以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。
ピノッキオ ~ 謎を秘めた物語(Pinocchio A Mystical Fable)
ジャクリーヌ・フレンチ
by Jacqueline French
2019年の8月にローマで開催されたバラ十字会の世界大会でのことです。講演された方のひとりが語った興味深いコメントに触発された私は、そのことについてもっと深く調べてみようと思いました。それは、童話ピノッキオの神秘学的な側面についての短いコメントでした。私も子供の頃にこの童話を読んだことがありますが、その内容はほとんど記憶から消え去っていました。その後ディズニーが制作した映画が上映されましたが、この映画にも、神秘学的だったり心の崇高さに関連する何かに心を打たれた覚えはありませんでした。ピノッキオ(Pinocchio)は、児童小説『ピノッキオの冒険』(1883年)の題名の一部になっている架空の主人公です。この小説は、イタリアの作家カルロ・ロレンツィーニ(Carlo Lorenzini)がカルロ・コッローディ(Carlo Collodi)というペンネームで書いた作品です。1826年にフィレンツェで生まれたロレンツィーニは、人間はあやつり人形のような存在であり、人類は目に見えない糸に吊るされ操られている無数に多くの人の集合であるという、残酷でおぞましい真実を見いだしたと言われています。この考え方からは、バラ十字思想が示している人類の姿が思い起こされます。それは、人類は一本の電線で繋がれた電球の集まりのようなものであり、その電線を通して電球へと電流が流れているというものです。スイッチを入れると、電球は輝き、世界に光がもたらされます。スイッチを切ると、闇が世界を支配し、闇に象徴される状態に伴うあらゆる苦悩と不具合が生じます。
ロレンツィーニは、トスカーナ州の北西部に位置するルッカ(Lucca)の近郊にあるコッローディ(Collodi)という小さな町の名前を、自分のペンネームにしました。ここからさほど遠くない所には、ヴィンチ(訳注)という小さな町があります。ロレンツィーニの叔父は、コッローディにあるガルゾーニ侯の城館の管理人をしていたので、少年時代のカルロはよくそこで過ごしました。きっと、この地は彼に深い印象を与えたのでしょう。最近この町は、ピノッキオの冒険への人々への賞賛に応え、この物語に基づいたモザイク画や彫刻で飾られたテーマパークを開設しました。
(訳注:ヴィンチ(Vinci):レオナルド・ダ・ヴィンチの生誕地。)
イタリアにおいて、『ピノッキオの冒険』は児童文学の国内の最高傑作と評されており、作者のロレンツィーニは創意工夫に富む天才的名文家だと考えられています。物語を簡単におさらいしておきましょう。ピノッキオはトスカーナ地方の村に暮らすゼペットという木彫り職人の親方の手によって作られました。彼は、木彫りの人形として生まれながら、いつか人間の男の子になることを夢見ていました。ご存知の通り、ピノッキオには嘘をつく悪い癖があり、嘘をつくたびに鼻がどんどん伸びていきます。
人間の運命の映し絵か?
An Illustration of Human Destiny?
この木彫りの少年の物語は、現在でも世界で最も広く読まれている本のひとつであり、多くの言語に翻訳されています。その理由は、単純な子供向けの話という見かけの背後に、おとぎ話と童話の姿を装った、神秘学的な深みのある比喩が込められているからです。皮肉にあふれた読みやすい文体で書かれていますが、ピノッキオという人形は実際のところ、人間の入門儀式の旅(訳注)の暗くて冷酷な比喩になっています。この旅の出発点は、低位の本能のとりこになっているあやつり人形の状態であり、到達点は、人間らしい性質を十分に獲得し強い意志を備えた状態です。ピノッキオは、不誠実で他人をだます人間を皮肉った風刺的な描写であり、人間はこの性質のために、否定的な感情と、そこから必然的に生じる運命がもたらす不幸に飲み込まれているということも表しています。
(訳注:入門儀式の旅(initiatory trip):数々の試練を通過して、段階的に内面の進歩をなし遂げていく過程。)
『ピノッキオの冒険』は古代の神秘学派の技法、すなわち「隠すことによって明らかにする」という技法を用いています。謎に満ちたこの寓話は137年もの間、誰の目の前にも存在し続けてきましたが、神秘学という視点から理解され解釈されることを待っていたかのようです。ピノッキオは、償いの旅をなし遂げ、最後に本当の人間になりました。コッローディの描くキャラクターのグロテスクなイメージの中に自分の姿を見るのは、誰にとっても気が進まないことでしょうし、言葉をしゃべる薪の切れっ端に自分自身を重ね合わせるなんて、虫酸が走る思いがすることでしょう。この薪は、生命を持ち自由意志を与えられているようでありながら、実際には得体の知れない外部の力によって、目に見えない恐ろしい糸を通して操られているのですから。
この物語には、謎めいた雰囲気が漂っています。その謎を解明したいと思います。カルロ・コッローディのように、作家人生を通じて一度たりとも凡庸の域を出なかった作家が、突如として不朽の名作、人間の実情を示す世界的な傑作を生み出すに至ったのはなぜなのでしょうか。どのようにしてこのおとぎ話は、あらゆる人の姿を映し出す鏡とみなされるほど、普遍的なメッセージを伝える媒体になることができたのでしょうか。この疑問に対しては、ある説明(というよりある仮説)があります。それはこの文章が、突然の啓示とひらめきの両方によって生じたということです。『ピノッキオの冒険』には、社会の実際の人たちの内的な成長を描くという、大胆で深遠な神秘学的なテーマが隠されています。
この物語でピノッキオが経験したあれこれの苦難と私たちの生活との間に認められる類似点には別の要素もあります。ピノッキオは常に善良な意図を持ち、同情を禁じ得ないほどのだまされやすさとともに行動を始めます。しかし、その後は決まって歩むべき道を外れ、一番安易な方法、つまりバレないように嘘をつく道を選びます。彼は嘘をつくことに慣れっこになってしまい、もはや事実と虚偽、正しいこととそうでないことの見分けがつかなくなってしまいます。あなたが知っている政治家の一部にも、これと通じるところがあるとは思われないでしょうか。
実際のところ、私たちは誰もがこんな具合です。公式の報道やメディアのニュースで伝えられているように、世の中は善き意図であふれていますが、ピノッキオの意図と同じように、それらは現実的ではありません。何十年にもわたって私たちが見てきたのは、世界の指導者たちが実現性のない計画を立てたり、壮大な公約を述べたり、あるいは、不幸で貧しく飢えて虐げられた世界中の人たちへの配慮を表明する姿でした。彼らは、初めて学校に通う朝のピノッキオと何ら変わりがありません。
ピノッキオが生命を得るための旅
Pinocchio’s Journey to Life
この比喩的な物語が、木彫りの少年によって描写しているのは、私たちが内面の旅で遭遇するさまざまな状況です。ユング派の心理学者やスーフィズム(訳注)の信奉者は、ピノッキオの冒険物語には入門儀式に似ている箇所が随所に見られることに同意することでしょう。それは、古い自己が崩壊し解体するできごとであり、新しい自己として生まれ変わる前に起こります。ピノッキオが父親を救うために自己犠牲と“死”を選んだことによって、彼は人間の少年としての生まれ変わることができました。
(訳注:スーフィズム(Sufism):イスラム教の秘伝思想。)
物語の冒頭でピノッキオに生命が与えられる場面は、聖書の『創世記』のアダムが土から創られる逸話によく似ています。そこから思い起こされることは、人間には、万物の無限の源に属するさまざまな性質が授けられているということです。たとえば、生命、知識、言葉、自由意志、視覚と聴覚であり、それらは意識というものがなければ働くことができません。普遍的な意識(宇宙の意識)から私たちの意識が生じています。「聖なる火花」(訳注)という言葉が意味しているように、私たちの内面には〈創造主/神〉に通じる道があります。私たちは、一時的に見失うことはあっても、それを心の奥で切望しています。ピノッキオが犯した過ちのひとつは、狡猾なキツネとその共謀者であるネコと親しくなってしまったことです。この2匹はいずれも不誠実で、よからぬたくらみを持っていました。キツネは足が不自由なふりをし、猫は盲目のふりをしながら、共謀してピノッキオを堕落の道へと引きずり込み、彼からすべてを奪い取り、果ては彼を吊るし首にしようとします。キツネは、「努力して信頼を勝ち取る」道をピノッキオが踏み外すように、あの手この手で彼をそそのかします。キツネはずる賢く、卑劣で、巧妙なペテン師であり、ピノッキオのような“友達”を命の危険に陥れてでも、お金のためならどんなことにでも手を染めます。ですから、あなたが人生の道筋で誰と友達になるか、誰を友達として認めるかに関しては慎重さが必要です。
(訳注:聖なる火花(divine spark):個々の人に宿っている、〈創造主/神〉のかけら。)
ピノッキオの物語は、人間が弱い存在であり、しょっちゅう善を装っていることをまざまざと描いています。私たちは嘘が有効に働くという事実にすっかり慣れてしまっているせいで、目の前に大きな落とし穴があることにまったく気づきません。私たちは身の周りのあらゆる人に嘘をつきますが、さらに良くないのは、自分自身に対して嘘をつくことです。そうやって私たちは、日々の生活における一分一秒を、先入観と幻想でできた山を登って過ごしているのです。コッローディがピノッキオの鼻という比喩を考え出したことで、私たちの恥ずかしい一面が露わになりました。彼は、私たちの最も困った特徴を明らかにしたのです。それは嘘をつく傾向です。嘘はまず自分自身に、次に他の人に向けられます。そして、私たちは嘘をつけばつくほど、自分がまさに嘘の常習犯であることをさらに簡単に忘れ去るようになります。
ピノッキオは、嘘をつくたびに鼻が少しずつ伸びて行くので、正直者でないことがはっきりとばれてしまいます。そのため、誰も彼に気を許しません。彼の鼻は、ひとつの嘘が次の嘘を招くことの象徴です。こうして次々と嘘が鎖のようにつながって行き、ついには自らがその鎖にがんじがらめにされ、自分が置かれた収拾のつかない状態から抜け出す方法が分からなくなってしまうのです。嘘をつかなければならないような真似をしなければ、嘘をつく必要に迫られることはありません。預言者ムハマンドは次のように言っています。「正直であれ。正直は徳につながり、徳はあなたを天国へと引き寄せる。嘘に用心せよ。嘘は背徳に至り、背徳は地獄へと至る」。
嘘は世の常であり、誰もが生涯に渡って嘘に“磨き”をかけ続けます。たいていの人が嘘をつき、とりわけ自分自身に対して嘘をつきます。貧困、戦争、病気など、これらの大部分は、人が自分に対して間違った態度を取っていることの悲しい表れであり、子供の頃から私たちを覆っている嘘をつくという行為によって引き起こされた内なる葛藤の結果です。物語の中に、ピノッキオが長さ1.6キロ、高さが5階建ての建物ほどもある巨大なサメに飲み込まれる場面があります。この意味を、私たちの理解を超えるものはさておき、理解できる範囲内で考えてみましょう。聖書でヨナが巨大な魚の腹から出てきた場面は、再生を象徴しています。同様に、ピノッキオもサメと遭遇した結果として“死”を経験し、その後に人間の少年として生まれ変わります。
この場面を別の視点から見ると、彼はサメの暗い腹の中から日の光のもとに、つまり闇の状態から光の状態に移行します。これは、彼が啓示(Illumination)を得たことを意味します。それは土に埋められた棺からの脱出のようなものであり、ヘルメス神秘学の入門儀式の体験を思い起こさせます。聡明さを働かせて秘められた意味を読み解くと、ピノッキオの物語は、誠実さを欠いている人類への強烈な皮肉を込めた風刺であることがはっきりと分かります。人間は、否定的な感情と、そこから必然的に生じる不幸の糸という暴君にあやつられているのです。重要なのは次のことです。大部分の人は自分が不誠実であることに気づいていないけれども、私たちは自身の良心という真実を見抜くまなざしを避けることはできず、嘘をついた時に積み上げられるカルマの重荷から決して逃れることはできません。私たちの良心は、自身の中の最も深い永遠なる部分から生じており、私たちについて知らないことは何もありません。嘘をつくと、自身がそれに気づきます。そして、正義という法則が働き、騙した人に借りを返すまでは、心の安らぎも休息もなく、あるのはただ継続する苦悩だけなのです。
実際のところ、ピノッキオというキャラクターの中に私たちが見いだすものは、自身の“さまよえる魂”の削りくずです。ピノッキオは結局のところ、山と積まれた薪の一本に過ぎず、それらはすべて、人間の家を暖めるために割られて燃やされる運命にあります。しかし一方で、ピノッキオという薪だけは特別だと言うこともできます。命を得て、人間として内面の進歩の道を歩むことを切望するからです。この変容において、キツネとネコで表されている敵対者は実際には、宇宙の摂理の働きに役割を果たしており、宗教でも観念論でも神学でもこのような敵対者のことが語られています。
世界は鏡のようなものです。種々の状況や出会いから構成されているこの世のさまざまな出来事は、それ自体が象徴的な言葉のようなものであり、常に私たちに、警告や解決のためのヒントや指示を与えてくれています。もし、ピノッキオが(つまり普通の人間が)この指示を読み取ることができれば、あれほど執拗に自分の人生の足を引っ張ることも、人生の岐路で間違った選択をすることもないでしょうし、経験から得られる知恵を拒絶して、過ちや誤解と軽率に手を結ぶこともないでしょう。
結び
Epilogue
時代や地域を超えて、人間の実情の比喩であり続けるこの愛らしい本は、児童文学の定番とされていますが、大人社会の精神文化にも大きな影響を与えてきました。あやつり人形であるピノッキオは、度重なる苦難を乗り越えた末に知恵を身につけます。その結果、善い行いをしたご褒美として人間の命を与えられます。ピノッキオに命じられたのは「働くこと」、「善良であること」、「勉強すること」でした。彼は父親の面倒を見ながらこれらの約束を精一杯果たすことで、ついに本当の息子へと変わります。
コッローディが当初描いていた結末は、ピノッキオがキツネとネコの手にかかって、木の枝に掛けた縄で首を吊られるという悲劇的な内容でした。しかし出版社側がすぐに、この結末があまりに殺伐として報われないものであり、一般の人には受け入れられないと判断したため、コッローディはこの人形が人間の男の子に変容するという結末に変更しました。それ以外の結末であったならば、ピノッキオは今日のような人気を博すこともなかったでしょう。また、物語も中途半端で暗い内容になっていたでしょう。では、ピノッキオの道徳的な教訓とは何でしょうか。一番分かりやすいのは、「嘘はいけない、絶対に!」ということです。すべての人に正直であること、特に自分自身に正直であることほど美しく崇高なことはありません。嘘が存在する天国なんて想像できるでしょうか。そんなものは、ありそうにありません! しかし、この物語にはもっと深い教訓が込められているのかもしれません。それは「あなたが人にしてもらいたいことを人にしてあげなさい」という行動規範に従って生きなさいということです。
キツネとネコはピノッキオを吊るし首にして死なせましたが、コッローディは結末を書き直すにあたって、ピノッキオは本当には死んではおらず、本当の人間の男の子になりたいという願いを最後にかなえたのですと発表しました。木彫りの少年は、最後には暖炉にくべられる運命にあるただの薪に過ぎませんでした。しかし新しく生まれ変わった人間の男の子は、献身的な息子となって永遠の魂を授かったのでした。
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