資料室
サミュエル・ハートリブ - 知られざる教育改革家、情報専門家
Samuel Hartlib, Reformist & Intelligencer
ポール・グドール
By Paul Goodall
サミュエル・ハートリブの名前は17世紀の前半に突然、バラ十字思想と他の普遍的改革を目指す思想についての論文や文学に頻繁に登場するようになりました。理想主義的な改革運動はこの時期の特徴でしたが、彼はこの分野で活躍した重要な人物でした。
フランシス・ベーコンの著作に代表されるように、17世紀には、科学という学問に進歩をもたらすことを望んでいた人たちが少なからずいました。そして、当時の2つの版画によって、このような人たちの熱意が強く刺激されました。そのひとつは、1620年に出版されたベーコンの『大革新』(Instauratio Magna:大いなる目覚め、もしくは大いなる再生)の総扉です。そこにはヘラクレスの柱の間を航行する、学問を象徴する船が描かれていました。ヘラクレスの柱は神話で、大西洋へと向かう地中海の玄関口にあるとされ、この船は、アトランティスと未発見の知識という海を目指しているのでした(訳注)。もうひとつは1667年に発行されたトーマス・スプラット(Thomas Sprat)の『王立協会の歴史』の総扉で、そこにはフランシス・ベーコンが「アトリウム(知識へと通じる中庭)の復興者」として、科学の器具を指さしている姿が描かれています。
訳注:ギリシャの哲学プラトンは自著『ティマイオス』と『クリティアス』で、ジブラルタル海峡の先の大西洋にアトランティスがあり、9000年前に水没したという言い伝えを扱っている。
サミュエル・ハートリブは、1600年頃に、ポーランド王領プロイセンのエルビング(現在のエルブロンク)で、染め物工場の裕福な経営者と英国人の妻との間に生まれました。彼はブリークのギムナジウム(高等学校)と、ケーニヒスベルクの大学で教育を受けた後、イングランドのケンブリッジ大学でしばらくの間学びました。ヨーロッパ大陸では三十年戦争(1618-1648)が勃発し研究を続けることが難しくなったので、ハートリブはその混乱から逃れるために1628年にロンドンに戻りました。1630年に彼は、ポーランド、ボヘミア、プファルツからの優秀な難民のための私立学校をチチェスターとサセックスに設立しようとしましたが失敗に終わり、その後はまたロンドンに戻って、学生や外国からの訪問者に部屋を貸して生計を立てていました。このときロンドンに戻ってから1662年に亡くなるまで、彼は二度とこの地を離れることはありませんでした。
ユートピア運動の協会
Utopian Societies
生まれた国を離れる前に、ハートリブはアンティリア(Antilia)と呼ばれる理想主義的な秘密結社に加入していました。この団体は、未来に深い関心を持つ千年王国説(訳注)の信奉者たちに促されて、教育と宗教の改革に熱心に取り組んでいました。この団体の主な目的は、あらゆる分野に及ぶ普遍的な改革を行うことであり、この目的はバラ十字会の活動の精神と一致していました。アンティリアの理念に鼓舞されて、ハートリブはチチェスターに私立学校を建てることを試みたのでした。
訳注:千年王国説(millenarianism):キリストが将来地上に戻り、最後の審判の日までの1000年間、平和と幸福に満ちた王国に君臨するという信仰。千年説。至福千年説。
アンティリアの会員たちの多くは、科学や技術の専門家であったようです。彼らのマニフェスト(宣言書)は、社会の利益と改善のために、実験で得られた知識と科学的汎知学(訳注)、すなわち普遍的知識を統合することでした。アンティリアはユートピア思想(訳注)を信奉する友愛組織であり、同様の組織には、ドイツのロストック大学に拠点を置くエレウネチカ協会(Societas Ereunetica)や1628年にニュルンベルクに創設されたキリスト教連合(Unio Christiana)がありました。これらの組織によって、当時のプロテスタントのユートピア運動が構成されていました。またこれらの組織は、『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』の著者であるヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの著作に強い影響を受けていました。アンドレーエ自身はキリスト教協会(Societas Christiana)を設立しました。当時の他の多くのユートピア運動は、アンドレーエのこの協会を手本にしていました。
訳注:汎知学(Pansophy:パンソフィ):自然界と人間と社会を一貫して把握しようとする学問。17世紀初頭のバラ十字思想に大きな影響を与えたとされる。
ユートピア思想(utopian thought):理想社会を思い描くことで、現実社会の欠点を明らかにして改革しようとする思想。
改革
Reform
1640年にハートリブは自身のユートピア論である『名高きマカリア王国の記述』を、いわゆる「長期議会」(訳注)に提出しました。議会は、チャールズ1世によって国政から排除されていたのですが、1640年に再び招集されたのです。マカリアは遠く離れたところにある架空の島であり、トマス・モアが『ユートピア』(1515年)で描いた島が基になっています。しかしハートリブは、フランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』と、コメニウスの名で知られるヤン・アモス・コメンスキー(1592-1670)の汎知学を主に自身のユートピア論の基礎にしていました。ハートリブは『マカリア』で、広く普及した知識を実際に応用することによって、政府と人々が繁栄のために協力する社会を描いています。
訳注:王権が神から与えられたという立場(王権神授説)を取るチャールズ1世は、国王の権力を制限しようとした議会を1619年に解散した。しかし、国の財政を立て直す必要が生じ1640年に再び会議を招集した。この議会は1660年まで続いたため「長期議会」と呼ばれる。長期議会では議会派と王党派が対立し、ピューリタン(清教徒)革命(イングランド内戦)の闘争の舞台になった。
ハートリブとコメニウスは1632年から文通しており、コメニウスの改革的な著作である『汎知学の先駆』(Pansophiae Prodromus)を出版するために、ハートリブは1634年に募金活動を行い、この本の出版は1639年についに実現しました。1641年は『マカリア』が出版された年ですが、この年にハートリブはコメニウスをイングランドに招きました。それは、ハートリブが心に描いていた改革の実行を支援してもらうためと、共同で汎知学の大学を設立するためでした。コメニウスはイングランドに到着すると、1642年に『光の道』(Via Lucis)を書き、普遍的な救済に向けて社会を導き教育する「クリスチャン・アカデミー」の概要を発表しました。
1628年ごろから、ハートリブはスコットランドの大臣の子息であったジョン・デュリー(1596-1680)と親しく交友していました。デュリーはプロテスタントの教会の間に存在していた分断を修復しようとしており、その活動のために、中央ヨーロッパと北ヨーロッパの広い範囲を旅していました。プロテスタントがひとつにまとまることが、カトリックのハプスブルク帝国のヨーロッパでの勢力拡大に対抗する唯一の方法であると、デュリーは説いていました。デュリーの活動を支援し続けるために、ハートリブは1641年にデュリーの旅行と交渉についての逸話を出版しました。ハートリブと同様にデュリーもまた、教育と哲学の改革に深く関心を抱いており、1640年にハートリブは、コメニウスとデュリーを支持することを長期議会での演説で表明し、この2人が未来の改革のために従うべき哲学者であると語りました。これは、長期議会の支援を勝ち取り、議会がプロテスタントの統合と普遍的改革に向かうような政策に従うことを促す試みでした。
教育と言語
Education and Language
教会の統合と社会の改革に加えて教育を改善することも、彼らの構想の中心的な課題でした。コメニウスの汎知学では、知識を得るための3つの“書物”のことが述べられています。それは、物質の世界(自然界)、人間の理性、神の言葉です。人間が書いた書物だけでは普遍的知識を得るのには不十分であり、汎知学では、教育の努力と科学の努力が目指すべき真の目標になります。教育方法の改革は、改革に同意する国家の当事者によって行われなければならず、そうすることによってその後の世代が、自然、神の言葉、理性という書物を理解できるように徐々に教育されていくことになります。このようにして、人類は啓示という究極の段階に達することになります。
もうひとつの熱心に追求された問題は、言語が異なることによる断絶を克服するために、世界共通の言語を作るというアイデアでした。国家間の調和を維持するために、コミュニケーションのための合意された方法を確立しなければなりませんでした。そしてこの時代は発見の時代であったことから、事物の真の性質を正確に表現するベーコンのような方法を用いて、科学的な言語が作られることが期待されていました。人類の用いている言語は、バベルで人類に課された呪いにより衰退したのだと考えられていました。彼らは深い宗教的な信念を持っていたピューリタン(清教徒)の人々であり、このような推論は、彼らが聖書を固く信じていたことに由来することを見落としてはなりません。
歴史は繰り返す
History Repeats Itself
1641年の夏に、この3人の「外国人」は、自分たちの目指している改革がイングランドで達成され、ハートリブのマカリアが構築される直前であると考えていました。当時の政治の状況は、ハートリブのユートピアを実現するために機が熟していました。イングランドの社会は、コメニウスの汎知学を取り入れる用意ができているように思われ、デュリーが思い描いていたプロテスタントを統一する一連の計画を始め、成果を上げるための基礎ができていました。ロンドンに到着していたデュリーには、レスター伯の礼拝堂付き牧師という名誉ある地位が与えられていました。
さらに3人全員が、ジェームズ1世の娘で、プファルツのフリードリヒ5世の未亡人であった、ハーグに亡命中のボヘミア女王であるエリザベスの支援を受けていました。神のはからいが、新しい改革に欠かせない重要な人々をイングランドにもたらし、将来が確実なものになったように思えました。
10月中旬に議会が再開しました。ハートリブの友人の議員たちは、9月の間ずっと政治的な計画や活動を彼に伝え、期待は高まっていました。ハートリブとコメニウスは、議会の委員会と相談をする準備をして、更なる助言を待つようにと指示されました。その間に彼らは、汎知学の大学を設立するのに適した場所を探し始めました。様々な場所の中でも、サボイ病院、ウィンチェスターの聖十字病院、ジェームズ1世によって設立されたチェルシー大学が特に有力な候補でした。
しかし突然、その計画全体を打ち砕くできごとが起こりました。政治家のジョン・ピムが、政治的なたくらみを用いた後に、アイルランドのカトリック教徒が反乱を起こしました。ピムはアイルランドのカトリック教徒とスコットランドの長老派(訳注)を利用し、その報酬を払わなかったのです。これが議会とハートリブの改革の関係を変化させることになりました。1641年から42年の冬の間、彼らは流れが変わるかもしれないという望みを持ちながら待機していましたが、そうはなりませんでした。イングランドは清教徒革命(訳注)という内戦状態に移行し、議会の関心は黄金時代をもたらす普遍的改革から離れ、他のことに専念せざるを得なくなりました。5月にはデュリーが、ハーグのオラニエ家の王女メアリに、宮廷牧師として仕えるためにイングランドを去りました(しかし彼は清教徒革命が終わる前にイングランドに戻りました)。またコメニウスは6月21日にスウェーデンを目指して出航し、二度とイングランドに足を踏み入れることはありませんでした。ハートリブはロンドンに残り、私たちには想像することしかできませんが、おそらく激しい幻滅を味わっていたことでしょう。
訳注:長老派(Presbyterians):カルヴァン派のプロテスタント教会の一派。信徒の代表である長老と聖職者が平等に教会を統治する制度を採用した。
清教徒革命(Puritan Revolution, Civil War):ピューリタン革命。イングランドの市民革命。国王派と議会が1642年夏に衝突した。クロムウェルなどが率いる清教徒が議会軍の中心を占め、国王軍を破り、1649年に王を処刑して共和制を樹立した。その後クロムウェルによる軍事独裁になり、彼の死後1660年に王政が復活した。
歴史は繰り返すように思われます。バラ十字会が3冊の宣言書(マニフェスト)を出版し、プファルツでこの宣言書の理念を実現しようとしていた人たちの希望に、三十年戦争が襲いかかり打ちのめしたのと同じように、ハートリブとその仲間たちからは成功が顔をそむけ、普遍的な改革は無期限に延期されることになりました。
発信と対応の事務所
Office of Address and Correspondency
1642年から1649年まで続いたイングランドの内戦の間、ハートリブは議会の職員として活動していました。彼は、ニュースや情報を発信し伝達する「情報専門家」として知られるようになりました。1646年以降、彼は「発信と応答の事務所」の設立に取り掛かりました。
この事務所の設立の目的は、あらゆる分野の思想家や開業者から情報を集め、これらの人たちが自分自身のために、あるいは公共の利益のために、互いにコミュニケーションをとることができるようにすることでした。ハートリブはこの組織の設立のために、国からの資金援助を得ようとしましたが失敗に終わりました。しかし1649年に、年に100ポンドだけ給付金が与えられました。おそらくこれは、彼が海外に広い人脈を持つことから、政治的な情報源として貴重な存在であったことが考慮されたためです。
彼が事務所を設立しようとした動機の根底には、やはり普遍的改革の思想があります。ハートリブは活動的な情報伝達者として、改革の方法や教会、公共生活に関するさまざまな小冊子を出版しました。彼は書簡や論文を多くの人に読んでもらうために、写本をする人や翻訳者のチームを自費で雇いました。ハートリブは多岐にわたるテーマの文献を多くの人に伝えるための重要なパイプ役を果たすようになりましたが、その範囲は、彼が有益だと考えていた、教育、科学、技術、神学に限られていました。やがてデュークス・プレイスにあった彼の住居は、この自由な知的交流を行うには手狭になり、彼はチャリング・クロス近くのアックス・ヤードの建物に移りました。
ハートリブ・サークル
The Hartlib Circle
「ハートリブ・サークル」としばしば呼ばれているものは、実際には会員制の団体のようなものではなく、地理的に広い範囲に住んでいる人々が集まる開かれたグループでした。ハートリブはロンドンに滞在している間ずっと、教育論や神学、自然哲学、実用的な改善の理論といった「役に立つ」テーマについて、何百人もの人たちと手紙でやり取りしたり、議論を交わしたりしていました。交流があった人たちの中には、ハートリブ自身が援助を受けたいと考えていた人たちもいましたが、一方、ハートリブが折々に政府から調達することに成功した資金によって、彼自身が支援している貧しい学者たちもいました。
また、彼が追求していたさらに実用的な目標は、貧困を解消して、それによって国家の富を増やす方法を提案することでした。また、寿命を延ばし、病気を治す方法を、錬金術の新しく発見された文書を調査することや、イアトロ化学(iatrochemistry:中世の化学療法)を実践することによって追求していました。ハートリブと彼の仲間たちは、常に新しい知識と新しい意思疎通の方法を活用して、人類の状況を改善しようとしていました。
ハートリブが、多くの重要人物との交流を避けることは決してありませんでした。その中には、王立協会が提唱した実践哲学の模範であるとされた化学者のロバート・ボイル(1627-1691)、形而上学の詩人であるアンドルー・マーベル(1621-1678)、王立協会の創立メンバーであり日記作者のジョン・イーヴリン(1620-1706)、詩人で散文作家でもあるジョン・ミルトン(1608-1674)などがおり、ミルトンはハートリブへの敬意を表わすために、『教育について』(1644)という論文をハートリブに献じています。これらの人たちの多くが、当時のバラ十字会の関係者やバラ十字思想とのつながりを持っていたことを付け加えておくべきでしょう。
目に見えない大学
The Invisible College
ハートリブと彼の仲間は、フランシス・ベーコンの構想に基づく、新しい学問の拠点となる大学を設立することを常に意図していました。1642年3月13日、改革者たちの期待が最高潮に達していたころ、ハートリブ、コメニウス、デュリーは、汎知学という目標を推進するために、ある秘密の友愛団体に加わりその団体に貢献するという誓約に署名しました。人間の知識のあらゆる分野を含む普遍的な知識体系を思い描いて目標にするというバラ十字会の構想と彼らの汎知学は、その根本が一致しています。
ロバート・ボイルは、1646年と1647年の手紙で「新しい哲学の大学」について語っており、自身のお抱えの教師に書物を依頼する際に、「我々の目に見えない大学」(訳注)について言及しています。ボイルはまた、1647年のハートリブへの別の手紙で、この「目に見えない大学」という言葉を挙げ、地域社会の計画との関係について述べています。ロンドンでは1645年に、自然哲学と新しい経験論哲学について議論するいくつかの会議が開催されたようです。そこには、王立協会の初代の書記であったジョン・ウィルキンズや、プファルツ出身のドイツ人であるテオドール・ハークも参加していました。このような逸話と文書による証拠から、「目に見えない大学」とは1660年に設立された王立協会の基になった理念ではないかという推測が生じます。以上のように、フランシス・ベーコン、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ、サミュエル・ハートリブ、ヤン・コメニウスをつなぐ関連を見て取ることができ、特にヤン・コメニウスは明らかにバラ十字哲学という観点に立っており、この観点が、最終的には王立協会自体の設立をもたらしたのではないかと思われます。
訳注:目に見えない(invisible):1623年にフランスのパリの多くの場所に匿名で張られたポスターには、「我々、バラ十字の兄弟の主たる大学の評議員は、目に見える方法と目に見えない方法でこの街に滞在している」という文言が含まれ、多くの人の好奇心をそそった。本記事の挿絵のキャプションも参照。
晩年の日々
Final days
宗教の反乱と政治的な混乱が、3人の外国人の壮大な計画を事実上終わらせることになりましたが、このことによってサミュエル・ハートリブが、自身が生きているうちには実現がかなわないであろう計画を進める作業を止めた訳ではありませんでした。情報専門家としての彼の役割の重要性が明らかになったのは、1933年のことでした。この年、シェフィールド大学の教育学教授ジョージ・ターンバルが、ハートリブの72束の論文集を、ある大きな収納箱の中から発見したのでした。
アックス・ヤードに住んでいた日記作者のサミュエル・ペピスは、ハートリブの晩年の親しい隣人であり、彼が社会で卓越した役割を果したことと、高い品格によって尊敬を集めたことを書き記しています。また1680年代には、別の日記作者のジョン・イーヴリンもハートリブのもとを訪れており、彼はハートリブの印象を、「数え切れないほどのものに好奇心を持った大家」であると書いています。ハートリブはクロムウェルの政権で役割を果していたことから、1660年の王政の復活の後に社会の中心的な立場から追いやられ、彼の評判はほぼ完全に失墜しました。彼は1662年に貧困のうちに亡くなりました。
参考文献
Francis Yates, The Rosicrucian Enlightenment, Routledge, 1998. (日本語版、フランセス・イエイツ『薔薇十字の覚醒』、工作舎)
Clare Goodrick-Clark, “The Rosicrucian Afterglow: The Life and influence of Comenius” in The Rosicrucian Enlightenment Revisited, ed. Ralph White, 1999. Ralph White, 1999.
Paul Bembridge, “The Rosicrucian Resurgence at the Court of Cromwell” in The Rosicrucian Enlightenment Revisited, ed. Ralph White, 1999.
Chrisopher Mcintosh, “The Rosicrucian Legacy” in The Rosicrucian Enlightenment Revisited, ed. Ralph White, 1999.
Mark Greengrass, “interfacing Samuel Hartlib” in History Today, Vol.43, issue 12, 1993, pp.45-50.
John T.Young,imperialCollege London, “SamuelHartlib” in TheLiterary Encyclopaedia, 2004.
Hugh Trevor-Roper, Crisis of the 17th Century, Liberty Fund inc., 2001.
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。