以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

クリスチャン・レビッセ著
by Christian Rebisse

ハーヴェイ・スペンサー・ルイスはメイ・バンクス・ステイシー(May Banks-Stacey, 1846-1919)をAMORCの協同設立者であると考えていたが、彼女は世間では、あまり知られていない。それゆえに、このバラ十字会員の奇妙な旅について手短に考察しておくのは、重要なことであろう。メイ・バンクス・ステイシー、旧名メアリー・ヘンリエッタ・バンクスは、高名な法律家サディアス・バンクス(Thaddeus Banks)とディーリア・クロムウェル・レイノルズ(Delia Cromwell Reynolds)との間に生まれた。学生時代から優秀であった彼女は、ついには弁護士免許も取得した。また、すばらしい音楽家としての一面もあり、美声の持ち主でもあった。そして優雅さを兼ね備えた女性として、ワシントン市、後にはニューヨーク市の社交界をにぎわせた。1869年にステイシー大佐(May Humphreys Stacey, 1837-1886)と結婚したが、まだ40歳のときに未亡人となった。この新しい状況によって、まだ比較的若かった彼女は、これまでには時間がとれなかった活動に没頭するようになっていった。
東洋思想 (The East)
夫の死後、メイ・バンクス・ステイシーはかなり頻繁に、息子の一人であるクロムウェル・ステイシー大尉の元に身を寄せている。軍人がしばしばそうであるように、ステイシー大尉は、時あるごとに国外旅行を余儀なくされていた。母親である彼女も大抵は同行し、メイ・バンクス・ステイシーは中国、日本、インド、チベット、フィリピン、ヨーロッパ、キューバ、オーストラリアを旅することとなった。メイ・バンクス・ステイシーの娘の言によると彼女は、ズールーランド(南アフリカ共和国北東部)の首長や何人ものインド各地の先住民の統治者と会っていて、そしてバハーイ教の創始者であるバハーウッラー(Bahaullah,1817-1892)の哲学を学んでいた。
メイ・バンクス・ステイシーは神智学協会の会員であり、「神智学者の内陣の会」(Theosophist Inner Circle)の一員になる機会もあった。神智学者の内陣の会はエレーナ・ペトロヴナ・ブラバツキー夫人が神智学協会内に結成した秘伝主義団体で、その構成員はブラバツキー夫人と直接誓約を結んでいた。AMORCの協同設立者のメイ・バンクス・ステイシーもまた、東洋への興味を抱いていて、スワミ・ヴィヴェーカナンダ(Swami Vivekananda, 1862-1902)の教えに惹きつけられていた。ヴィヴェーカナンダはラーマクリシュナ(Ramakrishna, 1836-86)の弟子であり、1893年5月にインドのボンベイからアメリカに渡った。そしてガンジーなどの人物とともに、1893年9月11日からシカゴで開催された世界宗教会議にヒンズー教の代表として出席した。スワミ・ヴィヴェーカナンダは大成功を収め、アメリカに留まるよう請われるほどであった。そして3年の間アメリカ国内を旅して周り、ヴェーダンタ哲学とラーマクリシュナの教えについて講演やセミナーを行った。彼の思想は、当時のニューソート(新思想)運動の担い手たちに影響を及ぼした。作家のロマン・ロラン(Romain Rolland)は、クリスチャン・サイエンスの創設者メリー・ベイカー・エディさえもがスワミ・ヴィヴェーカナンダの影響を受けていたとしており、ニューソート思想の教師の中でも考え方が最も東洋風であったウイリアム・ウォーカー・アトキンソン(William Walker Atkinson)が影響を受けていることも、おそらく事実である。一方で、スワミ・ヴィヴェーカナンダの教えは神智学協会の拡大を抑制する方向にも働き、より正確な東洋世界のイメージを西洋に提示することにもなった。メイ・バンクス・ステイシーはヴィヴェーカナンダが1894年と1896年にニューヨーク市で行った講義を受けていて、その時期に東洋哲学に入門している。
マンハッタン神秘学会 (The Manhattan Mystic Circle)
メイ・バンクス・ステイシーは、フリーメーソン団員の家系に生まれた。1761年に、彼女の先祖のジェームズ・バンクス(James Banks,1732-1793)は、ニュージャージー州で初のメーソン・ロッジである聖ヨハネ第一ロッジを創設したメンバーの一人で、そのロッジの下級監督人の職を務めていた。メイ・バンクス・ステイシーの父親がフリーメーソンの会員であったかどうかは不明であるが、娘が「東方の星」に入会していたことから、おそらくはそうであったのであろう。この団体は、最も古い男女混成のフリーメーソン管区のひとつである。この会に入会する権利には、いわゆる「フリーメーソンの恭順」が含まれていて、メーソン会員の母親や妻や姉妹や養女の席が確保されていた。しかし、メイ・バンクス・ステイシーが「東方の星」に入会していたという情報には不明確な点が残っている上に、この「東方の星」とは、今話題にしているメーソン組織とは無関係である可能性があり、アニー・ベサントによって設立された、神智学協会と密接な関係にあった同様の名称が付けられた別の会であるのかもしれない。論理的に見ても、その可能性がある。というのもこの運動において、メイ・バンクス・ステイシーは、極めて積極的に活動していたからである。
AMORCのこの協同設立者はまた、「マンハッタン神秘学会」の一員でもあった。この会は、メーソンの恭順の儀式団体で、主たる活動者として彼女は頭角を現すことになった。1898年2月に設立されたこの副次的な組織は、互助会の形をとった慈善団体で、メーソン会員の妻・姉妹・娘・養女からなっていた。「マンハッタン神秘学会第一ロッジO.M. 規約」(Constitution and bylaws of the Manhattan Mystic Circle, Lodge No,1 O.M.)によると、会の指導者は「光り輝くミストレス」と呼ばれていた。この文書の写しを調べてみると、この役職は、メイ・バンクス・ステイシーが勤めていたと推測することができる。彼女はこういった秘伝主義思想の活動以外に、政治にも興味を抱いていた。彼女は愛国婦人団体「アメリカ革命の娘」(Daughter of the American Revolution)と「植民地婦人会」で活動しており、そして1898年には、来るべき大統領選のための作業を行うニューヨーク女性共和党組合(New York Women’s Republican Association)の初代副総長も務めていた。
エジプト (Egypt)
メイ・バンクス・ステイシーは、あらゆる形式の秘伝哲学・オカルティズム、とりわけ占星術や手相占いや白魔術に惹きつけられていた。インドやチベットを旅して回る間に彼女は偉大な叡智を入手したと、彼女の娘が手紙に書き残している。「他のどの国よりもエジプトを母は好いていたと私は思います。母は私に、古代エジプトの神殿をかつて訪れた時に体験したいくつかの印象について、つまり母の数多くの過去世のうちの古代エジプト人であったときの印象について話してくれました。」H・スペンサー・ルイスが述べているところによれば、メイ・バンクス・ステイシーには、複数のバラ十字会員から「神秘の宝石」と封印された複数の文書が与えられ、その文書はもう一人の人物が現れるまで彼女が保持しなくてはならないもので、その人物は、その封印のひとつと完全に同一な封印を彼女に示し、アメリカでバラ十字会を設立する助けを依頼することになっているのであった。
エジプトでメイ・バンクス・ステイシーが出会った参入者とは、誰であったのか? H・スペンサー・ルイスはこれについて何も述べていない。歴史からその存在が失われてしまったバラ十字会員か、あるいはバラ十字の段位にあったフリーメーソン団員を、彼が名前で示したことがあったのであろうか?この件で我々が忘れてはならないのは、1863年ごろ、ジョン・エチエーヌ・マルコニス・ドゥネーグル(Jean-Étienne Marconis de Nègre)がジョゼフ・ドゥボルーガール(Joseph de Beauregard)に、ある儀式を行う特別許可を与えていたことであり、その儀式は、メンフィス最高聖所(Sovereign Sanctuary of Memphis)をエジプトで創設するためのものであり、バラ十字の段位に特別な重要性を与えている。バラ十字の継承は同様に、カイロ市在住のギリシャ人マルティニストであったデメトリウス・プラトン・セメラス(Demetrius Platon Semelas, 1883-1924)も所有していた。セメラスは、1902年にアトス山(ギリシア北東部)の僧院において「オリエントのバラ十字」の遺産を受け継いだと言われていた。そしてまた1911年の10月に彼は、「R. C. の熱望者」の段位の入門儀式を、エジプトを旅行していたマルティニスト会の視察官ジョルジュ・ラグレーズ(Georges Lagrèze)に授けている。言い伝えでは、ラグレーズは後に、パピュスにこの入門儀式を伝えたとされている。メイ・バンクス・ステイシーと出会ったのは、はたしてセメラスであったのであろうか? これは単なる推測でしかない。しかし、もしそうであったならば、多くの謎が解明されることになる。特に、1913年にH・スペンサー・ルイスがウジェーヌ・デュプレ(Eugène Dupré)と接触した事実が説明される。デュプレはセメラスの助手であったからである。
H・スペンサー・ルイスは述べるところによれば、メイ・バンクス・ステイシーは、エジプトを発った後にインドへ赴き、エジプトで受け取った文書を示し、バラ十字会に入門した。そしてアメリカでバラ十字会を立ち上げるための特使に任命されたが、アメリカのバラ十字会は1915年までは設立されることはなく、それはフランスバラ十字会の後援のもとになされると告げられた。AMORCの協同創設者の人生におけるこのエピソードは、依然として謎に包まれている。というのも、彼女がインドで入門儀式を受けたことを適切に解釈するための有力な手がかりが私たちにはないからである。それともこの事柄は、彼女が行ったかもしれないアディアールへの旅のことを指していると考えるべきなのであろうか。この地には、メイ・バンクス・ステイシーが会員であった神智学協会の本部があった。心に留めておくべきなのは、この組織が常にバラ十字会と、かなり密接な関係にあったということであり、以前に指摘したように、神智学協会の創設者はその組織に、「バラ十字会」という名称を与える事を考慮したが、その代わりとして「神智学」という名称を採用した。ブラバツキー夫人の死後、アニー・ベサントは神智学協会とバラ十字会との親密な関係を強調していた。ベサントは最初に「東方の星」(Eastern Star)という団体を創設し、その後1912年に「バラ十字の殿堂の会」を組織したが、これは1918年には終わった短命の活動であった。メイ・バンクス・ステイシーがインドで接触したのは、この組織だったのだろうか? この仮説はもっともらしく思える。この旅の後、メイ・バンクス・ステイシーはロンドンに滞在して、秘伝哲学の卓越した研究者と称されていたデータ・コンツ(BE, Deta Conts)という人物に会ったと、H・スペンサー・ルイスは回想している。それからメイ・バンクス・ステイシーは、ニューヨークに戻るとフリーメーソンの活動に没頭して行った。

新存在論 (The New Ontology)
メイ・バンクス・ステイシーは、H・スペンサー・ルイスによって立ち上げられた「ニューヨーク心霊研究協会」の会員であったと、以前の記事で述べた。彼女が会員になったのがいつだったかは定かではない。H・スペンサー・ルイスは自らの伝記で、メイ・バンクス・ステイシーに会ったのが1907年の終わり頃であったと述べている。当時の彼は24歳の若さで、挿絵画家としてニューヨーク新聞に雇われていた。また報道写真家として、いくばくかの成功を収めてもいた。これらの活動を行いながら心霊研究協会の職にも留まり、さらに心霊科学と秘教についての小論も書き始めた。そして1908年の2月には、ニューソート運動に属する月刊誌「The Future」にも寄稿した。「ルイス教授」のペンネームで、占星術に関する多くの記事を書き、ロイル・サーストン(Royle Thurston)という筆名を使って「新存在論」と題するシリーズの第一部を出版した。この著作を彼は、生と死、および心霊現象を説明する新しい科学の連続講座であると説明していた。そして根源的生命力、食事法、健康法、磁気治療、催眠療法、心霊エネルギーなどの話題をとりあげた。しかし、この月刊誌との協働は短期間で終わってしまった。というのも、ルイスはその2ヵ月後に、人生を一変させてしまう体験をしたからであった。
神秘体験 (A Mystical Experience)
H・スペンサー・ルイスは、多忙なスケジュールのため、ニューヨーク市7番街にあるメトロポリタン教会に戻る機会はほとんどなかった。そこは幼少期の7年間、彼の霊的な家であったが、1908年の春、その場所へと戻りたいという衝動にルイスは駆られた。復活祭後の木曜日の午後4時30分頃、彼は教会を訪れると信徒席に座り、瞑想を始めた。そして不可視の、長くて白いひげをたくわえた人物の存在を感じ、その人が平安と調和の印象を与えてくれたのを感じた。この神秘的な人物は、ルイスが得たいと熱望している知識は書物の中にはなく、自身の内部の深いところにあるとルイスに告げた。そしてまた、フランスに行ってバラ十字会に入門するようにと告げられた。この神秘的な人物とは誰だったのか? それは本当に霊的な存在だったのだろうか? それともカール・ユングの描写しているような古代の賢人の元型を知覚したのだろうか? 確実に言えることは、この体験がH・スペンサー・ルイスに極めて深い感銘を与え、彼が「東方への巡礼の旅」を始めるきっかけとなったことである。
ルイスはフランスのバラ十字会に関する情報を得ようと、手元にあったカタログを頼りに、パリ市内の書店関係者に手紙を書くことにした。この人物が誰であったかを特定することに、私たちは成功していないが、その人は新聞編集者でもあったとされている。この謎の人物はアンリ・デュルヴィル(Henri Durville)であった可能性がある。彼はパリ市内のサン・メリー通り23番地に書店と図書館と出版社を所有していた。「マグネティズム図書館」は、マグネティズムや秘伝思想、オカルト哲学に関する8000冊以上の書物や雑誌を所蔵し、稀少本を探す研究者に蔵書の貸し出しを行っていた。また、この専門分野に関する70万点にも及ぶ版画や肖像画、手稿や資料などの収集品があり、自由に利用できた。また出版社としては、世界中で売買している著作の大規模なカタログを発行していた。そしてデュルヴィルは、「マグネティズム・ジャーナル」(Journal du magnétisme)の責任者であり副編集者でもあった。1909年10月号の「マグネティズム・ジャーナル」によれば、バビット博士(Dr. Babbitt)の指導によるマグネティズムの単科大学がニューヨーク市に存在し、デュルヴィルの「フランス・マグネティズム協会」(Société magnétique de France)と密接な連携を保ちながら活動していた。その正体が誰であるにせよ、H・スペンサー・ルイスが連絡をとった書店関係者は、以下の返答を送ってきた。
貴殿がパリ市にお越しになり、サンジェルマン大通り○○番地にある、言語学教授**氏の研究室をお訪ねになれば、お問い合わせの会についての話を聞くことができるでしょう。その際には、このメモを教授にお渡しください。また、貴殿から教授に手紙を書き、訪問する旨と、利用される船の便名を通知されるのが丁重な計らいと存じます。
フランスへの旅 (The Journey to France)
ルイスの経済状態では、そのような船旅を考慮する余裕はなかったが、すぐに思いがけない好機が訪れた。父親のアーロン・ルイスは、文書認証の専門家であるとともに良く知られた系図学者であったことから、ロックフェラー家に関する調査でフランスへ行くことになり、助手を必要としていたのであった。そして1909年の7月24日、2人はハンブルグ・アメリカ運輸の「アメリカ」号でヨーロッパへと向かった。8月1日の日曜日、船はフランス北西部の港町シェルブールに到着し、二人は列車でパリへと向かった。続く数日間はロックフェラー家の家系調査に明け暮れ、その後やっとルイスは書店を訪れ、サンジェルマン大通りで言語学教授に会うことができた。書籍「東方への巡礼の旅」には、8月7日の土曜日と8月9日の月曜日に教授と会見したことが記されている。この男性は45歳前後で、完璧な英語を話し、ルイスの意図を測るように鋭い質問をしてきた。そして二回目の会見の後、教授はこのアメリカからの訪問者に南フランスへ行くようにと勧め、そこで、さらなる情報が得られると告げた。
これまで見て来たように、この言語学教授との接触はデュルヴィルを通じてお膳立てされたものと考えられる。しかしここで、われらの旅人ルイスが、リュシアン・シャミュエル(Lucien Chamuel)が設立した有名なメルヴェイユ書店(Librairie du Merveilleux)に行って調査を行った可能性はないのだろうかという疑問も湧いて来るのである。そこはパピュスと、その複数の友人がマルティニスト会とバラ十字カバラ会の最初の会合を開いたところであり、「リニシアシオン」誌(L’Initiation)と「イシスのヴェール」誌(Le Voile d’Isis)が世に送り出された場所でもあった。パリ市内のあらゆる秘伝探求者たちの紛れもない会合場所であったこの書店は、ピエール・デュジョルとアレクサンドル・トマ(Alexandre Thomas)に買い取られた。1909年にこの二人は、バラ十字カバラ会の後援をうけてパラケルススの著作「Sept Livres de l’archidoxe magique」を出版している。一部の人々からフルカネリであると信じられている錬金術師のデュジョル(Pierre Dujols, 1862-1926)も、バラ十字思想に興味を抱いていた。デュジョルは、「恋の騎士道、吟遊詩人、オック語保存運動とバラ十字」(La Chevalerie amoureuse, troubadours, felibriges et Rose-Croix)と題する本の中で、この運動と、トゥールーズおよび「花遊びのアカデミー」(Academie des Jeux Floraux)の関連について繰り返し述べている。「見識のある人々は、トゥールーズ市にいるという現代のバラ十字会員たちのことを密かに話題にしている。」
H・スペンサー・ルイスは、伝記に他のいくつかの事実も書き添えている。そして、パリ市でルイスを質問攻めにした人々は、ルイスがフリーメーソンの秘密の一部を見抜こうと望んでいるのではないかと疑っていたらしいと述べている。この件に関して彼は、パリ市の書店主はフリーメーソン支部の役員の一人であり、彼は古文書や印章、宝石類や装身具などを不当に保持しているが、それは、活動休止に陥ったバラ十字会の複数のロッジに属するものであると述べた。その書店主との関係を疑われたにもかかわらず、ルイスはついに、探求していた光へと彼を案内することの出来る人々に向かって導かれたのであった。このような経緯でルイスは、トゥールーズ市へ行くようにとの助言を受けたのであった。
ルイスを審問した人々は、バラ十字活動で有名だったジョセファン・ペラダンやパピュスといった人物をルイスになぜ紹介しなかったのかという疑問がここで生じてくる。実際、その前年に当たる1908年の6月にパピュスは、入門儀式方式の組織が17以上、一堂に会した「スピリチュアリスト会議」で議長を務めていた。しかしこの重要なイベントは、パピュスが率いていた入門儀式形式の団体、とりわけ「バラ十字カバラ会」に影響していた危機をかろうじて隠すだけであった。1897年にスタニスラス・ド・ガイタ(Stanislas de Guaita)が亡くなった後に、この団体は不活発になった。同じ年、ペラダンも「テンプルとグラアルのバラ十字会」(L’Ordre de la Rose-Croix du Temple et du Graal)を解散した。したがって、なぜH・スペンサー・ルイスがこれらの団体へと導かれることがなかったかがお分かりのことと思う。その代わりに、ルイスはこれらの団体の源流があるトゥールーズ市へと送られたのだった。

赤いバラの都市トゥールーズ (Toulouse: La Ville Rose)
われらが旅人に再び幸運が微笑み(もしくはもっと適切な表現をすれば、宇宙の摂理によって)、ルイスの父は引き続きロックフェラー家の家系調査を進めるために、南フランスへの旅行をちょうど計画していた。そして翌8月10日火曜日に二人はパリ市を発ち、自身がテストされたとルイスが解釈している冒険のいくつかを経たのち、水曜日にトゥールーズ市に到着した。その翌日、父親は調査を再開し、トゥールーズ市の文書を調べるために、〈ダンジョン〉(〈城〉か〈古い塔〉)へと向かった。ルイスはその間にカピリトウムの「著名人たちの広間」(Salle des Illutsres)に行き、探求を成功へと導いてくれる助けとなる人物と会った。短い会話を交わした後、この人物は、ある通りの名が書いてある一枚の紙切れをルイスに手渡したが、その通りは、バラ十字会員に会うために彼が行くべき場所であった。
H・スペンサー・ルイスはこの人物の名前を明らかにせず、写真を生業にしていることだけが述べられている。後に息子のラルフ・M・ルイスは、この人物が卓越した写真家であったことを示している。その人物は、美術、考古学、商業、工業専門の写真家クロヴィス・ラサール(Clovis Lassalle, 1864-1937)であったのはほとんど確実である。1909年8月26日にラサールがルイスに宛てた手紙が、ルイスの個人文書の中に発見された事実によって、この仮説は検証された。さらに、ラサールが印刷仲間であったプリバ家(Privat family)でしばしばフィルマン・ボワサン(Firmin Boissin)に会っていたことも指摘しておくべきであろう。そして、以前の記事「マギのバラ園」で見て来たように、ボワサンこそが、ペラダンとド・ガイタをバラ十字会へと導いたのであった!
市街電車がそのような郊外まで運行していなかったため、写真家が示した住所までタクシーに乗って移動し、ルイスは街の中心から離れ、ガロンヌ川を渡り、何キロも進み、そしてとうとう、パリ市の教授が数日前に見せてくれた版画に描かれていたのと同じ古い塔の前に自分が立っているのに気づいた。そして螺旋階段を登って塔の最上階に着くと、長い灰色の髭を生やした、少しウェーブのかかった長い白髪の老人に出迎えられた。その部屋は真四角で、壁には書物が並んでいた。彼を出迎えたその人物は、秘密のバラ十字会の一派の文書役で、その一派は、ラングドックから来た参入者のグループであり、ラングドックでは少数の会員が全くの秘密裏に働いているとのことであった。ルイスを審問した人物はフリーメーソンの小グループ、パリ市内の書店主が属していたのと同じグループの一員であったとルイスは述べている。ルイスに諸々の保管文書を見せた後、老人は、さらなる知識と情報を得るに彼が値すると判断されたこと、そして、その日のうちにバラ十字会のグランドマスターと会うことになるとルイスに告げたのであった。

入門儀式 (Initiation)
その日の午後3時ごろ、ルイスは別のタクシーで、文書役から教えられた場所へと向かった。ルイスは川沿いの道路を行き、再びトゥールーズ市から離れる旅をすることとなった。古い町トロザ(Tolosa)を通り過ぎると、丘の上に立つ、高い塀に囲まれた石造りの城にたどり着いた。「東方への巡礼の旅」によると、ルイスはまさにこの城でバラ十字会への入門儀式を受けたのであった。この文献に入門儀式の詳細は述べられていないが、ルイスの自伝には興味深い内容が記されている。ルイスを出迎えたのは、未亡人となった娘とともにこの城に住む70歳のレノー・E・ド・ベルカストル・リーニュ伯爵(Raynaud E. de Bellcastle-Ligne)で、その暮らしぶりは高貴な生まれにもかかわらず質素な様子であった。伯爵は流暢な英語でルイスを客間に案内し、ルイスがアメリカで運営している心霊研究協会についてたずね、ルイスの数々の神秘的な体験に大いに興味を示した。
質問が終わると伯爵は、我らが巡礼者ルイスに入門儀式の時が来たことを告げ、「敷居(入口の境界線)の恐怖」と対峙する準備ができているかどうかを尋ねた。それから、古くからバラ十字会のロッジとなっている城の二階へとルイスを導いた。伯爵は、この殿堂は60年以上も使われていなかったが、1890年までは時折数人のフリーメーソン団員が訪れていたと話してくれた。伯爵の父親が最後の統括役員であった。したがってこのロッジが活動していたのは1850年代であり、言い換えれば、アレクサンドル・デュ・メジュ(Alexandre Du Mège)とラパス伯爵(Comte de Lapasse)の時代であり、フィルマン・ボワサン(Firmin Boissin)がアドリアン・ペラダン(ジョゼファン・ペラダンの父)から、バラ十字会の入門儀式を授けられた数年前であると考えられる。
伯爵は鉄の扉の前で立ち止まり、これから順番に3つの部屋の中に、「創造主とあなた自身のマスター」だけと一緒に入っていかなくてはならないとルイスに告げた。ルイスは指示に従って第一の間、控えの間に入った。それから真っ暗な第二の間に入り、「敷居(入口の境界線)の試練」を受けた。ルイスはそこで、ニューヨークの教会で前年現れた目に見えぬ人物の存在を感じるという神秘体験を再び得たのであった。そしてルイスはついに、伯爵が待つ第三の間へと至った。第三の間は、もはや装飾も設備も十分ではないので、それに合わせて入門儀式を変更しなければならなかったと伯爵は説明した。それから、その部屋の様々な場所にルイスを導いて、この儀式に秘められている意味を伝えた。
はるばる訪問してきた入門者を思いやって、老マスターはルイスを小さな部屋に案内した。そして、他の何人かの人と会う前に、この部屋でしばらく横になって休むようにと勧めた。そこでルイスはカウチに座ってまどろんだ。そして気がつくと、3時間が経っていた。眠っている間は、まさに今受けたばかりの入門儀式の夢を見ていた。しかし、夢の中で導いてくれたのは、伯爵ではなく第二の間で知覚したマスターであった。そして間もなく、3人の年配の男性に、ベルカストル・リーニュ伯爵がルイスを紹介したが、この人達は、本人も親もバラ十字会員であるとのことであった。この会見が終わると、ルイスはもう一度、かつてロッジであった部屋へと連れて行かれ、一輪のバラで飾られた十字を、伯爵がルイスの首にかけた。このことが象徴していたのは、ルイスがバラ十字会をアメリカに創設する責務を負ったという事である。
この象徴的な式典の後、そこにいたバラ十字会員のひとりがルイスに、バラ十字会の原理と主な諸法則が記されている蔵書を閲覧する許可を与えた。また、バラ十字会の様々な儀式・式典の象徴や図表を複写することも許可された。伯爵は、部屋の中央に置かれていた大型の旅行かばんから、数枚の象徴的な図案のエプロンと、一枚の祭壇用のテーブルクロスと、さまざまな文書を取り出し、バラ十字会の各段位の象徴を、この新入門者が書き留めることが出来るようにした。さらに、今後アメリカにバラ十字会を創設するために必要な情報がルイスに伝えられた。この時、バラ十字会創設の打ち合わせを主導した人物は伯爵ではなく、式典で主宰役を演じたラザル(Lasalle)という名の人物であった。この名前は、わずかに一文字違っているが、ルイスがこの日の朝「著名人たちの広間」(Gallery of the Illustrious)で会った写真家のクロヴィス・ラサール(Clovis Lassalle)なのだろうか? しかし、別人であると考える誘惑にも私たちは駆られる。というのは、ラザルは式典の主宰であり、歴史的に有名な数々の文書を書いていると描写されている一方、写真家ラサールは一冊も本を書いていないからである。しかし、クロヴィス・ラサールによって制作された、考古学と先史学に関する無数の写真作品を、ルイスの説明が示唆しているとも思える。いずれにせよ、式典の主宰がH・スペンサー・ルイスに告げたのは、今や彼は、あらゆる必要な指導を受けることができる立場にあるが、しかし、別の内的体験がさらに到来すべきであるということであった。式典の主宰は、1915年より前にアメリカにロッジを開設しないことを要請して、会見を締めくくった。
1909年の8月13日、バラ十字会への入会を受けいれられた後にルイスは、妻のモリーに手紙を書いた。
この旅での私の望みは全てかなったが、それは、多くの試験と試練なしには、ありえなかっただろう。(中略)ここは素敵な場所だ。古い城塞の写真をたくさん撮った。その中で私は、これまでに見たこともないような、いくつもの不思議な式典に参加した。(中略)ついに、R+Cに入った。創造主よ、感謝します。しかし、誓約と誓いは厳しいものだった。私とともに、この誓約と誓いを守れる人が、アメリカに、はたして何人いるだろうか?
数日後の8月26日、ルイスがパリに発とうとしていたとき、クロヴィス・ラサールから手紙がきた。翌月曜日、アーロン・ルイスとその息子スペンサー・ルイスは列車でパリへと向かった。そしてロンドンの大英博物館を訪れた後、9月1日の水曜日にアドリア海を航行するホワイト・スター号に乗り込み、ニューヨークへと向かった。ハーヴェイ・スペンサー・ルイスにとっては、これが大いなる冒険の始まりであった。

起源の秘密 (Secret Beginnings)
おそらく読者も気付いておられるだろうが、ルイスが受けた入門には、2つの側面があった。つまり、1850年代まで活動していたロッジに所属するバラ十字会員に会うことと、内的な命を持つ神秘を体験することである。ルイスに入門儀式を授けた人物は、謎に満ちている。おそらく、ルイスが用いたレノー・E・ド・ベルカストル・リーニュという名は、その人物の正体を隠すための偽名であろう。
このような記述も、かなりの程度に、象徴的なものであると考えられる。秘伝主義の歴史には、実際の出来事と、いくつかの神秘体験が混じり合った文章がふんだんにあり、啓発の光をもたらす神秘についての報告を構成するような形で、人々の心の中に生き続けている。実際のところ、そのような文章には、ある特徴が含まれていて、大規模なスピリチュアルな運動の創設者の歴史を調べていると、そのような特徴に、しばしば出会うものである。入門儀式の叙事詩についての研究会で、アントワヌ・フェーヴル(Antoine Faivre)が強く主張したことによれば、秘伝主義的な運動の創設には、寓話が極めて重要である。フェーブルによると、創設の伝説が存在することは、いくつかの理由から、伝統的な組織が、正統なものであるかどうかの判断基準のひとつである。バラ十字思想の創設の物語―クリスチャン・ローゼンクロイツの東方への旅の物語―と同様に、ヘルメス・トリスメギストスの墓の発見に関わる物語も、この部類に属するものであるし、ルイスの入門儀式の物語も、同様のものである可能性がある。さらに、ロラン・エディゴフェール(Roland Edighoffer)は、興味深い以下の解釈を提案している。
この記述において我々は、入門儀式に関する伝統的なテーマの多くに出会う。そのうちのいくつかはJ・V・アンドレーエの「化学の結婚」(Chymical Wedding)に見られる。たとえば、弁証法の塔、軸をめぐるグノーシス(霊的認識)の発展を表す螺旋階段、聖なるテトラグラマトン(ヤハウェの四子音文字)を思わせる上層階の四角の部屋、城に入るときに渡されなければならなかった手紙、新たな誕生のための子宮のようなほら穴の象徴である。秘儀を伝授された2人の男女は「老賢者」の元型を思い起こさせ、この男女の葛藤は、ユングによって強調されているものである(Gesammelte Werke, Olten, 1976, 9/1, p. 231)。この文章の分析には、「睡眠」の役割が重要である。
H・スペンサー・ルイスの体験には、バラ十字の集団に属する達人たちとの、正真正銘の出会いも含まれていた。そしてこの集団は、ほんの部分的にしか活動していなかったが、その火はメンバーの内部の深いところで熱く燃え輝いていた。この体験の根幹をなしているのは、その霊的な側面である。以前の記事「エメラルドの島」において、アンリ・コルバンは、霊的な体験に基づく入門儀式によって父子関係が結ばれることの重要性を力説していた。コルバンによると、このことが、入門儀式が有効である基本的な必要条件であった。コルバンが強調しているように、この体験はハイエロヒストリー(hierohistory)に属し、それゆえに、歴史家によって実証が可能な事実の範疇には必ずしもない。こういった事実を無視することが出来ないのはもちろんであるが、入門儀式形式の思想運動の源を判断する際に、客観的に、年代順の事実を考慮に入れただけの研究では、歴史主義へと導かれてしまう可能性があるからである。それは言い換えれば、基本的には実証主義者や還元主義者の理解であり、この様な種類の思想運動の真の性質とは相容れない。それゆえに、主要な点が見逃され、この経験と関連した聖なる、非時間的なものが見落とされてしまうかもしれない。
なぜ、トゥールーズ市のバラ十字会員たちは、バラ十字思想を復興する仕事と権限を、ひとりのアメリカ人に与えたのだろうか? 記録によると、スタニスラス・ド・ガイタとジョゼファン・ペラダンに、既にこの任務を課していたのだが、努力の甲斐なく会は活動停止状態に陥ってしまっていた。このため、1875年にフランツ・ハルトマンが既に述べているように、「旧世界」に永続する基盤を再建することは不可能であろうと考えられていた。さらに、これらのバラ十字会員たちは、重要な出来事を予見する能力があるという評判を得ていたのであるが、ヨーロッパの中心地に大きな戦争がおこる予兆を感じていて、その結果、様々なものが破壊されてしまうことを恐れていたと推測することができる。ヨーロッパのバラ十字会員たちはおそらく、ひとりのアメリカ人に、自分たちの遺産を託し、合衆国にバラ十字会を設立する任務を与えることで、バラ十字の伝統が、危機に耐え、永続することが確実になると感じていたのであろう。

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第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
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