以下の記事は、バラ十字会日本本部の季刊雑誌『バラのこころ』の記事を、インターネット上に再掲載したものです。
※ バラ十字会は、宗教や政治のいかなる組織からも独立した歴史ある会員制の哲学団体です。

クリスチャン・レビッセ著
by Christian Rebisse

このシリーズの前回の記事では、AMORC(当会の略称)の始まりについて考察したので、ここではその後の数年間に起こったいくつかの重要な出来事、とりわけ入門儀式形式を採用していた当時の他の団体とAMORCとの関係も含めて検討してみよう。
AMORCの初期の活動には、一大プロジェクトの開始期によく見られるような熱意だけではなく、プロジェクトを実現するための独特の試練と苦難も存在した。その状況はとりわけ困難なもので、アメリカ合衆国は景気後退期を経て1917年4月には第一次世界大戦へと突入していった。この戦争が始まった時、合衆国はニューヨーク港に停泊していたドイツ国籍の巨大な豪華快速船ファーターランド(vaterland:祖国)号を戦利品として押収した。ファーターランド号はインペラター号の姉妹船で、両船ともハンブルグ-アメリカ間を就航しており、後者はAMORCがアメリカの政府機関から事実無根の嫌疑をかけられる原因となった。何人かの熱心すぎる連邦政府の官吏は、AMORCの指導者がインペラターという称号を帯びているのを知って、この会がドイツと通じているのではないかと疑った。この馬鹿げた誤解によって、AMORCの総本部が政府機関の取り調べを受けた。結果的に連邦政府はこの措置が馬鹿げたものであったことを理解するのだが、これによりH・スペンサー・ルイスがアメリカ合衆国にバラ十字会を設立するための権限をフランスのトゥールーズ市において与えられたことを証明する宣言書や、その他多くの重要文書が押収され失われてしまった。この重要な宣言書は1916年の10月に、フランスのバラ十字会員からAMORCの秘書役ソー・キーマレート(Thor Kiimalehto)に宛てて送られていたものであった。
その後間もない1918年に、AMORCは更なる困難に遭遇した。財務担当者の横領により、会の財政状況が危機に瀕した。しかしこういった障害にもかかわらず、AMORCは堅実に足場を固めて成功を収め、ますます数が増えつつあった入会希望者に適切に対応できるようになっていた。そして1919年の5月、実業家でAMORCのメンバーであったウィリアム・リーズナー(William Riesener)の力添えにより、AMORC総本部はニューヨーク市からサンフランシスコ市へと移転した。
この時期に公表された記事に表れているように、H・スペンサー・ルイスはこの時期に落胆して、会の経営上の責務のすべてから手を引こうかとまで考えていた。しかしそのような気の迷いは長く続かず、AMORCの急成長により彼は再び熱意を取り戻すこととなった。そしてAMORCは世界中に展開を始めた。1920年の9月には、スヴェンド・ターニング(Svend Turning, 1894-1952)の指導のもとにデンマークに本部を設立する許可証が授与された。デンマーク初のバラ十字会の会合が、1920年9月にフレデリスクベルグ(Frederiksberg)のマリエンダスルベユ(Mariendalsvej)にあるイソルの殿堂(Isol-Temple)で催された。そして1921年にはインドが、インド科学アカデミーの後援により、K. T. ラーマサーミー(K. T. Ramasami)の指導のもとにバラ十字思想の受け入れを決めた。また、メキシコやジャワといった様々な場所にもAMORCが設立され、イギリスには事務局が作られた。1921年5月、パリ市在住の会員たちからの要望を受けて、パリ市にロッジを創設するため、アメリカのバラ十字会員たちがフランス国内を旅行することになったと『ミスティック・トライアングル』誌(米国AMORCの当時の機関紙)の記事が報じている。1922年頃、AMORCはオランダの会員であったM・プリンツ・ヴィッセル(M. Prinz-Visser)の尽力により中国と、ロシア国内にも設立され、ヴィッセルはアメリカの会の総本部で働いた後に、満州国ハルビンに移り定住した。同じ頃、統領の息子のラルフ・M・ルイスがAMORCに入会している。
テオドール・ロイスと東方聖堂騎士団 (Theodor Reuss and the O.T.O.)
H・スペンサー・ルイスは、第一次世界大戦によって、ヨーロッパのバラ十字会活動が縮小して、消滅に至ってしまったことを承知していた。しかしルイスは、戦争を生きのびた会員が多少なりともいるはずだと推測し、世界中のバラ十字会をひとつにまとめて再建する目的で、機会を見つけてはヨーロッパの会員たちとの接触を図った。1920年に、ルイスは多くの入門儀式形式の団体が集まる会議がチューリッヒで7月に開催されることを知った。その会議の目的は、様々な伝統継承団体をひとつの国際的な連合にまとめることであった。これはパピュスが1908年に試みたことにとてもよく似ている。ソルトレイク市のフリーメーソン団員であったマシュー・マクブレイン・トムソン(Matthew McBlain Thomson)から、その会議の主催者であるテオドール・ロイス(Theodor Reuss)の住所を入手したルイスは、1920年12月28日に手紙を書き、この催しに関する説明を求めた。テオドール・ロイス(1855-1923)は、それからおよそ半年後の1921年の6月になってやっとその返事に、マシュー・マクブレイン・トムソンがチューリッヒの会議を単なる資金集めの計画にしてしまったために、そこから手を引く決断をしたと書いた。
メンフィス・ミツライム儀礼(Menphis-Mizraim Rite) と古式公認スコティッシュ儀礼(Ancient and Accepted Scottish Rite of Cerneau)を率いていたジョン・ヤーカー(John Yarker)の後継者として、そして東方聖堂騎士団(the Ordo Templi Orientis)の指導者として、ロイスはこれら3つの組織の国際活動を再編成しようと試みていた。しかし、ロイスの正統性が徐々に議論されるようになり、しかもチューリッヒ会議の件で出鼻をくじかれ、ロイスはH・スペンサー・ルイスのことを、大西洋の向こう側にある国に影響力を拡大する絶好の機会と見なした。『バラ十字会の歴史、その13』で述べたように、ロイスは東方聖堂騎士団のことを17世紀ドイツのバラ十字会員から継承された組織であると主張していた。ロイスがH・スペンサー・ルイス宛に送った手紙では、ロイス自身がバラ十字会員であると説明していた。東方聖堂騎士団の真の本質を知らなかった統領は、少なくとも数ヵ月の間はロイスを信用していたように思われる。こうしてH・スペンサー・ルイスは、ロイスに提携を申し出た。ジョン・ヤーカーの後継者にしてパピュスの後を継ぐ者であると主張していたこの人物の誠実さを、H・スペンサー・ルイスがこの時点で疑うことは、全く不可能であった。団結の証として、テオドール・ロイスはH・スペンサー・ルイスに認可証とともに、メンフィス・ミツライム儀礼の位階33゜、90゜、95°と、東方聖堂騎士団の位階VII゜を授与した。この文書には、統領を「スイス、ドイツ、オーストリアのための我々の至高の聖域の名誉会員にして、サンフランシスコ(カリフォルニア)のAMORC最高評議会の近くにある、友好の印である我々の至高の聖域を代表する者」としている。
これは実際のところ、全く形式的に敬意が表された認可証であった。というのもH・スペンサー・ルイスは、メンフィス・ミツライム儀礼にも東方聖堂騎士団にも入門していなかったからである。したがってこの証書の目的は、H・スペンサー・ルイスをAMORCへ向けた東方聖堂騎士団の特使にしようとしたことだけであり、認可証に付随した書簡によっても、このことが確認できる。
AMORC世界万国評議会 (The AMORC World Universal Council)
2人は、ある組織を立ち上げようとしていた。その目的はバラ十字思想を、世界規模で方向づけしようというものであった。そして1921年9月にAMORC世界万国評議会(The AMORC World Universal Council)が発足した。しかしながら、ルイスはロイスにいくらか懸念を抱いていたようである。たとえば、この新しい連合に関しての、AMORC発行の機関紙の記事には、ごくたまに協力者としてロイスの名前を挙げるのみであった。さらに、二人の間で交わされた書簡が示しているように、ロイスがもはやアレイスター・クロウリーとは何の関わりも持っていないと確約した場合に限り、その後に、H・スペンサー・ルイスは、彼とのかかわりを喜んで深めようと感じていた。いずれにせよ、H・スペンサー・ルイスがロイスに疑念を抱く根拠は十分にあった。というのもH・スペンサー・ルイスと、ルイスと一緒に働いていたロイスは、同じ目的を分かち合っていたのではなかったことがすぐにはっきりしてきたからである。AMORC世界万国評議会の憲章にロイスが記載を望んでいたのは、この組織の主たる目的が「聖なるグノーシス主義の宗教を広め、霊的な教育を行う部門と、政治経済や社会経済に関する出版を行う部門などを設置すること……」であった。統領は懸念を深め、さらに先に進むことを断った。その時ロイスは、自身がスイスで開催しようとしていたある大会で、憲章の文言について話し合うことをH・スペンサー・ルイスに申し出た。
その時期から、アメリカ・ヨーロッパ間での共同プロジェクトは崩壊してしまい、H・スペンサー・ルイスは手紙のやり取りをしていた相手の真の意図を垣間見るようになっていった。H・スペンサー・ルイスはあまりにも事を急ぎすぎたことに気づき、しばらく立ち止まる必要を感じた。一方、ロイスは相手が躊躇しているのを感じ取り、新たな提案として、アメリカとドイツのバラ十字会員の間で集会を開き、その際にはバイエルン地方のオーバーアンマーガウ(Overammergau)村にも観光し、1634年以来演じられている有名な『キリスト受難劇』を見学するのはどうかと勧めた。東方聖堂騎士団の指導者ロイスは、これら劇場関係の作品を制作する会社で働いており、1922年5月の上演には、AMORCの統領ルイスが500人程度の会員を連れて参加してくれることを望んでいた。H・スペンサー・ルイスは文通相手がAMORCを、主に金銭を得る手段として利用することに関心を抱いているのをみて、彼との間に距離を置いた。そして1921年9月初めには、もはやルイスはロイスからの手紙に返信をしなくなり、1922年5月20日が最後の返信となった。そしてこの二人の関係は自然消滅していった。アモールク世界万国評議会プロジェクトは実現せずに終わってしまったが、複数の文書が多くの誤った情報源となり、何人かの歴史家たちの想像力をかき立てることとなった。その後間もなく1923年10月28日にミュンヘンで、テオドール・ロイスは“永遠なる東方”へと旅立ち、大いなる沈黙の中に入っていった。

フランスのバラ十字会員たち (The Rose-Croix of France)
H・スペンサー・ルイスは、息子のラルフが徐々にアモールクの活動に熱中して行くのを見て喜びを感じていた。1924年に、ラルフはAMORC総本部の秘書役に選出された。その翌年、アモールクは再び発展に向かって動き出し、総本部はフロリダ州の港町タンパ市に移転した。
1925年、統領の兄弟でニューヨーク・メトロポリタン・オペラ・カンパニーの財務部長であったアール・R・ルイスはモーリス・ジャケ(Maurice Jacquet, 1886-1954)と知り合いになった。このフランス人ピアニストは指揮者でもあり作曲家でもあったが、妻で有名なハープ奏者のアンドレ・アマルー=ジャケ(Andrée Amalou-Jacquet)とともにアメリカに数年間住んでいた。彼は人からミセリーニ公爵(the Duke of Misserini)と呼ばれるのを好み、ニューヨーク市のマキシムシアターでコンサートを開催していた。この音楽家はフリーメーソンであったが、バラ十字思想にも興味を持っていたので、アール・R・ルイスは彼をH・スペンサー・ルイスに引き合わせたら面白いのではないかと考えた。そこで統領ルイスは、1925年11月にニューヨークで開催される集会で会いましょうと申し出た。ジャケは11月21日にルイスに宛てて、その日はシカゴ市でコンサートをしなくてはならないと知らせてきた。しかし、手紙の文末にはこう結んであった。「私はバラ十字会員です。」
それにもかかわらず、二人はついに会うこととなり、モーリス・ジャケはためらうことなくAMORCへの熱意を示した。1926年、ジャケは統領に、フランス・フリーメーソンの高い地位にある権威筋と接触してみるように勧め、この目的のために、脚本家でメーソン33°位階であり、そしてフィルマン・ジュミエ(Firmin Gemier)が指導者をしていたレフォール支部(L’Effort Chapter)のメンバーでもあったアンドレ・モプレ(Andre Mauprey)をルイスに紹介した。これから見ていくように、モプレ(Mauprey)はフランスでのAMORCの発展に重要な役割を果たした。
ジャケの望みはすぐに実現した。というのもその時、H・スペンサー・ルイスはある不思議な出来事を調べるためにヨーロッパ行きを決めていたからである。1926年1月、ルイスはスイスのバーゼルから出されたテオドール・ロイスからの招待状を受け取ったのである。しかしロイスは1923年にすでに亡くなっていた! ルイスはまたこの旅行の機会を利用して、フランスのバラ十字会員たちに会いたいと思っていた。これらの会員は、フランスでのAMORCの発展について着実な構想を描いていた。さらに1926年5月、モントリオール市に住んでいたバラ十字会員ジョン・P・カラガン(John P. Callaghan)の仲介により、統領はフランス錬金術学会会長のフランソワ・ジョリヴェ・カストゥロ(François Jolliver Castelot)と手紙のやり取りをした。この高名な秘伝思想の研究者は、1920年以来「バラ十字」(La Rose-Croix)という名の錬金術に関する定期刊行物を発行していた。そして5月の終わりにカストゥロは、AMORCの名誉会員となった。

1926年のフランスへの航海 (Journey to France: 1926)
1926年8月11日、フランスに到着したH・スペンサー・ルイスは、M・マレルブ(M. Malherbe)とその妻、および2名のAMORC会員、そして後に北部フランスのAMORCの本部秘書役となるフリーメーソン団員のシャルル・レヴィ(Charles Lévy)と会った。また、フィルマン・ジュミエ(Firmin Gemier)やカミーユ・サボワール(Camille Savoire, 1869-1951)とも接触した。サボワールはフランス・フリーメーソンの最高位の役員のひとりであった。グランド・カレッジ儀礼(Grand College of Rites)の最高指導者であったサボワールは、その当時フリーメーソンのバラ十字位階の活動を再編成しようとしていた。いかなる物事に関するものであっても、熱意には人々をひとつにまとめる力がある。彼はバラ十字思想に興味をいだき、とりわけAMORCに強い関心を示した。ルイスと彼らとのこの対談の後、9月にはさらに公式な会合が設けられた。その合間に、ルイスは自分の活動を続けながら、ささやかな旅行を行った。彼はトゥールーズ市に旅行し、ランシクロペディック本部(l’Encyclopédique Lodge)のローズ・クロワ支部(Rose Croix Chapter)の会員であるエルネスト・ダルメラック(Ernest Dalmayrac)と会った。統領のアルバムからは、トゥールーズ市のダルメラックの邸宅の写真を見ることができる。そこには次のように書かれている。「トゥールーズ市のR. C. 総本部」
アンドレ・ルベと国際連盟 (André Lebey and the League of Nations)
旅行の記録によると、ルイスはトゥールーズ市で神秘集会に参加している。この市での統領の真の活動とは、いったい何だったのだろうか? 調査の後も、それを言い表すのは依然として難しい。彼の記録にはしばしば見られることだが、個人的な神秘体験と実際の事実が混じりあっているので、正確な意味が覆い隠されてしまっているのである。しかしながらトゥールーズでルイスは、様々な背景の参入者たちが集まったいくつかの集会に参加した可能性がある。しかし、入門儀式形式団体の間の一種のエキュメニズム(他の団体に対して相互に寛容と理解を推進すること)の中で、彼はフリーメーソンのバラ十字位階のことをバラ十字会員であると描写する傾向があった。その理由はこの位階の人々が、ルイスと同じように平和と協調という考え方を支持していたからである。ルイスが示した一片の情報が、この傾向を明らかにしている。ルイスは、神秘集会の参加者の多くが、その1週間後に開催された国際連盟の開会式に参加していたと書いている。ジュネーブに本部があったこの世界的組織は、第一次世界大戦の後すぐに、国家間の平和維持と戦争再発の危険を回避するために設立された。統領が言及していた会合は、1926年8月末にトゥールーズ市の、ある支部で開かれた国際連盟の予備的な集会である可能性がある。そのすぐ後に、ジュネーブ市で国際連盟の会議が開催されている。フランス旅行中に、ルイスは様々な人物と会っているが、その中でもアンドレ・ルベ(Andre Lebéy, 1877-1938)のことを述べておこう。彼はグランド・カレッジ儀礼のグランド・オレーター(Grand Orator:「上位講演者」を意味する位階)であり、フランスにおける国際連盟の推進者のひとりであった。
トゥールーズ市で開かれた準備のための会合に加えて、ルイスはジュネーブ市に戻った時、そこで開かれていた会議に国際連盟の役員として参加していた可能性がある。後に、ジュネーブ市のアメリカ領事に宛てた手紙では、中傷者の批判に対する返答として、ジュネーブ市でバラ十字会員とフリーメーソンの国際会議が1926年に開かれたこと、そしてその時期は国際連盟の秋の開会期間であり、彼自身が連盟の会議のひとつに出席したと述べている。
パリ市グラン・オリオンでの歓迎 (A Reception at the Grand Orient in Paris)
トゥールーズ市への旅行のあと9月の始めに、ルイスはアンドレ・モプレにもう一度会うためニース市に立ち寄った。モプレはゴルフ・ジュアン(Golfe-Juan)にある別荘で1週間過ごさないかとルイスを招待していた。そして二人は、AMORCとモプレが関わっているヨーロッパ演劇協会(European Dramaturgical Society)が提携できる可能性を話し合った。二人の友情関係は極めて親密で、後にモプレはAMORCフランス本部の副代表となった。
その後ルイスは、カミール・サボワール(Camille Savoire)から招かれていた9月20日のフランスのグラン・オリオン・第一テンプル(the Temple No.1 of the Grand Orient)の特別な会合に参加するため、パリ市に戻った。その式典はグランド・チャプターのロッジ集会、すなわち第18位階であるバラ十字段位の正規メンバー限定の研究集会であった。勉強会はグランド・カレッジの総長であったサボワールが指導した。グランド・オレーターのルベも姿を見せ、トゥールーズ市のランシクロペディック支部を代表してエルネスト・ダルメラック(Ernest Dalmayrac)も出席していた。『グランド・オリエント会報』に記されていたように、この集会の間、「T. Ill. F. スペンサー・ルイス、第33°位階、タンパ市(フロリダ州)にあるアメリカのバラ十字会の統領は、彼の地位により敬意をもってグランド・チャプターに迎えられた。グランド・コマンダーは厳粛な受け入れを行い、高尚な言葉で彼を歓迎し、彼の来訪に感謝を述べ、東にある彼のための場所に着席するよう勧めた。その場所で、彼は自身の出席により、この重要な本部の会合に敬意を表した。この会合には、連盟の支部のあらゆる代表者たちが集合していた。」

フランスのバラ十字会の始まり (The Beginnings of Rosicrucianism in France)
アメリカに戻る前に、H・スペンサー・ルイスはヨーロッパで会合を続けた。スイス北西部のバーゼル市を訪れた成果とは何だったのだろうか? 彼は何も示してはいないが、おそらくテオドール・ロイスの後継者と会っていた可能性がある。というのも1930年に、ルイスとロイスが構想していた事業がハインリッヒ・トランカー(Heinrich Tränker)によって再開されたからである。しかしそれもまた行き詰って終わってしまったのであった。
タンパ市に戻っても統領はサボワールと連絡をとり続けた。その理由はサボワールがフランスのAMORCの発展に個人的に携わりたいと望んでいたからである。しかし1928年7月12日付けの手紙では、自分は英語が堪能ではないので、協力して貢献することが困難であるという問題を指摘している。(写真参照)
H・スペンサー・ルイスは、フランスのフリーメーソンの影響下でバラ十字運動を発展させるという考えには賛成していなかったようである。この点に関しては、モーリス・ジャケはルイスと同じ意見であり、フランス・グラン・オリオンが望んでいた「ヨーロッパ・メーソニック連合」(European Masonic trust)のことを残念に思っていた。フリーメーソン団員の一部はAMORCの会員になることを望んだが、フランスバラ十字会の先駆けとなる一団は、フリーメーソンの枠外で作られた。最初のフランスAMORCの最初のグループはシャルル・レヴィの指導のもとにパリ市に設立され、第2のグループはモプレの指揮のもとに、ニース市に設立された。このグループには際立った二人の人物、クレモン・ルブラン博士(Dr. Clement Lebrun, 1863-1937)とハンス・グリューター博士(Dr. Hans Grüter, 1874-1953)がいて、特別な運命を体験することとなった。1933年11月、H・スペンサー・ルイスはルブランを、転化したばかりのアメリカのグランドマスター、ダナ・ディーン(Dana Dean)の後任にすることを提案した。ルブランは70歳であったけれども、フランスのニース市からアメリカのサンノゼ市に移り、1937年に没するまでグランドマスターを務めた。ハンス・グルーターの方は、フランスのグランドマスターとなった。彼を補佐したのはジャンヌ・ゲドン(Jeanne Guesdon, 1884-1955)であった。ジャンヌ・ゲドンは流暢な英語を話し、キューバ在住中の1926年にアモールクに入会した。そして1930年にフランスに戻るとずっとそこに住み、同僚からとても尊敬される仕事仲間となった。肩書きは単に秘書役であったが、実際のところゲドン女史はAMORCフランス本部の真の指導者であった。
ニコライ・レーリッヒと世界評議会 (Nicholas Roerich and the World Council)
1927年の11月、AMORCはフロリダ州タンパ市を去り、カリフォルニア州サンノゼ市に総本部を設置した。これはバラ十字公園での活動の始まりであり、その公園の建築物は古代エジプトの様式にインスピレーションを受け、作られていた。そのすぐ後の1930年に、エジプト博物館も開館した。そして国際博物館会議(ICOM)とカイロ市のエジプト国立博物館から認められ、毎年数千人が訪れるようになった。この施設は今でもアメリカ西海岸で最大級のエジプト博物館であり、重要な展示物を公開し続けている。1999年1月には企画展「ナイルの女性たち」が開催され、その様子はアメリカ大手のテレビ局系列で放映された。
1930年代初頭のAMORCの世界的発展により、世界中の様々な国々、フランス、デンマーク、オランダ、カナダ、プエルトリコ、ボリビア、オーストラリア、スウェーデン、イギリス、中国、ポーランドなどで当会を指導している人々からなる「国際最高評議会」を創設する必要が生じてきた。この評議会のメンバーの中には、ロシアの画家ニコライ・レーリヒ(Nicholas Roerich, 1874-1947)の存在があったことに注目しよう。1929年と1940年にレーリヒと統領の間で交わされた書簡によると、彼は1929年にAMORCに入会したようであり、この時期に彼はノーベル平和賞候補にノミネートされていた。H・スペンサー・ルイスは、ニコライ・レーリヒに会ったのは1929年10月17日、ニューヨーク市のレーリヒ美術館の開場式典のときであったと述べている。
AMORCの副代表に指名されたニコライ・レーリヒは、いくつかの任務を遂行することになった。そして1934年には、アモールクを指導すると同時に、アメリカ政府からの要請で、北米のプレーリー地帯の砂漠化に対抗できる植物を見つけるために、中国とモンゴルを横断する長期旅行に出かけ、その途中、同国人のバラ十字会員たちと会うためにハルビン市に立ち寄った。1934年11月18日から24日の間に発行されたハルビン新聞(Le Temps de Kharbine)には、彼の行動をたどった記事が掲載されている。そのうちのひとつ、「ニコライ・レーリヒ、大白色友愛組織AMORCの副代表」と題する記事には、「アカデミー会員レーリヒの素顔が明らかにされる」という副題がつけられていた。実際のところ彼は、アメリカ政権から給与を得ているフリーメーソン団員ではないかと疑われていた。一部のジャーナリストは、レーリヒがデザインした『平和の旗』(文化遺産を戦禍から守る意がこめられた特別な旗)に描かれている3つの円が、フリーメーソンの象徴に関連すると考えた。ニコライ・レーリヒは同様の複数の新聞の紙面で、彼はバラ十字員であることと、バラ十字会はフリーメーソンの活動も政治活動も一切行っていないことを述べて抗議した。これらの文書が重要なのは、ニコライ・レーリヒがバラ十字会に活動的に従事していたことの議論の余地のない証拠であるからである。

ポレールス (The Polaire Brotherhood)
内部の発展に加えて、アモールク(AMORC:本会の略称)は世界中の他の神秘学の団体の人物たちとの関係を維持し続けていた。1930年9月、H・スペンサー・ルイスは、ポレールスの指導者であったチェーザレ・アッコマーニ(Cesare Accomani)(別名ザム・ブォティバ:Zam Bhotiva)と連絡を取り合うようになった。この奇妙な団体は、「神秘的アジアのバラ十字入門儀式の中枢」から指導を受けていると主張していた。そして、〈バラ〉と〈十字〉の印のもとに到来する“スピリット”を迎える準備をするための「ポーラー・フラタニティ」(polar fraternity)を復興する任務をこの団体は負っていた。ポレールスの人々は、その時は近くまで引き寄せられてきており、“火の杖”が地球上のいくつかの国々に再び一撃を与え、人間の利己主義によってすべてが破壊され、黄金への渇望が再び起こると考えていた。彼らは自分たちの主張を証明するため、ヒマラヤ山脈に位置するバラ十字の秘伝的中枢と自分たちが称するものと直接通信することができるという『アストラル力の託宣』を使った。この技法は1908年に、ローマ市近郊に住んでいた隠者ジュリアン師父から伝えられたとされている。1929年の初めに、この託宣の内容に刺激されたブォティバは、「ポレールス」(The Polaires)と呼ばれる団体を創り、この名は『原初の伝統』の象徴的な中心地である聖なる山に関連すると述べた。最初の集会はパリ市リシュリュー通りの、パリジャン新聞社内で開催された。託宣から受け取った情報はすぐに行き詰まりを迎えた。1932年の3月、モンセギュール(Montségur)で虚しく探索を続けた後、ブォティバは落胆して組織を去った。それからマルティニスト会(マルティネス・ド・パスカリの信奉者の団体)と共同支配会(Synarchic Order)のグランド・マスターであったヴィクトール・ブランシャール(Victor Blanchard, 1884-1955)が彼の後任を務めた。
彼らの目的が本気なものであったかどうかは別にして、ポレールスの人々は非常に重要な役割を果たした。というのも、フランス人オカルティストの大部分、ルネ・ゲノン(René Guénon)、モーリス・マグル(Maurice Magre)、ジャン・シャボゾー(Jean Chaboseau)、フェルナン・ディボワール(Fernand Divoire)、ジャン・マルケス・リヴイエール(Jean Marquès-Rivière)、ウージェーヌ・カンスリエ(Eugène Canseliet)などが頻繁に集会に出席していたからである。さらにこの組織は、一般にFUDOSI(the Federatio Universalis Dirigens Ordines Societatesque Initiationis)という略称で呼ばれる連盟(次項参照)を構成する有力な団体のひとつになっていくのである。
入門儀式方式の団体の国際連盟 (The Federatio Universalis Dirigens Ordines Societatesque Initiationis)
第2次世界大戦が起こる数年前から、様々な組織からなる神秘学界は混乱に支配されていた。実際のところ、ヨーロッパとアメリカにおけるかなりの数の活動が、伝統ある入門儀式方式を採用している団体の象徴的記号や名称や式典を盗用したものであった。相当数の人がこのことを憂い、その中でも特にベルギーでエミール・ダンティーヌ(Êmile Dantinne, 1884-1969)により創設されたバラ十字会活動に加わっていた人々はそうであった。ダンティーヌは、1923年にバラ十字大学会(Order of the Rose-Croix Universitaire)を、1927年には神秘ヘルメス・トリスメギストス会(Ordre hérmétiste tétramégiste et mystique)を創設した人物でもある。1918年にジョゼファン・ペラダンが没した後、ダンティーヌはペラダンの弟子として登場してきたが、継承した入門儀式は「サール」(訳注:参入者としてのペラダンのこと)からではなく、『アストラル界の』バラ十字から受け継いでいると主張した。これらの会の哲学や式典や教えは、ルネッサンス期の魔術とよく似ていた。つまり、これらの会は、そのような行為を否定していたペラダンの考えからは逸脱するものであった。
ベルギーのバラ十字会員たちは、マックス・ハインデル(Max Heindel) やルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)の信奉者や、神智学協会の会員からの批判にさらされることとなった。これらのバラ十字会員のほとんどは哲学者マルティネス・ド・パスカリの信奉者であり、メンフィス・ミツライム儀礼の団員たちであった。彼らは最初のうちは『ジャン・ブリシャーの至高の聖所』(Sovereign Sanctuary of Jean Bricaud)の指揮下にあったが、1933年の初めには独立して活動するようになった。しかし分離した後は国際的な名声のある組織と連携することを望んでいた。すでにアメリカのバラ十字会員と接触していたフランツ・ウィッテマン(Franz Witteman)の助言に従って、ダンティーヌの親しい同僚であるジャン・マランジャー(Jean Malinger, 1904-1982)は、1933年1月11日にH・スペンサー・ルイス宛に以下のように手紙を書いた。「我々は、貴殿が統領(Imperator:バラ十字会の代表職を示す伝統的呼称)をされ指導されておられる高名なバラ十字会に加盟することができれば、たいへん光栄に思います。……アモールクの活動と協力関係を結べることは、とても幸せなことと存じます……。」この交流こそが、FUDOSIが結成される最初のきっかけとなった。連携の目的は、入門儀式方式の団体で連盟を結成し、当時数多く現れてきていた、神秘学の伝統にそぐわない新興の組織から身を守るためであった。この連盟の存続した期間、すなわち1933年から1951年の間、FUDOSIは次のような、多彩な団体からなる連盟であった。
アモールク(AMORC:本会)、 バラ十字大学会(Rose-Croix Universitaire)、神秘ヘルメス・トリスメギストス会(Ordre hermétiste tétramégiste et mystique)、ポレールス会(Ordre des Polaires)、マルティニスト・シナキーク会(Ordre Martiniste Synarchique)、伝統マルティニスト会(Traditional Martinist Order)、ポーランド・シナーキカル連合(Synarchical Union of Poland)、バラ十字カバラ会(Kabbalistical Order of the Rose-Croix)、世界グノーシス教会(Universal Gnostic Church)、聖堂騎士団研究調査協会(Society of Templar Studies and Researches)、福音十字騎士団(Order of the Militia Crucifera Evangelica)、百合と鷹の会(Order of the Lily and the Eagle)、名もなきサマリア人の会(Order of the Unknown Samaritans)。メーソン系のメンフィス・ミツライム儀礼もまた、一時はこの連盟へ代表が参加していた。

FUDOSIの3人の代表 (The Triangle of the FUDOSI)
ベルギーのブリュッセル市に創設された連盟は、3人の統領、H・スペンサー・ルイス、エミール・ダンティーヌ、ヴィクトール・ブランシャール(Victor Blanchard)によって運営されていた。この3名のそれぞれは、バラ十字活動のある側面を代表していた。一人目はアメリカのバラ十字活動(AMORC)であり、二人目はヨーロッパ・バラ十字活動(Rose-Croix Universitaire et Universelle)であり、三人目はオリエントのバラ十字活動(Fratanity of Polaires)である。三人の統領はFUDOSIの中において、それぞれ参入者として名前を持っていた。H・スペンサー・ルイスはサール・アルデン(Sâr Alden)、ダンティーヌはヒエロニムス(Hieronymus)、ブランシャールはサール・イエジール(Sâr Yésir)であった。連盟が最初の秘密集会をブリュッセル市で開催したのは、1934年の8月であった。H・スペンサー・ルイスは1934年から1939年に亡くなるまで、FUDOSIにおいて精力的に役割を果たした。
FUDOSIは崇高な理想の数々を掲げていたが、地に足が着いたものでは全くなかった。まず、数名の若いベルギー人の参入者が、この連盟を利用して、自分たちの独自の構想によって神秘学の世界を支配しようとした。さらに、ベルギー国内で活動を指揮していたのはエミール・ダンティーヌではなく、ジャン・メランジェ(Jean Mellinger)であったが、メランジェは、異なる手法や哲学に従う複数の団体が集まった組織には不向きな性格をしていた。結局のところ、国家間の緊張関係によってヨーロッパが引き裂かれ、ほとんどの国がすぐに、悲惨な戦争の中に投げ込まれることになった。ラルフ・M・ルイスの伝えるところによれば、FUDOSIの役員の一人が、次のような、受け入れ難い立場を採るように求めていた。第一に彼は、連盟に加入する全ての組織が、それぞれの組織の発展と活躍のために、彼の個人的構想に従うべきであると強く主張し、さらにその役員は、アモールクの会員にアフリカ系の人々が含まれているという事実に不快感を表明したのであった。ラルフ・M・ルイスは、この言語道断な発言をした人物の名を明かしていないが、その発言がダンティーヌ自身あるいはジャン・メランジェから出たものであることは、容易に想像がつく。ちなみにルシアン・サバ(Lucien Sabah)が公表にした文書によると、この2人の人物は徹底的な人種差別主義者で、ヴィシー政権(訳注:第二次世界大戦下のフランスの親独臨時政府)のような『ユダヤ=メーソン陰謀説』の話題に固執していた。このような姿勢を、FUDOSIの他のメンバーたちがどれほど嘆いていたかは想像に難くない。
H・スペンサー・ルイスの人種に対する考え方は、いつも明確であったことを記しておこう。ルイスにとって、人種の優劣は存在しなかった。ルイスは、1930年に出版された著書『転生の周期』(Mansions of the Soul)でこう述べている。「……あらゆる個人は、互いに絆で結ばれていて、全てのソウル(魂)は結合して、ひとつのソウルになっていると古代人は理解していた。この2つの事柄は、万物の源泉を通じて、人類の全てには共通する性質があるという確信の礎になっていると言うことができる。そして、この2つの事柄によって、人種や信条や皮膚の色や、他の個人的要素の違いにかかわらず、人類のすべては、ある創造者のもとで、兄弟姉妹であり、共通の本質を持ち、同じ生命力を有し、同じ意識を持っているということが確かな事実となっている」。別の文献でルイスはこう記している。「一個の人間として私は、黒人の人たちに同情の念を抱いている。というのも、初期キリスト教の時代に、偏見と不寛容と誤解によって、ユダヤの人々が国や土地や財産や高い地位を失う苦難を耐え忍ばなければならなかったのと全く同じように、黒人の方々も苦難を耐え忍ばなければならなかったからである」。
全体としてはFUDOSIの主な構成員は、社交やスピリチュアリティを好む名士で、寛容の精神と人類愛をルイスと分かち合っていた。一方で、アメリカ人の革新的で前衛的な考え方は、古い伝統に縛られていたヨーロッパの人々にしばしば衝撃を与えていた。
FUDOSIの活動は、戦争のために1939年から1945年の間は中断され、1946年にやっと再開された。最後の集会に参加したのはラルフ・M・ルイスであった。1939年8月2日に、彼の父であるH・スペンサー・ルイスがこの世から旅立った後も、ジャン・メランジェと水面下では対立していたにもかかわらず、ラルフ・ルイスは連盟のために働いていた。しかしながら、外的な状況は以前と同じではなかった。FUDOSIを構成する各団体は、ある程度有名になり、それによって、象徴的記号や名称や式典を盗用される危険からはすでに守られていたので、連盟をこれ以上続行する理由はほとんどなくなっていた。こうして1951年8月14日、メンバーはこの連盟を解散することを決定した。
バラ十字会の活動の歴史は、H・スペンサー・ルイスの“旅立ち”によって、新たなページがめくられた。ルイスはアモールクの創設という主たる役割を果たし、神秘学の世界に大きな影響を及ぼしたが、さらに、様々な分野に興味を抱いている人物であった。アメリカ合衆国内で5番目のプラネタリウムと、アメリカ西海岸で最初の、古代エジプト学の博物館を建設したことを思い起こすべきであろう。その数年前には、ニューヨーク市で初の私的なラジオ局を開局し、番組の大半は文化的・哲学的な内容に充てられていた。そして、ルイスが制作した、神秘学的で象徴的なテーマの膨大な数の絵画も加えて思い起こすべきであり、その一部は国際的な評価を得ることになった。またルイスは、数々の慈善団体や慈善協会の会員でもあり、彼の最も優れた点は、多くの人に知られているように、人道主義者であることであった。あらゆる非凡な人が必ずそうであるように、H・スペンサー・ルイスももちろん、批判や中傷にさらされたが、今までに述べてきたように、燃えるような熱意と信念をもって、バラ十字思想のために奉仕してきた。バラ十字会に伝え続けられている知的な財産へ、H・スペンサー・ルイスがなした多大なる貢献は取るに足らないものでは全くなく、決して見過ごされることはない。
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