以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

クリスチャン・レビッセ著
by Christian Rebisse

三十年戦争が勃発したため、バラ十字会員たちはドイツ国内の公の場から姿を消した。彼らは当時かなり拡がっていた錬金術の活動に避難したのであった。一方、イングランドにおいてバラ十字会員たちはフリーメーソン団の始まりに巻き込まれていた。彼らは18世紀の中頃に再びその姿をはっきりと現すのだが、フリーメーソンとキリスト教の起源よりも古いエジプト文明に起源があったのだと主張し、誇っていた。
バラ十字会員とフリーメーソン (Rosicrucians and Freemasons)
フリーメーソン団は、バラ十字運動によって整えられた18世紀イギリスの豊かな環境の中で生まれた。ヨハン・ゴットリーブ・ブール(Johann Gottlieb Buhle, 1804年)やトマス・ド・クインシー(Thomas de Quincey, 1824年)といった著述家たちは、フリーメーソン団はバラ十字会員から出たのだと記述していた。早い時機1638年にすでに、これら二つの運動の関連性はイングランドのエディンバラ市(スコットランドの首都)で出版されたアダムソン(Adamson)の詩集にある詩『女神たち』(The Muses)の中で述べられていた。そこにはこう書いてあった。「私たちはバラ十字の兄弟であるから/私たちはメーソンの言葉と二重の視点を持つ」。その後1676年10月10日に出版された『貧しきロビンの知恵』(Poor Robin’s Intelligence)には、注目すべき声明~「古代バラ十字友愛組織とヘルメス思想の達人たちと、メーソンの一員と認められた者たちは食事を共にすることにした。」がある。このつながりは再び1730年9月5日付けのデイリー・ジャーナル紙(Daily Journal)の記事において強調された。それは次のように書いてあった「ある未知の団体が存在していて、イギリス・フリーメーソンはいくつかのその儀式を模倣し、この団体に起源が由来しており、それと同一のものであると世間に主張している。それらはバラ十字会と呼ばれている。」
ブラザー・I.O. (Brother I.O.)
フリーメーソンの入門儀式に言及している二つの古い史料がバラ十字思想と直接あるいは間接的に関連があった人物たちに関するものであったということは目立っている。その第一の史料は、1641年5月20日からのものでエディンバラ市の「メアリ礼拝堂ロッジ」でメーソンの入門儀式を受けたロバート・モーレイ卿(Sir Robert Moray)に関してのものであった。興味深いことにモーレイ卿は英国王立学士院(The Royal Society)の創設メンバーの一人であり、錬金術の擁護者であり、トマス・ヴァーン(1622-1666)の後援者でもあった。ヴァーンはユージェニウス・フィラレテス(Eugenius Philalethes)のペンネームを使いファーマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスの英訳本『「声明」と「信条告白」』(The Fama and Comfessio, 1652)を著した。
その第二の史料は、著名な古事研究家のエリアス・アシュモール(Elias Ashmole, 1617-1692)で1646年10月16日にウォリントン市(イングランド北西部)のメーソン・ロッジに入門が許された人物についてのものである。アシュモールは6年後に、重要な錬金術の論文を含むTheatrum Chemicum Britannicum(1651)を出版した。アシュモールはこの本の冒頭でファーマ・フラテルニタティスについて言及している。彼は最初のバラ十字宣言書は、クリスチャン・ローゼンクロイツの最初の四人の仲間の一人である「ブラザー・I.O.」がイングランドにやってきたことを思い出して述べていた。他の幾つかの事実もアシュモールがバラ十字運動に格別の興味を抱いていたことを示している。例えば、ボドリーアン図書館(Bodleian Library, オックスフォード大学図書館)に所蔵されているアシュモールの諸文書の中からは、彼自身の手によるバラ十字宣言書の翻訳原稿が発見され、バラ十字友愛組織へ彼の入会を申し込む手紙もあった。一世紀以上経ってから、ニコラ・ド・ボンヌヴィル(Nicolas de Bonneville, 1760-1828)は、フリーメーソンはそのすべての寓喩、象徴、言葉をバラ十字会から借用していたとまで述べた(La Maconnerie Ecossaise comparee avec les trois professions et Le Secret des Templiers du XIVe siecle, 1788)。フリーメーソンがバラ十字会を源としていると明言することは正しくないのだが、フリーメーソンの初期会員たちは18世紀のイギリスバラ十字会員であったことをここに記しておかねばなるまい。
アンダーソン憲法 (Anderson’s Constitution)
フリーメーソンの活動は18世紀に始まった。一般的には、この組織の開始の活動はロンドンにグランド・ロッジ(本部)が設立された1717年だと考えられている。しかしフリーメーソン設立が決定的となった瞬間は、当時のグランド・マスターであったウォートン公(Duke of Wharton)によって出版された『アンダーソン憲法』(Anderson’s Constitution, 1723)が出たときである。この文献は修正され再編集されて発表された『メーソンの古文書』として提示され、ジェームズ・アンダーソン(James Anderson)とジョン・デサグリエ(John Theophilus Desaguliers)とジョージ・ペイン(George Payne)らによるものであった。古代の石工たちの協同組合や組合組織の中で使用されたこれらの古文書資料は、古代の石工たちの「昔ながらの義務」で、最も古いものでは14世紀のものがあった。リージェス手稿(Regius MS, c. 1390)やクック手稿(Cooke MS, c. 1410)が主な例である。しかし古代の運営用の石工組合から継承されてきた組織というよりフリーメーソンはむしろ、思索者たちの組織である。そしてここでは「思索的」なフリーメーソンについて言及されている。それはその起源をアダムにまで遡り、大昔の「大洪水」でかろうじて残された二つの柱に刻まれていた古代文明の知識であるLiberal Arts(古代の人文学)を擁していると主張している。
フリーメーソンの伝説的な歴史はさておき、『アンダーソン憲法』はフリーメーソンの会規を提示し、加えてロッジの会合で歌われたいくつかの歌もあった。『憲法』の企画は全体的に、精神的というよりはむしろ社会的なものだったと言えよう。宗教改革と反宗教改革によって生じた分裂不和で際立っていたこの時代に、フリーメーソンはその会員たちに、『万人において各自が同意するような宗教を選び、それぞれの特定の「見解」は自身で保持し続けよ。つまりいかなる宗派や信条に関わらず真に誠実な善人となるのである……。』と熱心に説くことで満足していた。
ハイラムとローゼンクロイツ (Hiram and Rosenkreuz)
18世紀初めのころのフリーメーソンは、我々が今日知っているような組織ではなかった。三つの階級~徒弟(Apprentice)、熟練者(Fellow Craft)、師匠(Master)[英語圏ではブルー・メーソン(Blue Masonry)あるいは熟練級(Craft Degrees)]~からなる基本的な構造が採用されたのは数年後のことであった。しかも当初は徒弟と同僚の二階級しかなかった。師匠と呼ばれる三番目の階級が現れたのは1730年頃のことであった。この階級に関する公式記録は『アンダーソン憲法』(1738)の第二版になってのみ見られるのであり、ハイラム伝説からなる象徴は1760年にやっとイングランドで真に採用された。ある側面では、師匠の墓の発見に関するような象徴等はハイラム(Hiram)クリスチャン・ローゼンクロイツの特徴であると推測していた。アントワーヌ・ファイヴル(Antoine Faivre)が主張するようにハイラムはクリスチャン・ローゼンクロイツの息子として我々は考えを認めるべきだろうか?『また神話的な創設者であり、その第一のものは、その場合には、クリスチャンが『伝承』の偉大な神官の人々の中に抽象的に凝縮されたのであった。』
フリーメーソンは最初、真正の入門儀式組織として出現したのではなかった。実際、諸儀式は「受け入れ儀式(rites of reception)」と呼ばれていた。「入門儀式(initiation)」という言葉は1728年から1730年の間の出版物になってのみ見られ、フランスでは1826年になるまで公式なものにはならなかった。これらのフリーメーソンに特有の儀式は会合に神秘的な側面を授与していたのであったが、ロッジは本質的には博愛が実践され良質な芸術が育まれる場所であった。フリーメーソンは徐々に入門儀式的で秘伝的に発達していったのだった。

エジプトの秘儀 (The Egyptian Mysteries)
ルネッサンス期とは対照的に、17世紀にはパラケルススの門人ゲルハルト・ドルン(Gerhard Dorn)のような数少ない例外を除いてエジプト文明を参照する者はほとんど姿を消してしまっていた。彼の時代の秘伝主義には酷く批判的であり、〈原始時代の啓示〉(the Primordial Revelation)が古くはアダムに伝えられてエジプト人によって完成されたのだが、我々に伝えられてきた途中、つまりギリシアで歪められてしまったと彼は感じていた。もう一人の例外は、考古学、言語学、錬金術、磁気学に精通していたイエズス会の学者アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher, 1610-1680)であった。数十年以上にわたって、彼はエジプト象形文字の秘密を解明しようと懸命に努力し続けた。彼は著書Oedipus Aegyptiacus, 1652の中で、神秘的なエジプト象形文字には、わずかに残っていた「大洪水」以前の人類の知識が隠されていると主張した。このようにしてキルヒャーは、エジプト文明はすべての知識・文明の揺りかごであったと感じていた。19世紀初頭にシャンポリオンがエジプト象形文字の意味を発見するまでは、エジプト文明の基本的参考書といえばキルヒャーのものであった。
人々がエジプト秘伝主義への興味を再びかき立てられている証となったのは、『セトスの生涯~古代エジプト人の日記から』(Sethos, histoire ou vie tiree des monuments, anecdotes de l’ancienne Egypte)と題する著作で、1731年にテラソン神父(Abbe Jean Terrasson, 1670-1751)によって書かれた。この小説で作者テラソン神父は、古代エジプト人の古代宗教、社会の仕組み、ヘルメス・トリスメギストスによって知られていた変性の術を含む科学的知識を豊かに思い描いた。読者は、一人のエジプトのある王子がメンフィスにある秘密の神殿で入門儀式を受ける様を目撃した。ブーシェ・デ・ラ・リチャーデレ(Boucher de la Richardiere)が述べるところによれば、「いかにも本当らしい程度にイシスの神秘が明らかにされていたので、入門者の一人あるいはエジプト神官の一人がそれらを明かしてくれたのであろうと思えるのだ。」この本は、ジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau)のバレエ・オペラ『オシリスの誕生』(Birth of Osiris, 1751)によって明白なように、エジプト文明を再び流行させることとなった。そして数年後、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトはフリーメーソンの入門儀式とエジプトの伝統を融合させたオペラ『魔笛』(1789)を作曲したのだった。

ノアの時代の宗教 (The Noachite Religion)
テラソンの本は数多くのフリーメーソン会員たちの想像をかきたて、ほんの2、3年の間に新たな諸段位が設定され、フリーメーソンの階級型構造はかなり充実することとなった。1736年の12月26日に、フェネロン(Fenelon)およびギュイヨン夫人(Mme Gyuon)の弟子であったスコットランドの騎士アンドリュー・マイケル・ラムゼイ(Andrew Michael Ramsay, 1686-1743)は、パリ市のルイ・ダルジャン・ロッジ(Louis d’Argent Lodge)で「高段位」(または副段位)~いわゆる師/マスター以上の級段位~と呼ばれる階級の登場をもたらした新時代の幕開けとなった演説を行った。その演説の中でラムゼイは、フリーメーソンは原初的で普遍的で教義にとらわれない宗教である「ノアの時代の宗教」の復活であると説明した。そして更に、この『聖なる組織』は、十字軍によってヨーロッパに持ち帰られたがイギリス諸島とりわけスコットランド地方以外では結局忘れ去られてしまったのだと付け加えた。もう直ぐフリーメーソンはイギリスからヨーロッパの他の国々へと拡がっていく。間もなくテンプラー騎士団や騎士道、旧約聖書に関する諸伝説でラムゼイが語ったものは、メーソンの高段位を発案した会員たちの好奇心をかき立てる。錬金術、占星術、カバラ、魔術などの秘伝の知識やエジプト学もまた、これらの変性に含まれていた。1740年から1773年の間に、いくつもの高段位があることから無秩序状態に陥り、その中からひとつの高段位としてRose-Croix(バラ十字)が再び出現した。そして後者はすぐに、少なからぬ名声地位を得ることとなった。それはフリーメーソンのネク・プラス・ウルトラ(nec plus ultra)と同等の最終段位であると見なされた。
しかしながら、高段位の中のいくつかのものは独立した組織へと構成されていった。とりわけフランスでは1754年頃にマルチネス・ド・パスカーリ(Martinez de Pasquales, 1710?-1774)の「世界中の奉仕者たちの中から選ばれたメーソン騎士団」(Order des Chevaliers Macon Elus-Cohens de l’Universe)が起こり、またドイツでも同じ頃にヨハン・ゴットリーブ・フォン・フント男爵(Baron Johann Gottlieb von Hund, 1722-1776)の「謹厳遵守典礼会(Rite of Strict Observance)」が起こった。バラ十字運動が自律した組織として構成され、活動の自由を回復させたのは、まさにこのときであった。

黄金のバラ十字 (The Golden and Rosy Cross)
最初のバラ十字会(Rose-Croix)が現れたのは、1700年から1750年の間のヘルメス学の相当な発展と錬金術の後押しの下(もと)でのことであった。ザクセン(Saxony、ドイツ東部)、シレジア(Silesia、ヨーロッパ中東部)、プロイセン王国(Prussia、ドイツ北部)、オーストリア(Austria、ヨーロッパ中部)、バイエルン王国(Bavaria、ドイツ南東部)では、錬金術師たちの集団が数多く形成されていった。ウィーン市内(Vienna,オーストリアの首都)には数千人の錬金術師たちが暮らしているとさえ言われていた。その錬金術師たちのほとんどが、バラ十字思想から霊感を得ていると主張していた。そういった集団の中のひとつに、ニュルンベルク錬金術協会(Alchemical Society of Nuremberg)があった。ある著述家によれば、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm von Leibniz, 1646-1716)はこの協会の事務局長であったという。
1710年、「アンダーソン憲法」が出版される7年前に、敬虔主義傾向の、そして伝えられるところによればパラケルススとヤコブ・ベーメの信奉者であったというルター派教会牧師シンセールス・レナートゥス(Sincerus Renatus、本名Saumel Richter)が「友愛組織黄金バラ十字会の、〈哲学者の石〉のための真の完璧な準備(Die wahrhafte und volkommene Bereitung des philosophischen steins der Bruderschafft aus dem Orden des Gulden und Rosen Kreutzes)」を出版した。この錬金術論文は実験室での諸実践から成り、「黄金のバラ十字会」を統括するための52条の会則が付録としてつけられている。この会憲には、会員は63名を超えてはならないこと、会は選出された終身制の統領によって指導されることなどが記されている。レナートゥスは序文で、この論文は彼自身が書いたものではなく、氏名を明かすことのできないある「術の教授」から提供された手稿から写し取ったものであると述べている。彼はまた、この会にはニュルンベルク市(ドイツ南部)とアンコーナ市(イタリア中部)に二つの中枢部があったが、数年後に会員たちはもっと平穏な環境を求めてヨーロッパを離れ、インドへ旅立っていったと述べている。
レナートゥスによるこの著書は、ユリウス・スペーベー(Julius Sperber)の「〈創造主〉が啓発し賜うた尊いバラ十字組織のこだま(Echo der von Gott hocherleuchteten Fraternitet, 1615)」と、ミヒャエル・マイヤー(Mychael Maier)の「Themis Aurea(1618)」に霊感を受けたものであった。また、この著書は1577年に設立された錬金術組織「離れがたい者たちの会(Order of the Inseparables)」の会則のいくつかを借用していた。実際、レナートゥスが述べていた組織が全く存在していなかったとは言えないようである。ちなみに、彼が取り上げた「黄金バラ十字会」の名称は、ペトルス・モルミウス(Petrus Mormius)が1630年に出版した「Arcana Totius Naturae Secretissima(自然の秘密の全て)」の中で既に使用していたことをここに記しておこう。1622年に三人の会員から成る「黄金のバラ十字会」と呼ばれる秘密団体をドーフィネ市(Dauphine;フランス南東部)在住のフレデリック・ローズが設立したという伝説の作者はモルミウスであった。「黄金のバラ十字会」という語句は世間に比較的よく知られるようになり、その会規のいくつかは、もっと後のメーソンバラ十字会の「バラ十字騎士団(Prince Knights of the Rose-Croix)」の段位の中に見出すことができる。

金羊毛騎士団 (The Golden Fleece)
この「黄金の バラ十字会」が日の目を見た何年か後の1749年に、ヘルマン・フィクトルド(Hermann Fictuld)は「Aureum Vellus」を出版し、その中で黄金のバラ十字団について触れ、それはブルゴーニュのフィリップ善良公によって1429年に設立された金羊毛騎士団の継承者であると説明した。1757年頃、フィクトルドはSocietas Roseae et Aureae Crucis(黄金バラ十字の友愛組織)というメーソン儀式の分派を設立し、そこでは錬金術と敬虔主義思想を学ぶことができ、教義は一連のバラ十字段位から成っていた。この友愛組織はドイツ西部のフランクフルト市、マールブルク市、カッセル市、ウィーン市、プラハ市などの数多くの都市で活動が盛んになった。この隆盛も1764年頃には衰退しはじめてきたようだが、実際のところローエンフェルト博士(Dr. Bernhard Joseph Schleiss von Löwenfeld)とヨーゼフ・W・シュローダー(Joseph Wilhelm Schröder)の努力により組織改革がなされた。そしてついに1770年から1777年の間に、バイエルン州(ドイツ南東部)、オーストリア、ボヘミア(チェコ西部)、ハンガリー、レーゲンスブルク市(ドイツ南東部)に別のバラ十字メーソン分派が起こった。最初にバラ十字思想を採用したのはレーゲンスブルク市のメーソンロッジである「三鍵の三日月」(Cescent of Three keys)であった。同じく1771年にはウィーンのホープ(希望)・ロッジが採用し、後にそこから三剣ロッジ(Three Swords Lodge)が起こった。後者は、錬金術と神秘秘術を発展させていったバラ十字メーソン分派の苗床となった。
「古代組織黄金バラ十字団」 (The Golden Rosy Cross of the Ancient System)
1776年に三剣ロッジのメンバー数人が、「古代組織黄金バラ十字団(The Golden Rosy Cross of the Ancient System)」と呼ばれる新しいバラ十字メーソン組織を設立した。この労を肩に担ったのは、プロイセンの将校でフリードリヒ大王の没後軍務大臣になったヨハン・ルドルフ・フォン・ビショッフスヴェルダー(Johann Rudolf von Bischoffswerder, 1741-1803)と、プロイセン王の経済顧問だったヨハン・クリストフ・ヴォルナー(Johann Christoph Wöllner, 1732-1803)であった。ベルリン市の「三世界全国グランド・ロッジ」(The Grand National Mother Lodge of the Three Globes)がこの組織の活動拠点となった。すなわち、〈徒弟〉(Juniores)、〈理論家〉(Theoretici)、〈実践家〉(Practici)、〈哲学者〉(Pilosophi)、〈小達人〉(Minores)、〈大達人〉(Magoures)、〈免除達人〉(Adepti Exempti)、〈大師〉(Magistri)、〈秘伝博士〉(Magi)の9段からなる位階制が採用された。この象徴的な位階は、1777年にプラハ市で開催された代表者大会の会期中に改正された文書の中から取り入れられた。
フォルスティエール(René Le Forestier)が指摘するところによると、〈徒弟〉の教義は110ページから成るゲオルグ・フォン・ウェリング(Georg von Welling)の「Opus Mago-Cabbalisticum et Theosophicum(1719)」が再版されたものであり、ゲーテはこの書によってバラ十字思想に入門したとされる。さらに〈理論家〉の教義と儀式は、クリストフ・グレイザー(Christoph Glaser)の「Novum laboratorium medico-chymicum(1677)」からの借用であった。〈大師〉の教義の中で述べられている錬金術の諸作業はどうかといえば、ハインリッヒ・クンラートの「Confessio de Chao Physico-Chemicorum Catholico(1596)」と「永遠の叡智の円形劇場(Amphitheatrum Sapientiae Aeternae, 1609)」の二冊からとられていた。つまり、この組織の諸儀式と教義は明らかに錬金術を志向していた。
錬金術とバラ十字思想とメーソン思想が混ざったこの運動は、「16世紀および17世紀のバラ十字会の秘密の象徴」(Altona, 1785, 1788)と題する名高い本を生み出した。見事な挿絵入りの錬金術諸論文から主として成るこの本は、三つの〈宣言書〉以後の最も重要なバラ十字書であるとしばしば言及されている。
エッセネ派とテンプル騎士団 (The Essenes and Templars)
メーソン組織である古代組織黄金バラ十字団(我々はここで「メーソン」という言葉を、18世紀バラ十字会とは全く無関係ながら同様の名称を使用している昨今の団体とは全く区別して使用していることを明記しておく)は、17世紀のバラ十字運動とは異なる特徴を有しており、その起源は聖マルコに洗礼を受けたエジプトの聖職者オルムスあるいはオルミサス(Orums,or Ormissus)にまで遡ると主張していた。そしてオルムスはエジプト神秘学派とキリスト教を融合させ、オルムス派(Ormusiens)を設立し、赤色で装飾された黄金の十字を象徴として用いていた。西暦151年に、エッセネ派がこの学派と結合し、この学派は「モーゼとソロモンとヘルメスの秘儀の守護者」(Guardians of the Secret of Moses, Solomon, and Hermes)という名を掲げた。
4世紀まで、この組織は会員が7名を越えることはなかった。12世紀になって、1187年にエルサレムがイスラム教徒に奪還された時に数名のテンプル騎士団員たちが入門し、団員たちは世界中に存在するようになった。その中の三人が東方に落ち着いて設立したのが、「東方の建設家の会」(Order of the Builders of the Orient)であった。レイモンド・ルーリー(Raymond Lully)はこの組織に入会し、すぐその後イギリスのエドワード1世を入会させた。その結果、この組織の高段位者はヨーク家とランカスター家ばかりになってしまった。両家の紋章に薔薇が使われたのは、黄金の十字に薔薇があしらわれた象徴をこの組織が使用していたためであった。
「アジア秘儀入門騎士兄弟会」 (Initiated Knights and Brothers of Asia)
このようにして、メーソン黄金バラ十字団が存在するようになったのであった。それは伝説的な秘密組織であったにも関わらず18世紀にドイツに起こり、当時ドイツで最も重要なメーソン団となった「謹厳遵守テンプル騎士団(Templar Strict Observance)」の覚醒を促すこととなった。ここで我々は、この時代になるまでバラ十字運動は未だ発見されずじまいの諸分派や小さな集団を発生させたのみであったのに対して、メーソン古代組織黄金バラ十字団はその活動を立証する膨大な文書を残していることを強調しておかねばなるまい。更にこの組織は中央ヨーロッパに広く拡大し、プロイセンのフレデリック・ウィリアム王子(Prince Frederick-William)やロシアの大衆作家で博愛主義者であったニコライ・ノヴィコフ(Nicolai Novikov)などの数多くの著名な会員がいた。この組織は1787年に設立者によって解散させられたが、その後カール・ヘッセン=カッセル方伯(Charles of Hesse-Cassel)がグランドマスターであった「アジア秘儀入門騎士兄弟会」(Initiated Knights and Brothers of Asia, 1779)を生じさせる基となった。疑う余地なく、謎の人物サン・ジェルマン伯爵(Comte de Saint-Germain)はこの運動の一員であった。事実、サン・ジェルマン伯爵は1778年からカール方伯のもとに移り住み、カール方伯は伯爵の弟子となり後援者となったのであった。
バラ十字段位 (The Rose-Croix Degree)
フリーメーソンの教義の中に実際にバラ十字の高段位が現われたのは、古代組織黄金バラ十字団が出現したのと同時であった。その最初の存在が確認できるのは、「叡智の子らの会」(Children of Wisdom)と「調和ロッジ」(Concord Lodge)の活動の中での1757年にみられる「バラ十字騎士」の称号である。我々がすでに見てきたように、バラ十字の段位はすぐにメーソンの最高段位ネク・プラス・ウルトラ(nec plus ultra)と見なされた。この段位は1786年の〈メーソン・フランス分派〉と、〈第18古代組織〉(the Eighteenth of the Ancient)と〈公認スコットランド分派〉の第七段であり最終段位であった。しかしながらこのことは、多大な論議を呼びかねない特異な状況を示すものである。というのも、ここまではメーソンの段位はひたすら叡智の普遍性を強調してきているのに対して、この段位でははっきりとキリスト教が特徴付けられているのである。このため19世紀には、何人かのフリーメーソン員たちがメーソンの象徴を哲学的に解説する試みによって非キリスト教化を図ろうとした。このことに関して、シャルル・テオドール・ツォーディ男爵(Baron Charles Theodor Tschoudy)はその著書「燃えさかる星」(L’Etoile Flamboyante,1766)の中で、「カトリック教理が段位の中に入れられている」と理解した。確かに、17世紀のバラ十字運動に見出されるものを指していないというのは真実である。クリスチャン・ローゼンクロイツについて論ずるよりむしろそこでは、〈ゴルゴタの丘での磔〉とその後の〈キリストの復活〉が描写され、パンとワインが振舞われる、〈最後の晩餐〉に酷似している愛餐(初期キリスト教徒が同胞愛のしるしとした会食)の儀式から、段位が構成されている。この段位に入る時、入段者は〈エルサレムの殿堂〉の破壊に伴う驚異を追体験するのである。彼らは〈失われた言葉〉を探求しており、その旅によって三つの徳である信頼、希望、寛容を見出す。そしてついに、I.N.R.Iに秘められた意味が明らかにされる。
バラ十字段位の最も古いものは、1760年付けのストラスブール市のものと1761年付けのリヨン市のものであるが、そのほんの数年後にはフランクフルト市に「黄金バラ十字会」(Socieats Roseae et Aureae Crucis)が出現する。メス市(フランス北東部)のメーソン支部とリヨン市のメーソン支部の間で取り交わされた1761年7月付けの書状では、リヨン市の支部がメス市の兄弟たちには知られていない段位を実施したことがわかるが、しかしこれらの〈鷲の騎士〉、〈ペリカン〉、〈聖アンデレの騎士〉あるいは〈ヘレドムのメーソン〉は、メーソンバラ十字段位の単なる別の呼称である。この段位の別のバージョンに伴う講演では、古国シバ、インドのバラモン、ゾロアスター教のマギ、ハイエロファント、ドルイド僧に言及することで組織の起源を描写し、これらがバラ十字会の祖先であると説明している。バラ十字会はエジプト文明、ゾロアスター教、ヘルメス・トリスメジストス、モーゼ、ソロモン、ピタゴラス、プラトン、そしてエッセネ派の流れを汲む秘伝主義の系譜を継承する役割を演じてきた。この繋がりは、ミヒャエル・マイヤーが「Silentium Post Clamores(1617)」の中で提示し、そしてルネッサンス期のヘルメス思想の中で大切に育まれていた〈原初からの伝統〉の概念の復活を想起させる。この概念は、「メーソン騎士管理委員会」(Regulator of the Knights Masons)あるいは「G.O.の支配による四つの上層組織」(Four Superior Orders According to the Regime of the G.O., 1801)の中に再び見出すことができる。

精神的騎士道 (Spiritual Knighthood)
メーソンバラ十字の段位の中に見られる要素は疑いの余地なく、1760年にストラスブール市で発見された手稿が元であった。「De la Maçonnerie parmi les Chrétiens(キリスト教徒の中のメーソンについて)」と題するこの文献は、メーソンはエッセネ派のバラ十字守護者であった「聖墓正典会」(Canons of the Holy Sepulchre)を継承していることをほのめかすという風変わりな方法によってフリーメーソンの起源に触れている。これらの正典は後にメーソンの秘密の教義としてテンプル騎士団に伝えられたものと思われる。
古代エジプト文明もエッセネ派もテンプル騎士団も、メーソンバラ十字の段位における入門儀式形式の源泉であると見なされていた。彼らはバラ十字運動を、古代宗教の賢者たちやエッセネ派やテンプル騎士団を通じて理想化された原初キリスト教と結び付けようとしている。実際彼らは、系譜の源泉についてや、別の入門儀式形式の流派との関係について再び問題提起をしている。
メーソンバラ十字団が描いた会の起源の提示方法は、実は字義通りに受け取ることはできないものであり、アンリ・コルバンはフォルスティエールがこのような観点からのみこの主題を研究して自己満足してしまっていると非難した。オルムスなる人物が果たして本当に存在していたかどうかは、大して重要な事柄ではない。アンリ・コルバンによれば、この系譜は歴史的慣例や制度を脇においておくことによってのみ、理解しうるのである。エッセネ派や「聖墓正典会」やテンプル騎士団は、基本的には〈新たな高次の実在〉を喚起する象徴として考究されなくてはならない。従って、我々に失笑を引き起こさせるような、本来の意味を失ってしまっているのにテンプル騎士団の儀式や装具を復活させることでその継承者を装っている組織などには、注意せねばなるまい。ジョゼフ・ド・メーストル(Joseph Marie de Maistre, 1753-1821)は著書「Memoire au duc de Brunswick」の中で、入門儀式形式はテンプル騎士団以前にも存在しており、そしてそれ以後も存在し続けているのだと言っている。
アンリ・コルバンは、我々がこれまで述べてきた組織・団体に関する伝説のいくつかの要素を観察し、それらは〈精神的騎士道〉を通じて精神的に継承されてきたと考察した。この〈光の友愛組織〉は〈精神的殿堂〉―すなわち人間と〈創造主〉との調和―へと人類を上昇させる〈創造〉の原初の原初から現在に至るまで活動し続けている。コルバンによれば、「この系譜の継承は、内在的な歴史的因果関係に依存するものではない。それは象徴によってのみ表現することができる。そして象徴の伝達者は、象徴的人物へと高められるのである。」
この目的のために活動している精神的運動の系譜は、可視の歴史の中にではなく、ヒエロヒストリー、すなわち〈聖なる歴史〉の中に見出されるものである。この考え方からすれば、異なるいくつもの運動を字義通りにとらえるのではなく、その諸運動のなかに一つの継承を見ることは間違っていないのである。しかしながら、我々がここで述べているバラ十字(ローズ・クロワ)の時代は、しばしば〈精神的騎士道〉の珠玉と見なされていたことをここに記すべきであろう。
啓蒙思想とイルミニズム (The Enlightenment and Illuminism)
このようにして、18世紀は多数の入門儀式形式秘伝組織の設立をみた。我々がここで言及しているのは、「メーソンバラ十字」に直接または間接に関係していたもののみである。しかしながらバラ十字運動は、我々がこれまで検討してきた運動を超えて秘密裏に徐々に展開し続けていたことをここに付け加えさせていただこう。そういった組織の増殖は、秘伝主義世界にしばしば混乱を生じさせた。それらの正面衝突は、〈啓蒙思想(Enlightenment)〉を好む実証主義者と〈光明派神秘主義(Illuminism)〉を好む精神主義者との間にすでに起こっていた。ナポレオンのエジプト遠征にともなって、この古代大陸へのヨーロッパの関心は次第に大きくなっていったが、西洋秘伝主義は新たな地平を開くマグネティズム(磁力=Magnetism)の発見に揺さぶられたのである。
次の記事へ:マグネティズムと古代エジプト神秘学研究|バラ十字会の歴史と神秘(第12章)
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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無料でお読みいただける3冊の教本には以下の内容が含まれています

第1号:内面の進歩を加速する神秘学とは、人生の神秘を実感する5つの実習
第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
第3号:学習の4つの課程とその詳細な内容、古代の神秘学派、当会の研究陣について





