以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

クリスチャン・レビッセ著
by Christian Rebisse

ハーヴェイ・スペンサー・ルイスは、これまでには知られていなかった一面をバラ十字運動に与えた注目すべき人物で、1883年11月25日に誕生した。彼の家系はウェールズ人を先祖に持ち、アメリカ独立戦争以前にヴァージニア州に移住してきていた。祖父のサミュエル・ルイスは、1816年11月7日にペンシルヴァニア州バッキンガムで生まれたが、この地域を開拓した農民の子孫だった。サミュエルは、フランス系移民の家系出身の教養のあるエリザ・ハドナット(Eliza Hudnut)と結婚し、二人はニュージャージー州キングウッドに居を構えた。そしてこの町で、1857年2月3日にアーロン・リッテンハウス・ルイス(Aaron Rittenhouse Lewis)が生まれた。母エリザは、アーロンが幼少のころからフランス文学を手ほどきしたが、霊的な事柄に関するある感受性もアーロンに伝えられた。家族の生活は、農場での仕事とメソジスト教会での活動が交互に繰り返されていたが、後には宗教がアーロンの生活で重要な位置を占めるようになった。アーロンはとりわけ熱心な信者で、キングウッドの教会で説教台に立つほどだった。アーロンはキャサリーン・ホフマン(Catherine Hoffman)と結婚した。彼女は1851年1月14日にドイツで生まれ、教師になる訓練を受けていた活動的な女性である。この夫婦から、1883年11月25日、ニュージャージー州フレンチタウンでハーヴェイ・スペンサー・ルイスが誕生した。
アーロン・ルイスは息子にスペンサーというミドルネームをつけた。というのもアーロンは、公立学校で長年採用されている筆記法を発明したスペンサー兄弟を尊敬していたからである。アーロンは優秀な書家(calligrapher)であった。そしてこの才能のおかげで、家族の農場を出て隣町の商業学校で教師の職を得ることができた。そして彼は芸術の才を生かして、帰宅後の夕べの時間に様々な挿絵(さし え)を仕上げて収入を増やした。キャサリーンも教師の仕事をして家計を助けた。そして一家はすぐにフレンチタウンを離れニューヨーク市に移り住んだ。そしてこの地でアーロンは、紙とインクを分析する専門家であった化学者のダニエル・T・エイムズ(Daniel T. Ames)と出会い、二人は共同して文書が真正のものであるか贋作であるかを科学的に分析する方法を考案した。その結果彼らは、専門的な職業分野を新しく創出することになり、アーロン・ルイスは三十年以上にもわたってこの分野の権威として業界を導いた。
H・スペンサー・ルイスは、幼年期のことを話題にして、こう書いている。「幼いころの家のことを思い出してみると、父は夜や余った時間の多くを調査と研究に費やしていた。母は結局教師の仕事を辞め、二人の兄弟と私の、学校の教師が課した宿題を丁寧に見てくれた。」*1ハーヴェイ・スペンサーは、飽くことを知らない好奇心を持った若者だった。物理学、電気学、化学に情熱を傾け、手に入る科学の本は、片端からすべて読破した。そして写真に興味を持つと、すぐさま自分でカメラを組み立ててしまった。また、幼少期からデッサンと油絵、音楽の才能を表していた。ハーヴェイはピアノを弾き、ニューヨーク市の学校の中でセカンド・スクール・オーケストラを組織した。このオーケストラは1899年の6月、H・スペンサー・ルイスが正規の教育を修了した記念として、卒業式に演奏会を行った。

神秘家の目覚め (Mystical Awakening)
H・スペンサー・ルイスの家庭環境は、彼の神秘的感受性を養うことに大いに役立った。父親のアーロンは、日曜日を必ず宗教的活動にささげていた。家族は日曜日になると、単に教会活動に参加するだけでは満足せず、聖書を読み、そしてその内容について討論した。ハーヴェイ少年は、ニューヨーク・メトロポリタン教会(Metropolitan Temple of New York)の活動に熱心に参加し、16歳になるまでメソジストセンターの聖歌隊で歌うことを好んだ。メソジストセンターはニューヨーク市内の若者たちの重要な集合場所であった。ハーヴェイはまた、メソジスト教会の牧師S・パークス・キャドマン博士(Dr. S. Parkes Cadman)の説教を熱心に注意深く聴いていた。
H・スペンサー・ルイスは良く、空いた時間をこの教会で瞑想をして過ごし、この場所は彼の精神的霊的なよりどころとなった。そして教会の牧師がこの若者の行いに目を留めないわけがなく、彼と牧師は神秘学に触れる題材について頻繁(ひんぱん)に話し合った。しばしば静寂の中、祭壇の前でハーヴェイ少年は沈思黙考し、聖なる神秘について内観した。後に自伝で彼はこの祈りの期間を、「自分に何が必要であるのか分からなかった。それゆえ、愛と平安以外には何も祈らなかった。」と記している。ハーヴェイはこの教会において最初の神秘体験をし、人間の深遠な本質、存在のもっとも精妙な部分であるソウルと接触できる可能性について自問するようになった。1900年に彼は学業を終え、ベイカー・アンド・テイラーという出版社の雑用係の仕事を見つけた。この仕事によって、彼はたくさんの本を自由に読むことができたが、それは彼の飽くことなき好奇心が求めて止まないものであった。
ニューソート思想 (New Thought)
1901年10月20日付けのニューヨーク・ヘラルド紙の夕刊に載った記事がルイスの注意をひいた。心霊科学史上他に類(るい)を見ない、ボストン出身の霊媒レオノーラ・パイパーの事例を扱ったものだった。*2当時ニューヨーク市では霊媒実験が大流行し、スピリチュアリズム都市となったニューヨークは、膨大な数のスピリチュアリズム信奉者を引きつけていた。以前の記事で触れたように、ピュイゼキュール男爵の信奉者シャルル・ポヤンによって1836年にアメリカにマグネティズムが紹介された後、この国ではスピリチュアリズムが広まっていった。*3そしてその後に起こった諸々の出来事により、これらの現象に研究者が興味を持つようになり、研究者たちの仕事により、超常的な能力を調査・研究するための様々な団体が創設された。最も威信のある団体は、1884年にボストンに設立された「アメリカ心霊研究協会」(the American Society for Psychical Research)で、その二年後にはイギリスにも「心霊研究協会」(the Society for Psychical Research)が設立された。H・スペンサー・ルイスもすぐさま類似の団体に参加した。
マグネティズムが社会的地位を得てくるにつれて、ニューソート(光明思想)運動が起こってきた。一般にかなり受け入れられ、ある意味では後のニューエイジ運動の前兆にもなったと言えるいくつかの運動があったが、ニューソート運動はそのうちのひとつである。ニューソート運動とは、思考にある創造的な力についての法則を教える、キリスト教とユダヤ教に共通のニュアンスを持った哲学的運動と言うことができる。その目的は、信奉者ひとりひとりをバランスのとれた調和した人生と自己実現に導くことである。さらには治療的な応用が含まれていて、これはニューソート運動に欠かせない側面のひとつであった。この運動の源は、ニューハンプシャー生まれの時計職人でありポートランドのヒーラー(治療者)であったクインビー(Phineas Parkhurst Quimby, 1802-1866)の構想である。シャルル・ポヤンの交霊会に参加した後、クインビーはマグネティズムを治療の目的で使い始め、ついにはメイン州ポートランドでこの活動に専念するようになった。弟子たちを健康と幸福に導くために、クインビーは心霊科学と哲学とキリスト教神秘学を混ぜ合わせて、彼が呼ぶところの「精神科学」(Mental Science)、別名「クリスチャン・サイエンス」(Christian Science)あるいは「健康の科学」(Science of Health)を作った。1840年には、彼の心霊実験はメイン州の新聞で報道されるまでになった。クインビーは大変良く知られるようになったが、その治療法や哲学を理論にまとめて本に著したり冊子にしたりすることは決してなかった。クインビーの考えはドレッサー(Annetta Gertrude Dresser)著の『クインビーの哲学、手稿精選と略歴』(The Philosophy of P.P. Quinby, with selections from his manuscripts and a sketch of his life, 1895)を通じて知ることができるのみである。

クインビーの死後、ニューソート運動は3人の、患者出身の信奉者に引き継がれた。一人目はエヴァンズ師(Reverend Warren Felt Evans, 1817-1889)で、スウェーデンボルグを信仰する聖職者であった。彼はクインビーに治療を受けたのち、その理論に魅了され、アメリカ初の精神的治療に関する著書『The Mental Cure』(1869)を執筆した人物である。この後、『秘伝キリスト教思想および精神治療』(Esoteric Christianity and Mental Therapeutics, 1886)などの多数の著作が続いた。そして二人目の継承者は、ドレッサー(Julius A. Dresser, 1838-1893)であった。ドレッサーは1860年にクインビーに治療を受けた後、自らの生涯を師クインビーの仕事の存続に捧げることとなった。どういうわけかドレッサーは、近代における最初のサイキック・ヒーラーであり、ニューソート運動の創設者であるとみなされていたが、この運動について彼は『精神科学の真の歴史』(The True History of Mental Science, 1887)の中で論じている。そして妻のアネッタ・ガートルード(Annetta Gertrude)と息子のホレーショ・ウィリス(Horatio Willis)もまた、この分野における権威であり、著述家である。
最後の人物はクインビーの三番目の弟子で、おそらくは最もよく知られているメリー・ベイカー・グローバー・パターソン(Mary Baker Glover Patterson, 1821-1910)である。彼女も1862年に不治とみなされていた病をクインビーに治療してもらった。しかしクインビーの死後、彼女は再び重篤な病を患(わずら)ったが、師の原理を適用して自分で治してしまった。それから独自の哲学を完成させ、それを『クリスチャン・サイエンス』(Christian Science)と名づけた。彼女はエイサ・ギルバート・エディー博士(Dr. Asa Gilbert Eddy)と結婚し、『科学と健康-付聖書の鍵』(Science and Health with Key to the Scriptures, 1875)を著した。この本でエディー夫人は、すべての病気には本来、心霊的な原因があり、祈りに基づいた肯定的思考を取り入れることで“霊を治療”して、その結果、調和状態の復帰が必然的にもたらされるという考え方を展開した。この本は驚くほどの成功を収め、1898年にはすでに140版を数えた。1881年にエディー夫人は夫の支援のもと、クリスチャン・サイエンスを教えるためにマサチューセッツ形而上学大学を設立した。彼女の指導のもとで学校は成功し、クリスチャン・サイエンスを学ぶ生徒は当時4000人以上にのぼった。その後1889年、彼女は自身の著作の改訂と組織の再編成のためにこの大学を閉校した。大学は1899年に再び門戸を開き、世界中に多数の信奉者がいる真教会運動へと徐々に発展していった。

キバリオン (The Kybalion)
アメリカ合衆国ではニューソート思想が、極めて高く評価された著作家たちの多数の書籍の出版という成果をあげ、その中には前述の作家たちに加えて、ラルフ・ウォルドー・トライン(Ralph Waldo Trine)、ヘンリー・ウッド(Henry Wood)、エラ・アデリア・フレッチャー(Ella Adelia Fletcher)、オリバー・C・サビン(Oliver C. Sabin)、ビクター・ターンブル(Victor Turnbull)、エンマ・カーティス・ホプキンス(Emma Curtis Hopkins)、プレンティス・マルフォード(Prentice Mulford)、ウィリアム・ウォーカー・アトキンソン(William Walker Atkinson)たちが含まれていた。アトキンソンは、アメリカ・ニューソート思想の極めて著名な代表的人物の一人として特記に値する。アトキンソンはフリーメーソン団員にして神智学協会会員で、ペンシルヴァニア州の弁護士で催眠学の教授であり、ニューソート思想のたいへん重要な著作家の一人である。アトキンソンは1902年から1915年の間に、実名およびヨギ・ラマチャラカ(Yogi Ramacharaka)の筆名で20冊ほどの本を出版した。その中で特に重要なのは、『ニューソートの法則』(The Law of the New Thought, 1902)と、『ヒンズー教ヨギの呼吸の科学』(The Hindu-Yogi Science of Breath, a Complete Manual of Breathing Philosophy of Physical, Mental, Psychic and Spiritual Development, 1909)の二冊である。これまでの作家と比較してアトキンソンを独創的にしているのは、ヒンズー教やヨガに関するいくつかの要素を理論と実践に取り入れている点である。この事は明らかに、彼の人生への2つの大きな影響の結果である。ひとつは彼が属していた神智学協会であり、もうひとつはスワミ・ヴィベカナンダ(Swami Vivekananda)である。スワミ・ヴィベカナンダは、ヒンズー教の代表として1893年にシカゴ市で開かれた世界宗教会議に出席し、その後ニューヨーク・ヴェダンタ協会(1894)が設立されるまで多くの都市で講演を行った。アトキンソンは著書で、マグネティズムによる健康回復や神秘学的呼吸法、カルマ、振動、極性、思考の投射や視覚化などの題材について触れている。
アトキンソンはおそらく、あの名高い『キバリオン―古代エジプトおよびギリシャのヘルメス哲学の研究』の著者であろう。この書は「3人の参入者」の作品であると表紙に示されていて、かすかに密かにヘルメス・トリスメギストスをほのめかしている。すべての知識を統合した、古代エジプトの王家の技法を明かしているとキバリオンの著者は主張していて、それはインドやペルシャや中国の源流でもあると述べている。そしてヘルメス・トリスメギストスのものであるとして、「7つのヘルメスの法則」を発表した。その法則の中には、対応、生命の諸振動、極性、リズム、因果律(カルマ)の法則があり、それに加えて、『ヘルメス全集』(Corpus Hermeticum)の文章の内容と実際にはほとんど関係がないが、特にニューソート思想の著作において明らかにされた題材も含まれている。このように『キバリオン』は、ニューソート思想の諸原理をヘルメス学の諸原理に結びつけようと試みているが、この運動のあらゆる概念を含んだ驚くべき総括となっている。

ニューソート思想の著作家に関する余談が長くなったが、この思想の、極めて注目に値する本の一冊、エラ・ホィーラー・ウィルコックス著の『ニューソートの核心』(The Heart of the New Thought, 1902)を指摘することで終わりにしたいと思う。この著書は即座に成功を収め、出版から3年のうちに40版に達した。彼女は数年後のアモールク(AMORC)設立のためにH・スペンサー・ルイスと共に尽力したことから、我々には特に興味深いものがある。
1860年から1910年の間に、ニューソート運動は急速に発展して行った。その成功の理由は疑いなく、実用的な特徴を持っていたことと、神智学協会の影響を薄めようとした結果である。ヘルマン・ド・カイザーリング(Hermann de Keyserling)が指摘したように、神智学協会とは対照的にニューソート思想は、単なるオカルティズムが、その性質として二次的なものであると考え、それを拒否したのであった。そしてそれよりも、自己実現へと向かう個人の能力の拡大の方法を提唱した。その適用は具体的で日常生活の諸問題を解決するために使うことができた。さらに神智学協会と対照的なのは、この協会がオリエントの文化に染まっておらず、キリスト教的な性格が根本にあったことである。アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームスは、心理学的な見地から、ニューソートが提唱する「精神治療」と、ルターのプロテスタント思想およびウェスリーのメソジスト派思想との間に顕著な類似点を見いだしている。
アルベルト・ルイ・カイエ(Albert Louis Caillet)が数々の証言を行ったにもかかわらず、フランスにはヘクター・ドルヴィル(Hector Durville, 1849-1923)以外にはニューソート運動の追従者がほとんどいなかった。ドルヴィルは、神智学協会と、パピュスが指導する入門儀式形式の団体(マルティニスト会とバラ十字カバラ会)から離れた後の1893年に超心理学と催眠の研究を促進し、セラピストを養成する手段としてマグネティズムとマッサージを実践する学校を設立した。彼はフランスにおけるマグネティズム運動の一端を担っていたが、デュ・ポテ男爵の仕事を続けていたことを忘れてはならない。この男爵はニューソート運動、特にプレスティン・マルフォードの著作に影響を受けていた。ドルヴィルの『マグネティズム・ジャーナル』誌(Journal du magnetisme)は、世界中に広く知れわたった。1909年には、バビット博士(Dr. Babbitt)が長であるニューヨーク・マグネティズム単科大学が、ドルヴィルと密接に関わりながら活動していた。

ニューヨーク心霊研究協会 (The New York Institute of Psychical Research)
1902年から1909年の間、H・スペンサー・ルイスは心霊主義者の活動に興味を持ち、個人的に調査を始め、その数々の教義を試験してみるようになった。そしてすぐに、霊媒を通して霊が発したと推測されていた様々なメッセージには、ほとんど重要性がないことを理解した。1902年、彼は調査をさらに拡大する目的で、詐欺目的の霊媒師を調査する専門委員会に加わった。あらゆる活動領域から集まった男女で組織されたこの委員会は、霊媒師とともに様々な実験をすることによって、これらの不可解な現象をより良く理解しようとしていた。委員会に参加して丸2年が過ぎようとしている頃、ルイスは20歳にしか達していなかったが会長に任命された。彼自身はこの名誉を、自身が持ついくつかの非凡な心霊能力によるものだとしている。1904年には、ニューヨーク・イブニング・ヘラルド紙の支援を受け、霊媒を調査する委員会を主宰していたこの土地に、ニューヨーク心霊研究協会を立ち上げた。彼が代表に任命されたこの団体は、科学者や医師が核となっていた。協会のメンバーには、作家で詩人のエラ・ホィーラー・ウィルコックスや、心霊科学研究(The Widow’s Mite and Other Psychic Phenomena, 1904/The Psychic Riddle, 1907)で有名なアイザック・カウフマン・ファンク博士(Dr. Isaac Kauffman Funk, 1839-1912)などの著名人がいた。
この時期のアメリカ心霊研究協会は、ボストン市に本部があり、合衆国内の心霊現象の調査の分野で支配権を握っていた。しかし指導者リチャード・ホジスン博士(Dr. Richard Hodgson)が1904年に亡くなってから勢いがなくなり、翌年の1905年には活動を停止してしまった。それからたった1年後に、ジェームズ・H・ヒスロップ博士(Dr. James H. Hyslop)は活動が停止したこの組織をアメリカ科学調査協会としてニューヨーク市で再組織した。以上から分かるように、ボストン市の心霊調査団体の活動停止によって生じた空白期間は、ニューヨーク心霊研究協会というもうひとつの団体に参入の機会を与えることとなった。H・スペンサー・ルイスの指揮のもと、この新団体が霊媒の真の能力を試すために調査を行った結果、50件以上にもおよぶ捏造が明らかにされた。また、この団体はニューヨーク警察および日刊新聞の『ニューヨーク・ワールド』紙と連携して活動を行った。ルイスはこの時期に、心霊現象の調査に関する数多くの記事をニューヨーク・ヘラルド紙とニューヨーク・ワールド紙に発表した。そのうちのひとつ、『1906年の驚くべき心霊的出来事』(Greatest Psychic Wonder of 1906)と題された記事は、1907年1月に発行された『ニューヨーク・サンデー・ワールド』紙に著者の似顔絵とともに掲載されたが、それはニューヨーク心霊研究協会が若いインド人の霊媒と行った実験について議論したものであった。
しかし、ルイスがこういった調査に満足を覚えることはなかった。霊媒を通じて生じる現象が、霊が現れたことに由来するとは、ほとんど信じることができないことを見いだしていたからである。むしろ、それらの現象は、いまだに知られていない心霊能力に由来すると納得していた。ルイスが、数ある中からハドソン(Thomson Jay Hudson, 1834-1903)の著作を知ることとなったのは、この時期である。ハドソンは哲学博士で、始めて出版した1893年の『心霊現象の法則』(Law of Psychic Phenomena : a Working Hypothesis for the Systematic Study of Hypnotism, Spiritism, Mental Therapeutics…)以後、世界的な名声を受けていた。マグネティズムやスピリチュアリズム、精神の二元性、意識と無意識について触れたこの本をルイスはむさぼるよう読んだ。とりわけ彼の興味を引いたのは、この本がテレパシーについて科学的に研究をしていたためであり、意識と無意識をつなぐものとしての暗示、精神で物質を支配することができる方法が書かれていたためであった。またルイスは、オリバー・ロッジ卿(Sir Oliver Lodge)の著書で、当時ほとんど知られていなかった人間の能力について研究した『人間の生存』(The Survival of Man)や、より心理学的な傾向の強い『生命と物質』(Life and Matter)も読んでいた。

1906年から1907年の間、ルイスは心霊現象の研究からは何も生じないと判断し、それを中断した。次に続いたのは内省の期間であった。そして日課としている瞑想中に、生命の数々の神秘に関する疑問の答えを見いだしつつあることに気づいた。これらの体験の最中に大いなる平安を経験し、目覚めた意識に戻った時には、創造主と自然界に関する諸法則と諸原理についての指導を内的に受け取ったという印象を得たと彼は自伝に記している。これに当惑した彼は、ニューヨーク心霊研究協会で知り合った年上の女性、メイ・バンクス‐ステイシー(May Banks-Stacey)に秘密を打ち明けて相談した。そのような体験の間に、過去世で得た知識をあなたはおそらく再発見しているのであろうと彼女はルイスに告げた。そして、ルイスがこれまでの過去世で一度かそれ以上、『エジプトのバラ十字会』のような神秘学の友愛組織に確かに属していたとさえ彼女は述べた。H・スペンサー・ルイスはこの答えに驚いた、というのもバラ十字とエジプトの結び付きを明かしていたからである。
その後の時期にルイスは、バラ十字会の情報を捜し求めたが、この組織がドイツに存在していたこと以外、何の情報も得られなかった。この時までルイスは、秘密のバラ十字会の存在について何も読んだことがなく、わずかな間接的言及にさえも出合ったことがなかった。そして1908年から、彼の思索の全てはひとつの目標へと向かい始めた。古代の神秘家たちが教えていた事を発見し、自身の心霊的体験を通じて見つけ出すことの出来た事柄をその教えと比較するという目標であった。

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※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
第3号:学習の4つの課程とその詳細な内容、古代の神秘学派、当会の研究陣について





