投稿日: 2023/03/03

こんにちは。バラ十字会の本庄です。

今日は桃の節句ですね。東京には一昨日、春一番が吹きました。昨日も夜に強い風が続き、春の嵐という言葉がぴったりです。

そちらはいかがでしょうか。

札幌で当会のインストラクターを務めている私の友人から、向田邦子さんの小説についての文章が届きましたので、ご紹介します。

区切り

『字のないはがき』-向田邦子著

文芸作品を神秘学的に読み解く37

森和久のポートレート
森 和久

終戦の年、「私」の下の妹が小学校1年生の時、東京にも空襲があり、上の妹に続き、下の妹も疎開することになりました。

父は自分宛の宛名だけを書いた葉書の束を下の妹に持たせ、元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつ出すようにと言いつけました。下の妹はまだ字が書けなかったのです。

最初に届いた葉書こそ赤く大きなマルが書いてありましたが、次の日からマルは小さくなっていき、遂にはバツになり、まもなく葉書さえ届かなくなりました。

古いポストと古い家

そんな下の妹を不憫に思ったのでしょう、三月目に母が迎えに行きました。

病を患った下の妹が夜遅く帰ってきた日、「茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。

私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。」

読者は感激し、感動すらすることでしょう。

この作品は、短編ながら、2部構成になっており、上に述べた部分は、後半部分の内容です。

前半部には、父の暴君ぶりと「私」との関係性が述べられています。

父からの罵声や暴力は日常のことであったとしながら、13歳で一人暮らしをはじめた「私」へのたびたびの手紙は「非の打ち所のない父親」のものだったと紹介し、この手紙の中だけに優しい父がいたと「私」は心情を述べます。

ロウソクの光で読書(イメージ)

しかしながら、「私」はこの手紙の束をしばらく保存していたが、紛失してしまったといいます。

作者は前半部と後半部でことごとく対比する事柄を列挙します。神秘学的に言えば、「二元性」に通じるでしょう。

父が「私」に出した手紙と下の妹に託した宛名だけの葉書もそうですし、普段は厳格で横暴な父とその父が泣いたというエピソードもその一つです。

いかに暴君であろうとも人間の心を持っている、人間性を失っていない、ということが分かり、「鬼の目にも涙」ということわざ通りの振る舞いです。

このようなことをテーマにした小説や映画、ドラマなども少なからず目にします。しかし、ことはそれでいいのでしょうか? それが最も大切なことなのでしょうか?

そのことがあっても父は反省したわけでも悔い改めたわけでもありません。

まず、「字のない葉書」という出来事から30年という時が経っていることを踏まえてみる必要があります。

前半の終盤には「私」への手紙についてこうあります、「しばらく保存していたのだが、いつとはなしにどこかへいってしまった。父は六十四歳でなくなったから、この手紙のあと、かれこれ三十年付き合ったことになるが、優し父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。」

それに対して「字のない葉書」については、作品の最後でこう述べられています、「あれから三十一年。父はなくなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のないはがきは、だれがどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない」。

この文章があるためにこの作品は一筋縄ではいかないものとなっています。「私」の複雑な心情が読み取れます。

向田邦子、かごしま近代文学館, Public domain, via Wikimedia Commons
向田邦子、かごしま近代文学館, Public domain, via Wikimedia Commons

「私」への手紙をしばらく保存していたのは、きっと大切に思っていたからでしょう。

しかし、本文に「この手紙もなつかしいが、最も心に残るものをといわれれば、父があて名を書き、妹が「文面」を書いた、あのはがき」とあるように「字のない葉書」がより心に残っているわけです。

ところが「私は一度も見ていない」のです。これからも目にすることはないのでしょう。

もう一度、本文最後を見てみましょう、「~だが、あの字のないはがきは、だれがどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない。」となっています。

自分が受け取った手紙も30年以上経てば無くしてしまっているわけですが、下の妹の葉書は〈だが〉という逆説の接続詞を使い述べられています。

「だから」とか「そのため」といった順接の表現が当たり前なはずですが、「私」にとっては「葉書」の方は大切に保管されていて当たり前なのです。

さらに行間を読んでみると、「私」は父を受け入れているのでしょう。おそらく父の中に「私」は自分を見いだしていたのだと思います。

父の性質が自分の中に受け継がれているので、父を肯定することで、自己肯定しているのではないでしょうか。

かまど

ですから、唯一「非の打ち所のない父親」として自分と向き合ってくれた手紙よりも、唯一父親として、人間として〈優しさ〉ゆえに泣いた証である葉書が消失してしまっているのは納得できないし、そもそも「私」ではなく下の妹に対しての行いというのも得心できていないのでしょう。

なんと言ってもあれから一度も見ていないのですから。

この「私」の性質の二面性を入れ込むことにより、作品としてより深みを増す効果にもなっています。

つまり、人間の情緒や言動はつじつまが合っていそうで、合わないのが当たり前なのかも知れません。完璧な人間などいないのですから。

区切り

再び本庄です。

この文章をきっかけに、『字のないはがき』を再読してみました。話題になっていたこの「だが、」には、とても複雑な思いが込められいるように感じました。

それは、うまく説明できないのですが、永遠であるものとそうでないものの対比というような思いです。これもまた二元性でしょうか。

いえ、私の思い違いかも知れません。

下記は森さんの前回の文章です。

では、今日はこのあたりで。 また、お付き合いください。

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