資料室

公女アントニアとバラ十字会員アンドレーエ

The Princess and the Rosicrucian

ビル・アンダーソン

by Bill Anderson

 この記事は、17世紀のドイツで育まれた二人の人物の友情を物語にしたものです。その中でヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、自身の人生を語っています。しかし、それがどこまで事実であるかは定かではありません。一方で、バラ十字宣言書の著者とされているヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエと、ヴュルテンベルグの女公爵であった公女アントニアとの間の友情が現実であることには間違いがありません。彼女は、アンドレーエの支援者であったヴュルテンベルグ公エーベルハルト3世の姉でした。アンドレーエはヴュルテンベルグ公の宮殿で働いており、アントニアと知りあいであったこと、また、手紙のやり取りをしていたことが知られています。ヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争が起きていた当時は、安全な場所はどこにもなく、ヨーロッパ大陸の広い範囲が、まるでなぎ倒された草であるかのように荒廃していました。この大虐殺によって極めて多くの人々が亡くなりましたが、その廃墟からは、生きる意味を見いだしたいという心からの欲求がわき起こり、科学の時代の幕開けへと突き進む一因になりました。この記事では、ヨーロッパにおけるバラ十字運動の黎明期に重要な役割を果たした一人の人物を紹介し、その生涯をたどります。

公女アントニア

The Princess

 ヴュルテンベルグの公女アントニア(1613年3月24日~1679年10月1日)は、文筆家を支援していただけでなく自身も文筆家で、キリスト教カバラの研究者でもありました。彼女とヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、定期的に手紙のやり取りをしていました。以下の一部が創作である物語は、公爵家の夏の住居であったバート・タイナッハ(訳注)の宮殿の庭から始まります。

訳注:バート・タイナッハ(Bad Teinach):ドイツ南西部。シュトゥットガルトの西の郊外。

 現代のドイツ南西部にあるバーデン=ビュルテンブルク州のシュトゥットガルトで、アントニアは1613年に生まれました。この年は、バラ十字宣言書が世に出た年のちょうど一年前にあたります。彼女はヴュルテンベルグ公ヨハン・フレデリックとブランデンブルク選帝侯の娘バーバラ・ソフィアの結婚によって、9人の子供のうちの3番目に誕生しました。当時のドイツのプロテスタント貴族は、他のプロテスタントの一家と結婚する傾向がありました。アントニアは学問と芸術についての高度な知識を持ち、これらの分野へのさまざまな金銭的支援を惜しみませんでした。彼女の弟は、三十年戦争で重要な役割を演じたヴュルテンベルグ公エーベルハルト3世です。

 三十年戦争の間、特に1634年のネルトリンゲンの戦いの後、ヴュルテンベルグのキリスト教会の多くが略奪の対象となり、聖具の数々が奪われました。アントニアは、教会の修復と立て直しを自身の使命だと考え、そのための基金を設立しました。慈善心に篤く、敬虔で、語学の才能にも恵まれ、広い範囲に及ぶ学識を備えていたことから、アントニアは多くの人々に称賛され、「博学の公女アントニア」、「ヴュルテンベルグのミネルヴァ(訳注)」と讃えられるようになりました。彼女は、姉妹の公女アンナ・ヨハンナとシビルとともに、可能なときには、学問と芸術をいつも支援していました。

訳注:ミネルヴァ(Minerva):古代ローマの知恵の女神。

 ルター派の聖職者かつ宗教学者であり、神秘家でバラ十字会員であったヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(1586年8月17日~1654年7月27日)とアントニアは親しくなりました。そして後に彼女は、敬虔派運動(訳注)の創設者フィリップ・ヤーコプ・シュペーナー(Philipp Jakob Spener)とも親交がありました。敬虔派運動がきっかけとなり、17世紀の終わりに、ヨーロッパからアメリカのペンシルベニア州にバラ十字会員が移住しました。アントニアの興味は、絵を描くことに加えて、とりわけ哲学と語学の分野に注がれ、特にヘブライ語とユダヤ教カバラの研究に熱心でした。彼女は、ユダヤ教カバラをキリスト教の見地から解釈し、それを絵画として表現しています。彼女の絵画の最高傑作は、黒い森(訳注)にあるバート・タイナッハ=ツァヴェルシュタインという小さな町の聖三位一体教会に設置された、他に類を見ない大型の両翼付き祭壇画です。この絵は1652年に企画され、彼女と彼女の大学の師たちに製作の依頼が出され、1673年に教会に設置されました。この教会はまた、彼女が埋葬されている場所でもあります。

訳注:敬虔派運動(Pietism movement):ドイツのルター派の内部に生じた宗教改革運動で、形式ではなく内面における信仰、個人として敬虔であることを重視した。

訳注:黒い森(Black Forest):ドイツ南西部の巨大な森林山岳地帯。ドイツ語ではシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)。

 ヴュルテンベルグ公女アントニアの強い勧めにより、バート・タイナッハでカバラの”知”が描き込まれた絵画が制作された。この絵画は、両翼付きの祭壇画である。外側の2つの画板には、ソウル(魂)の進歩が、キリストの神秘的な花嫁として描かれている。この扉を開くと3つの絵画が現れる。右側の側面の画板は、ナイル川でモーセが見つけられる昼間の場面の絵であり、左側は、聖家族(イエスとマリアとヨセフ)がエジプトへと逃れる夜間の場面の絵であり、中央は、全世界の哲学的な仕組み(systema totius mundi)が極めて細かく描かれた絵画である。公女アントニアは、この絵の制作に密接に関わっていた。豊富な象徴的な意味が込められており、彼女がクリスチャン・カバラに精通していた証拠である。絵の下側に見られる赤と白のバラのアーチの間に描かれている中央の人物は公女アントニア自身である。彼女は楽園の入り口に立っているが、この楽園の絵の部分にも、カバラのさまざまな象徴が多数含まれている。(脚注1)

出会い

A Meeting

 「親愛なるアンドレーエ様、どうぞここに来て、私の隣に座ってください。あることについて、あなたの助言がほしいのです。私は、カバラの教えに基づいた一幅の絵画の製作を依頼することを考えています。そして当然のことながら、私の弟が最も信頼している評議員のあなたのことが思い浮かんだのです。あなたが長い間、公爵である弟の評議会のメンバーであったことはよく知っていますし、あなたが、私が生まれたころにヨーロッパを揺り動かした、あの有名なバラ十字宣言書の著者なのではないかという噂も聞いています。もしそれが本当ならば、あなたこそが、私がお話したい人なのです。」

 「私には心の底から、学びたいという欲求があります。私も私の姉妹も、高い教育を受けてきましたが、さらに何か偉大で神秘的なことがあり、それを見つけることができるのではないかと感じています。私は数ヵ国の言葉を話すことができます。しかしこのことによって、神の御業に関して、さまざまな観点からの洞察することができるので、さらに学ぶ必要があるとことさら感じるのです。神聖なるものを探している人と知り合いになりたいのです。特にバラ十字会員と。」

 3連の祭壇画を閉じると、外側の2つの画板には、旧約聖書『雅歌』の中の女主人公「シュラム」の婚礼の行列が描かれている。『雅歌』において「花嫁」はソウル(魂)の象徴であり、信仰、希望、慈善を象徴する人たちを伴って啓示に達し、キリストと一つになる。先頭の3人の人物は、アントニア(王冠を授けられている)と、彼女の2人の姉妹のアンナ・ヨハンナとシビルである。(脚注2)

伝記

A Story

 「公女様、恐れ多くも私の人生には、歴史的な記録に書き込まれるべき事柄はほとんどありません。私はヘレンベルクで生まれました。ヘレンベルクは、シュロスベルクの丘の麓にあり、シュトゥットガルトから32キロほど南西に行ったところで、チュービンゲンからは西に20キロほどのところにあります。そこはプロテスタントと敬虔派の拠点でした。父はヨハネス・アンドレーエ(1554-1601)で、ヘレンベルクの監督者(訳注)でしたが、後にケーニヒスブロンの大修道院長になりました。その後、父が亡くなると、母マリアは私を含む6人の子どもを連れてチュービンゲンに移り住み、1607年から1617年まで、亡くなられたあなたのお父上のもとで宮廷薬剤師を務めました。子どものころの私は、優しいけれど気が短く、元気あふれる様子だったと聞かされています。幼いころから、外国語とともに数学、機械学、絵を描くこと、音楽に興味を持っていました。」

訳注:監督者(Superintendent):プロテスタントにおける役職、カトリックの司教にあたる。

 「1602年から1603年にかけて、イギリスの作品を手本にして、『エステル』(Esther)と『ヒアキュントス』(Hyazinthus)という二本の喜劇を書きました。祖父がチュービンゲン大学の学長だったことから、1604年から1606年にかけて、そこで神学と自然科学を学びました。このとき年上の支援者たちや祖父の生徒たちも含め、多くの知人ができました。私は学士号を取得し、1605年には修士の学位を獲得しました。その後、スイス、フランス、オーストリア、イタリアを旅行しながら、貴族の子弟に学問を教えました。1611年のことでしたが、ジュネーブで、有名な改革派の説教師ジョン・カルバンと知り合いになりました。勤勉な生活と神への崇拝についてのカルバンの揺るぎのない態度に私は引き付けられ、大いに刺激されました。それからイタリアのパドバで半年を過ごした後に、チュービンゲンに戻りました。」

 「1612年に、チュービンゲンで私は神学の研究を再開しました。そして、法学者で神智学者のトバイアス・ヘス(Tobias Hess, 1568-1638)や、同じく法学者で弁論学の教授のクリストフ・ベゾルト(Christoph Besold, 1577-1638)と友人になりました。1614年の最終試験の後、ファイヒンゲン・アンデアエンツ(Vaihingen an der Enz)という小さな町で牧師補佐になりました。その年の8月にアグネス・エリザベス・グリュニンガー(Agnes Elisabeth Grüninger)と結婚し、9人の子どもを授かりました。カルフ(Calw)へ赴任した6年間は、私にとって沈思黙考の日々となり、日常の騒がしさから解放されて、自身の心の中に深く分け入り、課題としている研究を深めることができました。このときの私は、知力が充実しており、最も良いものが書けたのではないかと思っています。そのころの著作は数は少ないのですが、気力と活力にあふれ、巧みに仕上がっています。『クリスティアノポリス』(Christianopolis)という私のお気に入りの著作は、トマス・モアの『ユートピア』(1516)に倣って、理想的なキリスト教国家について1619年に書いたものです。1620年に私はカルフで、ルター派の牧師になりました。カルフは、シュトゥットガルトから32キロほど西にあり、この宮殿から10キロ足らずのところにあります。」

ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの構想した理想郷クリスティアノポリスを表わした絵。

 「当時のカルフの人口は3,500人ほどで、シュトゥットガルトの半分ほどでした。この町は羊毛の産業で栄えており、ヴュルテンベルグの重要な商業地域でした。ここで私は学校と社会組織を改革し、慈善団体をいくつか創設しました。それらのために役立つだろうと考え、「神を愛するキリスト教徒の会」(Christliche Gottliebende Gesellschaft)に入会しました。私はカルフを改革する資金と有力な支援を得ました。しかし皇帝軍の進軍によって、ネルトリンゲンの戦い(1634)が起こり、町は焦土と化し、その後伝染病に襲われました。私は家と蔵書、そしてデューラーやホルバインの作品を含む絵画を失いました。1638年、カルフの町は再び破壊され、生き残った人々とともに私は黒い森に逃げ込みました。着の身着のままで逃げてきたうえに、食べるものも十分でなく、常に飢えに苦しみました。洞穴や森の中で暮らさなければなりませんでしたが、後にやっとの思いでカルフに戻ると、安全のためにと近所の牧師にあずけていた末の息子が亡くなっていました。4,000人が町から避難し、わずか1500人が戻ってきたのですが、その半数が疫病によって亡くなりました。」

 「1639年には、アントニア様の弟君お抱えの牧師と、シュトゥットガルトの評議員になり、ご存じの通り1650年までこの役目を務めました。シュトゥットガルトに住んでいた十数年の間には、1,000回以上の説教を行いました。私は蔓延していた聖職売買や聖物窃盗と戦い、強欲や貪欲とも戦いましたが、一方で数多くの外国の友人たちや教会を支援してくださる高貴な方々との交流を楽しむことができました。特に幸せに思っているのは、アントニア公女様とあなたのお二人の姉妹と友人になれたことです。私はあなたがたを「美の三女神」(訳注)であると考えています。このころ、私は教会の改革のためにさまざまな議論をしていました。また、チュービンゲン大聖堂の保全と昇格を訴えました。また1641年には、チュービンゲン大学から神学の博士号を授与されました。1645年には粘り強い活動が実を結び、ヴュルテンベルグは、子どもを学校に通わせることを義務であると定めたヨーロッパで最初の国になりました。1646年には、私が敬服しているブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アウグスト様とアンハルト=ケーテン王子ルードヴィヒ1世様の親切な口利きもあって、「実りを結ぶ会」(Fruchtbringende Gesellschaft)のメンバーに招かれました。おそらくご存じのことと思いますが、この会は1617年にワイマールで設立されたドイツの文学協会であり、フローレンスのデラ・クルスカ学会(Accademia della Crusca)に倣って、ドイツの学者と貴族が創設したものです。その主な目的は、ラテン語の代わりに日常語であるドイツ語を標準的に用いることを定め、学術と文学の両方で用いられる言葉として普及させることです。しかしながらこの会は、皇帝とカトリック教会の権力に対抗するドイツのプロテスタントの貴族と同盟を組んでしまいました。ルードヴィヒ王子は自ら私に「デル・ミュルベ」(訳注)というあだ名をお付けになり、「新鮮なままであれ!」という私の座右の銘になるお言葉を与えてくださいました。」

訳注:美の三女神(Three Graces):ゼウスとエウリュノメーの間に生まれたとされるギリシャ神話の三女神。アグライアー(輝き)、エウプロシュネー(喜び)、タレイア(花盛り)。

デル・ミュルベ(Der Mürbe):「柔らかなもの」を意味するドイツ語。柔らかな果物などのこと。

 「そして私の紋章はモスローズ(苔バラ)でした。ヘッセン=カッセル方伯モーリッツ様とアンハルト=ベルンブルク王子クリスティアン様もまた「実りを結ぶ会」の会員でした。1650年に、私はベーベンハウゼンの修道学校の校長に任じられました。」

バラ十字会の伝説

The Rosicrucian Legend

第一のバラ十字宣言書である『バラ十字友愛組織の声明』(1614)のドイツにおける初版。

 「アンドレーエ様、私はあなたが、ヨーロッパに大騒動の嵐を巻き起こしたバラ十字思想の扇動者だったと聞いています。一連の宣言書には、謎めいたクリスチャン・ローゼンクロイツという人物によって創設された秘密の組織が200年前から存在していたと語られています。2つの宣言書では、そのあらゆるところで、カバラやヘルメス学、錬金術と同時に、キリスト教について述べられています。」

 「公女様、バラ十字会員たちの話は単なる作り話にすぎず、実際には存在しないという人々もいます。また彼らは、クリスチャン・ローゼンクロイツの名前と象徴は、私の家系の紋章が基になっており、始祖ローゼンクロイツは、マルティン・ルターやパラケルスス、古代ギリシャの哲学者たちが元になっていると言っています。この話はすべて、自然科学とキリスト教と倫理観が行き渡っている社会を描くためにでっち上げられたか、あるいは、他の神秘学派を暗に示すものだと彼らは主張しています。しかし、人生の他の多くのものごとと同じように、目に見えるもののさらに先を見通す必要があります。現在の友愛組織の以前の姿が、時間という霧の中に覆い隠されていることは確かです。バラ十字会員についてはほんのわずかなことしか知られていませんが、私が知っていることをお話しすることにします。」

 「『バラ十字友愛組織の声明』(Fama Fraternitatis:ファーマ・フラテルニタティス)は、最初に公表されたバラ十字会の宣言書で、初版は1614年にドイツのカッセルで、バラ十字会員の友人であるヘッセン=カッセル方伯モーリッツ様の宮廷で出版されました。この宣言書には、この友愛組織の設立に関することと、ローゼンクロイツ自身の生涯について詳しく述べられていました。この宣言書には、彼は博識で秘伝的知識を深く理解しており、人を癒す能力を持ち、知識を求めて中東諸国を旅した人物だと書かれています。彼はアラブの都市ダムカールへ赴き、そこでイスラム教徒の賢者や神秘家たちと出会いました。彼はその地で、多くの秘伝的な知識と知恵を学び、その後にヨーロッパへ戻りましたが、当時の学問や宗教の権威筋に受け入れられなかったため、バラ十字会という秘密の友愛組織を創設しました。この友愛組織は、人類の福祉に献身する学識者などの集団であり、世界中を旅して治療を行ったり知識を伝えたりし、特別に定められた場所に集まって年に一度会合を開いていました。」

 「翌年、カッセルに第2の宣言書『バラ十字友愛組織の信条告白』(Confessio Fraternitatis:コンフェシオ・フラテルニタティス)が現れました。そこには、錬金術師と賢者たちからなる秘密の友愛組織が存在し、彼らはヨーロッパの政治と学問の状況を変革する準備をしていると同時代の人々から見なされていると書かれていました。そこでは、先の宣言書のテーマが引き続き取り上げられ、ヨーロッパを全般的に改革するというバラ十字会の構想と、バラ十字が初めて咲き誇ることができる、非物質的な精神の世界の共同体が作られるということが詳しく書かれていました。この2つの宣言書は、真摯な興味を持つ人とバラ十字友愛組織に接触するのに値する人たちを招いていますが、その動機が単なる金儲けや個人的な進歩だけである人たちには、我々に近づかないようにという警告を発しています。」

 「第3の宣言書は、『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』(Chymical Wedding of Christian Rosenkreutz)です。この宣言書は1616年に神聖ローマ帝国の自由都市であったストラスブールで出版されました。この寓意的な物語は、クリスチャン・ローゼンクロイツが、ある王と王妃の『化学の結婚』を手伝うために、奇跡のように不思議な城に向かうように招待されるという話です。この物語の舞台は150年以上前で、この物語に書かれている出来事は、3つの宣言書の中でも最も謎に満ちています。この物語は7日間にわたり、7つの章に分けられており、それぞれの章に、一日ずつのできごとが書かれています。ローゼンクロイツが王と王妃の結婚を支援するように招待されたときから始まるこの宣言書は、意味深い象徴に満ちあふれていて、試練、浄化、象徴的な死、復活、上昇という入門儀式のように進行するストーリーの持つ力によって、詩人や錬金術師たちのインスピレーションの特に優れた源となってきました。」

 「親愛なるアンドレーエ様、あなたが一連の宣言書の作者は自分ではないとほのめかしているのは分かりましたが、おそらく、作者よりも内容の方がはるかに重要だからそうしているのではありませんか? しかし私は、3つの宣言書にまつわる、興味深い一致を見つけました。宣言書が公表されたどの年にも、シュトゥットガルトで『プロテスタント貴族連合』の会合が開かれているのです。これは、奇妙なことではないでしょうか?」

 「親愛なる公女様、私は偶然の一致を信じていません。時そのものが始まったときから、絶えることなく繰り返し現れる、英知の潮流というものが存在してきました。それは国から国へと移り行き、今は扉が開かれているのですが、後にこの扉は閉ざされます。しかしそれは常に活動し、英知の光を広げ続けます。その呼び名は、それが危険を冒して姿を現した国の習慣に合わせた名前に変化します。この英知の学派は、ひとつの国では、ほんの数世代の間だけ存続し、他の国に移っていきました。それは、組織として硬直化することを避けるためでした。一連の宣言書が出現したとき、それは、内面的に成長するという観念のためにふさわしい時期が社会に訪れたという知らせでした。そして、書かれた言葉によって、“知”がさらに多くの人に伝えられるようにされました。その友愛組織は、ただ機会を捉えたにすぎません。神聖ローマ帝国においては、微妙な政治的な状況のため、依然として慎重を期する必要があったのです。しかし、カトリック教会がこの宣言書に心を動かされることはありませんでした。」

 「親愛なる友であり評議員であるあなた、だんだん寒くなってきていますし、あなたは体が丈夫なほうではありませんね。宮殿内の屋根の下に戻って、そこでお話しを続けましょう。カバラの英知を描き込んだ絵画を制作する企画があり、あなたのご意見をお聞きしたいのです。」

エピローグ

Epilogue

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アウグストは、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの知識に深い興味を示し、彼に多額の資金的援助をした。アウグスト公はまた、ヴォルフェンビュッテルに大規模な図書館アウグスト文庫を設立した。彼はグスタヴス・セレヌス(Gustavus Selenus)というペンネームで1616年にチェスに関する本を、1624年には、博識家トリテミウス(1462-1516)の初期の著作を基に暗号に関する本を書いている。

 アンドレーエには、とても裕福な支援者が何人かいましたが、そのうちの一人がブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アウグスト(Duke August of Braunschweig-Wolfenbüttel, 1579-1666)であり、アンドレーエが1641年に神学の博士号を取得したときの費用を出したのであろうと推測されています。しかし、ルター派の教会を改革しようとする彼の試みに関しては、誹謗中傷する人や敵対する人たちが数多くいました。エーベルハルト公はそうではありませんでしたが、宮廷の他の人々からますます激しい反対を受けるにつれて、彼は病に苦しむようになっていきました。体調はさらに悪くなり、1646年にアンドレーエはエーベルハルト公に辞職を願い出ました。エーベルハルト公は、アンドレーエの望みに同情を示しましたが、引き続き職に留まることを求めました。そして、健康状態が良くないときには、職務をいくらか減らすことができるようにしました。1650年になってやっと、彼はシュトゥットガルトでの職務から解放され、ベーベンハウゼンの大修道院長に任命されました。

 1653年の夏、アウグスト公は、まだ直接会ったことがなかったアンドレーエに使者を送り、ヴォルフェンビュッテルに来るように招きました。そしてさらに、アンドレーエのために、6頭立ての馬車と御者2人と従者3人を送りました。しかし、アンドレーエの病状は思わしくなく、そのような長旅をすることはできませんでした。1654年には、ベーベンハウゼンから異動して、アデルベルクの独立高位区長となり、さらに役職が軽減されました。そしてその修道院が全焼してしまったため、彼は再びシュトゥットガルトの館に戻ることができました。この館は、以前アウグスト公から賜り、彼がセレニアヌム(Selenianum)と命名した建物です。ここで健康を回復したアンドレーエは、ベーベンハウゼンでの苦難についての思索にふけりました。1654年7月27日、彼は口述筆記で、アウグスト公にあてた最後の手紙を作成しました。しかし、その震える手で署名できたのは、自分の名前の最初の2文字だけでした。こうして彼は68年の生涯を閉じたのでした。

 3つのバラ十字宣言書は、アンドレーエの作とされていますが、確たる証拠はありません。この3つのバラ十字宣言書によって、ヨーロッパの全般的な改革のために道が拓かれたことが今日では知られています。しかしアンドレーエには、この変化を予見することはできませんでした。今日ではバラ十字会AMORCが、絶えることなく繰り返し現れる英知の潮流を受け継ぎ、それを未来へと運んでいます。

脚注

1. http//:en.wikipedia.org/wiki/Antonia および http//:pamela2051.tripod.com を参照

2. 同サイト

 ※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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