資料室

パラケルスス、神秘家の医師そして哲学者

Paracelsus: Mystic Healer & Philosopher

マルクス・アディグベ

By Marcus Adigbe

 パラケルススの名は、この偉大な神秘家が生きていた時から、ヨーロッパ中で愛されると同時に恐れられていましたが、死後は以前にもまして有名になりました。彼の本業は医師でしたが、錬金術師であり神秘家でもあり、〈光〉の探求者に何世代もインスピレーションを与え続けました。彼が生きたのは1493年から1541年という、まさに歴史の転換期でした。彼の同時代人には、エラスムス、トマス・モア、ツヴィングリ(Zwingli)、マルティン・ルターなどがいます。パラケルススは、アリストテレスの哲学や当時認められていたガレノス(訳注)の治療術に反対したため、多くの人から強い反発を受けました。彼は、当時の慣習的な世界観全般を受け入れることを拒絶したため、当然のことながら、それが彼の周りにさまざまなトラブルを引き起こしました。しかし彼は、打たれ強い、知識豊かな人物でした。この両方の資質は、人生経験と自然の観察によって彼が身に付けたものです。彼は医師であると同時に、地質学者、哲学者、生物学者、そして錬金術師でした

訳注:ガレノス(Galen):ギリシャの医学者。ルネサンスに至るまで医学の権威と仰がれた。

 パラケルススは1943年にスイスのアインジーデルン(Einsiedeln)で生まれました。彼の父は貧しいドイツ人医師で化学者でした。幼いころに彼の母が亡くなると、彼の父は一人息子のパラケルススとともにオーストリア南部のフィラッハ(Villach)に移住し、少年パラケルススは、父が化学を教えていた鉱山学校で基礎的な教育を受けました。幼いころからパラケルススは、父の仕事を通じて、冶金と錬金術の秘密の技術、つまり卑金属を金に変える技術に触れていました。彼は後に、父が彼に教えてくれたのは「達人の哲学」(adept philosophy)だったと語っています。しかしそれが、「秘伝的な錬金術」(esoteric alchemy)、つまり卑金属を金に変えることを指していたのか、彼が確立したパラケルスス流の神秘哲学のことを指しているのかは定かではありません。彼はラテン語をかなりの程度使いこなすことができましたが、教科書を嫌っていたことがよく知られています。教科書で学ぶことをパラケルススは嫌っていましたが、彼はいくつもの大学に通っていましたし、ラテン語の知識が実際のところ極めて有益だと感じていたのは間違いのないことでしょう。当時は多くの講義がラテン語だけで行われていたからです。

 14歳の時、彼は放浪生活を始めました。当時は多くの若者がヨーロッパ中を放浪して、有名な教師や新しい思想、新しい知識を求めて、あちこちの大学を訪れていました。彼はバーゼル、チュービンゲン、ウィーン、ヴィッテンベルク、ライプツィヒ、ハイデルベルク、ケルンの大学に通いました。しかしこれらの学問の偉大な中心地のいずれにも、彼が求めていたものはなかったので、彼は自然を直接研究することを決意しました。数年後、彼はイタリアのフェラーラ大学で研究を始めましたが、そこでは当時の常識にとらわれることなく独創的な意見を自由に述べることができました。彼はフィレンツェ・アカデミー(訳注)が気に入り、フィチーノやピコ・デラ・ミランドラ(訳注)といった著名な権威者の思想を吸収しました。

訳注:フィレンツェ・アカデミー(Florentine Academy):別名フィレンツェのプラトン・アカデミー。メディチ家の支援を受け、マルシリオ・フィチーノを中心に形成された哲学者とその他の分野の学者たちの集団。プラトンの著作と哲学の研究、議論を主に行っていた。

フィチーノ(Marsilio Ficino、1433-99):イタリアの新プラトン主義の哲学者。

ピコ・デラ・ミランドラ(Pico della Mirandola、1463-94):イタリアの人文主義者・哲学者。

 大学での研究を終えて、パラケルススはフェラーラを離れてナポリに移り住み、しばらくの間、スペイン王カルロス1世の軍隊で軍医として働きました。医者たちが多くの病気を治すことができなかったため、彼はある日、こう述べたと言われています。「あなたがたは一人を治す間に、十人を救うことに失敗している」。医学という分野から永遠に離れようと真剣に考えていたある日、彼は次の言葉を聞いて慰めを見いだしたと言われています。「神は治療法を与えることなく、いかなる病気も見過ごすことはない」。つまり当時の医学の問題は、知識の不足ではなく慣習にとらわれていることだったのです。

 パラケルススが医学の学位を取得していたかどうかについては、いまだに意見が分かれています。パラケルススは学位を得ていたのかもしれませんが、彼の父と同じように、学位を取得したことがなかった可能性もあります。というのも、パラケルススはそのような称号の価値にたびたび疑問を投げかけており、そのような称号と真の知識にはほとんど関連がないと考えていたからです。しかし、パラケルススには治療に対する生来の才能があり、金持ちからはお金をもらって治療し、貧しい人たちは無料で治療しました。この若き医師は多くの国々を旅しました。しかし1517年から1523年までの間に彼がどこにいたのかは分かっていません。

 彼は、デンマークとロシアで仕事をしていたことが知られています。しかしロシアにタタール人(Tatar)が侵入してきたので、そこから逃れなくてはならなくなりました。彼はタタール人に捕らえられましたが、彼らにコンスタンチノープルまで送り届けられ、そこである魔術師が彼に「賢者の石」を与えたと言われています。神秘哲学の伝統から考えると、このできごとは比喩であり、彼が秘伝的な錬金術の奥義を最終的に伝授されたのだと解釈することができます。後に彼はパレスチナ、エジプト、ギリシャ、バルカン半島の国々を旅し、行く先々で知識を得て奇跡的な治療を行いました。オスマン帝国のロドス包囲戦(訳注)のとき、彼はロドス島に滞在していました。しかし何とか脱出してヴェネツィアとダルマチア(バルカン半島西部)への旅を続けました。1524年に、彼はフィラッハ(Villach)の父の元にとうとう戻りました。そのときパラケルススは、経験豊かな熟練の神秘家で有名な医師になっていました。

訳注:ロドス包囲戦(Siege of Rhodes):オスマン帝国が聖ヨハネ騎士団をロドス島から追放した1522年の戦い。この戦闘によりオスマン帝国は、東地中海の支配権を握った。

 ヨーロッパと中近東の国々の旅で、パラケルススは常に、錬金術に関する新しい知識を得ることを求めていました。彼は錬金術の知識を、従来より効果的な医学的処置を開発するために用いていましたが、彼の主な関心事は「自然の秘められた力」を発見することであり、より良い治療法を見つけて人々の健康を改善するために、その力をどのように用いるのかということでした。

化学

Chemistry

 パラケルススの著作の大部分は、極めて謎めいた書かれ方をしていて、現代の私たちに理解することは困難ですが、そうでないものも少数あり、特に化学に関する著作は極めて現代的です。ちなみに彼は、「化学」(chemistry)という言葉を作り出した人物であるとされています。彼は亜鉛が金属であること、そして亜鉛には反応性という特徴があること、つまりこの金属には酸化されやすい傾向があることを理解していました。しかし、彼の錬金術の作業は金を作るためではなく、何よりもまず新しい治療法と薬を作り出すために応用されたユニークなものであったことが知られています。

 パラケルススは、何にもまして治療家であり医師だったのです。彼の「アルキドクサ」(Archidoxa)という著書の考え方は、当時としては急進的であり驚愕させられるほどのものでしたが、その後の何世代もの、医学と錬金術の探求者たちにインスピレーションを与え続けました。パラケルススによると、癒しという効力は物質にあるのではなく、彼が「第五元素」(訳注)と呼んだ特殊なエネルギーにあります。それは繊細で目に見えない「精髄」(essence:エッセンス)であり、自然のエネルギーすなわち自然の本質であり、物質でも精神でも魂でも、すべてのものを正常な状態にして癒します。第五元素という万能薬(elixir:エリクサー)は、保存という働きを発揮するエネルギーであり、「アルカヌム」(Arcanum:大奥義)とも呼ばれる秘薬であり、変成と再生を起こす神の秘められた力でした。彼の語ったことや行ったことは、現代の私たちには奇妙に感じられますが、彼はまさしく化学という分野を確立した偉大な創始者のひとりでした。

訳注:「第五元素」(quintessence):クインテセンス。古代哲学では、地上では四大元素(土、空気、火、水)が物質を構成しており、天上という完璧な世界では、クインテセンスが天体を構成していると考えられた。

 彼は大宇宙(マクロコズム)と小宇宙(ミクロココズム)の間には対応関係があると考えており、「上のように下にも」という古い格言が彼の方法論の根幹をなしていました。人間は小宇宙ですが、人間が食べるものは大宇宙である「大いなる世界」からもたらされています。そして人間は大宇宙の中に住んでいるので、「大いなる世界」は人間の一部になります。ですからパラケルススの治療法においても、大宇宙の中の物質、つまり物質世界の通常の化学物質は、人間の内面に影響を与えることがあり、実際に与えており、ある程度の治療効果を及ぼすことができます。自然界には、目に見えるエネルギーや物体と、目に見えないエネルギーや対象の両方があり、パラケルススは生涯を通じてそれらを効果的に用いました。

 カリオストロ(Cagliostro)もそうでしたが、彼も、他の医師たちが匙を投げた患者を治療しました。しかしこうした成功によって、時として、他の人が面目をつぶされたり、良からぬたくらみが起こったり、医学界の他の人々との対立が生じたりすることがありました。彼は多くの病気の原因に遺伝的な要因があることを認識していましたが、当時は遺伝性の病気に悩まされている人たちは手厚い看護を受ける代わりに、その病気に悩まされていることが「罪」であるとされて罰を与えられた時代でした。バラ十字会が「根源的生命力」(Vital Life Force)と呼んでいるものに似ていると考えられますが、彼は「生けるプラズマ」(living plasma)のことを生命活動の根本だと考えました。その別名は「第五元素」ですが、この元素は生命そのものの基礎であり、そして彼の秘伝的な手法と研究は、最終的には、生物学から医学の領域へと向いました。

 1526年ごろのストラスブールは人文主義(訳注)の中心地でした。この町には良い印刷機や外科学校があり、その近くにはコモン・ロット兄弟会(Brethren of Common Lot)の学校がありました。彼はそこで何人かの友人を得ました。パラケルススと外科学校の指導者たちはラテン語ではなく、ドイツ語で執筆したり講義を行ったりしていました。これは過去の慣習から脱却する過激な行いでした。学校の医師の一人がパラケルススに公開討論を挑み、どうやらパラケルススは討論に負けてしまったようです。公衆の面前での屈辱を受けたパラケルススは、天才医師として知られていたにもかかわらず、ストラスブールを去りました。彼はバーゼルに行き、友人たちに勧められて、足の感染症を患っていた印刷出版業者のフロベニウスを診ることにしました。他の医者たちは足を切断したほうがいいと診断していましたが、パラケルススはそうせずに治療しました。パラケルススの指示に逆らって、後にフロベニウスはフランクフルトへ移り住みましたが、そこで間もなく死亡しました。そして不当にも、フロベニウスの死はパラケルススの責任であるとされました。

訳注:人文主義(humanism):ヒューマニズム。ギリシャ・ローマの古典芸術を研究することによって、中世のキリスト教の権威や神中心の世界観の重圧から人間を解放することを目指した思想や活動。

 パラケルススがバーゼルにやってきたのは、多数派のプロテスタント(宗教改革派)と、少数派のカトリックが大学で対立していた時期でした。プロテスタントに要請されて、パラケルススは市の医師と教授の職を引き受けました。当時は公開討論が普通に行われていましたが、プロテスタントはそれを避けており、パラケルススはどちらの側の政治的目的にも協力したくなかったため、討論には参加しませんでした。大学の講義室の使用を拒絶されたため、彼は教授が着用することになっていた礼服を脱いで、大学の外で講義を行いました。いつもよりも多くの学生が参加し、彼は診断法、治療法、薬理学などについて講義し、彼の職務の一部として薬局の視察も行い、次々にやってくる患者も診察していました。

 聖ヨハネの日に卒業式が行われると、学生たちは、不要な物や好きではないものをすべて焚き火の中に投げ入れました。パラケルススもそこにいて、学生たちは彼の命令で、当時の第一級の医学書であったアヴィセンナ(訳注)の『医学典範』を火に投げ入れました。それは、従来の医学の指導法と実践を彼は受け入れないということを表わす、おそらく愚かな方法でした。しかし、彼は確固たる考えのもとにそうしたのでした。この行いは、彼の監督下にある薬剤師や理髪店などが行っていた不正行為を正そうとする試みと相まって、反発を呼び、すぐに彼を描いた風刺画が教会の扉に貼られました。

訳注:アヴィセンナ(Avicenna):中世で最も名高かったイスラムの医者・哲学者。イブン・シーナー(Ibn Sīnā)のラテン名。

医師たちの憤り

The Wrath of Doctors

 パラケルススは支援を求めてチューリッヒに行きました。彼の不在中、バーゼルの医師たちは彼に対して陰謀を企て、病気を患ったある役人が用意されました。パラケルススは往診を依頼され、その人を治療しましたが、受け取った報酬は、彼が十分だと考えることのできない額でした。彼はこのことを法廷に訴え、敗訴しました。パラケルススは下級裁判所の裁判官や市の聖職者を批判する文書を頻繁に匿名で公表しましたが、真の書き手が誰であるかは明白でした。これは彼に対する憎悪の炎をさらに煽ることとなり、市議会はついに彼の権利を剥奪する訴状を作成しました。彼は友人から事前に警告を受け、急いでバーゼルを立ち去りました。

 ニュルンベルクでは、医師たちが討論を要求しました。討論の代わりにパラケルススは彼らに、梅毒の兆候のある患者を自分の所に送るよう頼みました。彼は梅毒の患者を含む、ハンセン病患者の隔離病棟を任され、そこで15人の患者のうちの9人を治しました。しかし医者のギルド(訳注)は彼に対して敵対的であり続け、彼が梅毒に関する最初の小冊子を発行しようとしたときも、それに続いてこの病気についての本を出版しようとしたときも、市議会が出版を許可しませんでした。これらが梅毒についての最高の著作であったにもかかわらずです。彼の著作『パラグラヌム』(Paragranum)は、医者のギルドを公に告発するものであり、同時に、彼が医学の要点だと考えていた4つのテーマ、哲学もしくは自然科学、錬金術、天文学、美徳もしくは能力についての概説書でした。彼は自身の医学体系を擁護することによってヒポクラテスの誓い(訳注)を補完したのです。彼はまた、自分が受け取るに値すると思わない限り、報酬を受け取ることはありませんでした。彼は薬剤師という仕事に不信感を持っていました。また、あらゆる人を、彼らが支払うことのできる対価で治療し、貧しい人からは金銭を受け取りませんでした。当時プロテスタントが大部分を占めていた町では、ジプシーやユダヤ教徒やカトリック教徒は、治療を拒絶されることが多かったのですが、パラケルススは患者の宗教に関係なく治療を行っていました

訳注:ギルド(guild):中世の商人・手工業者などの同業組合。組合員の技術の独占や利益擁護などを目的とした。

ヒポクラテスの誓い(Hippocratic oath):ヒポクラテスが作成したとされる医術に携わる人の倫理と任務について、ギリシャの神々に向かって行う宣誓。現在でも、この宣誓もしくはその修正版が、多くの医学学校の卒業式で用いられている。

 パラケルススは後進を指導し、この時期から「パラミリック」(Paramiric)と呼ばれる一連の著作を書いています。その最初の著作『パラミルム』(Paramirum)は奇跡を意味します。医学の知識は、ただ単に奇跡のようであるべきではなく、自然そのものを治療のために働かせる技法であるべきです。彼はこう言っています。「自然が治す。医者は看病する。人は自分自身の医者である。体は自ずから治る」。治癒は自然の現象であり、自然の持つ力、すなわち自然の効力から生じます

パラケルススと宗教改革

Paracelsus and the Reformation

 プロテスタントの中には、迫害され、指導者が処刑された集団もあります。パラケルススは彼らの問題を理解し、彼らを支援しようとしました。彼はトランス状態(訳注)について知っており、魔術は、害を与えようとしている相手がそれに効力があると考えていない限り、危害を加えることができないことも理解していました。信念は2つの方向に働きます。信念は害を与えることもありますが、治癒をもたらすこともあります。彼はときどき再洗礼派(訳注)の人々の所に滞在し、彼らの教義の多くに同意していましたが、成人への洗礼などの彼らの考え方のいくつかは認めていませんでした。しかし彼らの運動が衰退してからも、彼は医学の専門家かつ治療家として彼らを支援し続けました。

訳注:トランス状態(trance state):呪術師や霊媒が陥る忘我の状態。

再洗礼派(Anabaptists):幼児は洗礼の意味を自覚できないので、幼児に行われる洗礼は聖書の教えに反し、成人に洗礼を行うべきだと唱えたプロテスタントの一派。

『哲学用語辞典』(Aurora thesaurusque philosophorum) の題扉のページ(1577 年発行)。パラケルススの著作であるとされる錬金術論集の初版。

 その後パラケルススは、研究と医術の実践から、瞑想と独居からなる心の崇高さを追及する生活に移行したことが知られています。彼は執筆を続けていましたが、もはやほとんどそれを公表しませんでした。彼は後進の指導を続けましたが、それはもう彼の晩年の生活の最も重要な部分ではなくなっていました。この時期に彼の心を占めていたのは、貧しい人たちや見捨てられた人たちへの愛など、愛を信条とする生き方でした。彼の信仰は表向きはキリスト教でしたが宗派には属していませんでした。そして、彼は間違いなく、高度な進歩を遂げた神秘家でした。

 『大外科学』(Die große Wundarzney)が1536年に出版されましたが、その他の著作は彼の死後20年が経過するまで出版されませんでした。その中には『大宇宙と小宇宙についての大天文学または明敏なる哲学』(Astronomia magna: oder Die gantze Philosophia sagax der grossen und kleinen Welt, Frankfurt, 1571)などの多くの著作があります。1540年には、ザルツブルクの大司教が彼に生活の場を与え、彼は残りの人生をそこで平穏に過ごしました。1541年9月21日に、彼は遺言状を作成し、その3日後に亡くなりました。パラケルススは、宗教の熱狂と変革という危険な時代に医学に進歩をもたらしました。さらに彼は、彼の足跡をたどる何世代もの治療家や医師たちに、崇高な精神的財産を残したという点でも、並外れて優れた人物でした。神秘家の医師であり、魂の哲学者でもあったパラケルススは、傑出した模範であり続け、その後の何世紀もの間、彼を目標にして多くの人が努力しました。

 ※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

このページのTOPへ