資料室

神秘学の啓示

Mystical Illumination

ラルフ・M・ルイス、バラ十字会AMORC元代表

by Ralph M Lewis, Imperator of AMORC

 神秘学、あるいは神秘主義(mysticism)と呼ばれる哲学の目的は何でしょうか。神秘学自体、あるいはそれに含まれるさまざまな哲学的な要素が目的ではないことを私たちは理解しておかなくてはなりません。神秘学の概念や教えられる情報は、ある特定の目的を達成するための道具に過ぎません。神秘学の歴史の初期の頃には、いわゆるスピリチュアルな(心の深奥に関わる)価値が特に強調されていました。言い換えれば、自己を完全に理解することと、そして自己と創造主との関係を自覚することが強調されていました。

 神秘哲学者たちは長い間、私たち人間が意識を部分的にしか使用してないことを嘆いてきました。人間は主に五感によって得られる経験を頼りに行動しており、最大の関心事は感覚的な満足や世俗的成功や、物質的財産にあるように思われます。比喩的に言えば、私たちの人生の状態はコインの片面である世俗面に偏っています。さて、この見解が基本的には正しいと認めたとしても、この記事で最初に示した問題はまだ解決されていません。つまり、神秘学の目的、そしてワンネス(Oneness:ひとつであること)や宇宙意識という神秘体験の目的は何でしょうか

 神秘家が伝統的に示してきた答えは啓示(Illumination:悟り)です。啓示とは、世界の真の姿を見破ることや、新たなグノーシス(gnosis:神秘的直観)が流入することや、崇高な知識を受け取ることを意味します。そして知識は力であると言われています。しかし、知識や観念は活用したときにだけ力を持ちます。使われない知識に力はなく、何もなし遂げることはできません。思考の力は、行動つまり何かを行うときにだけ発揮されます

 人生には身体的な側面、物質的な側面がありますが、それは根本的な悪でも堕落でもありません。それらを悪だと見なすことは、時代遅れの宗教的な見解に基づいています。人間の本能や欲望は、私たちが生きていくために必要なものです。成長や生命の維持や生殖といった面で、生物学的に不可欠な行動を取っているに過ぎません。

 しかし、人間の性質の他の側面、抽象的な側面はどうなのでしょうか。神秘学が私たちに達成することを勧めている啓示はどうでしょうか。このことを、人間の本質には明確な分断された2つの面があると考えるべきなのでしょうか。私たちは感覚的で世俗的な生き方に専念するべきなのでしょうか。それとも神秘的な体験を、人生の荒波から身を隠す避難港として用いるべきなのでしょうか。

インスピレーションと創造

Inspiration and Creation

 神秘学が教えている基本的な指針の一つは自己の統合、つまり自分が得ることができる多様な経験をすべて統合することです。潜在意識あるいはサイキックと呼ばれる超常的で内的な自己は、受け取った貴重な情報を、客観的な日常の世界にどうにかして反映させなければなりません。内的な自己は、表面的な自己にエネルギーを与えなければなりません。内的な自己は、インスピレーションとあこがれを目覚めさせて、内的な体験を反映するものを世界に創造しなければなりません。言い換えれば、神秘学に何らかの価値があるとすれば、世界は私たちの内的な体験の一部にならなければなりません。

 善であると認められてきた精神的な理想や哲学の指針のすべては、人生において何らかの気高いことをなし遂げようと私たち人間を駆り立てる原動力として、あらゆる時代に働いてきました。そのような原動力を基に行動したときにだけ、私たちは統合された存在になり、自己の分裂に苦しまなくなります。このように、神秘学は世界にエネルギーを与える建設的な力になることができますし、そうなる必要があります。他方、誤った神秘学あるいは神秘主義は、今いるこの場所から心地良く逃げ出すことができる夢の世界に過ぎません。

 内面の進歩のどの段階にあるとしても、私たち人間は、事務的かつ冷静に日々の問題に向き合います。おそらく、現代においても過去の時代においても、私たち人間の最も重要な課題は平和をなし遂げることです。平和は、消極的で無活動なものではありません。それどころか、平和は対立から生じなければなりません。しかし、その対立とは基本的には自己との戦いであり、他人との戦いではありません。これが、多くの人に知られるようになったイスラム教の言葉、「ジハード」の本当の意味です。平和は個人から始まります。数人の集まりや大集団から始まるのではありません

平和は個人から始まります。数人の集まりや大集団から始まるのではありません。

 私たち人間は挑戦的な存在であり、力や願望や衝動が動機となって動かされています。これらすべての動機は、私たちにとって必要不可欠です。生命自体は、他の生命に配慮することなく自体の目的に向かって邁進します。私たちはこのことを理解しなくてはなりません。生命の目的は、生物として単に「存在すること」であり、他には何もありません。私たち人間は、そのような生命の衝動の産物です。物質的な観点、死すべき定めの生命という観点から、私たちが自身を見つめるならば、私たち人間は冷酷です。実際のところ、自然界の他の生きものは冷酷ではありません。冷酷であるとか冷酷ではないとかいうような、人間が獲得した倫理的な観念にまだ到達していないからです。

 基本的に私たちには、物質からなる身体的な自己を満足させるために、あらゆるものを犠牲にするという本能的な傾向があります。しかし、身体的な自己の行動を通してこそ、内的な自己や理性的な自己が表現されます

 知性と倫理という高度な観点から見ると、人生は単に生きることでもなければ、単に存在することでもありません。人生とはある目的のために生きることです。その目的があるからこそ、人間は下等動物と区別されるのです。しかし、その目的とは何であるべきでしょうか。それは、全人類の集団としての幸福です。このような表現はよく耳にしますが、月並みな決まり文句だと考えてはなりません。人類全体が幸福であることが、人類が進歩していることを示す唯一の確かな証拠なのです。個人的な目標だけを達成しようとする個人の動機は、初歩的で原始的なものです。私たち人間は、生物としてはただ生命の衝動だけによって動かされおり、自由に用いることのできる高度な直観力や理性によって動かされているのではありません。

 ですから、人類全体の幸福というより高い目的を達成するには、自己を修練することが必要です。実際のところ、自己の修練という行いには、野心を捨てるとか攻撃性を弱めることが必要ではありません。そうではなくて、何が自己の利益かを判断するときの自己の範囲を広げることが必要なのです。このことが実現されれば、私たちの行動は、狭い範囲の自己に直接関係するものに必ずしも限られず、人類の集団的な進歩という理想に貢献するようになります。この意味では、私たちのひとりひとりは、他の人の競争相手なのではなく、ほんの少しである場合がほとんどですが、他のすべての人に「利益をもたらす者」(benefactor)です。

原動力としての神秘学

Dynamic Mysticism

 私たちの進歩は、自分の感情を理解し自己を理解したときにだけ達成することができます。まず、人類のレベルを向上させるための共通の理想を確立しなければなりません。次に、それらの理想に役立ついくつかの衝動を刺激する方法を学ばなければなりません。同時に、それ以外の衝動を抑制する方法も学ばなければなりません。

 つまり、心理学、精神の状態、倫理と行動における合理的な規範の、実用的な要点を研究する必要があります。ですから、平和を実現するためには、現在の世界に見られるような生物そのものの原始的な動機から出発して、自身を進歩させる複合的な取り組みが必要とされます。平和は主として、個人がなし遂げるものであるということを心得ていてください。国連やあらゆる種類のグループとして集合して、人類は何をなすべきかを考えることは良いことです。しかし、個人の外側から平和を整えることなどできません。平和は一人一人が、自分自身の中に育てていかなければなりません

 啓示の光のきらめきとともにある人たちは、変化に抵抗する傾向が別の大きな問題であることを理解しています。ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、万物は変化の途上にあり、同じ状態で存続するものはないと何世紀も前に述べています。万物は流動する状態にあり、別の何かになろうとしています。万物がもし変化をしなくなれば、世界も、宇宙全体も静止することでしょう。変化の途上にあるにも関わらず、私たちは習慣の生き物です。そして習慣は経験と伝統から生じます。経験は時間と状況の産物です。ある時間やできごとが楽しいものであったり役に立つものであったりしても、明日もそうなるとは限りません。

伝統と進歩

Traditions and Progress

 一方で、伝統とは過去の経験と習慣のことです。伝統は、その伝統が存在することになった目的を果たし続ける場合もあれば、そうならない場合もあります。伝統は、行動と思考のありきたりな習慣になることがよくあります。そのような伝統は、面倒を引き起こすことのない無害なものであっても、変化を困難にし起こりうる進歩を妨げてしまいます。

 伝統と言えば崇高な雰囲気がありますが、実は価値がないこともよくあります。伝統に価値があるとすれば、より良いものへの足掛かりになる場合だけです。どんな伝統であっても、存在価値を問われないほど尊いものではありません。

 現代社会は、伝統という枠にはめられています。伝統にしがみつくことで、社会は数世紀にわたって悩ましい多くのはれものに苦しんできました。戦争、犯罪、貧困、偏見、不寛容などです。倫理的なシステムや宗教の戒律は、これらの害悪を止めることができませんでした。

 私たちは今、知性主義あるいは主知主義(intellectualism)という新しい段階にいます。この段階では、盲目的な信仰と根拠のない伝統に疑問が投げかけられます。劇的な転換がもたらされる懐疑主義の時代とも言えます。多くの信仰、政治的なイデオロギー、道徳および社会秩序という古い基盤が、期待を満たさないものであることが今では判明しています。そこから生じた反応のひとつは、尊敬というものが全く見られなくなったことです。それは、現在私たちが目にする社会規範の拒絶という態度に現れています。これらすべてによって、秩序ある伝統的な社会の代わりに、空虚がもたらされています。古いものは捨てられたか捨てられようとしていますが、その代わりとなるものはまだ何もありません。

 正しい懐疑主義であるならば、もちろん健全です。それは、盲目的な信仰や裏付けのない信念を知恵に置き換えます。若い世代の多くの人が、外の世界には誤りが満ちていることを知り、新しい種類の感情的な体験を求めています。彼らは、自分だけが頼りであるように感じ、周囲から遊離し、自らの内に答えを探します。彼らは、新しいけれども永続するような、自らの指針となる経験を求めており、古い教条主義を忌み嫌っています。残念なことに、このように新しい経験を求めたり、代わりとなる答えを求めたりしていることが、現代の薬物依存の理由のひとつになってしまっています。

訳注:教条主義(dogmatisms):教えや理論を発展するものであると考えずに絶対的なものと見なし、現状や社会の変化を考慮せずに機械的に適用する態度。原理主義。

真の啓示

True Illumination

 通常とは異なる意識の状態というだけでは、真の啓示とは言えないことを私たちは理解する必要があります。啓示は、疲労や不安や憂鬱を、ある種の一時的な恍惚に単に置き換えるものではありません。真の神秘的な啓示は、私たちの世界についての意識を若返らせるものです。それは、自信を呼び起こすような思考を得るために、意識の奥深くに手を伸ばし、そこに達することです。神秘的な啓示は、隠者や世捨て人になることではなく、新しい人生と向き合うことを強います。

 今日でさえも、バラモンの僧侶が猛烈な暑さや、顔と頭髪の上を這い回るハエや虫を気に留めずに、インドのガンジス川のほとりに座っているのを見ることができます。これらの僧侶たちの啓示がどのようなものであるとしても、彼らはその啓示によって世界に適応するのではなく、そこから逃避して自身の内なる世界だけを見いだそうとしています。

 神秘学という哲学は、世界に起きている問題に重要な役割を果たします。神秘学は、雲の上に私たちを引き上げるようなものでないことを理解する必要があります。私の父、H・スペンサー・ルイス博士は、よく次のように言ったものです。「神秘学は、おまえを雲の上に引き上げてくれるが、足を地面に付けておかないと、落ちてひどい衝撃を受けることになるぞ」。最も直接的に重要なことは、内的な体験が真に意義ある理由を解明することです。神秘学という哲学は、現在の日常の世界と内的な体験がどのように関係しているかを教えてくれます。あらゆる意図的な思考や行動には、その背後に構想があります。同様に、人間の真の進歩のすべてには、心の深奥の動機があるに違いなく、この動機を私たちは神秘体験と呼びます。

 人間の最も偉大な所有物が意識であることを、私たちはどの程度頻繁に実感しているでしょうか。意識は人生の鏡でしょうか。古代の哲学者の一人は、次のように述べました。「意識があるところに我々は存在する。意識がないところに我々は存在しない」。しかし、現実と宇宙という偉大な像を映し出すために、私たちは意識を磨き上げておかなくてはなりません

 ※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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