以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。
チベットの聖地カイラス山
Mount Kailash
ファン・ヒメネス=ベラスコ
by Juan Jimenez-Velasco
カイラス山(別名カン・リンボチェ:「雪の主」を意味するチベット語)のような山は、他にはありません。はるか昔から何世代にもわたって、信仰の篤い人たちが、荒れ果てた古い山道をたどってヒマラヤ山脈に入り、この山の周りを歩きました。荒涼とした登頂困難なアジアすべての山の中でも、この山は最も神聖であるとされます。
世界のどこを探しても、ヒマラヤほど壮麗で圧倒される光景はないと私は思っています。岩と雪と氷の巨人がそびえる姿は、心の深奥の自己という難攻不落の高みへと登ることを人々に誘い続けています。山が赤や紫やすみれ色に染まるヒマラヤの日没の光景は、誰にも忘れることができないでしょう。地上での神の姿とされるカイラス山という至高のダルシャナ(訳注)の前では、私たち人間は、限りなく小さな存在だと感じられます。そのような瞬間には、光と生命と愛の頂点において、自然のすべてが爆発しているように思えます。そして私たちもまた同じです!静寂の中で私たちは、未だ踏破されていない、手が届かない真の自己の極致を示す象徴と、ただ溶け合うことだけができます。これほど身近に神々しさが感じられる場所は他にはありません。目に見えない圧倒的な神の威力が、その優しい包容力で、人間の進化の数多くの段階を見守っているのを感じます。
(訳注:ダルシャナ(Darshane):ヒンドゥー教で、神もしくは聖人の姿。)
これらの聖地の住民は、西洋の人々が山に登るときに感じる喜びを体験することはありません。要塞のようなこの山は彼らにとって、精霊や神々や悪霊、そして半神半人や邪悪な存在の住処です。カイラス山の標高は頂上征服を目指す人たちにとっては重要な数値でしょうが、崇高な精神性を尊ぶ人たちにとってこの山の価値は標高ではなく、その性質と並外れた特徴にあります。大切なお守りをあえて足で踏む人がいないように、信仰心の篤いチベット人は、決して聖なる山に登ろうとはしません。彼らは山を征服するのではなく、山に征服されようとします。困難で危険な冒険は数多くありますが、自分自身を征服することが、最も難しく最も勇敢で最も静かな探求であることには、今も昔も変わりがありません。
チベットのあらゆる山の中でも、聖なるカイラスの名声は、アジアすべての国々に広がっています。このような山は他にありません。雪の主カン・リンポチェは、インドと中国という2つの偉大な文明の基軸になっています。ヒンドゥー教徒にとってもチベット仏教徒にとっても、この山は宇宙の中心であり、絶対的な平和の土地であり、シヴァ神の御座であり、神々と賢者と不死なる者の住処です。
25年前、私の大切な友人であり武道の師でもあるミシエル・リヴェール(Michel Rivert)に率いられた探検隊がベルリンを出発し、チベットの禁断の地に向かいました。私たちの探検隊の目的は山に登ることではなく、およそ1万キロを旅してインド北部の森を横断し、さらに1600キロの砂漠を越えて聖なる山カイラスに達し、この「神の御座」を周回するパリクラマ(Parikrama)と呼ばれる古代の儀式を行うことでした。この儀式は、約52キロの道に沿って聖なる山の周りを歩くもので、必ず右回りに歩きます。現存するものの中でも最も神聖なこの巡礼を始める前には、マーナサローワル湖(Manasarovar Lake)で沐浴の儀式を行わなければなりません。この沐浴の効用によって、標高およそ4500メートルに達するパリクラマの厳しい体験に耐えることができます。アジアのいたるところからこの魅惑的な土地にやって来た巡礼者が、しばしば自らの命を危険にさらしながら、注意深く言葉を刻み積み上げた小さなケルン(訳注)が、この地域全体に点在しています。これらの石には、チベットの人々の伝統的な祈りの言葉「オーン・マニ・パドメ・フーン」(訳注)が記されています。
(訳注:ケルン(cairn):山の頂上や何かが埋められたところなど、特別な場所を示すために積み上げられた石。)
(訳注:チベット人にとって、極めて神聖なマントラに「オーン・マニ・パドメ・フーン」(Om Mani Padme Hum)がある。この句の文字通りの意味は、「蓮の中の宝石」である。)
厳しい疲労を伴う何週間にも及ぶ苦行の生活を経た後に、カイラス山の凍りついた頂上を初めて見たときの喜びは、決して言葉では言い表すことができません。私たちの過去の苦しみは、目の前の光景を前にして、いえ、聖なる山をじっと見つめているうちにすべてが溶け去りました。地球上で最も神聖な場所に達したことを知ると、私たちは言語に絶する幸福に包まれました。魂の目覚めという慈悲深い光線に触れられて霧が晴れるように、影も暗闇も悪い思い出も消え去っていきました。この土地では、人の心の働きが高まり、感受性が極めて鋭くなると言われています。カイラス山に近づくと神秘的な声が聞こえ、ビジョンや啓示を見ることができます。思考を妨げるものが消え去り、私たちの内面にある暗闇がすべて光に変わります。私たちがチベットの人々から聞いた他の言い伝えでは、山の周りを歩く儀式を行っている巡礼者を助ける超人間的な精霊がいるとされていました。それは伝説であったのかもしれませんし、集合的無意識に秘められた願望であったのかもしれません。しかし、この土地が不思議な土地であり、世界のどこよりもユニークであり、神秘的であり恐ろしい場所でありながら、限りなく魅惑的であることは確かです。カイラス山の麓にいると、何か聖なるものの前にいるような、あるいは、人類の内面の奥深くに存在する、足が踏み入れられたことがない新鮮な土地の前にいるような、そんな深遠な感覚から人は逃れることができません。
東洋の人々にとって、カルマは原因と結果の法則です。人生の過ちも、また過ちでないものも、現在の人生や次の人生に肯定的な作用や否定的な作用をもたらします。そうしたもののすべてが、何度も繰り返す転生というプロセスの原因となり、私たちは転生によって自分の過った行いを善良な行いによって償い、自分自身を浄化します。いかなる思考も、いかなる言葉も、いかなる行動も、その後に出現する状況の種子であり、その状況は、自由への正しい道を私たちに指し示します。西洋では、カルマという自然の法則の重要性や証拠がまだ十分に認識されておらず、その根本的に創造的な目的については、さらに知られていません。それどころか現在もなお、善と悪というあいまいな概念に埋もれて、カルマの法則という宇宙の基本的な法則が、罰や報酬の法則であると解釈されています。そして、このテーマに関する広い範囲にわたる著書があるにもかかわらず、この教義を明確にするのにほとんど役立っていないというのが実情です。私たちが受け入れても受け入れなくても、カルマの法則は存在し、何もそして誰も、その作用と反作用のサイクルから逃れることはできません。しかし、カルマは運命とはほど遠いものであり、意図的に償うことも、無効にすることもできます。
言い伝えによれば、カイラス山を一回りすると一生分のカルマが清算され、十周すれば無数に多くの人たちのカルマを清算することができるとされています。この山を巡る儀式を108回行えば、輪廻からの自由がこの人生で保証されることになります。祖先から受け継がれたこの儀式が、極めて過酷な試練であることは確かであり、儀式を実際に行うには超人的な精神と肉体の努力が必要であり、桁はずれの個人的な苦しみという高い代償を払う必要があります(私自身がこれを証言することができます)。しかし、自由と知識への道はすべて、私たちにそうすることを要求するものではないでしょうか。皆さん、自由と知識への道をたどって、はるかなる高みへと登っていきましょう。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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