投稿日: 2026/06/02

以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。

※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

区切り
バラ十字サロンの目録
バラ十字サロンの目録

 19世紀の後半から20世紀の前半にかけて、バラ十字の花々が咲き乱れた。これらの動きには概ね、我々が知っている過去のバラ十字会員たちと共通するところは何もなく、成功の度合いが様々であったが、これらの運動はそれぞれ、バラ十字の庇護の下に自分たちを置こうとしていた。先の記事でこういった団体の設立については論じたので、ここで「マギのバラ園」へと誘われ、我々の調査研究を続行してゆくことにしよう。

モンテ・ベリタ(真実の山) (Monte Verità)

 19世紀に起こった産業革命によってヨーロッパ社会は大きく揺さぶられ、既存の社会構造が根底から覆された。特にドイツがこの危機に見舞われ、工業化社会を拒否する兆候が1870年代に表れた。都市化へのひとつの抵抗として、「自然主義」(Naturism:ナチュリズム)運動の形をとって労働者階級の再編成が生じた。自然主義の信奉者たちは汚染された都市から逃れて、自然と調和して生活することができる地域社会や田園都市を造ろうと唱えた。1892年に始まった「生活改革」運動(Lebensreform)を中心として、この観点を取り入れた諸団体が数多く生じた。17世紀の一連のバラ十字宣言書と、その後に続いたユートピア文学とは対照的に、「生活改革」運動は科学的進歩を脅威であると見なした。そこには芸術家はもちろんのこと、菜食主義者や自然主義者、心霊主義者、自然療法家や衛生学の信奉者たち、そして神智学協会などの団体が含まれていた。

 この運動の一端として、神智学者でスイス人のアルフレード・ピオダ(Alfredo Pioda)が1889年に平信徒の修道会を立ち上げようとした。その会は名称にフラテルニタス(友愛会)を使用し、スイス南部のティチーノ州にあるアスコーナ市近くのモンテ・ベリタ(真実の山の意)にあった。エレーナ・ペトロブナ・ブラバツキー(Helena Petrovna Blavatsky)と親交のあったフランツ・ハルトマン(Franz Hartmann)とコンスタンツェ・ヴァハトマイスター伯爵夫人(Countess Constnce Wachtmeister)が、このはかない計画に加わっていた。この体験がインスピレーションとなって、フランツ・ハルトマンが「スイスのバラ十字協会」を書いたのであろうことは疑うべくもない(前回の記事参照)。そしてフラテルニタスの残骸の中から、類似した意図のある共同体が立ち上がってきた。それは「モンテ・ベリタ」(Monte Verità)という名称の、アンリ・オーデンコッヘン(Henri Oedenkoven)とイーダ・ホフマン(Ida Hofmann)が1900年に設立した共同体である。数多くの著名人たちがモンテ・ベリタを訪れた。その中には、文豪ヘルマン・ヘッセや、後に哲学者となったマルティン・ブーバー(Martin Buber)、政治家グスタフ・ランダウアー(Gustav Landauer)、リトミックの発明者エミール・ジャック=ダルクローズ(Êmile Jacques-Dalcroze)、舞踏芸術の振付師かつ理論家であったルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf von Laban)らが含まれていた。

東方聖堂騎士団 (The Templars of the Orient)

 「モンテ・ベリタ」の足跡を詳しく辿ってゆくと、ベリタ・ミスティカ(神秘の山)が姿を現して来る。それは「東方聖堂騎士団」(O. T. O. : Ordo Templi Orientis)のロッジである。この団体は1893年ごろに設立され、1902年から英国バラ十字協会(S. R. I. A.)のドイツ支部の指導者をしていたテーオドール・ロイス(Theodor Reuss)に率いられていた。ロイスはHスペンサー・ルイス博士への手紙に、「東方聖堂騎士団」の役員の地位を自らが受諾したのは、ウィリアム・ウィン・ウェスコット(William Wynn Westcott)を喜ばせるためであったが、ウェスコットの真の目的はロイスの所持するドイツとオーストリアのバラ十字会の各種文書を入手することであったことが後になってから判明したと書いている。 実際に「東方聖堂騎士団」は、過去のバラ十字会員たちの仕事を継続していると主張していた。ロイスの説明によれば、この組織は一種のフリーメーソン系の学園であり、その真の機能は「真の正統派の」バラ十字会員たちの直接の末裔である秘密のバラ十字会を隠すことであった。そしてこの会の秘密の諸本部はロイスの管轄下にあり、総本部は、ライプツィヒ市近郊、チューリンゲンの森林地帯に位置しているとロイスは主張した。そして、ロイス自身は1893年の7月にカール・ケルナー(Carl Kellner)の手によってこの組織へ入会したと述べている。

 実際には、ガストン・ベンチュラ(Gastone Ventura)の指摘によれば、カール・ケルナーは東洋への旅から戻った後、フランツ・ハルトマンとハインリッヒ・クライン(Heinrich Klein)の助けを借りて「東方聖堂騎士団」を設立した。ケルナーはアラビア人僧侶のソリマン・ベン・アイファ(Soliman ben Aifa) とヒンズー教の導師ブヒーマ・セナ・プラタパ(Bhima Sena Pratapa)とタントラ・ヨガの師スリ・マハトマ・アガムヤ・パラマハンサ(Sri Mahatma Agamya Paramahansa)によって古代の神秘に参入したと言われていた。 見てのとおり、ここにはバラ十字思想は全く含まれていない。ロイスが東方聖堂騎士団に入会したのはケルナーの死後の1902年ごろに過ぎない。そこで、彼の入門が正式なものであるかは大いに論議されるところとなった。入門証書を授けるにあたって、それを全くの商業行為とする運営をロイスが行った後には、特にそれが疑問視されることとなった。フランスでは評論「L’Acacia」がこの問題を明らかにしている。しかしパピュス(Papus)は、他の人々と同様にかなり長い間惑わされていた。

 後に、第一次世界大戦(1914-1918)の嵐が吹き荒れている最中に、「東方聖堂騎士団」はモンテ・ベリタにおいて平和主義者の会合を組織することによって、新たな光のもとに出現することとなった。ルドルフ・フォン・ラバンは「太陽への賛歌」(Song to the Sun)という儀式形式の劇を、ワーグナー風のバルレ舞台にして上演した。「東方聖堂騎士団」の団員としてラバンは、その補佐的組織である「バラ十字国際貴婦人連合会」(Alliance Internationale des Dames de la Rose-Croix)の書記官でもあった。この連合会は、人種や宗教の違いを超えて人類の全世界的調和を図ることを目的としていて、分配を基本とした利他的経済を提唱し、芸術は、戦争によって傷ついた人々を癒すために提供される最良の手段であると考えていた。この考えはジョゼファン・ペラダンの切実な思いでもあった。しかし、この理想郷を目指す計画は成功しなかったようである。結果として「東方聖堂騎士団」には、それほど輝かしい時期があったわけではない。アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)は、望ましくない魔術の実践のいくつかへと人々を導く一因になったが、このような魔術の実践にはバラ十字思想やフリーメーソンとの共通点は何ひとつなかった。

黄金の暁団 (The Hermetic Order of the Golden Dawn)

 先の記事で「英国バラ十字協会」(S. I. R. A.)の誕生について検討した。今回の記事の初めに提示したような欧州大陸での出来事が終わりを告げると、「英国バラ十字協会」の指導者たちはイギリスで、「黄金の暁ヘルメス友愛組織」(Hermetic Order of the Golden Dawn)と呼ばれ、一般には「黄金の暁団」として良く知られている新たな組織を作った。1887年にウェストコットは、暗号化された儀式書の手稿を五種類集めた。これらの手稿はバール・シェム・トブ(Ba’al Shem Tov)が所持していて後にエリファス・レヴィに渡ったもので、古書店にあった一冊の「16世紀と17世紀のバラ十字会員の秘密の象徴」の中で発見されたものであった。事の顛末はさらに続き、そこにはドイツのバラ十字会代表アンナ・シュプレンゲル(Anna Sprengel)の挨拶文も含まれていたと言われていた。彼女と接触した後、ウェストコットとサミュエル・リデル・メイザース(Samuel Liddell Mathers)とR・ウィリアム・ウッドマン(R. William Woodman)はロンドンにイシス・ウラニア・ロッジを設立し、その後すぐにフランスのオウトイユ(Auteuil)にアタトール(Athathoor)ロッジを創った。こうして「黄金の暁ヘルメス友愛組織」が誕生し、サミュエル・メイザース(哲学者アンリ・ベルクソンの義弟)が指揮を取った。入門儀式形式の組織の大部分と同じように、その発祥には神秘的なうわさがまとわりついている。というのも、アンナ・シュプレンゲルなる人物が存在した確証はなく、暗号化された手稿はおそらく英国バラ十字協会員のケネス・マッケンジー(Kenneth MacKenzie)によって作り上げられたとみられるからである。

 「黄金の暁団」には、16世紀と17世紀のバラ十字思想・運動とはきわめて異なる特徴があった。実際、その儀式の数々にはルネッサンス期の魔術やクリスチャン・カバラから広範囲にわたって借用してきたものが含まれていた。これらの儀式の多くは、精神的錬金術に基づいた神秘学の傾向が強い、この当時より以前のバラ十字会員たちによって既に放棄されたものであった。おそらく「黄金の暁団」の儀式は、メイザースが頻繁に研究していた文献「神聖な魔術、あるいは魔術師アブラムランの本」(La Magie Sacrée ou le livre d’Abramelin le mage)や、同じくメイザースが自らの著書に活用していたコルネリウス・ハインリッヒ・アグリッパの魔術書の大部分から着想を得たものであろう。この会はエジプト様式の象徴を採用し、タロットカードの研究にかなりの重点をおいていた。「黄金の暁団」は「英国バラ十字協会」で使用されていた位階を踏襲し、「紅バラ黄金十字会」(Ordo Roseae Rubeae et Aureae Crucis)という内陣組織も含んでいた。
統領メイザース(1854-1918)の指揮の下、「黄金の暁団」は迅速に成功を収め、1888年から1900年にかけては入門儀式形式の有力な組織となっていた。数多くのフリーメーソン会員や神智学協会員らが「黄金の暁団」のロッジに参加し、その中には1923年にノーベル文学賞を受賞したウィリアム・バトラー・イエーツ(William Butler Yeats)や、作家オスカー・ワイルドの夫人コンスタンス・ロイド・ワイルド(Constance Lloyd Wilde)、英国学士院学長のジェラール・ケリー(Gerard Kelly)などの著名人たちも含まれていた。しかし組織は分裂・分離の憂き目に遭い、W. B. イエーツの「ステラ・マチュチナ・テンプル」(Stella Matutina Temple)や、後に「ヴァイオレット・フェース(別名ダイアン・フォーチュン(Dion Fortune)の『内なる光協会』)」(The Society of the Inner Light with Violet Firth)となった「アルファ・オメガ」(Alpha Omega)、A・E・ウェイトの「バラ十字組合」(Fellowship of the Rosy Cross)などの分派が対抗しあうこととなった。また、「アストルム・アルゼンチヌム」(Astrum Argenitinum)を立ち上げた黒魔術師アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)を見落とすべきではないだろう。

ジョゼファン・ペラダン (Joséphin Péladin)

 イギリスに「黄金の暁団」が現れ活躍している間に、フランスではジョゼファン・ペラダン(Joséphin Péladan, 1858-1918)が当時の道徳観念を描いた小説「至高の悪徳」(Le Vice suprême, 1884)を出版した。この特異な作家は、20世紀のバラ十字運動の発展に重要な役割を果たした。彼の著書を読んだものは誰もが、ペラダンがあらゆる秘伝知識に非常によく精通していることに気づくだろう。とりわけ、彼の秘伝科学に捧げられた大作「ピエール・クリスティアンによる魔術史」(Histoire de la magie de Pierre Christian, 1870)にはそれが顕著である。「至高の悪徳」の主人公は魔術師メロダック(Mérodack)であるが、彼は異常な秘伝学者ではなく、むしろ高貴な理想に仕えるためにその知識を利用する参入者であった。

 バルベー・ドールヴィリ(Barbey d’Aurevilly)による賞賛の序文が添えられたこの本は、たちまちこの年若い作者に成功をもたらした。スタニスラス・ド・ガイタ(Stanislas de Guaita, 1861-1897)はこの作家の、最も暖かい読者の一人だった。11月のある日、ガイタはペラダンに手紙を書き、ペラダンに対する賞賛の意を表明し、その後二人は会うことになり、それから友人となった。彼らの往復書簡が示すことによれば、当時ガイタは秘伝哲学の分野の初心者であったという。「私は忘れまい、あなたのご本によってヘルメス学を知り、学び始めたことを。」と彼は手紙ではっきりと述べている。

ジョゼファン・ペラダン
ジョゼファン・ペラダン

トゥールーズ市のバラ十字会員 (The Rosicrucians of Toulouse)

 ジョゼファン・ペラダンは、フランス初のホメオパス(同種療法医)の一人である兄のエイドリアン・ペラダン(1844-1885)から秘伝学の知識を得ていた。エイドリアンは、聖職者でキリスト教ヘルメス学者のポール・ラクリア(Paul Lacuria, 1806-1890)の弟子であったが、一方ラクリアはファーブル・ドリヴェ(Fabre d’Olivet)の門人であった。エイドリアン・ペラダンは、1878年にフィルマン・ボワサン(Firmin Boissin, 1835-1893)によってバラ十字会の入門儀式を受けて入会したと考えられている。ジョゼファン・ペラダンはボワサンのことを「会の最新の支部、すなわちトゥールーズ市支部のメンバー」であると話していた。そしてボワサンは「トゥールーズ市支部以前に出来たバラ十字の殿堂の指導者であり、〈14人評議会〉の長」であるとも見なされていた。このトゥールーズ市のバラ十字会支部には、外交官経験がありトゥールーズ市の錬金術医であった子爵エドアール・ド・ラパス(Edouard de Lapasse, 1792-1867)も属していた。実際、この子爵は1860年に「バラ十字会は秘密組織のひとつであり、現代においてもいくらかの熟達した信奉者がいる」と評している。子爵はこの会の一員であると自ら述べたことはないが、ボワサンは子爵が亡くなったときに、正しいか正しくないかはともかくとして、「この高名な友愛組織の最後の会員」として旅立ったと述べ、「子爵はバラ十字会員に対する良い評判を宣伝する機会があれば決して見逃すことはなかった」と述べた。

 子爵はダルバネス伯爵夫人(Comtesse d’Albanès)邸で開かれていた社交サロンに好んで参加していた。そこにはシャルル・ノディエ(Charles Nodier)、ピエール・バランシュ(Pierre Ballanche)、コーレフ博士(Dr. Koreff)、ドゥルシュ(d’Ourches)伯爵、カゾット(Cazotte)の息子らも集い、マグネティズムや錬金術やカバラやマルティニズムについて語り合ったという。1839年12月の会合で、子爵は「バラ十字の聖なる精髄」で満たされた水晶製のフラスコを人々に見せ、その液体の成分には、パレルモ市(シチリア島北西岸の港町)郊外に住む隠者バルビアーニ公爵(Prince Balbiani)から手に入れた特別な露も含まれていたという。ラパス子爵は、1825年から1831年にイタリアに逗留していた間に、バラ十字会員であると考えられているこの隠者と出会った。カグリオストロと会っていたというこの隠者は、子爵に錬金術の作業の手ほどきをした。最後に、子爵は「砂漠の友の会」の設立者アレクサンドル・デュ・メージュ(Alexandre Du Mège)をよく知っていたことも付け加えておこう。さらに子爵はデュ・メージュのあとを継ぎ、南フランス考古学協会(Société Archéologique du Midi)を指揮した。また子爵はデュ・メージュやフィルマン・ボワサン同様、「花遊び学会」(Académie des Jeux Floraux)と呼ばれる文学サークルの一員でもあった。

 トゥールーズ市のバラ十字会とは、厳密には一体どういうものだったのだろうか?この子爵がバラ十字会の一派を創設したのだろうか?ラパス子爵やボワサンやペラダンの述べたことを読んでいくと、トゥールーズ市のバラ十字会は十分に組織化された会だったのではなく、1860年前後に、エイドリアン・ペラダンに入門儀式を授けたボワサンを含む何人かの熟達した信奉者からなる小さな集まりだったようである。またトゥールーズの会員たちは、あからさまに敵意を表わしてくる人々に対して、フリーメーソンと混同されることを避けて、自分たちを守っていたことも知られている。

バラ十字カバラ団 (The Kabalistic Order of the Rose-Croix)

 ジョゼファンがデビュー作の成功を満喫していた1885年の9月29日に、兄のエイドリアンは薬剤師が誤って調合した薬によって亡くなった。エイドリアンの訃報を知らせる「トゥールーズのメサジェ」(Le Messager de Toulouse)紙の記事には、エイドリアンがバラ十字会員であったと述べられていた。本文は「カトリック教徒のR+C」(un R+C catholique)と署名されていたが、この謎めいた署名の背後にいたのはこの新聞の編集長を務めていたボワサンであった。後者は、印刷業者ポール・エドアール・プリヴァ(Paul Êdouard Privat)を通じて写真家のクローヴィス・ラサール(Clovis Lassalle)と面識があったこととをここに付け加えておこう。そして後に、H. スペンサー・ルイス博士がトゥールーズ市でこのラサールと会うことになる。

 この時期に、ジョゼファン・ペラダンとスタニスラス・ド・ガイタの友情は確かなものへと発展して行き、ペラダンの勧めで、ガイタがボワサンと接触した。1886年の8月12日付けの手紙でガイタは、友人ボワサンから学究的な長文の手紙を受け取ったことをペラダンに知らせている。ボワサンの名前の真ん中に十字のしるしを入れる(Bois+sin)のは奇妙な書き方であるが、この文通以来ガイタは、自分の書いた手紙にR+Cと署名するようになり、ペラダンのことを「親愛なるフレール(mon cher Frère)」と呼ぶようになった。このことにより、ボワサンが指揮する会に彼が受け入れられたと結論づけられるのではないだろうか。

 このころから、事態は急速に展開した。パリ市在住の秘伝学者たちの多くは神智学協会員だったが、神智学協会の行き過ぎた東洋思想に失望していた。その中にはパピュス(Papus)として知られているジェラール・アンコース(Gérard Encausse, 1865-1916)も含まれていた。医学を学んでいたパピュスは、パリ市内の「慈愛病院」(L’hôpital de la Charité) で催眠治療の調査研究をしていたジュール・ルイ博士(Jules Luys)といっしょに仕事をする機会があった。そこでオギュスタン・シャボソー(Augustin Chaboseau, 1868-1946)と出会い、マルティニスト会の存在を知った。1888年に指導者のルイ・ドラマール(Louis Dramart)が亡くなると、神智学協会のフランス支部は分裂した。パピュスは西洋のオカルティズムを復活させる機会を逃さなかった。彼は「秘伝学の基礎論」(Traité élémentaire de science occulte, 1888)を出版し、西洋秘伝主義を復活させ、各大学で扱われている他の科目と対等の地位をオカルティズムに与えようとした。

 その後の1889年9月に、アラン・カルデックの死後、心霊主義運動を指揮していたピエール=ガエタン・レーマリ(Pierre-Gaëtan Leymarie, 1817-1901)が心霊主義者とスピリチュアリストの国際会議を開催し、パピュスやF.-Ch. バルレ(Barlet)、オギュスタン・シャボゾー(Augustion Chaboseau)、シャミュエル(Chamuel)らが参加した。この重要な出来事によって、秘伝学研究者たちは神智学協会の活動から自由になり、特に1888年10月からパピュスが友人たちと発行した「L’Initiation」紙などは少なからぬ成功を収めはじめた。非宗教的な伝説に基づいて活動するために、秘伝学研究者たちはバラ十字運動とマルティニスト運動を新たに確立された殿堂の柱にしようとした。ジョゼファン・ペラダンとスタニスラス・ド・ガイタはこの計画に参与し、トゥールーズ市でのバラ十字会の活動が衰えていったときは、それを復活させることを決意した。「古代組織バラ十字会は現時点では休眠期にあるが、3年前(著者は1890年にこれを書いている)に、新たな組織作りによってバラ十字会を確固たるものとし、偉大なる伝統組織を正当に受け継ぐ2名の継承者が決定され……今や、復活した神秘の巨人の体全体に命が循環している。」

 このようにして、トゥールーズ市からパリ市へと移転し(1887-1888)、復興されたバラ十字会は「バラ十字カバラ団」(l’Ordre Kabbalistique de la Rose-Croix)となった。この組織は12人から成る最高評議会に指揮されたが、そのうちの6名は明かされなかった。その役割は、バラ十字会がどんな理由であれ解体されてしまった場合に、それを再建することであった。「12人評議会」には、時期はそれぞれであるがスタニスラス・ド・ガイタ、ジョゼファン・ペラダン、パピュス、A・ガブロール(A. Gabrol)、アンリ・ソーリオン(Henry Thorion)、F.-Ch. バルレ(Barlet)、オギュスタン・シャボゾー(Augustin Chaboseau)、ヴィクトール=エミール・ミシュレ(Victor-Emile Michlet)、 セディール(Sedir)、マルク・ハヴェン(Marc Haven)らが名を連ねていた。この組織は試験によって昇進する三つの位階(カバラ大学入学資格者、カバラ学士、カバラ博士)で構成されており、入門するにはマルティニスト会の位階S. I. の所持者でなくてはならなかった。

バラ十字カバラ団の象徴
バラ十字カバラ団の象徴

テンプル聖杯バラ十字会 (The Rose-Croix of the Temple and the Grail)

 「L’Initiation」紙のおかげで、「バラ十字カバラ団」は一般によく知られるようになり、その門前には熱心な秘伝学研究者たちの長い列ができた。トリュデーヌ通り(Trudaine Avenue)のアパートメントの一階で隠者のように暮らしていたガイタは、パピュスに組織の運営を任せていた。しかし、ジョゼファン・ペラダンのような芸術家で移り気な気質の者は、強固な意志で組織を運営するパピュスと全くそりが合わなかった。パピュスは組織をもっと大きく広げようとした。反対にジョゼファン・ペラダンは、慎重に選ばれた入門者だけに限定しようとし、パピュスが組織に課そうとしたフリーメーソン的な側面とは調和しなかった。この二人の言い分を和解させることは、とりわけジョゼファン・ペラダンがオカルティズムと魔術に関心をもっているとパピュスを非難したため困難を極めた。さらにペラダンは、バラ十字カバラ団の高い地位にあったアルタ神父(Abbé Alta)と共に、パピュスがオカルティズムと秘教主義を混同していると非難した。1891年の2月17日にペラダンがパピュスに送った絶交の書状は、「L’Initioaion」紙4月号に掲載された。

 伝統の継承者として、使命を全うできない瀬戸際に立たされたと感じたペラダンは、袂を分かつ決意をし、すでに1884年の最初の小説「至高の悪徳」にその概要を素描していた「テンプル聖杯バラ十字会」(「テンプル聖杯カトリック・バラ十字会」とも呼ばれていた)を1891年5月に設立した。1891年6月、ペラダンは自らこの組織のグランドマスターとなり、サール・メロダック・ペラダン(Sâr Mérodack Péladan)と名乗った。この出来事に関しては、「Le Figaro」紙が少なからぬ紙面を割いて多くの関連記事を載せ、人々に広く知れ渡ったため、パピュス本人や、ペラダンの脱退を非難していたパピュスの友人たちをひどく怒らせることとなった。

芸術の魔法 (The Magic of Art)

 テンプル聖杯バラ十字会が「メーソン的な堕落に汚されず、すべての異端者を浄化し、ローマ教皇から祝福される」のをジョゼファン・ペラダンは夢見ていた。そして彼は、「ノートルダム大聖堂に足を運び、主イエスの例にならって、この聖堂への敬意を表し、バラ十字の恭順を示したい」と願っていた。というのもこの組織は、バラ十字会の伝統と聖堂騎士団の伝統の統一を目指して設立されたからである。たとえば、「アド・ロサム・ペル・クルケム、アド・クルケム・ペル・ロサム、イン・エア、イン・エイス・ゲムマトゥス・レスルガム」(Ad rosam per crucem, ad crucem per rosam, in ea, in eis gemmatus resurgam)に、聖書の「詩篇」115章(ギリシャ語版113章B)から採られ聖堂騎士団が既に使っていた「ノン・ノビス、ドミネ、ノン・ノビス、セド・ノミニ・トゥオ・グロリアエ・ソラエ」(Non nobis, Domine, non nobis, sed nomini tuo gloriae solae)を加えてペラダンは座右銘を作っている。

 ジョゼファン・ペラダンが設立したテンプル聖杯バラ十字会は、バラ十字会と聖堂騎士団と聖杯騎士団の3つの旗印のもとで設立されたのだが、真正な入門儀式形式の組織ではなかった。基本的には、芸術家たちが集まる非聖職者友愛組織の形を取っていた。設立者自らはこの組織のことを、「知的慈善事業を行う友愛組織であり、〈聖霊〉と調和した慈愛事業の達成のために尽力し、〈王国〉の用意をするために、〈精霊〉の栄光を拡大するよう努める。」としていた。ペラダンは、「知識人の国際友愛結社」の設立を望んでいた。その目的は、物事に基礎と美を与える手段としての伝統とともに、理想への礼賛を復活させることであった。実際、ペラダンにとって、芸術に表現された美は人類を〈創造主〉へと導くことができるのであった。したがって彼にとって芸術とは「神聖な使命」であり、完璧な作品とは魂を向上させることの出来る作品であった。当時は明らかに衰退の時代であると考えていたペラダンは、芸術の魔法は差し迫った大災厄から西洋世界を救う最良の方法であると確信していた。

バラ十字カバラ団、左からパピュス、ペラダン、ガイタ
バラ十字カバラ団、左からパピュス、ペラダン、ガイタ

象徴主義 (Symbolism)

 ジョゼファン・ペラダンの計画は、ラファエロ前派芸術家(Pre-Raphaelite)と象徴主義者(Symbolist)の活動の後に続くものであった。前者は、ビクトリア朝時代の型にはまった絵画の貧相さへの反発として1848年に英国で起こった「ラファエロ前派協会」(Pre-Raphaelite Brotherhood)のメンバーの事である。この会はまた、効率性を上げることにとりつかれた工業化の時代にも反対し、芸術と職人の技術の再生のために活動していた。ラファエロ前派運動の創始者は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)、ウイリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais)であり、後にエドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)、ウィリアム・モリス(William Morris)らが加わった。彼らは中世の芸術を理想とし、16世紀の画家ラファエロ以前に描かれた伝統的な絵画を理想とし、それが理由で「ラファエロ前派」と命名された。特に彼らは、ルネッサンス期の画家フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)やルネサンス期以前のイタリアの画家の作品を賞賛した。このイギリスの運動のさきがけになったのは、聖ルカ修道会であり、一般にはナザレ派として知られ、国外追放されたドイツとオーストリアの画家たちが1809年に当時廃屋であったローマ市の修道院で設立したものであった。ラファエロ前派は「新ゴシック様式」(Neo-Gothic style)を創出し、イギリスでは「ゴシック復古調」(Gothic Revival)と呼ばれた。著述家にして画家であり教授であり美術評論家であったジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)が彼らの指導役を務めていた。

 作家かつ美術評論家であったジョゼファン・ペラダンは、芸術家たちが集まってイギリスで起こしたこの芸術運動と同様のことをしようとしたフランス象徴主義者たちの間で、自身が「ラスキン」の役割を担っていると考えていた。1886年9月15日に発行された、「フィガロ」誌(Le Figaro)の文学増刊号に宣言文を書き、すでに始まってから約15年も経過しているこの芸術運動を公式なものとしたのは、ジョン・モレアス(Jean Moréas)であった。その構成員には詩人や作家、音楽家や画家などがいたが、彼らは行き過ぎたロマン主義運動と自然主義運動に反発した。彼らは説明的なものではなく隠喩的で象徴主義的なものを好んだ。そしてエマニュエル・スエデンボルグ(Emanuel Swedenborg, 1688-1772)によって考え出された「対応の理論」を発見して、その規則を詩の中に採用したシャルル・ボードレール(Charles Baudelaire)の作風を倣おうと考えた。象徴主義者たちはまた、「香りと色彩と音が対応する」世界の秘密の調和と戯れることを好んだ。

 神秘学と秘伝学が、象徴主義者たちの重大関心事から外れていたわけではない。ギィ・ミショー(Guy Michaud)は秘伝哲学のことを、「象徴主義運動を動かしている神経であり、鍵である」と見ていた。ここではこの傾向の例として、その特徴がよく表わされているヴィリエ・ド・リラダン(Villiers de l’Isle-Adam, 1838-1889)の作品をいくつか列挙する。レミ・ド・グールモン(Rémy de Gourmont)はリラダンのことを「仮面の本」(Le Livre des masques)の中で、「現実世界の悪魔祓い師で、理想世界の門番」であると述べている。リラダンはアストラル体や心霊主義(spiritism)やマグネティズムや催眠術の理論にまつわる小説「クレール・ルノワール」(Claire Lenoire, 1887)を著した。「アノンシアトゥール」(L’Annonciateur, 1888)と「ヴェラ」(Vera, 1874)には、エリファス・レヴィ(Éliphas Lévi)の「高度な魔術の教義と儀式」(Dogme et rituel de la haute magie)から彼の語彙を取り入れている。バラ十字会員を描いたリラダンの傑作「アクセル」(Axël, 1872-1886)は、この著者が小説「ザノーニ」に見出したバラ十字哲学に強く影響を受けている。さらにリラダンは、エドワード・ブルワー・リットン卿の小説「イシス」(Isis, 1860)も源泉としている。またリラダンは、オギュスタン・シャボソー(Augustin Chaboseau)と親しい友人であったし、ヴィクトール=エミール・ミシュレ(Victor-Emile Michelet)やジョゼファン・ペラダンやパピュスなどの、マルティニスト会とバラ十字カバラ団の要職にあったメンバー全員と知り合いだった。リラダンはオカルティズムの主題を平易に表現したのだが、あらゆる世代が秘伝学への興味をかき立てられることとなった。

 しかしながら、作家以上に象徴主義の画家は私たちに関係が深い。ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)、フェルディナンド・ホドラー(Ferdinand Hodler)、ピエール・ピュヴィス・ド・シャルバンヌ(Pierre Puvis de Chavannes)、オディロン・ルドン(Odilon Redon)、ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)といった画家たちは、当時の画壇のリアリズムと対立した。彼らの多くが、作品を個人のサロンで展示し、無料で公開した。ジョゼファン・ペラダンは彼らを芸術の神秘家にしようとした。ペラダンはリアリズムを破壊し、理想の芸術運動を起こすことによってラテン風芸術を改革したいと考えていた。ペラダンはこの目的を心に抱いてバラ十字サロン、すなわち一連の美術展を定着させ、その美術展は象徴主義運動の最重要の数年間として歴史に残る事となった。

第1回バラ十字サロンポスター
第1回バラ十字サロンポスター

荘厳 (The Magnificents)

 バラ十字展覧会に加わりたい芸術家たちが、テンプル聖杯バラ十字会(L’ordre de Rose-Croix du Temple et du Graal)に入会する必要はなかった。その唯一の参加条件とは、禁止された表現を絶対にしないことであり、禁じられていたのは、軍事的または歴史的風景の描写、ペットである動物の描写、そして「職業でも他の修業風景でも、描き手がそれに不遜さを示している場合」であった。バラ十字展覧会の主宰は、神秘的な、あるいはインスピレーションを与えるような宗教的作品、装飾的な風刺画や、崇高な裸体画などはあまり好まなかった。作品の選抜は、「荘厳」という肩書きを持つメンバーからなる審査団によって行われた。そのメンバーには様々な人がいたが、中でも特によく知られているのは、美術展の財政面を担当し、後にはナビ派の後援者となったラ・ロシュフーコー伯爵(Comte Antoine de la Rochefoucault)や、「フランス文学者協会」(Société des Gens de Lettres en France)で長い間事務局長を務めていたラルマンディエ伯爵(Comte de Larmandie)、そしてアカデミーゴンクール(Académie Goncourt)の会員で、ジョゼファン・ペラダンの着想に影響を受けたラ・ネフ(La Nef)などの書物の著者であるエレミール・ブルージュ(Élémir Bourges)や、まさに「荘厳」と呼ばれ、近代芸術の巨匠の一人としてシュールレアリストたちから賞賛された作家のサンポール・ル(Saint-Pol Roux)や、そしてガリ・ド・ラコローズ(Gary de Lacrose)らであった。

バラ十字サロン (The Salons de la Rose-Croix)

 こうして、テンプル聖杯バラ十字会の活動はもっぱら美術絵画の展覧会と夜会を開催することに捧げられた。最初のバラ十字サロンは、1892年の3月10日から4月10日にかけて、パリ市民の間で名高い画廊「Durant-Ruel」で開催された。美術展は、開会式典によって幕が切って落とされ、その目玉はなんと言ってもテンプル聖杯バラ十字会公認作曲家エリック・サティによって特別に作曲された楽曲であった。その曲「バラ十字のファンファーレ」(Les Sonneries de la Rose-Croix)はハープとトランペットによって演奏されるもので、「会のアリア」と「グランドマスターのアリア」、そして「大修道院長のアリア」から成っていた。この楽譜の表紙は、偉大な象徴主義画家の一人ピュヴィス・ド・シャバンヌ(Puvis de Chavannes)の鉛筆画で装飾されて出版された。展覧会の最後は「バラ十字の夕べ」(Soirées de la Rose-Croix)で締めくくられ、劇と音楽が献呈された。サール・ペラダンの「星の息子」(Le Fils des Etoiles)の一場面に、エリック・サティ(Erik Satie)作曲のハープとフルートの前奏曲が三曲つけられ、1892年の3月17日木曜日の夜に上演された。これに加えて、サール・ペラダンが芸術と神秘主義について講演を行ない、ヴァンサン・ダンディ(Vincent d’Indy)、セザール・フランク(César Franck)、リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)、パレストリーナ(Palestrina)、エリック・サティ、ベネディクトス(Benedictus)らの作品が演奏された。レミ・ド・グールモンは「メルキュール・ド・フランス」(Mercure de France)誌のコラムで、初のバラ十字サロンを「今年一番の芸術展」と称した。そしてあまりにもたくさんの人々が来場して交通が遮断されたため、群集整理のために警察官が動員された。閉場までの間に、来場者は22,000人以上を数えた。驚きの大成功を収めたことと、他国の芸術家たちも出席したことから、この展覧会は世界中に影響を与えることとなった。バラ十字サロンは、象徴主義運動における最も重要な出来事のうちのひとつであったと言える。

第1回バラ十字サロンはエリック・サティが特別に作曲した楽曲で開幕した
第1回バラ十字サロンはエリック・サティが特別に作曲した楽曲で開幕した
エリック・サティ作曲「バラ十字のファンファーレ」
エリック・サティ作曲「バラ十字のファンファーレ」

 展覧会に出展した芸術家は193名にも登り、以下の人々も含まれていた。エドモン・アマン=ジャン(Edmond Aman-Jean)、エミール・ベルネール(Emile Bernard)、アントワーヌ・ブールデル(Antoine Bourdelle)、ウージェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)、ジョン・デルヴィル(Jean Delville)、シャルル・フィリジェ(Charles Filiger)、ジョルジュ・ド・フール(Geoges de Feure)、ウジェーヌ・グラッセ(Eugène Grasset)、フェルディナンド・ホドラー(Ferdinand Hodler)、フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff)、アンリ・マルタン(Henri Martin)、エドガール・マクサンス(Edgard Maxence)、ジョルジュ・ミンヌ(George Minne)、アルフォンス・オスベール(Alphonse Osbert)、ガエターノ・プレヴィアーティ(Gaetano Previati)、フェリシアン・ロップス(Félicien Rops)、ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)、カルロス・シュヴァーベ(Carlos Schwabe)、アレクサンドル・セオン(Alexandre Séon)、ヤン・トーロップ(Jan Toorop)。

 全部で6回のバラ十字サロンが開催された。それぞれはカルデアの神々の庇護の元におかれ、第1回がシャマシュ(Shamash:太陽神)、第2回がネーガル(Nergal:火星の神)、第3回がマルダックあるいはメロダック(Marduk:木星の神)、第4回がネボー(Nebo:水星の神)、第5回がイシュタール(Ishtar:金星の神)、第6回がシン(Sin:月の神)であった。この最後の美術展は誉れ高いジョルジュ・プチ画廊(Galerie Georges-Petit)で1897年に開催された。問い合わせが殺到したため、191名の美術評論家と記者たちに内覧会が開かれた。その翌日には12,000人もの来場者がこの芸術の殿堂に列をなした。この展覧会が開催された後、ペラダンはテンプル聖杯バラ十字会の休止を宣言した。「私はここで手を引こう。これまで私が守ってきた芸術表現は、いまや至る所で受け入れられているし、洪水が去った後の浅瀬を渡るために案内人を呼んでくる者がいるだろうか?」 しかしながら、主だった象徴主義画家たちの不参加が、この美術展全体の続行に影響を与えたようである。ペラダンが最も買っていた画家ピュヴィス・ド・シャバンヌが、展覧会の終りのほうでは手を引いていたことは、この顕著な例である。またバーン=ジョーンズとギュスターヴ・モローもまた手を引いていた。この2人は、既成の芸術様式に反抗する気はなかったのだが、しかし弟子たちにはバラ十字サロンへの出展を勧めていた。

 サール・メロダック・ペラダンは自らの最大の力を大衆に示した。しかし、ペラダンの風変わりな様子―アッシリア風のひげや髪型をして、すみれ色のベルベット地の服と、金の紐で飾りつけられたベストに、ラクダの毛で作られたバーヌース(アラビアのフード付き外衣)をまとって、鹿革のブーツを履いていた―は、人々に衝撃を与えた。この風変わりな衣装はカロプロソ・ピー(kaloprosopie)と彼が呼んでいた技術で作られたとのことで、この尋常ならぬ人物を風刺する機会を逃すことのないジャーナリストたちの注目を、数え切れないほど集めていた。この世紀の終わりには、他の多くの芸術家も、ブルジョア社会への反発として突飛な服を着て楽しんでいた。ペラダンは1918年に没するまで著作活動を続け、小説、戯曲、芸術および秘伝哲学に関する論文などから成る全集は19巻にも及んだ。

「薔薇の窓友愛組合」 (The Confraternity of the Rose Window)

 ペラダンはジョン・デルヴィル(Jean Delville)に、ベルギーにおける芸術事業を一任していた。そしてブリュッセル市で開かれた理想主義芸術家(Idealist Art)の展覧会は、バラ十字サロンの続行であったと言える。ベルギーでは象徴主義者たちの活動が極めて活発であり、ペラダンも講演をしに度々訪れていた。デルヴィル率いるプールラール(Pour l’Art)と呼ばれる芸術家集団が、サール・ペラダンと、ブリュッセル市でのペラダンの代理人であり文学運動を起こしたレイモンド・ニスト(Raymond Nyst)に直接接触した。フランス国内においては、ジョゼファン・ペラダンを信奉するポール・ビュリオ(Paul Vulliaud)によって1906年に創刊された「理想主義者の対話」(Revue des entretiens idéalistes)誌が、理想主義の画家や彫刻家の作品の展覧会を1907年に開催して、バラ十字サロンを続行させようと試みた。この試みは短命に終わったが、テンプルバラ十字会と志を同じくするフレール・アンジェル(Frère Angel)によって1908年3月に設立された「薔薇の窓友愛組合」から起こったもので、活動は非常に地味であった。かろうじて4人以上の会員がいたこの団体に、ペラダンは何の興味も示さなかった。「薔薇の窓友愛組合」は、1909年5月に第一回目の美術展を開催し、1911年5月に第二回目を、そして1912年10月に第3回目を開催した後、消滅してしまった。

ファルケンシュタイン伯爵 (Count Falkenstein)

 ジョゼファン・ペラダンはパピュス一派からひどく軽蔑されていたが、ペラダンのテンプルバラ十字会が成功したとたん、バラ十字カバラ団に深刻な嵐が吹き荒れた。この時期、バラ十字カバラ団はある程度の活動を継続していたが、団には確固たる基礎がなく、加えてパピュスが与えた強いオカルト的側面が、団を本来のバラ十字精神から遠ざけてしまっていた。疑いなくこの理由によって、団の硬直化が急速に進んでいった。最初からの会員であったヴィクトール=エミール・ミシュレはこう記している。団は、「広い活動範囲がなく、創設者の早世以前に休止状態に陥っていた。」実際、バラ十字サロンの扉が閉められたのと同じ年に、バラ十字カバラ団はグランドマスターを失った。1897年12月19日、スタニスラス・ド・ガイタは早すぎる死を迎えたのであった。そしてバルレ(F.-Ch. Barlet)、別名アルベール・フォシュ(Albert Faucheux)が後継に選ばれた。ペラダンとの和解を試みた後、バルレはバラ十字カバラ団を不活動なままにまかせたので、その後間もなく、団はなくなってしまった。バラ十字カバラ団の新グランドマスターでさえ、団のバラ十字運動の起源に疑問を抱いていたのではないだろうか。1898年7月、彼は「L’Initiation」誌に、カール・キースヴェッター(Karl Kiesewetter)著による「バラ十字会史」の翻訳版を掲載した。カール・キースヴェッターは、バラ十字会が2つの「宣言書」(1614-1615)よりも以前から存在していたと主張した。キースヴェッターはバラ十字会の歴史を、1374年頃の統領ファルケンシュタイン伯爵や1468年当時の統領であったヨハン・カール・フリーゼン(Johann Karl Friesen)など歴代の指導者たちの伝記や言行録を通して詳細に述べた。しかしそれらの出来事は純粋に伝説でしかなく、キースヴェッターは歴史的信憑性に欠ける情報源に頼っていた。彼の主張の根拠は18世紀後半に書かれた写本のみであり、彼が指摘した史料はテアトラム・ケミカム(Theatrum Chemicum:化学の劇場)の第4巻であるというのだが、その中にキースヴェッターが引用した部分は含まれていない。

 おそらくこの「会史」に支えられて、パピュスとバルレは、17世紀のバラ十字運動を自体の権威として使用していた同時代の他のバラ十字運動、―たとえば英国バラ十字会、黄金の暁団、テンプル聖杯カトリックバラ十字会など―との差別化を図ろうとしたのであろう。しかしその目論見は失敗に終わった。バルレは、パピュスがオカルティズムから距離を置くようになるとともに、ルクソル・ヘルメス主義者協会(H. B. of L.)とともに別の道を行ってしまった。1914年から1918年に起こった戦禍によって、オカルト研究者たちが華々しく活躍した時代は終わりを告げた。

 マギのバラ園は、十分に生き残る力のある花々をうまく作ることはできなかった。しかし、科学が発展し、産業革命が社会構造を覆した時代において、それぞれの団体は、秘伝知識探求者の興味を引くという重要な役割を演じた。「マギ」の信奉者たちでさえ、しばしばオカルティズムと秘伝主義と神秘主義を混同したが、彼らの探求は、人類の叡智の遺産を永続させることに貢献し、それは、自身の起源と運命についての人々の疑問を育むのに必要であった。そして、トゥールーズのバラ園はすぐに新たな枝を伸ばし始める。実際にこの時、若きアメリカ人ハーヴェィ・スペンサー・ルイス(Harvey Spencer Lewis)が、バラ十字会員に会うため、「赤いバラの街」を訪れていた。そしてこの旅の後すぐに、バラ十字会すなわち古代神秘バラ十字会(the Ancient and Mystical Order Rosae Crucis)が起こり、世界中に拡がり、現代における入門儀式形式の主要団体のひとつとなる事になる。

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※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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