以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

クリスチャン・レビッセ著
by Christian Rebisse

前回の記事では、西洋秘伝主義思想の概括的な歴史とバラ十字思想の関連を示そうと試みた。17世紀から第一次世界大戦までの間における、バラ十字会の前身に関しては述べたので、ここで古代神秘バラ十字会(the Ancient and Mystical Order Rosae Crucis)、一般にはその頭文字をとってA.M.O.R.C.として良く知られている会に焦点をあててみたいと思う。バラ十字の伝統の再生と再興のためにH・スペンサー・ルイス博士(H. Spencer Lewis, 1883-1939)によって創設されたこの組織は、歴史上最も重要な秘伝主義運動のひとつとなった。バラ十字会は現在、数多くの国々に本部(Lodge)と総本部(Grand Lodge)を擁し、世界中に25万人近い会員がいる。
バラ十字会の詳しい歴史をここに示すのでは、この連載の目的の限度を超えてしまうので、西洋秘伝主義の歴史の中でのバラ十字会の位置付けを示すことを目的として、この会の様々な源流を列挙し、その発展における最も重要ないくつかの局面を指摘することにしよう。それによって、H・スペンサー・ルイス博士のいくつかの著作、とりわけ最も良く知られている1916年に書かれた「ある巡礼者の東方への旅」から情報を引き出すことができるだろう。しかしながら、この記述には字義通りには受け取れない要素が含まれているため、この物語的な作品の別のバージョンを検討してみようと思う。この著作は様々な意味で、H・スペンサー・ルイス博士の自叙伝を構成していて、前者と同じ歴史が示されているが、一般大衆向けに書かれた最初の著書とはいくらか異なり、より“秘伝的”側面から書かれている。この自叙伝は、全体としては一度も出版されなかったことを、ここに記しておくべきであろう。「The American Rosae Crucis」、「Cromaat」、「The Triangle」、「The Mystic Triangle」、「Rosicrucian Digest」などの様々なバラ十字会の雑誌に掲載、出版された記事も利用して、考慮中の話題を論じるつもりである。我々は一般的に、それらの本質的要素だけを論じ、歴史的側面よりもロマンチックな側面が強調されている部分は除外して考察しようと思う。さらに、バラ十字会の最高本部の保管文書の中から見つかった膨大な資料も使用するつもりである。なぜならこれらの資料は、これまでに出版されてきた数々の文献の中で象徴的、あるいは漠然としか報告されていなかった事実を、興味深い方法ではっきりさせてくれるからである。
第一に強調すべき重要なことは、17世紀終わりにアメリカ北部に植えつけられたバラ十字の諸活動を継承するものとして、スペンサー・ルイス博士が古代神秘バラ十字会を位置づけたことである。さらにルイス博士は、「創設」 という言葉でなく「覚醒」という言葉を使用していた。その理由は、アメリカにおける第2期目のバラ十字運動を開始したのだと感じていたからである。この立場を強固なものにするため、ルイス博士はユーリウス・フリードリヒ・ザックス(Julius Friedrich Saches, 1842-1919)が自身の2冊の本で発表した諸研究にその活動の基礎を置いた。その本とは、1895年に出版された「1694年から1708年のペンシルヴァニア州の敬虔派ドイツ人たち」(The German Pietists of Provincial Pennsylvania 1697-1708)と、1899年に出版された「1708年から1742年の間のペンシルヴァニア州のドイツ分離派教会信徒」(The German Sectarians of Pennsylvania 1708-1742)である。ドイツ敬虔派の末裔であるザックスは、フィラデルフィア市のメーソン・テンプルの館長であり司書役であった。ザックスはその著書の中で、17世紀の終わりにアメリカに入植した移民の人々の歴史を詳述している。入植は最初ヨハン・ヤコブ・ツィンマーマン(Johann Jacob Zimmermann)に、そして次にヨハネス・ケルピウス(Johannes Kelpius)に率いられ、ペンシルヴァニアに入植地を建設しようと望んでいた敬虔派の人々が随行した。ザックスは以下のように書いている。
「……彼らは、神智学の熱狂者の一団で、敬虔派、神秘家、千年至福説信奉者、バラ十字会員、光明派(イルミナティ)、カタリ派信徒、清教徒などというあらゆる名前で呼ばれていたが、ヨーロッパでは彼らは、自身の神秘学の教義に従って「完成のチャプター(支部)」(Chapter of Perfection)として知られる団体を形成していた。そして、真の神智学の(バラ十字の)共同体を創設するという、長い間大切に育んできた計画を実行に移すために西の世界に来た。古代のエッセネ派の人々やモーゼやエリヤや、その他聖書に登場する人物たちのやり方に習って、神聖さにおいて自身を完成させるために、彼らは荒地や砂漠に分け入った。このようにして、彼らが近づいていると信じていた至福千年期のために自身を準備していた。もしくは、地球上の万物の終焉についての計算が自分たちを誤って導いている場合には、その共同体は、構成員のひとりひとりがそこから資格を与えられる核であることが立証され、人々の間から聖なる人々が出現し、都市全体を改革し、前兆と奇跡をなしとげる事になっていた。」
このようにザックスは、ヨーロッパからのこれらの移民をバラ十字会員であると見なしていた。しかしながらこの主張には、多くの著述家が批判的である。その中のひとり、アーサー・E・ウェイトは、ザックスの調査はロマン主義に浸りすぎていて、彼が提供した諸々の事実からは、そのような結論は導き出されないと感じていた。ウェイトによれば、敬虔派の人々のうちの幾人かは、占星術やカバラや、ヤーコプ・ベーメの著書に興味を示しているが、その事実では彼らを「バラ十字会員」と呼ぶのに十分ではない。また別の著述家セルジュ・ユタン(Serge Hutin)は、これらの移民とバラ十字運動との間に関係があると述べることは、ほとんど正当化されないと論じた。この問題について良く理解するためには、この人たちの起源を考えてみなくてはならない。敬虔派の活動には秘伝主義の性質があり、バラ十字会とも何らかのつながりがあったということは事実である。敬虔派であったケルピウスとヨハン・ヤコブ・ツィンマーマンは両名とも、バラ十字会員たちが存在していたことで極めて有名なドイツのチュービンゲン市を訪れた事があったのを、ここに付け加えておこう。

敬虔主義 (Pietism)
フィリップ・ヤコブ・シュペーナー(Philipp Jacob Spener, 1635-1705)牧師によってドイツで始まった敬虔主義は、17世紀にルター派に起こった危機によって発展した。敬虔派は、ドイツ三十年戦争(1618-1648)の終息後にルター派が直面したいくつもの困難に対して、有効な解決策を提示していた。宗教に人間的な側面を与える事を唱えていたシュペーナーは、個人の宗教的な体験とその内的生命が重要であるとしていた。そして同時代に生きる人々に、「プラクシス・ピエタティス」(praxis pietatis)、すなわち個人の敬虔――清めを特徴とし、内的な生まれかわりをもたらす再生を導く実習を実践することを熱心に勧めた。1670年からシュペーナーは、コレギア・ピエタティス(collegia pietatis)という敬虔派の集会を、ルター派の様々な教会教区の中に組織した。これらの小さな集まりに参加した人々は、そこで聖書を勉強し、キリスト教の大きな集会では通常は論じることができない神秘思想に触れた。アントワーヌ・フェーブル(Antoine Faivre)によると、「入門儀式形式の組織と敬虔派の間には、いくつかの著しい類似がみられる。」そして、「コレギア・ピエタティスは、ある意味では真に、ロッジ(lodge)の試験的な前身であった。」この運動はドイツで急成長し、その研究会集団の数は、ルター派の権威筋から要警戒の指摘がされるほどに増加の一途をたどっていった。ハレ大学のその学部を指導していたアウグスト・ヘルマン・フランク(August Hermann Francke, 1663-1727)の精力的な活動によって、敬虔派の運動は急速に拡大し、インドやアメリカにいくつもの共同体ができた。
ヨハン・アルントが、この運動にインスピレーションを与えていたと一般に考えられている。このルター派の神学者で医師にして錬金術師は、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの霊的な父であり、ドイツのチュービンゲン・サークルの指導者であったことを思い出してほしい。チュービンゲン・サークルは「バラ十字宣言書」の公表の背後にいた一団である。神秘家かつ錬金術師として、彼はパラケルススの遺産と中世キリスト教神学の統合を試み、内的錬金術、つまり霊的ルネッサンスの概念を発展させ、この概念をフィリップ・ヤコブ・シュペーナーが借用した。アルントはキリスト教神学の論争術から人々の注意を転じて、信仰に生きることと、敬虔な実践に戻るように導いた。デボーショ・モデルナ(Devotio Moderna、近代敬虔思想)の基礎をなす著書のうちの一冊、「キリストに倣いて」(Imitation of Christ, 1441)を擁護していたアルントは、1605年から1610年の間に書かれた「真のキリスト教信仰における四冊の書」(Vier Bucher vom wahren Christentum)によって最も良く知られている。この本は世界中でとても広く読まれたキリスト教の文献のひとつで、敬虔派の信徒はこの本を自分たちの第2の聖書と考えていた。シュペーナーはまた、この本の後の版の序文として書いた、敬虔主義を確立することになった著作「神を敬う欲求」(Pia Desideria)を1675年に出版した。ケルピウスがアルントの様々な著書をアメリカに持ち込んだ事は注目に値する。
「クリスチャン・ローゼンクロイツの化学的結婚」の著者であるヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの思想もまた、敬虔主義に影響を与えていた。ロラン・エディゴフェル(Roland Edighoffer)が指摘しているように、アンドレーエが賞賛した理想の組織であるソシエタス・クリスティアーナ(Societas Christiana)は、「敬虔主義の広大で実り多き運動……」のさきがけとなった。この運動はまた、イギリスの清教徒たちとの思想の交流の結果でもあった。このドイツ人達はイギリスの清教徒に実際に影響を受けていて、キリストの最初の弟子たちのものに近づく純粋なキリスト教信仰を求めていた。そして同じくドイツ敬虔派もイギリスの霊性に確実に影響を与えていて、特にジョン・ウェスレー(John Wesley) とジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield)のメソジスト派には与えた影響が大きい。

ベーメ信奉思想とカバラ (Jacob Boehme and the Kabala)
敬虔派の創始者フィリップ・ヤコブ・シュペーナーは、通常は異端と判断されてしまう教理に心を開いていた。シュペーナーは真のカバラ研究者ではなかったが、セフィロトの詩を書いたり、ヤーコプ・ベーメ(Jacob Boehme, 1574-1624)の教えを好意的に受けとめたりしていた。敬虔派信徒の多くは、カバラと、ドイツのゲルリッツ出身の神智論者であるベーメの理論の熱狂的な信奉者だった。それら敬虔派の中には、シュペーナーに目をかけられていたゴットフリード・アーノルド(Gottfried Arnold, 1666-1714)などの重要な人物が何人か含まれていた。彼はヨハン・ゲオルグ・ギヒテル(Johann Georg Gichtel, 1638-1710)の親類で、アムステルダム市でヤーコプ・ベーメの著作を編纂し出版した人物である。アーノルドはまた、敬虔主義に影響を与えたギュイヨン夫人(Madame Guyon)の弟子でベーメの信奉者でもあったピエール・ポワレ(Pierre Poiret, 1646-1719)と交流があった。また、二名の卓越した人物、ツィンツェンドルフ伯爵(Count Nikolaus Ludwig von Zinzendorf, 1702-1760)とエーティンガー(Friedrich Christoph Oetinger, 1702-1782)も、ゲルリッツの神智論者たちの考え方に強い影響を及ぼした。ヘルンフートの領地に1000人近い敬虔派を集めて共同体を率いたツィンツェンドルフ伯爵は、錬金術の象徴を好んで使用した。ヤーコプ・ベーメのように、キリストの再生された血を描写するのに「ティンクトゥール」(tincture)という表現を使った。カバラ思想に影響されるようになり、ジョン・アモス・コメニウス(John Amos Comenius)の改革思想に強く影響を受けた。二番目の人物エーティンガーは、シュヴァーベンの敬虔主義の父であり、ベーメ信奉者の神智学とカバラを結婚させようとした。最後に忘れてはならなのが、ベーメの信奉者で卓越したカバラ研究者で、クリスチャン・カバラのまさにバイブルである「Kabbala Denudata」(1677)の著者であるシレジアの牧師ローゼンロート(Christian Knorr von Rosenroth, 1636-1689)である。ヨハネス・ケルピウス(Johannes Kelpius, 1673-1708)は、チュービンゲン大学の研究者であったときにこのカバラ研究者と会っていたのは確かで、ローゼンロートの教理は、間違いなくケルピウスに影響を与えている。ケルピウスはアメリカに旅立ったときに、ヤーコプ・ベーメの様々な著作も持参していた。
至福千年説 (Millenarianism)
敬虔派の活動をそのまま至福千年説運動と見なすことはできないが、至福千年説を奉じた多くの人々には敬虔主義の傾向が見られた。一般的に言ってこの傾向は、17世紀にドイツを悩ました危機、宗教改革だけでなく、「小氷河期」と呼ばれる悲惨な気候の大変動によって生じた経済危機などによる帰結であった。さらに、伝染病の流行により人口も大幅に減少していた。人々の日常生活に大きな影響を及ぼしたこれらの出来事は、黙示録的な思想や、フィオーレのヨアキム(Joachim of Fiore)が構築した神の計画の三段階理論への人々の興味をかきたてた。
フィリップ・ヤコブ・シュペーナー(Philip Jacob Spener)は至福千年論者ではなかったが、至福千年思想の影響を全く受けずにいることはできなかった。1664年にシュペーナーは、ヨハン・ヴィルヘルム・ベッテション(Johann Wilhelm Petersen)が熱心に広めていた黙示録の六番目の天使の概念を擁護した。ベッテションと、その妻で当時の典型的な人物であったヨハンナ・エレオノーラ・フォン・メルロ(Johanna Eleonor von Merlau)はヴュルテンベルグ(ドイツ南西部地方)を訪れ、敬虔派のいくつかの団体と接触したが、これらの団体は世界の終末について述べ、黙示録的大惨事の後に最終的には全世界的再生が起こるという理論を説いていた。ヨハン・ヤコブ・ツィンマーマン(Johann Jacob Zimmermann, 1642-1693)は、この風変わりな夫妻との面識を得た。過去にチュービンゲン大学の研究者であったツィンマーマンは、神学者にして数学者、天文学者であり占星術者であったが、予言の計算に没頭していた。そして1694年が千年期の年、つまり、キリスト復活の年であると考えていた。この一大事に備えるために彼は、アメリカという人跡未踏の地に移住することを決意した。そして同じくチュービンゲン大学でかつて学んだことのあるヨハネス・ケルピウス(Johannes Kelpius)とともに、この大航海に同行する人々を募った。
ヴュルテンベルグの敬虔派の指導者ヨハン・アルブレヒト・ベンゲル(Johann Albrecht Bengel, 1687-1752)は、聖書の本文批評(textual criticism)の父と見なされ、予言の計算に携わり、「世界の変遷の諸段階」に関する論文をいくつも書いていた言語学者であった。多くの敬虔派主義者と同様にベンゲルは、ヨハン・アルントを崇敬しており、アルントのことを「ヨハネの黙示録」14章6節に出てくる天使、つまり「最後の審判」を告知する人物であると考えていた。興味深いことに、ヴュルテンベルグにおいて、そして特にバラ十字運動と呼ばれていた活動において、アルントはしばしば予言で言われているキリストの復活の前に現れるエリヤの生まれ変わりであると見なされていたことをここで指摘しておこう。さらにはアルントのことを、パラケルススが予告したエリアス・アルティスタ(Elias Artista)であるとさえ見なす者もいた。

フィラデルフィア教会と英国の至福千年思想 (The Philadelphian Society and English Millenarianism)
一般的に言って17世紀の終わりに至ると、もはや敬虔派の人々は、その時代がキリストの復活の最初の兆しであるとは考えなくなり、自分たちの信仰の証明を示すことができるように神が人類に一時的な猶予を与えたのであると考え始めていた。そこでこの人々は、クエーカー教徒のように聖なる教えに従って生活することができる共同体をいくつも世界につくろうと尽力した。ハレ市(ドイツ中東部)の敬虔派の人々は、インドの入植地と北アメリカのペンシルヴァニア州およびジョージア州の植民地のために資金を供給した。
1691年、エルフルト市の敬虔派の大学が閉鎖される理由になった争いの後、ツィンマーマンとケルピウスはアメリカ大陸へ移住する計画に着手した。そして1693年、2人は弟子の一団を引き連れてドイツを旅立った。最初に立ち寄ったのはオランダのロッテルダム市であったが、ツィンマーマンはそこで没してしまった。そこでケルピウスは長旅の指揮を執るため、ハインリッヒ・ベルンハルト・カスター(Heinrich Bernhard Köster)を副指導者に任命し、ヨハネス・ゼーリッヒ(Johannes Seelig)、ダニエル・フォークナー(Daniel Falkner)、ダニエル・ルートケ(Daniel Lütke)ルードヴィヒ・ビーダーマン(Ludwig Biedermann)らが補佐を勤めた。そしてその他34名の同志とともに、イギリスへと航海した。総勢40名はロンドン市に到着すると、英国のヤーコプ・ベーメ信奉者たちと接触した。
ベーメ信奉者は、「新教会」(New Church)が説いていた誇大な至福千年説と黙示録の予言を信仰していた。しかし、このような理論はヤーコプ・ベーメの哲学とは全く関係がなく、当時のイギリスではありふれたものであったフィオーレのヨアキムの提唱していた概念の影響を示すものであることに留意すべきであろう。同じ理由でルードヴィッヒ・マグルタン(Lodowicke Muggleton, 1609-1698)は、神の定めた第三の霊的時代について説教し、聖ペテロ教会に代わって「新教会」ができたと述べたのはこの理由からであった。そしてベーメの弟子でソフィア的ビジョンを体験したジェーン・リード(Jane Lead)も、『神の創造の驚異』(The Wonders of God’s Creation)の中で、「旧約聖書は〈父の時代〉においては適切であったが、〈子〉にとっては〈新しいもの〉が適切であり、いまや第三の時代が到来し、この時代において〈聖霊〉は、前時代のあらゆるものよりも優れたものを、自身の所有とするであろう……」と述べた。1697年には彼女の影響のもと、フィラデルフィア教会が発足したが、この団体は真のベーメ哲学から外れて、至福千年思想の傾向を強く帯びていた。ジェーン・リードは、世界の終焉が差し迫っていることと、フィラデルフィア教会が千年王国にふさわしい浄化された教会であることを信じていた。「展望の山へ登る」(The Ascent to the Mount of Vision)の中でリードは牧歌的な表現を用いて、終末の時に先立ってキリストの千年王国が地上に現れると述べている。

アメリカ大陸への旅立ち (Departure for America)
ケルピウスと同行した人々は、このような先入観に無関心のままいることはできず、実際にジェーン・リードの元を訪れている。そして英国のベーメ信奉者たちが資金と物資の支援をしたことにより、ケルピウスの一団のアメリカ大陸への航海が容易になったとセルジュ・ユタン(Serge Hutin)は指摘している。そして1694年の2月、ドイツの敬虔派のキリスト教徒はサラ・マリア号で航海に出た。5ヶ月の航海の後、船はクエーカー教徒のウィリアム・ペン(William Penn)が数ヶ月前にたどり着き「兄弟愛の市」と呼ばれていたフィラデルフィア市に到着した。このペンシルバニア州の都市では、クエーカー教徒とメノー派信徒とアメリカ原住民が非暴力主義を実践しつつ平和に共存していた。
フィラデルフィア市に到着してまもなく、ケルピウス一行は、ドイツ人が大きな共同体を形成していたドイツ人入植地の近くの、ウィッサヒコン川を見渡す尾根の近くに移り住んだ。一団はここに修道院式の生活に必要な個室と共有スペースのある総合施設を建てた。ケルピウスは自身の思想を説くために、〈幕屋〉(Tabernacle Room)と呼ばれる殿堂にその地域で活動していた様々な新教徒たちを呼び集めた。ケルピウスは共同施設から離れた場所に居所を構えたが、その洞穴は現在フィラデルフィア市のフェアマウント公園内にあり、見学することができる。
この小さな共同体は極度に霊的な生活を送っていた。そしてまたとても活動的でもあり、子供たちの教育に非常に熱心であった。敬虔派の人々は天文学から製本技術、時計製造技術などにもおよぶ様々な科目を教えた。彼らの薬学と植物学の知識が活かされ、ペンシルヴァニア州で初の植物標本館もできた。また、ツィンマーマンが1694年に予言した千年期の到来の最初の兆しを調査するために、建物の頂上に天文観測所を設けた。彼らには天文学の知識があったので、18世紀におけるアメリカ初の天文暦を作ることができた。ザックス(Sachse)が発見した文書には、ケルピウスと弟子たちが占星術と魔術にも造詣が深く、護符や魔術陣の図案をつくり、神的秘術(theurgy)をしていたことが示されている。また、彼らの中には錬金術を行っていた者もいたらしい。しかしケルピウスは敬虔派である共同体の人々に、祈りがいかに重要であるかをことあるごとに説いていた。例えば、『短く簡単でわかりやすい祈りの方法』(A Short, Easy, and Comprehensive Method of Prayer)と題するすばらしい小論を書いているが、この小論の原理は伝統的な『心の祈り』(prayer of the heart)と同様のものである。
この共同体は12年間栄えた。しかし、期待されていた千年期はやって来ず、共同体で暮らしていた幾人かは修道生活を放棄して集団を作ることを望むようになった。ケルピウスの補佐役を務めていたハインリッヒ・ベルンハード・カスター(Heinrich Bernhard Koester)の指導の下に、彼の配下の一群の人々はクエーカー教徒に加わり、「フィラデルフィア真教会」(the True Church of Philadelphia)を形成した。1708年にヨハネス・ケルピウスが没すると、共同体はかろうじて活動しているだけになってしまった。ケルピウスの最も親しい協力者のひとりであったフォークナーさえも、結婚して修道生活を放棄してしまった。そしてヨハネス・ゼーリッヒが共同体を率いようと試みたが成功に結びつくことはなく、ゼーリッヒはついに隠遁者として生きるために共同体を去る決心をした。その後コンラッド・マタイ(Conrad Matthai)が少しの間共同体を引き継いだが、ゼーリッヒと同じ轍を踏むこととなった。こうして共同体は少しずつ解散していった。
数年後の1720年に、パン職人コンラッド・バイセル(Conrad Beissel)が率いる数名のドイツ敬虔派の人々は、現在のペンシルヴァニア州ハリスバーグ市近くにあるコカリコ川岸に移り住んだ。そして1737年に、バイセルはエフラタ共同体と呼ばれる独身主義者の一団を組織した。隠遁者とはかけ離れて実際的であったエフラタの人々は、様々な仕事をこなすために製粉所や製材所や製紙工場、印刷機などの諸施設を建設し、共同体の活動はたいへん繁栄した。精神的活動も非常に多く行われ、彼らの合唱曲と賛美歌は良く知られている。1768年、バイセルの死後に共同体は弱体化して行き、18世紀の終わり頃には消滅してしまった。しかしながら、これらの神秘家集団の出現はペンシルヴァニア地域に深遠な影響を及ぼしたのである。
これまで示してきたように、アメリカ大陸に移り住んできたドイツの神秘家たちを正確にはバラ十字会員と呼ぶことはできない。彼らは秘伝主義と至福千年思想に強く影響を受けた敬虔派キリスト教徒であった。しかしながら彼らのルーツは、17世紀のバラ十字思想運動の中核をなしていたと考えられるチュービンゲンの霊的運動にある。パラケルススとベーメの弟子であったといわれているルター派教会の牧師であったシンセルス・レナトゥス(Sincerus Renatus、別名Samuel Richter)は、バラ十字会員がインドで平和に暮らすためにヨーロッパを去ったと主張していることを思い起こすべきであろう。これまで見てきたように、ドイツのハレ市の敬虔派キリスト教徒たちは1706年ごろフィラデルフィア市に共同体を営んでいたが、当時の多くの人々はアメリカ両大陸をインドであると考えていたことが分かっている。
したがってヨハネス・ケルピウスと彼の弟子たちは、ホワイト・マウンテン(White Mountain)の戦いの惨劇と三十年戦争の後にドイツを発ち、平和と友愛精神によって統治される社会をアメリカに建設しようと固く決意した人々の一部である。彼らが抱いていた理想社会の輪郭は、旅立つ十数年前にバラ十字宣言書に描かれていたものであった。ゆえに、ペンシルヴァニアの敬虔派キリスト教徒たちをバラ十字の系譜に位置づけることは、全く無謀であるとは言えないのである。

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※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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