投稿日: 2026/06/02

以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。

※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

区切り
メスメルの磁気治療の挿絵
メスメルの磁気治療の挿絵

 18世紀にヘルメス主義科学は、西洋社会の歴史の重大な転換点となった啓蒙思想運動(Eynlightenment)に直面した。この時代、秘伝主義哲学の支持者たちはエジプトに心を奪われ、新たな科学、マグネティズム(magnetism)に耽溺し始めた。これらの要素がいかに関連し合い、バラ十字運動がなしえた発展にどのように貢献したかを検分することは重要である。

 啓蒙思想という哲学的運動は、人類の発展に絶対的な信頼を置いていたことに特徴づけられる。理性は人間の絶対確実な案内人であって、宗教や伝統習慣によって明らかにされたものは何であれ、すべて疑念をもって見られた。そこにおいて人間が探求している〈光〉は、〈創造主〉に属するものではなく、人間の知性によって人間の内側で輝くものであるとされた。

 啓蒙主義時代の全期間において人々は、世界を新たな視点から観察した。数年のうちに人間の知識はずいぶんと拡張された。電力利用の始まりや、ドニ・パパン(Denis Papin)の発見による蒸気機関の初の実用化の試みなど。ラボアジェ(Antoine Laurent de Lavoisier)の著作は、錬金術の研究者たちと、実験し実証する化学者たちとの間に恒久的な溝を作った。博物学者ビュフォン(Georges Louis Leclerc de Buffon)の著書によって進化論が宣言され、生命現象を科学的に理解することと、宗教によって守られてきた創造説との間に非常に大きな裂け目ができてしまった。

感覚論 (Sensationalism)

 18世紀は科学者たちだけの時代ではなかった。それはまた、哲学者たちの時代でもあった。とはいえ後者は主として学者であったのだが。コンディヤック(Étienne Bonnor de condillac)は、感覚がすべての知識の源であると宣言した。彼によれば、人間が認識を獲得するのは、デカルトが言うような思考によってではなく、知覚したことによってであった。エルヴェシウス(Claude Adrien Helvétius)やドルバック(Paul Henri Diertich d’Holbach)らとともにコンディヤックは感覚論運動を先導した。エルヴェシウスもドルバックも、純粋な唯物論と無神論を支持し、理性の使用に反対し幸福の達成を妨げる宗教が暴政の手先であることを示した。

人間機械論 (Man a Machine)

 この時代に計画されたことは、内なる人間を向上させるのではなく、一人一人に幸福をもたらす進歩発展を目指すものであった。さらにこの時代は、ソウルや内部の人の、まさにその存在にも疑問を投げかけていた。「人間機械論」(L’Homme-machine, 1748)でラ・メトリー(Julien Offray de la Mettrie)は人間を、〈創造主〉の存在を見出す探究を必要としない単なる機械装置に引き下げた。当時の哲学者たちの大部分はこの視点に立った。しかしながらルソー(Jean-Jacques Rousseau)はこの主張には異議を唱えた。エルヴェシウスやヴォルテール、モンテスキューやコンディヤックといった著名人たちと共にルソーは仕事し、ディドロ(Diderot)とダランベール(d’Alembert)による「百科全書」(Encyclopedie, 1751-1772)という啓蒙思想の頂点をなす世紀の功績を成しとげたにもかかわらずである。この百科全書派の合理主義と唯物主義はこの時代の文化に大きな影響を与えた。イエズス会士たちやカトリックのヤンセン派修道士たちは、この百科全書のことを「悪魔の書」と呼んだ。

 このような明確な見解とともにあった18世紀の平均的な人々が、自分たちの中に、より高次の本質やソウルやあることをまだ信じ、仮定的な創造主を信頼していたかどうかと、我々は尋ねてみたくなる。確かに、一般の人々は啓蒙思想の様々な展望についてはほとんど知らなかったが、光明派神秘主義(Illuminism)、別名秘伝主義の擁護者たちはこの疑問で頭がいっぱいだった。マグネティズム(magnetism)と呼ばれる新たな科学の出現は物質研究へと彼らを導き、かくして心霊・精神論者たちと唯物論者たちの間に論争を巻き起こし、両者は激しく対立した。かつてエリュ・コーエン組織(Elus-Cohens)の秘書官であったフルニエ(Abbé Fournié)はすぐに、マグネティズムは、我々が肉体とは別のソウルをそれぞれ持っていることを我々に理解させるために神から送られた賜物であると声明を出した。

マグネティズム (Magnetism)

 エリファス・レヴィ(Éliphas Lévi)によれば、18世紀における最も重要な出来事は、「百科全書」でもなく、ヴォルテールやルソーの哲学でもなく、フランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer, 1734-1815)による動物磁気の発見であったという。レヴィは次のように述べた。「メスメルはプロメテウスのようである。フランクリンは人類の目を天国からそらそうとしたのに対し、メスメルは天国の火を人類にもたらしたのだ」。この医師は1766年にドイツの南西部の街シュヴァーベンに生まれ、「惑星が人体に与える影響について」と題する医学博士論文を書き、万有引力の原因とそれが健康に与える影響について論じた。メスメルは錬金術師たちの様々な論、パラケルスス(Paracelsus)の仮説と、ロバート・フラッド(Robert fludd)が重要視していた世界大霊(World Soul)や、ファン・ヘルモント(Van Helmont)の医学的磁気学や、ウィリアム・マックスウェル(william Maxwell)の生けるスピリット(vital spirit)の理論などについて再び述べていた。これらの異なる視点と、アイザック・ニュートン(Isaac Newton)によって明確に系統立てて述べられた諸原理と、そしてメスメル自身の沈思黙考を比較対照し、彼は自らが展開し導き出した理論を「動物磁気」(animal magnetism)とした。「万物に存在しそこら中を取り巻いている普遍的流体(universal fluid)の運動に人間の身体は影響を受けやすい性質を持っており、そしてこの流体の目的は、すべての生命機能のバランスをとり続けることにある。」ことをこの用語によって彼は意味した。

 フランツ・アントン・メスメルは、この繊細なエネルギーは病気を治療するために集めることができ、それによって健康に必要な調和を取り戻すことができると主張した。彼はまた、あらゆる種類の病気を治すことができるとも主張した。1772年にメスメルは磁石を使った治療を開始した。彼はその結果、両手を磁化することによって興味深い結果が得られることに気がついた。また、磁化した水を使用しての治療も行ったが、それについては有名な「磁化桶」を主に使用して患者の治療を行った。この桶は差し渡し1.8メートルほどあり、ガラスの破片と砕いた硫黄片と、細かい鉄くずが中に入っていた。桶は水で満たされ、いくつもの鉄の棒が刺してあり、患者はその鉄の棒の先端が身体に接するようにして治療を受けたのであった。

メスメルの磁化桶
メスメルの磁化桶

調和協会 (The Society of Harmony)

 メスメルはすぐにいかさまの疑いを持たれ、魔術ではないかとさえ言われた。しかしながらメスメルはその生涯を通じて堅固な態度を崩さず、マグネティズムは超自然現象などではなく、物理現象の一つであることを説明し続けることをやめなかった。批判の嵐に疲弊したメスメルはウィーン市を去り、ミュンヘン市に居を移し、その後パリ市に落ち着いた。パリ市在住中に「動物磁気発見のいきさつ」(Dissertation on the Discovery of Animal Magnetism, 1779)という薄い本を出版し、自らの理論が正当なものであることを伝えようとし、またその中で普遍的流体は身体の中を循環していることを明らかにした。メスメルは自身の研究論文から数多くを引用して、正統派科学と見なされているむしろ尊大でさえあった関係者たちに自説を証明してみせ、アメリカ、オランダ、ロシア、スペインなど世界中の47の大学の学者に自著を送った。

 この出版により、メスメルはパリの科学アカデミー(Académie des Sciences)と王立医学協会と(Société de Médecine)とパリ大学医学部(Faculté de Paris)との間の絶え間ない口論に巻き込まれてしまった。これがもとでメスメルは、再び別地への出発を余儀なくされた。彼はベルギーの保養地スパー市に居を移した。メスメルの患者たちは磁気治療がもたらす効果に夢中になった。そのうちの二名、リヨン市(仏・中東部)の法律家ニコラ・ベルガス(Nicolas Bergasse)とアルザス地方の銀行家コルンマン(Kornmann)はメスメルを援助し、患者たちに磁気治療を施すことができ、そこで研究もできる施設を創設した。その後メスメルは1783年に「調和協会」を設立し、この時点においてマグネティズムは大きな成功を収めた。ルイ・クロード・ド・サンマルタン(Louis Claude de Saint-Martin)でさえ、当時それに魅了されていた。

 メスメルはマグネティズムがオカルト的な神秘療法とは無関係であるということを示すために最大の努力を払っていたにもかかわらず、驚くべきことに彼は、「調和協会」にフリーメーソンに属する形態を与えた。彼はこの協会を「ロッジ」と呼び、教理を伝えるのに象形文字と象徴を使った。更にその会員たちは協会に入会するときに「受け入れ儀式」を受けており、これは明らかにメーソンの入門儀式と類似している。そして会合は徐々に秘密主義の傾向が強くなっていき、そこで行われたいくつもの儀式は実質的にはメーソンの儀式であった。実際「調和協会」は一種の擬似メーソンであったと言えよう。メスメル自身フリーメーソン会員であったし、「調和協会」のほとんどの会員たちもフリーメーソンであり、そしてその中には数多くのマルチニストが含まれていた。随分前から、メスメルは多くの街々で協会を創設して承認されていた。マルキ・ド・プュイセギュール(Marquis de Puységur)は、ストラスブール市(仏・北西部)に「再団結した同朋たちの調和慈善協会」(Société harmonique de bienfaisance des amis réunis)を設立し、同時にデュートリッヒ博士(Dr. Dutrech)はリヨン市(仏・中東部)に融和協会を創設した。モセ博士(Dr. Mocet)もまた、ボルドー市(仏・南西部)に会を設立した。

エジプト文明が芸術と建築に与えた影響 (Egyptian Influence in Art and Architecture)

 18世紀にはキリスト教会が影響力を失い、人々は異なる形式の霊性を、より自由に探究するようになっていき、エジプト文明への数年前から始まっていた興味がこの傾向に加わっていった。この傾向が最初に現れたのは17世紀の芸術分野においてであった。ジャン=バティスト・リュリ(Jean Baptiste Lully)は、サン‐ジェルマン・アン・レー市(仏・パリ市西郊外)でエジプト文明に影響を受けたオペラ「イシス」(1677)を上演した。そしてパリ市ブルゴーニュ劇場では、ジャン=フランソワ・レニャー(Jean-Francois Regnard)作の「エジプトのミイラ」(Les Momies d’Égypte, 1696)が上演され、舞台にはクレオパトラとオシリスが登場した。以前の記事の中で我々は、「セトスの生涯~古代エジプト人の日記から」(1731)と題するテラソン司祭の小説では、大ピラミッド内部での入門儀式とメンフィスの殿堂について述べられていたことに言及した。主人公が受けることになった四大要素~地、水、火、空気~による浄化の試練(第2巻)には、フリーメーソンの儀式が採用されていた。数年後、ラモー(Jean-Philippe Rameau)は、ヴェルサイユ市(仏・パリ市南西)でオシリスが登場するバレエ「結婚の儀、またはエジプトの神」(Les Festes de l’Himen ou les Dieux de l’Égypt, 1749)を上演した。ラモーは後にこの題目を改良してバレエ・オペラ「オシリスの誕生」(La Naissance d’Osiris, 1751)を創作した。

作曲家ジャン=バティスト・リュリはエジプト文明に影響を受けたオペラ「イシス」を上演した
作曲家ジャン=バティスト・リュリはエジプト文明に影響を受けたオペラ「イシス」を上演した

 建築の分野においてもこれに遅れをとることなく、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージが古代エジプト様式に触発された数多くの装飾を提案した。王妃マリー・アントワネットはエジプト様式を高く評価し、様々な装飾品を注文したので、王宮とりわけヴェルサイユやフォンテンブロー(パリ市南南東)、サンクルー(パリ市南郊)の宮殿のスフィンクスなどには古代エジプト様式の影響が見られる。ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)は、フォン・ゲブラー男爵の歌劇「エジプト王、タモス」(Thamos, King of Egypt)の作曲をし、そこでは「魔笛」(1791)で使われた幾つかの部分を再び使用しており、モーツァルトのフリーメーソン・オペラはエジプト神秘学に影響されていた。ヨハン・ゴットリーブ・ナウマン(Johann Gottlieb Naumann)はエジプトに霊感を受けたオペラ「オシリス」(Osiris, 1781)をドレスデン市(独・東部)で初演した。そして大ピラミッド内のフリーメーソンの象徴の数々に隠された意味を主人公が教授される入門儀式的な小説、エッカルツハウゼン(Karl von Eckhartshausen)の「コスチへの航海」(Le voyage de Kosti, 1795)といった作品が後に続いた。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージによるエジプト様式の暖炉
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージによるエジプト様式の暖炉

原初の礼拝 (Primitive Worship)

 この時期に一冊の出版物が世に出され、諸宗教の比較研究は重大な局面を迎えることとなった。それはアントワーヌ・ド・ジェブラン(Antoine Court de Gébelin)が著した「現代世界との比較で分析された原初の世界」(Le Monde Primitif analyse et compare avec le mond moderene, 1773-1784)であった。諸言語の起源を研究することによって、独自の手法でこの著者は〈原初からの伝統〉(Primordial Tradition)の調査研究を前進させた。〈失われた言葉〉を探求することは、人間の原初の言語を再発見することであり、それによって原初の人間の純粋さを復活させようとしたのだった。ジェブランは自らの内察により、パリ市は昔のエジプトの聖所であったと信じるようになった。彼によると、パリという名前はバー・イシス、すなわち「イシスの帆船」であるという。ジェブランはノートルダム大聖堂の建っている場所にはかつて女神イシスに奉献された聖堂があったと指摘した。「Le Monde Primitif, 1781」の第8巻には、タロットに捧げられた最初の秘教的研究が含まれていた。タロットはエジプトが起源であると彼は説明し、トート神が作ったものであることを示した。

 1783年に、クール・ド・ジェブランは病に倒れ、フランツ・アントン・メスメルの治療を受けた。彼の回復はかなりの反響を呼んだ。というのは、パリ博物館で開かれたマグネティズムの会合においてこの著者が自分の治癒をマグネティズムによるものとしたからである。(彼は名高い学究的分派「ミューズ九女神 (Neuf-Soeurs) 」のメンバーであった)。7月には、メスメルはマグネティズムについて書かれたフランス国王宛ての書状を出版した。それはすぐにパリ市中に出回り、メスメルを取り巻く論争は大きくなっていき、さらにその次の年にジェブランが病死してしまった。その弟子エッティーラ(Etteilla、本名Jean-Baptiste Alliette, 1738-1791)は、師のタロットとエジプトに関する研究を引継ぎ、神秘主義入門儀式組織「エジプトの完璧な入門者たち」(Parfaits Inities d’Égypte)を作った。

 先の段落では諸宗教の比較研究について案じたが、「原初世界」の著者が逝去した後にある本が極めて重大な影響を与えたことについて述べることにしよう。その本はデュピュイ(Charles-Francois Dupuis)著の『人間のすべての崇拝の起源と普遍的宗教』(L’Origine de Tous les Cultes ou Religion Universelle, 1796)である。神話に関する膨大なこの論文の中ほどにあたる部分は、「諸神秘学派に関する論文」から構成されており、地球上のすべての教義、伝説・伝承、祝祭儀は、天文現象に基づく共通の普遍的宗教が源泉となっていることを論証しようと試みている。著者はフリーメーソン会員であり、エジプト起源の秘儀を研究していた。彼はそれを悪で不完全であり真実に反するとした。というのはデュピュイによれば、「真実は秘儀とは無関係である。それらは誤謬と欺瞞にのみ属する」。キリスト教思想がその諸要素を古代の諸宗教から借用し曲解したことを示すことによって、彼はこの宗教思想をズタズタに引き裂いてしまった。デュピュイの本は合理主義者たちの間で大成功を収め、彼らのバイブルとされた。

デュピュイの『人間のすべての崇拝の起源と普遍的宗教』の口絵
デュピュイの『人間のすべての崇拝の起源と普遍的宗教』の口絵

カリオストロ (Cagliostro)

 ある意味では、エジプト文明とマグネティズムは両方とも、アレッサンドロ・カリオストロ(Alessandro Cagliostro)によって創設されたエジプト流フリーメーソンによってもたらされた。この人物の出自は謎に満ち満ちている。彼は1766年から1768年の間にマルタ島でバラ十字入門儀式を受けたと思われる。彼は1778年にオランダに、言うなればエジプト式儀式を挙行する最初のロッジを創設した。カリオストロはヨーロッパ中を遍歴した後、1784年10月にリヨン市に到着する。その年の12月には、組織の母体ロッジの役職「勝利を収めた賢者」(La Sagesse Triomphante)に就任した。フランツ・アントン・メスメル同様に、彼は二つの「隔離所」、すなわち入門儀式の性質の治療所を創設した。その一つはエジプト流フリーメーソンが「道徳的に完璧」になるのを可能にし、もう一つは自分自身が「身体的に完璧」になるのを可能にした。ロベール・アマドゥ(Robert Amadou)によれば、カリオストロの儀式的実践と個人的実践は、エジプトと関係する歴史的系譜に由来するものではあるが、「コプト・キリスト教に中継されたエジプトのファラオ(王)の系統に結びつけられている」という。ここには神的秘術と宗教的魔術と不滅性の探究が、とりわけエジプトの叡智の実践とその叡智の熱望の要素が見られる。

 実際に行われているものでもそうでないものでも、あらゆる種類の儀式~オカルティズム、マグネティズムやテンプル騎士団、バラ十字思想やマルティニズム~の発展は、フリーメーソン会員たちに自らの起源を問わせることとなった。1784年から1785年、そして1786年から1787年の間にフリーメーソンのフィラレテス(Philalethes)統治体制は、国際的な大集会を開催し、メーソン会員たちが招かれ、〈叡智〉へと信奉者を最もよく導くことができると感じる会についてのそれぞれの意見を述べた。この1785年の5月のこの機会に、カリオストロは以下のように宣言した。「皆さん、この聖なる思想の象徴的表現をこれ以上探す必要はありません。その象徴はエジプトのマギによって6千年前に創られたのです。ヘルメス・トート神は、二つの言葉を残しました。一つは〈バラ〉です。なぜならこの花は球状の形をしていることから統一の最も完璧な象徴であり、そしてその香りを吸い込むことは、生命の啓示を受けることにつながるからです。この〈バラ〉は〈十字〉の中央に置かれ、その図が表す位置は二つの直角の先端が結び合わされるところであり、その直角をなしている二つの直線は、我々の概念作用を通して永遠へと、高さと幅と深さの感覚において延長されます。さらに言えばこの象徴は、秘伝科学では光と純粋さを象徴する黄金色に輝いています。賢者ヘルメスがこれをバラ十字と呼びました。言い換えれば、〈無限者の天球(the Sphere of the Infinite)〉であります。」カリオストロの任務は短期間で終わった。ダイヤモンドの首飾り事件の後、彼はイギリスに亡命したが官憲の厳しい追求に遭い、1789年の12月27日に逮捕された。そして異端と魔術を行った罪を宣告され、囚われていたサン・レオ要塞で1795年の8月26日に没した。彼の公での役割は13年間を越えることはなかった。

シャルル・モネの再生の噴水、エジプトの女神イシスの姿の像が設置されている
シャルル・モネの再生の噴水、エジプトの女神イシスの姿の像が設置されている

マグネティズムへの非難 (The Condemnation of Magnetism)

 18世紀の始めにはフランス王宮は社交界での主導権を失ってしまっており、その替わりに芸術家や著作家や哲学者や碩学たちが集うサロンが盛んになっていた。すぐにマグネティズムは強い勢力を持つようになり、その集まりは急速に活動へと発展してゆき、単なる気晴らしであったにせよ、上流階級の高い評価を受けた。しかしながらこの治療方法は紛れもなく、啓蒙思想運動の信奉者たちのドグマとなってしまった〈理性(Reason)〉への挑戦であった。1784年にルイ16世は、ラボアジェ、ベンジャミン・フランクリンほか医学アカデミーのメンバー4名からなる委員会を任命し、事態の調査にあたった。この委員会はマグネティズムの治療効果を認知したのだが、それに反する意見を提出し、マグネティズムは非科学的で迷信に満ちたものであると判断を下した。それは主として人間の想像力の結果であると考えられた。それ以後マグネティズムに反対する時事論文が何倍にも増えた。

磁化催眠 (Somnambulism)

 18世紀の終わりに、メスメリズムは困難に直面した。1785年に、メスメルの主たる共働者で通訳(メスメルはフランス語が堪能ではなかった)のニコラ・ベルガス(Nicolas Bergasse)が調和協会から退会させられた。彼はすぐにルイ・クロード・ド・サンマルタン(Louis Claude de Saint-Martin)やJean-Philippe Dutoit-Membriniといった心霊・精神主義者たちと交流するようになり、マグネティズムを信用しなくなっていった。永遠の放浪者メスメルは、トゥールーズ市にしばらく滞在した後、1786年の3月にサンマルタンと近しい間柄のエリュ・コーエンの一家族が住むブールジュ市(仏・中部)に居を構えた。調和協会は数年後の1789年に解散し、メスメルは1815年に〈永遠の東方〉へと旅立っていった。しかしながら、数年のうちにマグネティズムは秘伝主義へと転向していった。実際、ピュイセギュール侯爵で砲兵隊大佐であったアルマンド・マリー・ジャック・シャストネ(Armand Marie Jacques de Chastenet)は、ある発見によってマグネティズムを新たな方向、磁化催眠(somnambulism)へと導いたのだった。

 手の動きによって数分間磁化された患者は、無意識状態~いわば「磁化睡眠」状態になる。ピュイセギュール侯爵は1784年の4月、メスメルの原理に従って磁化治療をしていた時、ある患者が深い磁化睡眠状態に陥って人格が変わったことを発見した。それは人間の精神では近づくことの困難な領域を見たり聞いたりできる驚異的な感覚の拡張をもたらした。さらにその患者は驚異的な透視能力とともに霊媒能力を得て、不可視のものに関する質問に答えることが出来た。これはマグネティック(magnetic)あるいは人工磁化催眠術の始まりであり、無意識の重要な発見へとつながっていった。

 不可視の科学に傾倒する者やエリュ・コーエンの第一段階にいる者は、必然的にこの実験の誘惑にあう。磁化催眠中の神託が、ほとんどあらゆる場所において記録された。ウィラモス(Jean-Baptiste Willermoz)はこの魅力から逃れることが出来ず、そしておそらく、この施術に関してはエリュ・コーエン組織の堕落に基本的な責任があるだろう。実際、磁化催眠においては不可視のものと通じるのに修行や複雑な儀式は必要とせず、ただ患者を磁化睡眠状態にして質問すればよかった。ああ、この実験が示したことには、物事はそれ程単純ではなく、〈入門者協会〉(Société des initiés, 1785)を創り、この運動の一翼を担っていたウィラモスは1785年4月から1788年10月の間の責任を負わなければならなかった。その後彼は、清浄化する作業なしに異世界のベールを上げようとするのは危険なことであると考えるザルツマン(Rudolphe Salzmann)らのようなマルチニストたちと交際するようになった。

 18世紀においてキリスト教会は先頭に立ってマグネティズムを非難してはいなかった。それよりもフリーメーソンに対して、より断固とした態度をとっていた。なぜなら多くのキリスト教徒たちが秘伝哲学に心酔し、こぞってロッジに入門しようとしたからであった。フリーメーソンは1738年のローマ教皇の大勅書で弾劾され、1751年にはベネディクト15世が大勅書を更新した。しかしこの禁止令も依然として効果はなく、ロッジはフランス国内のほとんどあらゆる場所に広まっていった。フリーメーソンは修道院の中にさえみられた。ベニメール(Benimelli)は2000人近くの聖職者たちが当時ロッジに出入りしていたと見積もっている。この時期、国中のあちこちに約650ものメーソン集会所が設けられた。フランス革命が勃発すると、彼らのほとんどが活動を休止した。

チュイルリー宮殿のピラミッド (The Pyramid of the Tuileries)

 1789年当時フランスは、王権による旧体制(Ancien Régime)に終止符を打つべく揺れ動いていた。驚くべきことに、それに携わっていた革命家たちがエジプトに無関心ではなかったしるしがある。革命初期の理想である純粋、正義、知恵を、彼らはエジプトに投影したようである。このため、8月10日の殉教者崇敬式典の開催中であった1792年8月26日に、チュイルリー宮の中に巨大なピラミッドが建てられた。そして翌年の8月には旧体制の崩壊を記念して「自然再生の祝典」が開かれた。イシスの像をかたどった「再生の泉(the Fountain of Regeneration)」は自然を象徴するものとして、バスティーユ監獄の瓦礫あとに建てられた。同じ時期、ジャン-バプティスト・ルモイン(Jean-Baptiste Lemoyne)は、作品の構想の全てをエジプトのファラオたちの領土から得た初のオペラ「ネフテ」(Nephté, 女神ネートとプタハ神の名からとられた)を上演した。ピエール・エイドリアン・パリス(Pierre-Adrien Pâris)によるそのオペラの舞台背景には、ピラミッドやエジプトの墳墓や、オシリス神殿へ続いてゆく、スフィンクスの並ぶ小道などが登場した。

ナポレオンとエジプト (Napoleon and Egypt)

 それから数年後、エジプトへの情熱はナポレオン統治下において拡大の様相を呈した。これに刺激され、ファラオたちの諸領土から到来したと主張するいくつもの入門儀式形式の組織が創設された。1798年の5月、ナポレオン・ボナパルトは5万4千人の兵士と多数の学者、数学者、天文学者、技術者、素描家や美術家たちを引き連れてエジプトへと船出した。そして1798年7月の始めにアレキサンドリア市に上陸した。数日後、「ピラミッドの戦い」でマムルーク朝を征服した。その翌年、ナポレオンはエジプトを研究するよう命令を出し、その成果は有名な出版物『エジプト誌』(Description de l’Égypte)へと結実し、9巻の論文集と11巻の版画集を含むこの出版事業が、1809年から1829年の間に行われた。この記念碑的大事業により、エジプト文明の壮麗さが西欧諸国に明らかにされ、「エジプトに熱狂する愛好家」が出現することとなった。

 「エジプト誌」が世に出される前に、それとは別にその端緒となる一冊の本が出版された。すなわちそれは、現代では「死者の書」(Book of the Dead)と呼ばれているパピルス文書である。この本は、「テーベ市の王家の谷で発見されたパピルスの巻物の写本」(Copie figurée d’un rouleau de papyrus trouvé à Thèbes dans un tombeau des rois…)と題して、カデ(M. Cadet)によって出版された。次の世紀には、近代マグネティズムの推進者であるアンリ・デュルヴィル(Henri Durville)が、自身が創設したエジプト化された運動の組織「Order Eudiaque」の活動において、このパピルス文書を詳細に解説した。ピラミッドの国は芸術家たちに再び霊感を与え、1808年の3月にはナポレオン皇帝が、ジャン・ピエール・オマー(Jean-Pierre Aumer)作、ルドルフ・クロイツァー(Rudolphe Kreutzer)音楽担当のバレエ「アントニーとクレオパトラの愛」(Amours d’Antoine et Cléopatre)の初演を楽しんだ。女神イシスはパリジャンたちを魅了し続け、1809年には、委員会がクール・ド・ジェブラン(Court de Gébelin)によって唱えられたパリ市(Bar Isis)の名称の由来に関する仮説の正当性を調査した。そこには古代にイシス崇拝の教団が存在していたことが思い起こされ、伝説が真実であることに賛成するという結論を委員会は出した。1811年の1月、パリ市のイシス起源説は公認され、しばらくの間エジプトの女神がパリ市の紋章に描かれることとなった。

 「エジプト誌」の出版により、ナイル河沿岸の地域の神官が保持していた神秘学派の知識が盛んに考察されるようになった。アレクサンドル・ルノアー(Alexandre Lenoir)は、「真の源泉を復活させたフリーメーソン」(La Franche Maçonnerie rendue à sa véritable origine, 1807)を出版し、その本の中でフリーメーソン団と、未開で原始的であると考えていたエジプトの宗教を結びつけようと試みた。ビスメ(A. P. J. de Visme)は、「エジプトのピラミッドの起源と用途に関する新たな調査」(Nouvelles recherches sur l’origine et la destination des Pyramides d’Égypte, 1812)を出版し、抽象的で超常的な科学の基本原理を明らかにしようと尽力した。それから彼は「セトス」を書き直し、最初の出版以上に大きな成功を収めた。

ナポレオンのエジプト遠征の成果をまとめた『エジプト誌』の口絵
ナポレオンのエジプト遠征の成果をまとめた『エジプト誌』の口絵

砂漠の友の会 (The Friends of the Desert)

 エジプトがしばしば理想的なものとされることが特徴であったこの好意的な風潮の中、極めて多数のエジプト的入門儀式形式の団体が発生した。その最初であるOrder of Sophisiens(1801)は、その実態が謎のままで、ラゴン(Ragon)によって簡単に言及されているだけである。主として我々の興味を引くのは、「ドゥ・マージュ考古学協会」の創設者で考古学者のアレクサンドル・ドゥ・マージュ(Alexandre Du Mége, 1780-1862)の尽力によってトゥールーズ市で生まれた団体だが、これに関しては後にトゥールーズ市で19世紀末に起こったバラ十字運動について述べる時に考察することにしよう。ドゥ・マージュはフリーメーソン団員で、バラ十字高段位に到達しており、1806年に「砂漠の友の会」を創設した。彼は本部ロッジ「最高ピラミッド (La souveraine Pyramide)」をトゥールーズ市に設立した。この創設者の計画によると、このロッジの建物はピラミッド型であるべきであり、入り口は二頭のスフィンクスに守られているべきである。そして、女神イシスとオシリス神の肖像の前に「創造主と人類と真実」に捧げられた祭壇が設置されていなくてはならず、同様に、建物の壁は古代エジプトの遺跡の壁画から模写された象形文字の数々で飾られていなくてはならなかった。団員たちの衣装はエジプト様式であった。この計画が実施されたのかどうかは知る由もないが、この組織はどうやら束の間の存在であったようである。そしてこの組織はトゥールーズ市から離れて、モントバン市(仏・南部)とオーシュ市(仏・南西部)に“ピラミッド”をもたらした。組織が数年にわたって慎ましく存続することは、全く不可能というわけではなかった。そのしばらく後の1822年、陸軍大佐ルイ・エマニュエル・デュピュイ(Colonel Louis-Emanuel Dupuy)とオート=ガロンヌ県の筆頭文書館員ジャン・レイモンド・カルデス(Jean-Raymond Cardes)という二人のトゥールーズ市民が現れ、ミスライム儀式組織(Misraim rite)の本部創設を通じてこのエジプト風の計画を続行した。

メンフィス儀式組織 (The Memphis Rite)

 1814年頃、イタリアのナポレオン軍の将校マルクおよびミシェル・ベダリデス(Marc and Michel Bedarrides)は、ミスライム(ヘブライ語で「エジプト人たち」の意)儀式をパリ市に持ち帰った。しかし、この組織がその名称以外に式典の中でエジプト文化を参考にすることはほとんどなかった。この儀式組織は、フランス軍内部とイタリアの政府関係者たちの中で生じ、ナポレオンが進軍したイタリア国内で確立した。この期間中、フランスとイギリスはエジプトで交戦していた。フランス帝国軍の中には極めて多数のフリーメーソン団員たちがいたので、彼らは(英国の)アンダーソンによって成文化されたものとは別のフリーメーソン起源を見出したがっていた理由も理解できるのである。彼らがエジプトで発見した驚異の数々は、秘伝主義とエジプト文明が同じ分野で扱われる傾向があった時代に彼らが生きていた程度に、彼らの決断に影響を与えていた。前にも述べたが、エジプトのヘルメス神が「原初からの伝統」の源泉であるとの視点は、ルネッサンスを促進することとなった。

 ミスライム儀式組織が現れてから数年後の1838年に、ジャン・エチエンヌ・マルコニス・ド・ネグレ(Jean-Êtienne Marconis de Négre)によってメンフィス儀式組織が設立された。先にできたミスライム儀式組織と違って、ディオドロス・シクルスやテラソン神父によって「セトス」の中に記録されていたようなエジプト神秘学派から得た要素を、この組織は式典に組み込もうと試みた。また、マルコニス・ド・ネグレは疑う余地なく、「イシスとオシリスの神秘、エジプトの入門儀式 (Les Mystéres d’Isis et d’Osiris, Initiation Égyptienne, 1820)」に影響を受けていた。その著者ブーランジェ(T. P. Boulange)は、王立裁判所の法廷弁護士で、パリ大学法学部教授であったが、デュピュイの誤りを糾弾し、エジプト神秘学派の入門儀式の価値を論証した。ブーランジェによるとこの入門儀式は、美徳の実践と高位の知識の学習において新入門者を訓練することを意図している。

ロゼッタストーン (The Rosetta Stone)

 この頃までに、エジプトに関する思索から数え切れないほどの理論が生じた。しかし、エジプト史料の真の内容は全く知られていなかった。考古学、言語学、錬金術、マグネティズムの熱烈な研究者であったアタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher)の仮説が絶対的権威となっていた(Oedipus Aegyptiacus, 1652)。ところが1822年に、突然状況が変わった。エジプト象形文字と古代エジプト民衆文字とギリシア語の3種類の文字で書かれていたロゼッタストーンのおかげで、ジャン・フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion, 1790-1832)は、エジプト象形文字解読の手がかりを発見した。すると直ちにキルヒャーの仮説はすべてが粉塵と化し、真の「エジプト学」が起こった。フランス人たちは、「エジプトの姉」になったと思うほどエジプトを近く感じた。ルーヴル美術館の古代エジプト美術部門は1827年に公開され、シャンポリオンが初代管理責任者を務めた。

マグネティズム協会 (The Society of Magnetism)

 この同時期に、メスメルによってもたらされた運動は新たな形へと進化し続けていた。偉大なる磁気治療者でマグネティズムの支援者であったピュイセギュール侯爵(貧しい人や恵まれない人々のために彼の自宅は常に解放されていた)は、様々な治療方法や磁気治療によって得られた数々の成果について論じた数多くの著作を出版した。その弟子ドゥルーズ(Joseph-Pierre Deleuze)は、初のマグネティズム専門誌「Annales du Magnétisme, 1814-1816」の定期刊行に着手し、侯爵が1815年にマグネティズム協会(Societe du Magnétisme)を設立したときには、かなりの物議をかもした。この時期に出てきたその他の流れについては、次の機会に触れることにしよう。

 何人かの著述家たちもまた、マグネティズムをエジプト文明と結びつけようとした。磁気治療医師でホメオパシー医であったテステ博士(Dr. Alphonse Teste)もその一人であった。テステ博士はその著書、「動物磁気治療実践の手引き」(Manuel Pratique de magnétisme animal, 1828, 1840)の中で、この治療法がエジプトに起源を持つことについて論じた。また、アルフォンソ・カーニエ(Alphonse Cahagnet)が設立したパリ市マグネティズム・精神主義者協会の公式機関紙「Le Magnétiseur spiritualiste」の中の記事でも同様に、エジプト文明について取りあげていた。マーチン博士(Dr. Martins)は、霊媒の見たエジプト寺院の救護施設について論じたが、そこでは磁化された鎖の周りにベッドが配されていた。

 キリスト教会は、マグネティズムに関してはどちらつかずの態度を決め込んだ。最初にマグネティズムを批判したのは1841年であったが、1856年には寛大な方針を採った。というのも実際のところ、キリスト教会はソウルが存在する証拠を示そうとして啓蒙運動の物質主義思想と戦っていたため、マグネティズムをある程度は認めざるを得なかったのである。例えば、アンリ・デラージェ(Henri Delaage)は著書「秘伝主義世界およびマグネティズム流派 (Le Monde occulte on Mysteréres du magnétisme, 1851 and 1856)」の中で、マグネティズムはキリスト教不信心者を信者に変えるための適切な手段であると思うと述べた。この科学について好意的な説教をノートルダム大聖堂で1846年から始めた高名なアンリ・ラコルデール神父(Henri Lacordaire)がこの著書に序文を書いた。デラージェの著書は、以下のアレクサンドル・デュマの声明を際立たせることとなった。「もしもこの世界に、ソウルを可視のものにする科学があるとするならば、それは全く疑う余地なくマグネティズムである。」オノレ・ド・バルザック(Honore de Balzac)自身も、小説「ユルシュール・ミルエ (Ursule Mirouët, 1841)」の中で、ミノレ博士(Dr. Minoret)という一人の医師が、マグネティズム治療の経験を重ねてゆくうちに彼自身の信仰を再発見してゆく様を鮮やかに描き出している。その小説の第6章は、「マグネティズムの要約」と題された。

デュ・ポテの『動物磁気論』の挿絵
デュ・ポテの『動物磁気論』の挿絵

エッセネ派のイエス (Jesus the Essene)

 一方このような情況において、キリスト教会の教条主義者たちは、原初キリスト教にみられた真のキリスト教思想の探究者たちを阻止しようとした。シャテル神父(Abbé Chatel, 1795-1837)は、Fabré-Palapratが設立したネオ・テンプラー団と強く結びついていたフランスカトリック教会の後援者であった。ピエール・ルルー(Pierre Leroux)などは、エッセネ派が真のキリスト教であると見ていた。ルルーは著書「人間性について、その本質と未来 (De l’Humanitè, de son Principe et de son Avenir, 1840)」で、イエスは東洋の神秘学派と接触していたエッセネ派であったと述べた。ダニエル・ラメー(Daniel Ramée)も、「イエスの死、その歴史的新事実 (La Mort de Jésus, Reveration historiques d’après le manuscrit d’un Frère de l’ordre sacré des esséniens, contemporain de Jésus , 1863)」でこれに追随した。このようにして、1776年に始まった古代組織黄金バラ十字会(Golden Rosy Cross of the Ancient System)と共にエッセネ派思想は、「原初の伝統」を探究する人々の心をつかみ続けた。これはエジプト神秘学研究と結びつき、世間が熱中していた叡智についての基礎知識が再発見されたのであった。

 今回の記事で述べたこの時代は、高位の世界との新たな関係によって特徴づけられると言えるかもしれない。ルネッサンス期に現れた魔術は、新しい実践を経て、今や宗教的な含意を全く持たないものに変容する傾向があった。マグネティズムと共に、超常的な世界の科学を誕生させたいという願望が発生したと述べてもほぼ間違いではない。
バラ十字運動の歴史についての連載の中で、今回のマグネティズムへの寄り道は、一風変わったものに見えるかもしれない。しかしこれは、秘伝的な遺産とその実践が進化発展していった様を我々がよりよく理解するために必要不可欠なものである。実際に、人間がもっと調和して暮らしてゆくために、まだ活用されていない人間の精神や魂の機能を発達させる研究と連携して、マグネティズムの流行から数多くの運動が生じた。1836年には非常に重大な出来事が起こった。ピュイセギュール侯爵にマグネティズムを学んだフランス人シャルル・ポヤン(Charles Poyan)が、メスメルの磁気治療をアメリカに紹介したのである。次回はこのことについてさらに検討してみよう。

次の記事へ:魂の探究|バラ十字会の歴史と神秘(第13章)

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