以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

クリスチャン・レビッセ著
by Christian Rebisse

1909年の終わり頃から1912年にかけて、H・スペンサー・ルイスはバラ十字会を再興するための準備を行っていた。フランスで提供された諸々の文書をもとに、彼は式典と教えを確認した。また彼は、バラ十字思想に関する本を見つけられる限りすべて読んだ。それと同時に、バラ十字運動を復活させようとしていた他の様々な試みを、かなりの疑いを持って注視していた。そのようなものには、たとえば英国バラ十字協会(S. R. I. A.)の活動のようなものがある。S. R. I. A.のアメリカ支部は、フリーメーソン主義から脱却しようとしていたが、指導者のシルベスター・クラーク・グールド(Sylvester Clark Gould)が1909年に没してから混迷に陥ってしまった。同様に神智学協会も困難に直面していて、その会員の多くは協会にバラ十字的な性質をより一層与えようと努め、ある程度の成功をおさめていた。フランツ・ハルトマン(Franz Hartmann, 1838-1912)は、1888年に秘伝主義バラ十字会(the esoteric Rose-Croix)を設立し、しばらく後の1909年には、神智学協会員のカール・ルイ・フォン・グラスホフ(Carl Louis von Grasshoff、別名Max Heindel)がバラ十字友愛会(Rosicrucian Fellowship)を設立した。神智学協会のスイス支部とドイツ支部を指導していたルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)でさえ、神智学協会の新しい指導者アニー・ベサントから離れていった。そして1913年にシュタイナーは「人智学協会」(Anthroposophical Society)を組織し、この組織を、バラ十字運動が形を変えて現代に表れたものであると述べた。
H・スペンサー・ルイスは、自身のライフワークに取りかかった時、まだ29歳という若さであった。そのライフワークとは、バラ十字思想に基づく組織を、フリーメーソンからも神智学協会からも、また他のいかなる組織からも独立して立ち上げるというものであった。彼が職業としていた分野でも進展があり、1912年の初めにルイスは、アメリカン・ヴォルタイト社(American Voltite Company)の広報部門の責任者となった。また『現代科学講座』(The Modern School of Science)といった記事も執筆し、この記事は1912年の10月に発行されたアメリカ・フィロマシック協会(American Philomathic Associetion)の機関紙「アメリカン・フィロマシック」誌(American Philomathic Journal)に登場した。この雑誌はルイスのことを、ニューヨーク心霊研究会の元会長であり、コロンビア科学アカデミーとメトロポリタン科学協会の講師にしてサイコ・リーガル協会の副会長であると紹介した。

フィロマシック学会 (The Philomathic Society)
ルイスがフィロマシック学会とどのような関係を維持していたのかは謎である。この組織の主たる目的は研究者の交流を図ることであり、19世紀初頭に現れた数多くの研究団体のうちのひとつであった。最初のフィロマシック学会は、農学者でフリーメーソン団員であったオギュスタン・フランソワ・ド・シルヴェストル(Augustin-François de Silvestre)の努力によって、1788年12月にフランスのパリ市に設立された。アンドレ・トマ(André Thomas)の書くところによれば、フィロマシック学会は学究的な団体のひとつで、形式は異なるものの、フランス革命以前のメーソン・ロッジからその研究精神を受け継いでいるのだという。フィロマシック(Philomathic)という言葉は、「知識の友」という意味のギリシャ語から来ている。この学会の会員はフィロマスと呼ばれ、「学問と友情」が会員たちのモットーであった。この組織のことを会員は、開かれた集会場所として構想していて、そこでは新しい知識が表明され、学識者の世界に広く知らされるのであったが、それは、「真実と教育の途切れることなく続く輝く鎖を作ること」によってであった。この学会は啓蒙の精神に鼓舞されていて、フランス国内および他の多くの国々で文通者によるネットワークを確立し、急速に発展していった。ラボアジェ(Lavoisier)、ラマルク(Lamarck)、ラプラス(Laplace)、シャプタル(Chaptal)、ゲイリュサック(Gay-Lussac)、アンペール(Ampère)、パストゥール(Pasteur)、ベルトゥロ(Berthelot)といった偉大な研究者が会員であった。
アメリカの科学者の集会に頻繁に出入りしていたH・スペンサー・ルイスは、フランスのフィロマシック学会と接触したようである。ルイスの書いたものはヨーロッパの科学者、とりわけバラ十字会員たちの注目を集めたということが、最初の伝記に述べられている。そしてルイスはその後フランスのヴェルダン市のフィロマシック学会の名誉会員に選ばれ、1904年にはバラ十字フランス学院(Franco Ecole R. C.)の会員になったと書かれている文献がある。そしてまさにその年に、バラ十字会から“上席役員”(Supreme dignitary)の称号を授与されている。バラ十字に向けてのルイスの初期の歩みに関するこの情報は意外なものである。というのも、通常述べられていることと一致しないからである。このことは、1916年以降は一度も話題にされることがなかった。しかし、フランス錬金術協会の最高責任者で『バラ十字』誌(La Rose-Croix)の編集長であったフランソワ・ジョリヴェー・カストゥロ(François Jolliver-Castelot)宛ての1926年5月14日付けの書簡にルイスは、「私はバラ十字の段位(F. R. C)を認められました。私のこの名誉は、フランスのヴェルダン市の古いバラ十字大学のメンバーの善意によるものです。」と記している。一方で息子のラルフ・ルイスは、父はヴェルダン市のフィロマシック学会の会員であったと何度となく述べている。AMORCは、このフィロマシックという名称を、いくつかの国々で活動を始める際にしばしば使用していたことをここに付け加えておこう。たとえばメキシコでAMORCは、ソシエダード・フィロマティカ(Sociedad Filomatica)という名を使って、その存在を隠していた。
マルティニスト・プロジェクト (The Martinist Project)
精力的にバラ十字会の再興の準備をしている最中に、ルイスは秘伝主義世界の様々な人物と接触することになった。1913年には、デメトリウス・プラトン・セメラス(Démétrius Platon Sémélas)の秘書をしていたウジェーヌ・デュプレ(Eugène Dupré)と手紙のやり取りをしている。以前に述べたように、カイロ市で「エッセネ派の殿堂」と呼ばれていたマルティニスト・ロッジを指導していたセメラスは、1902年にアトス山の僧院で「オリエントのバラ十字の遺産」を入手したと主張していた。1911年の初頭にセメラスは「バラ十字の志願者」(R. C. Aspirant)という位階の入門儀式を、ラグレーズら何人かのマルティニストに授けている。セメラスあるいはデュプレがH・スペンサー・ルイスと交わした書簡の中で、バラ十字思想について言及していたかどうかはわからない。というのも、1913年7月23日付けの書簡一通のみしか残っていないからである。書簡におけるデュプレの調子からすると、二人は友人であったことが見てとれる。この手紙では、マルティニスト思想(訳注:フランスの18世紀の神秘家ルイ・クロード・ド・サンマルタンの思想)の話題のみが取り上げられている。デュプレがロンドン経由でルイスに送った書簡には、マルティニストの儀式に関する書類と「S. I.」 や「自由な入門者」の証明書があり、そのためルイスはアメリカで、マルティニスト・ロッジを創設することが出来たとデュプレは記している。しかしながら第一次世界大戦が影響したため、このプロジェクトが成果を結んだのは1934年以降、ヴィクトール・ブランシャール(Victor Blanchard)とジェオルジュ・ラグレーズ(Georges Lagrèze)の協力を得てからであった。
老婦人が訪れる (The Visit of an Old Lady)
1913年12月にルイスは、アメリカにバラ十字会を設立する意思があることを、ニューヨーク心霊研究会のメンバーたちに打ち明けた。この目的のためにルイスは、この冬に開く会合に参加するようにと関係者たちを誘った。そして素描家・画家としての優れた才能を生かして、バラ十字会の復活を公式に発表するための、美しく見事な装飾が施された憲章を作った。会合に集まったのは12人だったが、その誰ひとりとして、名簿に記名することも憲章に署名することも行わなかった。トゥールーズ市でルイスに告げられたことが守られるために、バラ十字会がアメリカで活動を開始したという宣言書を出すのは1915年である。しかし、1914年の暮れには、物事が明確な形になった。
ニューヨーク心霊研究会でルイスが以前出会っていたメイ・バンクス・ステイシーが、1914年の秋に再びルイスを訪問した。彼女は数年前に教えられた人物がルイスであると、つまりアメリカでバラ十字運動を復活させるために、共に働くことになる人物であると認識していたのだろうか?いずれにせよ、1914年11月25日、つまりH・スペンサー・ルイスの誕生日に彼女はルイスを再訪し、見事な一輪のバラの花と小さな箱と複数の文書を与えたが、その文書に描かれていた象徴の数々は1909年にトゥールーズ市でルイスが見たものと同じだった。二人は共同で努力して行くことを決め、1914年12月20日にニューヨーク・サンデー・ヘラルド紙に広告を載せ、バラ十字思想に興味を持った人々を勧誘した。ほどなくして2人は、すぐにルイスの親しい友人のひとりとなるソー・キーマレートー(Thor Kiimalehto)と出会うのであった。
AMORCの誕生 (The Birth of AMORC)
1915年2月8日の月曜日は、重要な日となった。というのも古代神秘バラ十字会(the Ancient and Mystical Order of the Rosae Crucis)の設立を記念する初めての会合が、ニューヨーク五番街の80番地にあるH・スペンサー・ルイスの事務所で夜の8時30分に開かれたからである(現在では、バラ十字会AMORCという名称のほうが一般によく知られているが、これはこの会の伝統的な呼び名と、その正式名称の頭文字を一緒にしたものである)。 そしてルイスがこの会の最初の会合についての様々な事実を書き留めていたノートを見ると、出席者は9人で、ルイスの2番目の妻マーサ・ルイス、メイ・バンクス・ステイシー、ソー・キーマレートー、コルゲン氏(Mr. Colgen)、ローリア氏(Mr. Loria)、ミス・バーク(Miss. Burke)、クロスマン氏(Mr. Crossman)、シアーズ大佐夫人(Mrs. Col. Sears)、そしてルイス本人であった。これらの人々により、この会を運営するための委員会が構成された。
この会合に続き、H・スペンサー・ルイスとソー・キーマレートーは『バラ十字アメリカ宣言第一号』(American Pronunziamento Number One)と題する文書を発行し、AMORCが公式に活動を開始したことを宣言した。
数日後、ニューヨーク・グローブ紙(the New York Globe)がこのことに関する記事を掲載すると、会の秘書役であったキーマレートーは、バラ十字会に興味を持った人々から数百通の問い合わせの手紙を受け取ることとなった。そのうちの75名が、1915年3月3日にウエスト・エンド・アベニューの近くの西83番街にあるレスリー・ホテルで開かれた説明会に招かれた。そして80名の男女が説明会に集まった。その人々の中には、バラ十字会の目的に好奇心を抱いた多くのフリーメーソン団員や、相当数の科学者や懐疑主義者も混ざっていた。説明会が終わった時、そのうちの50名が会員になることを決意した。続いて別の会合が、ジュリア・セットン博士(Dr. Julia Seton)の指揮の元、エンパイヤー・ホテルでも開かれた。
1915年4月1日の火曜日、最も活動的な約30名の人々が、ニューヨーク市の7番街に集まったが、この場所はすぐにAMORCの最初のバラ十字会ロッジとなった。この会合で、メイ・バンクス・ステイシーは、インドを旅行したときに受け取った複数の文書を厳かにルイスに手渡した。次に、バラ十字会の管理組織である最高本部評議会が結成された。そして総括グランドマスター兼統領が選出された。メイ・バンクス・ステイシーの意向に賛同して、H・スペンサー・ルイスが満場一致でこの役職に選任された。そして次に、会合の出席者は、1913年の冬から1914年の間に準備された啓蒙憲章(illuminated charter)に署名をした。1915年4月1日付のこの文書は、AMORCの誕生と、アメリカのその最高本部評議会の権限を宣言するものであった。この組織には、その創設者の影響が印されてはいるが、無数に多くの協力者の働きによって、H・スペンサー・ルイスの初期の努力が支えられたことを、ここに強調しておく必要があるであろう。多くの関係者の中には、次のような人物がいた。マーサ・ルイス、キーマレートー、アルフレッド・サウンダース(Alfred E. Saunders)、ウィリアム・ホッドビー(William B. Hodby)、ジョージ・ロバート・チャンバース(George Robert Chambers)、コンラッド・リンドステッド(Conrad H. Lindstedt)、アルベール・B・ブラサード(Albert B. Brassard)。

最初のバラ十字会ロッジ (The First Rosicrucian Lodge)
ルイスと協力者たちは、1777年以降知られていたバラ十字の段位のハイエラルキーの構成を採用し、統領となったルイス自身が各段位の会員に学習内容を提供する準備をおこなった。最初のロッジはニューヨーク市7番街の一画に設立された。この場所には、バラ十字の殿堂のために必要な設備の全てが整っていた。ロッジの部屋は東が正面に定められ、ルイスはそこにエジプトの田園風景を表すフレスコ画を描き、東西南北の四方位に象徴が描かれた演台が配置された。ロッジの全体的な様子は、古代エジプト建築からインスピレーションを得たものになっていた。18世紀以降にバラ十字思想と秘教思想で確立されたエジプト学(Egyptosophy)は、アモールクにおいて表現される手段を見いだしたことも、我々は強調しておきたい。実際に古代エジプトの象徴体系は、新たに設立されたこのバラ十字会組織で卓越した位置を占めていて、ある段位では、古代エジプトの重要人物であったアクナトン王が、フリーメーソンにおけるハイラム(Hiram)と同等の地位を、この会において占めている。
アモールクは、儀式的な集会を「神秘集会」(convocation)と命名したが、最初の「神秘集会」は、1915年の5月13日火曜日に開かれた。すべての会員がバラ十字会の第一段入門儀式を受けた。「境界線を越えた」最初の人物は、統領の妻マーサ・ルイスだった。そして、バラ十字会の教えが会員に提供されたのもニューヨーク・ロッジであった。以下はバラ十字会入門儀式について述べたものである。
「私たちのバラ十字会の12の段位のそれぞれには、入門儀式の夜と、それに続く7から10の講義があり、通常は2ヵ月に一度、殿堂で行われます。これらの講義は各ロッジの主宰(master)によって提供され、フラターとソロールは席について、印や象徴や文言についてノートを取ります。講義は様々な法則の学習と説明からなっていて、古代の教えに基づくものですが、世界中の偉大な人々による新たな発見や発明とも調和を保っています(中略)。講義は、聖なる仕方で秘密が保たれ、タイル張りの(すなわち部外者からは隔てられた、完全に非公開の)ロッジで行われ、正式に入門儀式を受けた真の会員でない限り、誰一人としてここで秘密の言葉を聞いたり、その言葉を明かしたりはできませんでした。」
これらの講義はしばしば、他のロッジでも学習できるように文書化された。後にそれらは教本として印刷され、遠方に住んでいて神秘集会に参加できない会員も学べるようにされた。しかし、すべての会員が入門儀式を受けるために殿堂に行かなくてはならなかった。ロッジでバラ十字会の第一段の入門儀式を正式に受けた会員だけが、真のバラ十字会員であると認められた。
その翌年、バラ十字会の急成長にともない、組織の活動内容を会員に知らせるための定期刊行物の出版が必要となった。1916年の1月、アモールク初の月刊誌「アメリカン・ロザエ・クルシス」(The American Rosae Crucis)が発行された。その内容はバラ十字哲学の探究だけでなく、占星術や存在論、秘伝哲学、象徴学などの多様な話題にも及んでいた。会員数が増加し、新しいロッジを創設することになった。1915年11月25日、最高評議会は、ピッツバーグ市にペンシルヴァニア・ロッジを創設する認可状に署名を行った。1916年1月にこのロッジが開かれた時は、80名もの会員がウィリアム・ホドビーの指導の下で入門儀式を受けた。そしてすぐさま、フィラデルフィア市やボストン市、ウィルマーディング市(デラウェア州)、アルトナ市、ロチェスター市、ハーラン市(アイオワ州)、デトロイト市などに、新たなロッジが次々と創設された。

錬金術の実演 (An Alchemical Demonstration)
1916年7月に発行された「アメリカン・ロザエ・クルシス」誌(The American Rosae Crucis)の記事で、バラ十字会の第4段の会員と、世界総本部の役員を伴って、H・スペンサー・ルイスが1916年6月22日にニューヨーク市で特別な集会を開催したことが報告された。彼は該当する会員たちに、特別な神秘集会への参加を要請した。その集会でルイスは、物質を変成する錬金術の実験を行った。「ニューヨーク・ワールド」紙の編集局の代表者であったチャールズ・ウェルトンもまた、このイベントに立ち会うよう招待された。錬金術の実験は、一片の亜鉛から始められた。二、三の手順によって、正真正銘の亜鉛であることが示された後、ルイスはその金属を小さな陶器の皿の上に置き、様々な粉末薬を投じ、その全てを炉の中へ入れた。実験が終了すると、集まった人々は亜鉛の見かけが変化していることを認め、そしてそれを分析した結果、亜鉛は金に変成されていたことが判明した。
ルイス統領はほんとうに、錬金術の粉末を投入することで物質変成を行ったのだろうか? 行われた科学的な手続きでは、それを肯定することも否定することも出来ない。ルイスは、どのようなことがあろうと、この実験を行う許可はただ一度しか与えられていないと宣言していた。この錬金術の変成実験は、アメリカの報道機関に大きな波紋を投げかけた。「ニューヨーク・ワールド」紙は、1916年6月28日と7月2日付けの2つの記事で、この奇妙な実験について報じた。マリー・ルーザック(Marie Russak)も『ザ・チャネル―オカルティズム、生命の霊的哲学、超自然現象に関する国際季刊誌』(The Channel – An International Quarterly of Occultism, Spiritual Philosophy of Life, and Science of Super-physical Facts)の1916年10-
11月号の論評で、この錬金術的な変成について採り上げている。フランツ・ウィッテマン(Franz Wittemans)も後に、1925年にアディアール(Adyar)で出版された『バラ十字の歴史』の中で、この物質変成について報告している。
H・スペンサー・ルイスとフリーメーソン (Harvey Spencer Lewis: Freemason)
アモールクは、いかなる信条の男女も会員として受け入れたので、その中には神智学協会や様々なフリーメーソン遵奉者の姿も見られた。H・スペンサー・ルイスのごく親しい協働者のひとりアルフレッド・E・サウンダース(Alfred E. Saunders)も、フリーメーソンのキング・ソロモン・ロッジのメンバーであった。サウンダースは1896年からマスター・メーソンであり、第33段と第95段のメンフィス・ミズライム儀式を開催している。そしてイギリスに住んでいたときに、メンフィス・ミズライムの大ハイエロファント、ジョン・イェーカー(John Yarker, 1833-1913)に入門儀式を授けられたと主張していた。また、『黄金の夜明け団』の創設者の一人サミュエル・リデル・マザー(Samuel Liddell Mather)と、ごく親しい友人であるとも言っていた。おそらくはこの友人サウンダースの影響があって、1917年にH・スペンサー・ルイスはフリーメーソンに入団することを決意した。ニューヨーク市西24番街46のメーソニック会館において、第523ノーマル・ロッジの「アプレンティス・アンド・コンパニオン」(徒弟と仲間)の位階の入門儀式を授けられた。このロッジにはサウンダースも所属していた。
しかしながらサウンダースとの衝突によって、ルイスはフリーメーソンであり続けることに早々に終止符を打った。道徳に関して鋭い感覚の持ち主であったルイスは、この協働者が道義的責任を追及されて1903年にイギリスから逃れてきたことを知ったのであった。ルイスはサウンダースとの共同作業を止める決断をした。野心的なサウンダースは、アモールクの管理運営から外されることに耐えられなかった。その結果サウンダースは、フリーメーソンのノーマル・ロッジの会員に対して、旧友ルイスに対する中傷的な言葉を使ってうわさを広め、ルイスがマスターの位階を取得することを妨害した。フリーメーソンの内部調査により、サウンダースの主張はねたみだけを動機とするものであることが示され、このロッジの役員たちは自分たちが騙されていたことを後悔することになった。そこでフリーメーソン書記官のフランク・ストロムバーグ(Frank Stromberg)は、ルイスが望むなら、マスターの位階を受けるようにとルイスに招請したのだが、さし迫ったいくつもの用件で心が奪われていたルイスには、この件をなし遂げる時間はなかった。
初のバラ十字大会 (The First Rosicrucian Convention)
バラ十字会の様々な活動が強化され、会合、管理運営業務、儀式の挙行、入門儀式が矢継ぎばやに行われた。そのような様子から、その年が終わる頃にルイスは、職業活動を続けることが、もはや出来ないことを悟った。そしてルイスは、バラ十字会だけに専念することを決意した。
重大な財政問題を抱えていたにもかかわらず、アモールクは相当な発展を遂げ、1917年7月31日から8月4日にかけて、ペンシルヴァニア州ピッツバーグ市で初の全国大会が開かれた。この機会に、アモールクの憲章が初めて再検討され、最高評議会によって採択された。このアメリカ初の全国大会が終わりを迎えるにあたって、H・スペンサー・ルイスは、この仕事がなし遂げられたことに満足を覚え、バラ十字会が活動の新たな周期に入ったことを実感した。バラ十字会が歴史上に現れる時、それは、活動期と不活動期という周期に従っているとH・スペンサー・ルイスは考えていた。すなわち、108年間の活動期のあとには108年間の不活動期が続く。周期に従って、バラ十字会が既に活動期に入っているというのはあり得ることであったが、この数値の正確さを示すことは困難であった。しかし、この数字をその基本的な値に還元すると、つまり9という数を使用した神智学的な加法によれば、(108=1+0+8=9)、興味深い側面が示される。つまり、得られた数字である9は、実質的には、熟成期間と周期的復活の概念を象徴しているのである。ジャン・シェバリエ(Jean Chevalier)とアラン・ゲールブラン(Alain Gheerbrant)はこう述べている。「9は一連の数の最後であり、終わりと始まりの両方を告げている。言い換えれば、新しいレベルへの移行であり(中略)。顕現した宇宙の数字の最後のもの、それは、変容の局面への扉を開ける。それは、周期の終わり、旅の成就、輪が閉じられることを告げる。いったん姿を隠し、その後覚醒するというこの概念は、既に宣言書で示唆されていたのではなかっただろうか? 宣言書『ファーマ・フラテルニタティス』によると、クリスチャン・ローゼンクロイツの墓の扉には、「120年後に我は開く」と書かれていたのだから。
次の記事へ:国際的な協調|バラ十字会の歴史と神秘(第19章)
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。
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第2号:人間にある2つの性質とバラ十字の象徴、あなたに伝えられる知識はどのように蓄積されたか
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