンテの案内人であり守護者であったウェルギリウスは、「カパネウスよ、荒れ狂う自惚れを鎮めようとしないがゆえに、汝の苦しみは積み増される」と彼の亡霊を一喝し、元いた場所へと追い返します。

訳注:テーバイ攻めの七将(Seven against Thebes):テーバイを支配したオイディプースの2人の息子が王位をめぐって争っている隙にテーバイを包囲したギリシャの7人の王。ギリシャの悲劇詩人アイスキュロスの劇で有名。

ウェルギリウスのこの言葉に、鍵となる、地獄と煉獄の重要な違いが表れています。地獄に暮らす亡霊はすべて、自身の過ちを認めていない者たちです。この点から見ると、心の進歩について研究している現代人であれば、「永遠の責苦」という比喩をはっきりと理解することができます。自己中心的であり、現実についての歪んだ意識を持ち続けている限り、苦悩は“永遠”なのです。意識と心の発達の基本原則のひとつは、自由意志が必ず尊重されるということです。あなたがそれを望まないならば、あなたの生き方を無理やり変えることは誰にもできないのです。罪やうぬぼれといった自ら紡ぎ出した繭にいつまで閉じこもっているのか、すべてはあなた次第なのです。

いにしえの詩聖たちの集い

Dead Poets Society

 

ジョヴァンニ・ディ・パオロ(Giovanni di Paolo、1403-1482)作の絵画「ダンテの天国」(Public Domain)。トマス・アクィナスに導かれた12 人の賢者の住む天国の第一圏が描かれている。

『地獄篇』の全編を通し、案内役であるウェルギリウスは、地獄に堕とされた魂の惨状に対して、心を動かされることがまるでないように思われます。事実、弟子であるダンテに向かって、責苦を受けている亡霊たちに同情してはならないと一度ならず諫めています。

この明らかな共感の欠如が、ウェルギリウスに特徴的な性格であったと考えることもできます。しかし、詩人としてのダンテはこうした人物設定を施すことで、ウェルギリウスが最も優れた西欧の詩人の一人であるとはいえ、結局のところ異教徒であるという点を強調したかったのかもしれません。(歴史的に言うと彼の没年は紀元前19年であるため、中世のキリスト教徒の立場から見ると、イエス・キリストに出会い彼の教えによって救済される機会を、ほんのわずかの差で逃したことになります)。そのため、『アイネーイス』(the Aeneid)の作者であるウェルギリウスは、「リンボ」(Limbo)と呼ばれる、洗礼を受けていないものの徳の高かった異教徒たちの霊魂の場所であるとダンテが想定した、地獄の第一圏に住んでいます。ウェルギリウスの他に、ホメーロス(Homer)、オウィディウス(Ovid)、ルカヌス(Lucan)といった詩聖たちの死後の魂が、リンボに住んでいるとされています。もちろん、アリストテレス(Aristotle)、プラトン(Plato)、アヴィセンナ(Avicenna)、アヴェロエス(Averroës)などの、今は亡き知の世界の巨星たちもこの地に住んでいるとされています。

ウェルギリウスが明らかに薄情であるもう一つの理由は、おそらくこちらの方が興味深い解釈だと感じられるでしょうが、彼が地獄に落ちた魂たちの自由意志を尊重しているからだと解釈することもできます。自分の内面の改善や進歩に努めていない者に対して、他人がその窮状に涙を流す理由がどこにあるというのでしょうか。

火と氷

Fire and Ice

 地獄巡りの最後に、旅人ダンテは、地獄の底を目にして震え慄きます。これまで見てきた惨状は、すべてここから生まれ出ているのでした。そこは凍りついた氷の湖で、その中央にある穴には堕天使ルシフェル(Lucifer)がはまり込んでいます。三面の顔を持つルシフェルは、巨大であるけれども石のように固く凍っていて、身動きひとつ取れないありさまでした。そして、涙を流しながら穴に突き刺さっています。この穴は、ルシフェルが天国から墜落したときに大地の中心にできたのです。

これと対照的に、『天国篇』の最後には神のイメージが現れます。ダンテは、美しい小さな粒子、自由に動き回る、大きさがなく分割することができない光の点として神を描いています。

ルシフェルは、分割、巨大さ、静止、暗黒、悲惨といった、神にはない性質をすべて備えています。つまり、神とは完全に対照をなす存在です。このことは、極性という秘伝哲学の原理の好例です。この原理によれば、宇宙では存在するすべてのものが二面性を持っています。すべてのものに2つの極がある、つまりすべてのものは、反対の性質の2つのものの組み合わせであると理解することができます。『神曲』の全体(つまり宇宙)が、この両面性に基づいて描かれています。

麗しき精神

A Beautiful Mind

 おそらく、中世の人々から見れば、神のことを“大きさを持たない”分割することのできない光の粒子として描くなどということは、常軌を逸した行いであったことでしょう。しかし、700年後のヒッグス粒子の発見に照らしてみると、このイメージは、さらに注目に値するものになります。いわゆる「神の粒子」と呼ばれるヒッグス粒子は、理論的にヒッグス場に対応する素粒子です。ヒッグス場は、他のすべての素粒子と、物理的な力を媒介する粒子に質量を与えます。それゆえにヒッグス粒子は、宇宙のすべてを生じさせ、活動するようにしたとされています。

ヒッグス場を素粒子が通過するとき、その粒子は抵抗を受けて慣性質量(訳注)を獲得します。そして、慣性質量は宇宙が存在するために欠かすことのできない要素です。すると興味深い疑問が生じます。存在するすべての物の基礎であるヒッグス場は、エーテルという神秘学の概念もしくはアカシャ(Akasha)と呼ばれることもある神の精神と関連しているのでしょうか。エーテルやアカシャとは、物質的な世界と非物質的な世界の両方のすべてに充満している意識の場であり、唯心論という秘伝哲学の原理に関連しています。唯心論とは、宇宙は思考であるという考え方にあたります。

訳注:慣性質量(inertial mass):力を加えられたときに運動に抵抗する質量。質量には、慣性質量と重力の大きさを定める重力質量(gravitational mass)がある。

所詮は人間

Only Human

 

ボッティチェッリによるダンテの肖像画(1495 年)

『神曲』には優れた点が多数ありますが、基本的にはやはり芸術作品なのであり、学術的な客観主義に根ざしたものではありません。ですから、ダンテ自身の先入観や考えの偏り、非難が込められているのは仕方のないことです。たとえば、詩人としてのダンテは、恋愛においては不遇な人生を送っています。このことから、あわれなフランチェスカとパオロが、若気の至りによるよからぬ行為の代償として永遠の地獄行きを宣告されたことが、ある意味では、説明されるのかもしれません。一方で、ユリウス・カエサル(Julius Caesar)という血に飢えた独裁者は、ガリア地方(訳注)の国々に暮らす無数に多くの人々の計画的な殺戮(を指揮し、自身の勢力拡大のためには、同じ民族であるローマ人たちさえ殺したにもかかわらず、ダンテは彼を善人だと見なしました。老ユリウス(訳注)は、異教徒である他の著名な偉人たちと共に、比較的穏やかなリンボ(天国と地獄の中間)で、快適に暮らしています。

訳注:ガリア地方(Gaulish):現在のオランダ南部からイタリア北部にかけての広い地域。かつてガリア語(絶滅したケルト語)が話されていた。

老ユリウス(Ol’ Jules):ユリウス士族であったローマの初代皇帝アウグストゥスのことだと思われる。

さらにひどい例は、ノルマン人の冒険家で戦争屋のロベルト・グイスカルド(Robert Giscard、1015-1085)です。彼は1061年にイタリアを侵略し、富と名誉という自己本位な理由から多くの人を殺害したにもかかわらず天国にいます。その理由は単に、ダンテが毛嫌いしていた一族と彼がたまたま戦ったことがあったからでした。ダンテは、ギリシャとユダヤの歴史と神話から、世界中の話題を広く詩に取り入れる努力をしています。それでもやはり、『神曲』の名場面に登場する人物の多くは、トスカーナ地方をはじめとするイタリア半島の人々であるように思われます。また『地獄篇』の登場人物はあたかも、中世イタリアの大荒れの政界から選ばれた、ダンテの敵のリストであると解釈することもできます。偉大なフィレンツェの詩人にも、結局のところただの人間にすぎないという一面があります。

しっかりと目を閉じて

Eyes Wide Shut(訳注)

 若干の偏りや疑わしい判断があるものの、ダンテは不滅の傑作を人類に提供してくれました。これは、インスピレーションを与えてくれる豊かで深遠な事例が多数登場し、相互に関連している、まるで生態系のような作品です。『神曲』の芸術的価値は計り知れません。しかしそれは、注意深い読者のために、緻密に計算され配置された、心の深奥に関わる教訓という財産に比べれば、いとも小さなことに思えてきます。この作品はこの時代の人々に向けて発せられた警告であり、堕落した社会の堕落した人々への、内面の改革の要請だったのです。

悲しいことに、誰もがその呼びかけに耳を傾けたわけではありません。その後の700年にわたり、将軍たちは虐殺を、王たちは搾取を、教皇たちは裏切りを一貫して続けてきました。皆が皆、見る目と聞く耳を持っているわけではないように思われます。

訳注:この節の題名は、スタンリー・キューブリック監督の遺作映画(1999年)の題名を借用している。この映画は恋愛サスペンスであり、題名は直訳すると「両目を大きく閉じて」という矛盾した意味になる。

遺産

Legacy

 それでも私は、結局のところ『神曲』は人々の心の奥に届き、一部の人の目を開かせ、彼らに、生き方を見直させたのだと信じたいと思います。この詩が与えてくれる最大のメッセージと遺産は、愛の持つ導きの力です。ベアトリーチェの無償の愛は、旅人ダンテが地獄から再び地上に戻るところを見守っていました。ダンテの巡った道は、内面の成長という旅路の象徴であり、この旅によって、すべての人は変容を遂げ、啓発の光と思いやりの意識を十分に発達させ、心の平安と静穏という、その人個人の天国に至ります。

『神曲』に向き合い、偽りのない自己評価を下す勇気を持ち、そこから人生を変える教訓を引き出すことのできる人にとって、当時から今に至るいつの時代も、この本は千金に値しました。こうした人々にとって、『神曲』はまさに賞賛の的であり、喜びと笑いの源泉でした。そう、喜劇なのですから、読んで笑って、なぜいけないというのでしょうか。

筆者紹介
About The Author

パウロ・M・ピントはシドニー在住の経済学者であり、純粋知性科学(noetic science)の個人研究家でもあり、アマチュアの音楽演奏家兼プロデューサーとしても活動しています。また、バラ十字会AMORCの会員として、この会から学んだことから、ひとつの体系を組み立てる努力を続けています。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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