以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。
ヘルメス思想と永遠の哲学
Hermeticism and the Philosophia Perennis
クリスチャン・レビッセ
By Christian Rebisse
イタリア・フィレンツェの大聖堂
にあるフィチーノの像
1453年に、オスマン帝国にコンスタンチノープルが征服され東ローマ帝国が滅亡すると、ギリシャ文化がイタリアに広がることになりました。特に、さまざまな抜粋を通してしか知られていなかったプラトンの著作が広く知られるようになりました。フィレンツェを支配していたコジモ・デ・メディチ(Cosimo di Medici)は、プラトンの哲学を研究する重要性に気づき、フィレンツェ・プラトン・アカデミーを設立し、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino、1433-1499)にプラトン全集の翻訳を要請しました。疲れ知らずの探究の旅人であったフィチーノは、プラトンの著作のラテン語訳を初めて西洋世界にもたらし、さらにプロティノス、プロクロス、イアンブリコス、アレオパゴスのディオニュシオスの著作も翻訳しました。その後間もなくして、ある重要な進展が起きました。ヘルメス文書(Corpus Hermeticum)は、中世の時代にはしばしば言及されていたのですが、当時は姿を消しており、存在している唯一の文書は『アスクレピオス』でした。ところが、1460年にメディチ家に仕えていた修道士が、ヘルメス文書の写本を手に入れたのです。コジモ・デ・メディチはこの写本を極めて重要なものだと考え、マルシリオ・フィチーノに、プラトンの著作の翻訳を中断して、新しく発見されたこの文書の翻訳を行うように求めました。その後間もない1471年に、フィチーノはヘルメス文書の最初のラテン語訳の本を出版しました。この翻訳書は、16世紀までに16回も版を重ねるほど幅広い読者を獲得しました。(注1)
永遠の哲学
Philosophia Perennis
マルシリオ・フィチーノは、ヘルメス文書が元々は古代エジプト語で書かれていたのだと確信していました。そして、ヘルメス・トリスメギストスは古代エジプトの神官であり、あらゆる秘密の英知を創作し伝えた人物であると考えていました。マルシリオ・フィチーノは、1482年に発表した『プラトンの神学』(Theologia Platonica)に、この秘密の知識をヘルメスから受け継ぎ後世に伝えた哲学者の系譜を記しています。それは、ゾロアスター、オルフェウス、アグラオパモス、ピュタゴラス、プラトンです(注2)。こうした視点からは新しい観念が生じました。それは「原初の伝統」(Primordial Tradition)という観念です。それは、歴史の最初期に得られた驚くべき啓示があり、それが時代から時代へ、参入者から参入者へと伝え続けられてきたという考えです。これは聖アウグスティヌス(訳注)が過去に支持していた観念ですが、フィチーノによって再び注目されるようになりました。1540年には、アゴスティノ・ステウコ(Agostino Steuco、1496-1549)によって、「原初の伝統」に「永遠の哲学」(Philosophia Perennis)という別名が与えられました。
訳注:聖アウグスティヌス(St. Augustine、354-430):初期キリスト教会で最も偉大だとされる神学者。新プラトン思想に影響を受ける。サクラメント論、歴史神学、内的時間論などで有名。
ピーテル・パウル・ルーベンスによる
コジモ・デ・メディチの肖像画
永遠の哲学という観念がフィレンツェで好意的に受け入れられたのは、極めて納得のいくことです。というのも、大洪水の後にノアがエトルリア(訳注)に12の都市を建設したという言い伝えがフィレンツェにはあり、ノアの遺体はローマの近郊に埋葬されているとさえ語られていたからです。このことから、トスカーナ地方の方言はエトルリア語が起源であり、したがってラテン語よりも古く優れているという説があります(注3)。ヘルメス・トリスメギストスは、ノアと同時代の人物であると主張する人たちもいたことから、フィレンツェがまさに文明の起源であるとされ、さらにヘルメス文書の著者と関連があるとされたことは容易なことだったのです。こうした主張は、フィレンツェのプラトン・アカデミー内に激しい議論を巻き起こしましたが、コジモ・デ・メディチはこの考えに特に心酔していました。彼はこの説のことを、フィレンツェとトスカーナがイタリアの他の地域よりも優れている証拠だと考えていました。
訳注:エトルリア(Etruria):現在のトスカーナ州(Tuscany)。
自然魔術
Natural Magic
ヘルメス文書は古代エジプトの人々の秘密の知識について触れていますが、その実際の方法は明確には書かれてはいません。ヘルメス文書の第13巻では、ヘルメス・トリスメギストスがその息子タット(Tat)に神秘的な再生の原理を教えています。それは、五感の働きを抑制することで、星々の不吉な影響を打ち消し、人間の内部に神の性質が生じるようにすることによって、神秘的な再生が得られるというものです(注4)。マルシリオ・フィチーノは、聖職者であり医師でもあったため、実際的な感覚を持っていました。フィチーノは、このような理論を実際に用いる方法を、新プラトン主義に求めました。新プラトン主義の中でも主に、アブー・マーシャル(訳注)の著書「ピカトリクス」や、アラビア魔術を研究していたイタリアのピエトロ・ダバーノ(訳注)の著書などです。
訳注:アブー・マーシャル(Abu Ma’shar):バクダッドの天文学者。中世ヨーロッパでは占星術師として知られている。潮の干満が月の満ち欠けと関係があることを発見した、イスラム世界で最初の人である。
ピエトロ・ダバーノ(Pietro d’Avano、1257-1315):イタリアの自然哲学者。パドバ大学教授。アリストテレスの著作に注釈と解説を施し紹介した。
フィチーノは、これらの理論と〈創造主の言葉〉というキリスト教の考え方を結びつけた、ある種の「自然魔術」に到達しました。彼が提唱した自然魔術では注目に値する洗練がなし遂げられています。元素、鉱物、植物、さらに香水、ワイン、詩、音楽(オルフェウスの賛歌)などのあらゆる要素に、惑星の性質がまるで刻み込まれているかのように影響を残しているとフィチーノは考えました。彼はこの影響による類似性を、天地創造の際に用いられた繊細なエネルギーである世界の魂(スピリタス・ムンディ、spiritus mundi)を捕らえるために用いました(注5)。マルシリオ・フィチーノは、西洋の秘伝哲学の歴史において傑出した人物であり、古代の文書の翻訳者や解説者としての役割を果たしただけでなく、『三重の生について』(De Triplici Vita)などの著書によって大きな影響を及ぼしました。フランスの歴史家アントワーヌ・フェーヴル(Antoine Faivre)が述べたように、フィチーノの功績により、「秘伝哲学は、ルネサンス思想に不可欠な哲学のひとつになった」のです。(注6)
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